マタイによる福音書16章 「十字架への出発」
アウトライン
1A 十字架の時 1−12
1B 責任 見分け 1−4
2B 警告 パン種 5−12
2A 十字架の土台 13−20
1B イエスの正体 13−17
2B 教会の権威 18−20
3A 十字架の道 21−28
1B 神の道 21−24
2B 自分を捨てる道 25−28
本文
マタイによる福音書16章をお開き下さい。ここでの主題は、「十字架への出発」です。この章は、イエスの公の生涯において大きな分岐点にあります。なぜなら、今まではご自分のことを言い広める、つまり宣教の働きをされていたのですが、ここからは十字架へ向かう準備をされているからです。ここにおいて、イエスが十字架につけられることについて主に3つのことが書かれています。
1つは、十字架の時です。イエスが十字架につけられるのは、定められていた時があったことを学びます。2つめは、十字架の土台です。イエスが十字架につけられる根拠を学びます。そして3つめは、十字架の道です。十字架において現れているイエスの生き方、またその弟子の生き方を学びたいと思います。
1A 十字架の時 1−12
それでは1つめの、十字架の時について学びましょう。
1B 責任 見分け 1−4
パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。
パリサイ人とサドカイ人たちがともにイエスのみそばに立ち寄っています。これは興味深いですね。パリサイ派とサドカイ派は、互いに対立しているグループなのに、ここで共に来ているからです。パリサイ人は、律法の文字と形式の厳守を叫んで伝統を擁護しました。一方サドカイ人は世俗的な合理主義者でした。パリサイ人は、御使いとか霊とか復活とかという目に見えないもの、超自然的なものを信じていましたが、サドカイ人は、物質しか存在しないと考えていたのです。
おぼえていらっしゃるでしょうか、使徒行伝23章には、パウロがユダヤ人議会の審議にかけられている場面が出てきます。そこでパウロは、「私は死者の復活の望みのことで、さばきを受けているのです。」と言いました。そうすると、パリサイ人とサドカイ人の間に激しい論争があって、そこでパウロがもみくちゃにされて引き裂かれそうになったほどです。ところが、イエスという同じ敵によって、彼らは一致しているのです。
イエスの応答を見ましょう。しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。
イエスは、「時のしるし」を話されています。ダニエル書9章をお開き下さい。御使いガブリエルが、ダニエルにメシヤが来られる時を告げています。24節から読みましょう。「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。」イエスラエルの民と聖なる都が回復されるのが、エルサレムを再建せよ、と言う命令が出されてから70週だと書かれています。週は7周年のことなので、70週は70かける7で490年のことです。引き上げてエルサレムを再建せよと、という命令は、ペルシャのアルタシャスタ王によって紀元前465年に発布されました。油そそがれた者、つまりメシヤが断たれるのは、7週と62週の後ですから483年後になります。当時使われていた太陰暦ではかると、483年後とは、紀元32年の4月6日になります。ところで、福音書によると、イエスが死なれたのは紀元32年4月10日と計算できます。その4日前にイエスはエルサレムに入場されました。そして弟子たちが、「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によってこられる方に。ホサナ。いと高き方に。」と叫んで、イエスがメシヤであることを公にしました。従ってイエスは一日も違わずにメシヤのこられる時に来たのです。
従って、聖書を学んでいれば、時のしるしを見分けることが出来ました。しかし、このパリサイ人とサドカイ人は、空模様のしるしを見分けることが出来ても、メシヤが死なれる時のしるしを見分けることは出来なかったのです。そのため、自分たちの王を十字架につけるという、とんでもない過ちを犯してしまいました。
このように、神は、キリストを十字架に引き渡される場所を定めておられました。イエスが公にメシヤとしてエルサレムに入る時が定められており、その後すぐ命が絶たれる時が定められていたのです。私たちはマタイの福音書を読んでいる中で、イエスが、ご自分のことを決して人々に話さないように、きびしく戒められている場面に何回か出会いましたが、そうした理由があったのです。しかし、間もなくその時が近づいています。そこで、イエスは十字架につけられるための道を出発されます。
「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。
