マタイによる福音書 17章 「キリストのからだ」

アウトライン

1A  キリストの栄光  1−13
  1B  再臨  1−8
  2B  初穂  9−13
2A  キリストの力  14−21
  1B  悪に対する力  14−18
  2B  全能の力  19−21
3A  キリストの使命  22−23
4A  キリストの自由  24−27

本文

 マタイによる福音書17章をお開き下さい。ここでの主題は、「キリストのからだ」です。私たちは前回、イエスがご自分の働きを大きく転回されたことを学びました。公にご自分を言い広められたところから、個人的に弟子たちに対して語り始められられています。弟子たちに語られた内容は主に3つありました。1つは十字架と復活というご自分の使命についてです。そして、イエスご自身の権威と力について。さらに、イエスが再び彼らのために戻って来られることについて話されました。このようにキリストの使命、権威、再臨という、キリストの働きについての内容が書かれていました。

 そして16章において、イエスは、ご自分をキリストであると告白する者の集まりを、「教会」と呼ばれました。イエスはキリストとしての働きを、ご自分の教会にゆだねられます。復活して天に昇られた後、聖霊を世に遣わされます。この聖霊によってイエスは、キリストを告白するように人々を促し、告白する者たちを集め、その中で働かれます。パウロは教会をこう定義しました。「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:23)」教会はキリストの体であり、キリストが満ちておられるところです。教会を見たら、何よりもキリストとその働きを見ることができます。また、そうでなければいけません。したがって、16章以降の話は、教会におけるキリストの働きと言い換えられます。イエスが弟子たちに話されているところは、教会の姿でもあります。私たちは、このようにして集められていますが、私たちにも直接関わりのあるみことばなのです。

 この17章は、主に4つに分かれます。それぞれにキリストの働きが書かれています。1つ目はキリストの栄光についてです。2つ目は、キリストの力についてです。3つ目は、十字架と復活というキリストの使命についてです。そして最後は、キリストの自由について書かれています。私たちがキリストのからだであるかぎり、この4つのキリストの働きも私たちの間で見ることができるのです。

1A  キリストの栄光  1−13
 それではまず1つ目、キリストの栄光について学びましょう。

1B  再臨  1−8
 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

 イエスの姿が変えられました。この「変えられた」というギリシャ語は、「変態した」という意味です。「さなぎが蝶に変態する」というときの変態です。イエスは地上におられた時、何の変哲もない普通の人間の姿をしていました。イザヤ書には、「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。(53:2)」と書かれています。ですから、女性の方はがっくりするかもしれませんが、イエスはハンサムではなかったのです。そこら辺にいる太郎さんのような存在であり、今、町中にイエスがおられても誰も振り向いたりはしません。 ところがイエスは、さなぎが蝶になるように、地上の人間の姿から栄光の姿に変わられたのです。栄光とは、ただ単に光が強く輝いているということではありません。栄光はもともと、「考え」とか「意見」という意味ですが、イエスがどのような方であるかの評価が栄光であります。

 私はカルバリー・チャペルにいたとき、デービッド・ホーキングという牧師のメッセージを楽しみにしていました。とにかく図体の大きいおじさんで、図体だけではなく、声が実に大きかった人です。けれども彼が宣言する神のみことばは、聞いている者のたましいに鳴り響いて、その場がまさにキリストの臨在に満ちるようでした。その彼が一度、コロサイ書1章から、「キリストが第一」という題でメッセージをしました。そのときにキリストの名前をずっと言い続けたんですね。「イエス」「女の子孫」「ダビデの子」「アブラハムの子孫」「インマヌエル」「ことば」「いのちのパン」「ユダのしし」「アルファであり、オメガである方」「神の子羊」と言う感じで、かなり早い速度で話していたのに、10分ぐらい続いたでしょう。ようやく終わったと思ったら、「私はまだすべてを列挙していません。」と最後に言っていました。

 このようにキリストは、あらゆることばを持って言い表され、どんなに言っても言い尽くすことのできない方であります。つまり、キリストは栄光の輝きです。すべてのいのちの源です。それが目に見えるかたちで、弟子たちの前に現れたのです。そして次にこの栄光について、2人の人が証言しています。

 しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。

 モーセとエリヤという2人が出てきているのには、大きな意味があります。モーセは律法の代表者です。神のおきてである律法は、モーセによって民に語られました。そしてエリヤは預言者の代表者です。イエスが山上の説教においてこう語られましたね。「わたしが来たのは律法や預言を破棄するためだと思ってはなりません。破棄するためではなく、成就するために来たのです。(5:17)」律法と預言者と言うのは、言い換えると旧約聖書であるとも言えます。この旧約聖書がナザレからでたイエスがキリストであることを証言しているのです。