イエスは、彼らにご自分がメシヤであることの奇跡を見せられました。それなのに彼らはすべて、拒んだのです。そこで、しるしはもう与えられず、イヨナのしるし、つまりキリストが墓に葬られてよみがえるというしるしだけが残されているのです。しかし復活が、イエスがメシヤであることの最大のしるしでした。
2B 警告 パン種 5−12
弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」
前回もそうでしたが、イエスはパリサイ人と話した後に、それを教材にして教えられています。
すると、彼らは、「これは私たちがパンを持って来なかったからだ。」と言って、議論を始めた。
弟子たちは、イエスのたとえがわからなかったみたいですね。ある弟子が、「パン種?おい、お前わかるか。」「いや、・・・・・あっ、そうだ、パンを忘れてきた。」「やばい!」という感じですね。
イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
弟子たちは、イエスがパンを分けて大勢の人に与える奇跡を行うことができるのですから、パンがないからといって、弟子たちを責めたりされているのではありません。
わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。
イエスは、パリサイ人とサドカイ人の教えに気をつけるよう言われました。その教えとは何でしょうか。簡単に言うと、イエスに敵対させたり、イエスの働きに対立するような教えです。イエスは、ヨナのしるしである十字架と復活のみわざをこれから行われますが、これを否定したり、付け加えたりするような教えは、私たちにとってパン種です。
私が大学生の時ですが、ある女の人が、私に自分の病気が癒されたと言う話をしてくれました。その教会では、様々な人がそのように癒されたり、超自然的な経験をしているそうです。私は誘われてその教会へ行きましたが、彼らはそうした経験だけではなく、聖書を何回もくり返し読んでいました。そして毎日のように聖書の言葉を暗記しているのです。私は驚きました。今までのキリスト教会は死んでいるけれど、この教会は生きていると思ったのです。しばらく毎日のように通いました。30回のレッスンがあったのですけれども、少しずつ教えがおかしいと思い始めました。最後に近づいた時、キリストの十字架による救いは不完全であったと教えたのです。そこで私は、ほかの教会の伝道師に相談したところ、キリストの十字架の場面を思い出しなさい、と言われました。私はイエスが十字架につけられる箇所を読みましたが、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を覚えました。律法学者たちが、イエスをあざけって、「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。(マタイ27:42)」と言いましたが、私自身の心がそうなっていたからです。
私は深く悔い改めましたが、その後もずっと長いこと、聖書を読むときに、彼らに教えられたことが思い出されて悩まされました。これが、パリサイ人とサドカイ人のパン種ですね。キリストが十字架につけられたことは、私たちの思いをキリストと似たものにする超自然的な力があります。逆にそれを否定することは、思いをパリサイ人のようにしてしまうことであります。
2A 十字架の土台 13−20
こうしてイエスが十字架につけられるのに、定められた時があったことがわかりました。それでは次に、十字架の土台について学びましょう。
1B イエスの正体 13−17
さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
イエスの十字架の土台は、イエスが誰であるかを知ることです。彼らは、ピリポ・カイザリヤという地方にいましたが、ここは異邦人ばかりの町であり、偶像があちらこちらにありました。様々な、神々があるなかで、イエスは、「人々は人の子は誰だと言っていますか。」と聞かれたのです。現代の日本人であれば、キリスト教の教祖ぐらいでありましょう。何か遠くの外国の宗教家であると受けとめています。それでは、当時のユダヤ人はどう考えていたのでしょうか。
彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
さすがユダヤ人です。すべて聖書人物が出てきます。バプテスマのヨハネですが、ヘロデがそう信じていました。エリヤですが、これは偽典と呼ばれている書物の一つで、第二マカバイ記に現れます。エレミヤがエジプトに隠した契約の箱を、メシヤが来られる前にエルサレムに持ってくる、と書かれています。そして、預言者の一人は申命記18章15節に書かれている、モーセのような預言者です。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
様々な神々がいる中で、また様々な意見の中で、ペテロはイエスが生ける神の御子キリストであると告白しました。神の御子とは神と同じ性質を持っているということであり、神ご自身であります。そしてキリストは、「油そそがれた者」という意味です。王は油をそそがれていましたが、キリストは神に油そそがれた、すべてを支配する王ということです。イエスは十字架につけられて死なれましたが、この方が神の御子であり、キリストであったということは重要な意味を持っています。
キリストを十字架につけたと言う事は、「私は神なぞいらない。私は自分を王として生きていくのだ。自分のことは自分で決める。」という人間の叫びであります。人間が自分勝手に生きていることを示しています。そして神の御子が十字架につけられたことは、そうした人間の身勝手さを神ご自身が尻拭いしてくださったことに他なりません。愛するひとり子を、神も仏も要らないといっている人々に与えて、彼らの罪をご自分の子に負わせたのです。
するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
イエスが神の御子キリストであることは、ここに書かれてある通り父なる神によらなければわかりません。神の御霊によってのみ、私たちはイエスのことを悟る事が出来るのです。けれどもペテロがここで、自分が天からの啓示を受けたことを意識していたでしょうか。おそらく普通に口から出てきたのでしょう。このように、神の御霊の働きはその多くが、ごく自然に行われます。私たちはとかく、超自然的なものだけを御霊の働きと考えやすいものです。それでごく普通に神が働かれているのを見逃してしまいます。しかし自分でも御霊の働きだとわからないくらい、神はしばしば、ごく自然に働かれるのです。
2B 教会の権威 18−20
ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
ペテロはギリシャ語でぺトロスであり、岩はペトラです。大事なことはこの2つが違う単語であることです。ペトロスは小石です。道ばたに落ちているような小さな石です。そしてペトラとは大岩です。何メートルにもなる大きなものです。ですから、イエスがシモン・ペテロの上に教会を建てるのではないのです。このペトラは、今さっきのペテロの告白です。
イエスが神の御子キリストであるという告白の上に、教会が建てられます。そしてイエスが、「わたしは、わたしの教会を建てます。」と言われていることに注意してください。教会は私たちのものではなく、キリストのものです。そして、教会は私たちが建てるのではなく、キリストが建ててくださいます。教会はキリストの所有物であり、キリストによって運営されるのです。
そしてイエスは、ハデスの門もそれには打ち勝てません。
と言われました。イエスは、暗闇の勢力が決して打ち勝つ事の出来ないような、大きな力を教会に授けられます。それは、キリストの十字架の死によって、暗闇の力に決定的なダメージが与えられたからです。コロサイ人への手紙第2章には、「神は、十字架において、すべての支配の権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(15節)」とあります。したがって、霊の戦いにおいて教会は不動の地位を得ているのです。教会が権威を持っているだけでなく、権威を行使することができます。
わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。
使徒行伝を読むと、ペテロが福音の扉を最初に開いた人であることがわかります。五旬節のときにユダヤ人に説教をしたのはペテロです。さらに、コルネリオという異邦人に福音を伝えたのもペテロです。
何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
天をつなぎ、天を開くような、とてつもない力が、私たちに与えられています。私たちは祈りによって暗闇の力を縛ることができます。ですから、私たちが家族や知り合いが救われてほしい、またこの地域に救いが訪れて欲しいと願う時、まずしなければならないのは祈りなのです。不信者の思いをくらませているこの世の神を、イエスの御名によって縛らなければいけません。サタンは、イエスに従うしかないのです。
そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。
人々は誤った期待で、イエスをメシヤに担ぎ上げようとしていました。イエスがすぐさまローマ帝国を倒して、御国を建てると期待していたのです。しかし、イエスはそのような目的で来られたのではありません。イエスが初めに来られた使命は、あくまでも十字架につけられてよみがえられる事なのです。
3A 十字架の道 21−28
こうしてイエスが十字架につけられる土台は、この方が、神の御子でありキリストであることがわかりました。また、教会は、キリストの十字架によって大きな権威が与えられています。次にイエスは、十字架の道について話されています。