 私たちは日曜日に創世記を学んでいますが、その中にもキリストを指し示すような言葉や出来事がふんだんに出てきました。そして、私たちはマタイの福音書を学んできましたが、預言書からの引用がたくさんありましたね。旧約時代に律法と預言者によって語られていた神のみことばが、イエス・キリストにおいて実体あるものとなったのです。旧約聖書は結婚相手のプロフィールを見るようなものだとたとえられますが、福音書において実物が現れたのです。

 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

 ペテロはこのすばらしい出来事を幕屋をつくることによってとどめておきたいと思っていました。ちょうど神が現れた場所として、お参りや観光名所になるようなものにしたいと思ったのでしょう。むろんそれは、この出来事の意味をはきちがえています。その証拠にペテロは、イエスを「先生」と呼んでいます。それはユダヤ教の教師であるラビの呼び名です。さらに、イエスと他の2人を同じレベルに並べています。「あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」となっています。

 この6日前、彼はイエスが生ける神の御子キリストだと告白したばかりです。イエスは、単なる先生ではなく、またモーセやエリヤのような預言者でもなく、むしろ彼らが教え、預言していたキリストご自身です。ペテロは、このことを理解していたはずですが、この突然の出来事を見て、おろおろして、昔の自分の思いが出てきてしまったのでした。私も、このペテロがよく理解できます。イエスがキリストであると告白しているのですが、いざという時、昔の自分がにょきっと現れます。けれどもイエスが復活された後、ペテロはどのような状況においてもイエスがキリストであると告白しました。たとえ殺されようとした時であってもそうでした。そこまで堅い決意ができたのは、彼自身の精神力ではなく、復活のイエスとの出会いがあったからです。復活のイエスとの出会いについては、後で学びましょう。

 そして、イエスの栄光は、父なる神ご自身によって確認されました。


 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み

 かわいそうに、ペテロの声はほとんど無視されています。

 そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。

 昔、イスラエルの民にとって、幕屋にある雲は主の栄光が満ちている事を示していました。今、同じように、神は弟子たちに対してご自分がおられることを示されています。そして、神はイエスを、「わたしの愛する子」と言われました。モーセもエリヤも、神に用いられた偉大な人物ですが、彼らは神のしもべであります。しかし、イエスは、神の子でありました。神はすべてのものを、イエスにゆだねられたのです。また、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という言葉は、イエスがバプテスマを受けられる時にもありました。イエスが宣教をはじめられる時に、父がご自分の子を愛されたように、今は、イエスが十字架につけられるときに、父は子を愛していると告げられました。そして、「彼の言うことを聞きなさい。」と神が弟子たちに直接語られています。

 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。

 昔、イスラエルの民も神から直接、語られようとしました。雷と、いなずま、煙る山などを彼らは目撃して恐ろしくなって、遠くに離れました。(出エ20:18)弟子たちも似たような反応をしています。

 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。

 父なる神は、彼の言うことを聞きなさい、と言われましたが、イエスの最初のみことばは、「起きなさい。恐がることはない。」というやさしさに満ちたものでした。また、イエスは彼らに触れられました。イエスが触れられると、また声をかけられると、私たちの恐れは消え去っていきます。私たちは特に、原因不明な恐れを抱くときがありますが、イエスはそれを消してくださるのです。

 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。

 
ここでのイエスは、普通の人間の姿になっています。イエスは、2つの側面を持っておられます。私たちが肉眼で見るときイエスは単なる人間にしか見えません。しかし、霊的な目で見るとき、イエスが、栄光の御姿で輝いているのです。これは、教会の姿でもあります。信仰のない人が、クリスチャンたちの中に入っても、彼らが話すイエスは、特にすばらしいものには聞こえません。しかし、信仰に入ることによって、彼らが話しているイエスが生きたものとなり、栄光に輝いていることを見るのです。そして、神のみことばを信仰をもって受け止めるほど、それだけイエスの現実を知り、この方の、栄光を見ることができるのです、そして、キリストが再び来られる時には顔と顔を合わせるようにして、キリストをはっきりと見ることができます。ですから、キリストの花嫁として、「主イエスよ。来てください。」ということができるのです。

2B  初穂  9−13
 しかし、イエスの栄光は、再臨のときだけに現れるだけでなく、初臨のときにも現れます。9節から読みましょう。 彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命じられた。

 イエスは再びご自分を王に仕立て上げようとする者達を意識されています。イエスがキリストとして賛美されるときは近づいていますが、まだ来ていないのです。

 そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」

 これはマラキ書の最後に出てくる預言のことを話しています。

 イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。

 イエスはエリヤが来ることを未来のこととして話されています。黙示録11章には、ふたりの証人が大患難時代のときに現れることが書かれています。彼は、キリストが再び来られるときに、前触れとしてイスラエルを建て直そうとするのです。ですから、実際のエリヤの到来はまだ未来の話なのです。

 しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。

 バプテスマのヨハネが苦しみにあい、最後は殺されたように、イエスご自身も苦しみにあい、殺されることを話されています。イエスは、この苦しみによってもキリストとしての栄光を現されます。ヨハネの福音書には、イエスが十字架につけられる前に、父なる神が、「わたしは・・・またもう一度栄光を現そう(11:28)」と言われた部分を読みます。

 キリストの栄光というと、すべての悪をことごとく滅ぼして、世界中にあがめられ、仕えられて、すべてを支配する主であるなら理解できます。しかし、むちで打たれて、なぐられて、ののしられて、最後はくぎで打ち付けられる主が、なぜ栄光なのか、と思ってしまいます。けれども、それは人が神のみもとにもどることのできる、贖いのわざだったのです。

 
聖書の神は正しい方であるだけでなく、人間を祝福し、こよなく愛さている方であります。キリストの十字架は、その愛が極限までに示されている神の栄光です。ひとり子を、神を神と思わぬ罪人のために死に渡されるなんて、天の父ご自身が、気が狂うほどの苦しみと痛みを感じられたでしょう。しかし、それほどまでに、神は私たち人間を愛してやまないのです。この神の愛を見るときに、私たちは神の栄光を見るのです。

2A  キリストの力  14−21
 こうして、キリストの栄光について学びました。そして、教会は、キリストの栄光が満ちたところです。次にキリストの力について見ていきたいと思います。

1B  悪に対する力  14−18
 彼らが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言った。 「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」

 
実に痛ましい光景ですね。悪霊によって、この子は火の中や水の中に落ちています。

 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 ここでイエスは弟子たちを責めておられるのではなく、群衆に代表される不信仰の世を責めておられます。イエスは、群衆の前で実に数多くの奇跡を行われました。何度も何度もお示しになって、イエスが悪の勢力に打ち勝つ権威を持っていることをお示しになったのです。それにも関わらず、イエスが少しの間、物理的に離れていただけで、彼らはその子に働く悪の力に圧倒されて、キリストの御力を忘れていました。イエスは、その不信仰を責めておられるのです。私だったら、ここで爆発して、「もう知らない!」と叫んで放棄するでしょう。しかし、イエスは人々の不信仰によって苦しんでいる人にあわれみをやめたりするような方ではありません。

 そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。 とありますね。

2B  全能の力  19−21
 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

 イエスはご自分が全能の神キリストであること、そしてこの力を信じる者にはできないことは何にもないことを教えられました。それでは、私たちは周囲にいる病気の人をことごとく治してお医者さんを失業させることはできるのでしょうか。できませんね。それは私たちの願いであり、神のみこころではないからです。私たちが信仰のことを話すとき、とかく間違えてしまうのは、自分の願ったことがかなえられると考える事です。けれども、信仰とはその逆であり、神の願いが必ずかなえられると信じる事です。

 
からし種は、イスラエルの地ではもっとも小さい種です。つまり、私たちがどのように信じるかが問題なのではなく、大事なのは、信仰の対処である全能者であります。全能者が、このようになれ,と言われて私たちがそれを信じる時、必ずそのとおりになります。ですから私たちに必要なのは、神のみこころを知ることなのです。

 そこで、次に神のみこころを知るための方法が書かれています。ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。

 
祈りと断食がみこころを知るための方法です。 一日にできる、最も効果的な祈りが2つあります。1つは、朝に、「あなたのみこころが、今日私に実現しますように。」と祈ることです。自分にはさまざまな願いがあるでしょうが、神のみこころが実現することを願うのです、そして夜に、「あなたのみこころが実現したことを、感謝します。」と祈ります。私たちは、自分がよいと思われることには感謝できますが、悪いと思われることは、自分の信仰とは切り離して、「災難なことが起こったな。」と考えてしまいます。しかし、悪い事の背後にも神が働かれており、信仰をもって受け止めることが必要なのです。ソロモンはこう言いました。「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな.あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3:4、5)」

 このような祈りをしていうちに、私たちは自分の願いまでが神の願いに調和していくようになります。自分の願いが自己中心的なものから、神中心に変わってくるからです。その時に、私たちの願いは、どんなことでも聞かれるようになるのです。「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。(ヨハネ14:13)」とイエスは弟子たちに言われました。

3A  キリストの使命  22−23
 こうしてキリストの力について学びました。教会は、この全能の力が働いている所です。それでは次に、キリストの使命について見ていきましょう。

 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。 そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。