1B 神の道 21−24
その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
イエスはご自分がキリストであることを確認された上で、十字架と復活のみわざを彼らに話されました。
するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
なんとペテロはイエスをつかんで、いさめ始めました。今までそんなことをしなかったのに何故でしょうか。それは彼が図に乗っていたからかもしれません。天の父からの啓示を受けたと言われて、ペテロは自分に特別な霊的能力が与えられたと勘違いしたのかもしれません。ただそれ以前に、キリストが殺されるということは、弟子たちのキリストに対する期待と、あまりにもかけ離れていた事があげられます。彼らも聖書を読めば、メシヤが苦しみを受けなければならないこと、そしてよみがえなければならないことを見分けることができたはずです。しかし、彼らがユダヤ人であること、ローマ帝国に支配されていたと言う事実、さらにメシヤについての一般的な教えなどによって、その聖書の箇所を読み取る事ができなかったのです。
彼らはイエスと生活をともにして、この方が事実キリストであることを知るようになりました。それにつれて彼らの抱いていた期待は膨らんできたのでしょう。イエスがご自分の口からキリストであることを明かされたとき、さあ、ここからイエスはイスラエルを再興してくださる、と考えたに違いありません。ところが、ローマ帝国を倒すどころか、同じユダヤ人の宗教者に殺されてしまうと示し始めるではありませんか。そこで、弟子たちはギャフンときたのです。ペテロはいつもながらの行動派なので、そのことを面と向かって主に示したのです。
このような失敗は、私たちにも頻繁に起こります。私たちも自分たちのキリスト像を造っています。私たちが日本人であり、日本人であるがゆえに、聖書の示されているキリストを部分的にしか読み取っていません。特にマタイの福音書に現れるような、王としてのキリストをなかなか理解できません。ある著書の中で、日本人の持っているキリスト観について述べている所があったので、そこを読んでみたいと思います。
「(キリストは)私の主、私の神、私にすべての権威をもたれる方であるよりも、個人的慰めや、個人的な赦しを与えてくれる、いわゆる『助け手』である。私を日毎に造り変えて、しもべである私を通してみこころをなされる主権者であるよりも、私のわがままにも『よしよし』と言っている母のような方である。私が何をしても無限抱擁してくれる方である。精神的な慰めは与えてくれる。しかし、私が仕事・家庭・社会などの場ではそれぞれのところの原理に従って生きても、とやかく言わない。そのような融通を利かしてくれる『主』、部分的な『主』なのである。」
したがって私たちが期待するキリストと、本物のキリストが対立する時に、私たちはペテロのように、「そんなことはしてはいけません。」と言ってしまう衝動に駆られるのです。それではイエスの反応を見ましょう。
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。」
ペテロは今さっき、天の父からの啓示を受けたのに、今はサタンの声を聞いてしまいました。私たちにもこのことがよく起こります。ですから誰かが素晴らしいことを主から示されたからといって、その人がいつも神からの声を聞いているとは限りません。
「あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
キリストが十字架に向かうことは、神の思いでした。つまり十字架への道は、神の道なのです。十字架は正しい方が罪に定められるという、あまりにも不条理で、むごい仕打ちと見ることもできます。しかし、神の道は人の道と異なり、天が地よりも高いように、神の道は人の道よりも高いのです(イザヤ53:8、9参照)。イザヤ53章10節には、キリストが砕かれて、痛められることは、主のみこころであったと書かれています。その理由が次に書かれていて、キリストは死なれた後に数多くの神の子どもを見ることになり、多くの人を義とし、暗闇の勢力を捕虜とすることなどが書かれています。神はそのような永遠の視野に立って、ご計画を立てられましたが、私たちは目の前に見える一時的なことによって計画を立てます。したがって私たちの目には不条理に思われることも、神のみこころであることがよくあるのです。このように、キリストの十字架は神の道です。
2B 自分を捨てる道 25−28
そして十字架の道は、イエスに従う者にとっては、自分を捨てる道であります。それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