 イエスのキリストとしては、十字架によって殺されて、さらに3日目によみがえる事です。殺されるけれどもよみがえるのですから、これは喜ばしい知らせです。しかし見て下さい、「弟子らは非常に悲しんだ。」とあります。よみがえるのに、なぜ悲しむのでしょうか。その理由は2つ考えられます。1つは、イエスが十字架につけられると聞いたとたんにあまりにもショックで、頭の機能が止まってしまい、よみがえるという言葉が入ってこなかったことが考えられます。もう1つは、弟子たちが、イエスの復活が終わりの時に起こると考えていた事です。当時のユダヤ人は、終わりの日に、人間がよみがえる事を信じていました。ラザロが死んだときに、イエスはマルタに、「あなたの兄弟はよみがえります。」と言われましたが、彼女は、「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております.」と答えました(ヨハネ11:23、24)。ですから、殺されるという言葉を聞いてショックを受けたか、終わりの日のよみがえりを考えていたかのどちらかです。

 いずれにしても、弟子たちの問題は、イエスのみことばのすべてを受け取っていなかったことにあります。殺されるという言葉は受け取りましたが、よみがえるという言葉を受け取っていなかったのです。そのために、彼らは非常に悲しんだのです。これは私たちの信仰生活にとっても非常に重要な問題です。私たちはイエス・キリストを信じていますが、キリストについてのみことばをすべて信じているかそうでないかで、私たちの生き方が全く変わってしまいます。すべてを信じるときに、私たちは復活した生けるキリストにお会いすることができます。そして、一部しか見ていないときに、私たちの思いの中でキリストは死んでしまっているのです。実際は生きて働いて下さっているのに、私たちのほうで思いを沈めてしまっています。そこで私たちには、理解できなくてもそれを信じきるような、幼子のような信仰が必要です。エリサベツはマリヤにこう言いました。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人はなんと幸いな事でしょう。(ルカ1:45)」信じきった人は、幸いなのです。

4A  キリストの自由  24−27
 こうして、キリストの使命を見ることができました。つまり、教会は、キリストが殺されて、よみがええられたことを世に伝える所です。それでは最後のキリストの働きになりますがキリストの自由について見ていきたいと思います。

 また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」

 20才以上のユダヤ人の男性はみな、1年に1度、この神殿への納入金を支払わなければなりませんでした。

 彼は「納めます。」と言って、家にはいると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」

 王が他国を征服した時、彼らには税金を課しましたが、自分の国民には税を課しませんでした。

 ペテロが「ほかの人たちからです。」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。

 この税金は神殿に対する税金です。父なる神が住んでおられるところです。イエスは神の御子であり、また弟子たちも、天の御国の子どもです。ですからイエスは、子供達にはその義務がないのだと言われました。ここでイエスは、キリストの弟子たちの立場を明確にされています。彼らは、ローマ帝国に属しているのではなく、またユダヤ社会にも属しているのでなく、あくまでも天の御国に属していたのです。パウロは、「私たちの国籍は天にあります。(ピリピ3:20)」と言いました。したがって、私たちも日本人ではなくて天国人なんですね。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。(2コリント5:17)」したがって、私たちは、日本国の法律にしたがって生きるのではなく、天の御国の法律にしたがって生きなければなりません。そして、本来ならば世に対して税金を納めなくてよいのです。

 
しかし、イエスはこう言われました。しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」

 イエスは、人々につまずきを与えないために、納税するようにペテロに命じられました。ここの、「つまずき」のギリシャ語は、「スキャンダロン」です。スキャンダルという言葉がありますが、ここから来ているのですね。もしクリスチャンたちが、「私たちは天国人だから、税金を払いません。」と言い出したら、とんでもないスキャンダルになると思います。しかし、キリストはそうした立場よりも、人々を愛することを優先されました。したがって、納税する義務はないのだけれども、彼らを愛して、つまずかせないようにするために、納税されたのです。

 このように、私たちはあらゆる世の権威の下にもいない、自由な存在です。しかし、キリストと同じように、自分の立場に固執しないで人々に仕えるのもクリスチャンなのです。パウロは、「存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ローマ13:1)」と言いました。私たちは日本人だから、日本の法律を守ったり、納税したり、また日本人の持っている習慣に従うのではありません、キリスト者であるから、神に従うために、神の立てられた権威に従うのです。ですから、他の人々と同じように法律や習慣にしたがっているのだけれども、動機が違うのですね。このように、キリストにあって、私たちは自由を得ています。そして教会はこの自由を持っている人々の集まりなんです。

 これで、キリストの栄光、力、自由についての働きがわかったでしょうか。大事なことは、このキリストが、今ここに私たちとともにいてくださることです。どうぞ単純にキリストのみことばが自分に実現することを求めてください。心を開いて、キリストが自分に働かれること、そして、この集まりに働かれることを求めて下さい。イエスは、ご自分の弟子たちをこよなく愛されています。イエス・キリストは、今も昔も、これからも変わらない方です。お祈りしましょう。


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