ペテロは愛するイエスから厳しい言い方をされましたが、さぞかし心が痛んだでしょう。自分が正しいと思っていたことが、イエスを邪魔していたのです。私たちも、神の道を知るためには、通らなければならない痛みがあります。それは、聖霊に満たされるための痛みとでもいいましょうか。神の思いに満たされるために、私たちは自分のうちにある肉と対面しなければなりません。その肉は、自分が間違っていると感じている部分だけではなく、ペテロのように正しいと考えている部分もあります。
日本においては、みんなで行うことが正しく、その調和を崩すことは悪だ、という根強い考えがあります。ですから、自分がキリストのために迫害を受けたくない、他の人たちからよく見られたい、という強い肉の思いが働くのです。家族との関係、会社の中での関係、友人との関係などで、そうした自分の肉の思いが強く働きます。しかし、そこで痛みを受け取って、神の思いを選び取る必要があるのです。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
十字架の道は、自分を捨てる道ですから、世の価値観から見れば損をする立場に人を置きます。ここに書かれてあるとおり、文字通り殉教する人もいますが、殉教しなくても、家族との関係が悪くなったり、職場でのけものにされたり、近所から冷たい目で見られたり、マイナス面が多く出てきます。しかし、私たちは後にキリストにあるいのちを受け取ることができるのです。これが私たちがどんなに犠牲を払っても、キリストに従いたいと願わせる起爆剤になります。
次をご覧下さい。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
キリストにある命に私たちが目を留めるなら、この世の生活が実にちゃっちいものに見えてきます。たとえ全世界を手に入れるような人が現れても、死んだら地獄に行ってしまうのです。つまり私たちがどこに目を留めるかで、クリスチャン生活が180度変わります。むなしく気分を沈めて自分を捨てるような生活を、主は望まれているのではありません。このキリストにあるいのちを見つめることによって、私たちが進んで自分を捨てて、喜んでキリストの辱めを受けるように願っておられるのです。
次に私たちが目を留めるべき、具体的な内容が書かれています。人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。
私たちがクリスチャンとして生きるときに、主が来られる日に目を留める事は非常に重要です。なぜなら、神の救いがキリストの再臨によって完成するからです。ビルを建てるときに完成図を見ないで建てることはできません。また完成に向けて建てるのでなければ、建てている意味がありません。同じように、神の救いの完成図を見ないでキリストに従うことは出来ず、神の救いの完成に向けて従うのでなければ意味がありません。もしやみくもに、自分を捨てようとするならそれは禁欲的な規則に縛られているのと同じです。
しかし、キリストが来られることに目を留めるとき、私たちはこう思うことができます。「自分はこの世には属していない。だから、この世は住みづらいところで当然だ。この世は過ぎ去ってゆく。だからこの世で損をしても平気さ。私は日本人でなくて天国人なのだから。」こうした、御国への思いが自分を捨て、自分の十字架を負い、キリストに従う、直接的な動機づけになるのです。後に来る輝かしい、とてつもなくすばらしい栄光を見さえすれば、ただ見さえすれば、私たちの受けている患難は軽いものになります。ちょうど赤ちゃんを出産する直前の母親のように、一時的な苦しみを耐えることができるのです。むしろそれを甘んじて耐えていきたいと願いさえするのです。したがって、キリストがすぐにでも来られる事を見つめることが、私たちがキリストの弟子として生きるための原動力です。
まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」
ここに立っているとは弟子たちのことですね。それでは、キリストの再臨の時まで弟子の誰かが生き続けるのでしょうか。もちろんそれは歴史書によって否定されています。彼らはヨハネを除き殉教に遭い、ヨハネ自身も死にました。実はここで、イエスはご自分の再臨から話を変えられています。次に出てくる17章は、弟子たちの3人が栄光に輝くキリストの姿を見る場面です。このことを指して、「人の子が御国とともに来る」といわれたのです。私たちは、聖書を読むときに、前後関係を読むことによって理解できる箇所を多く見かけますが、ここは典型的な例です。
こうして、イエスが十字架に向かって出発された部分を読みました。十字架には定められた時があったこと。そして十字架は、イエスがキリストであるという事実に基づいていること。さらに、十字架の道は神の道であり、私たちが自分を捨てる道であることを学びました。
次回は今話した、イエスが栄光の姿に変貌される部分を読みます。
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