マタイによる福音書18章 「教会における人間関係」


アウトライン

1A  へりくだる  1−14
   1B  理由  兄弟の受け入れ  1−5
   2B  警告  つまずき  6−9
   3B  勧め  見下さない  10−14
2A  責める  15−20
   1B  対象  罪を犯す兄弟  15−17
   2B  根拠  天におられる父  18−20
3A  赦す  21−35
   1B  程度  7の70倍  21−22
   2B  土台  神の赦し  23−27
   3B  適用  人の赦し  28−35

本文

 マタイによる福音書18章をお開き下さい。ここでの章のテーマは、「教会における人間関係」です。私たちは前回、キリストの働きについて学びました。キリストの栄光、キリストの全能の力、十字架と復活というキリストの使命、そして、キリストにある自由です。教会はこのようなキリストの働きが満ちているところです。そして私たちは、イエス・キリストが働かれるのを、心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くしてお迎えしなければなりません。

 そして18章で学ぶ事は、教会にあるべきお互いの関係です。パウロは、「あなたがはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12:27)」と言いました。私たち自身がキリストのからだです。ですから、私たちとキリストの働きを切り離すことはできず、むしろ主は私たちをとおして働かれます。また、私たちひとりひとりは器官です。ですから、キリスト者は単独で生きることはできず。必ず他の信者を必要とし、自分と他者との関係の中にキリストが働かれます。そこでイエスは、私たちが兄弟姉妹に対して取るべき態度を教えられています。主に3つのことを話されましたが、1つ目はへりくだることです。自分を小さいものとみなし、他の人をキリストにあって受け入れます。2つ目は責めることです。自分に罪を犯した兄弟を愛をもって忠告します。そして3つ目は、赦すことです。自分に罪を犯した兄弟を、心から赦します。この3つの態度をお互いに示すときに、その教会にはキリストを見ることができ、キリストが満ちあふれることになるのです。

1A  へりくだる  1−14
 それでは、1つ目のへりくだることについて学びましょう。

1B  理由  兄弟の受け入れ  1−5
 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

 ここにはまず弟子たちの問題が書かれています。誰が一番偉いのかと言い合って、互いに競争し、挑みあっています。そして次に、イエスが彼らを正されています。「悔い改めて」とありますが、これは心を入れ替える事です。そしてさらに、イエスはどのような態度を持つべきかを指導されています。小さな子どものように低くなりなさい、と言われています。

 まず、弟子たちの問題ですが、彼らがそのような質問をした理由を考えて見ましょう。1節の一番最初には、「そのとき」とありますね。どのときでしょうか。神殿税についてイエスがペテロに話されたときです。まさに弟子たちは、「それでは」と言っています。イエスは17章26節で、「子ども達にはその義務がないのです。」と言われました。世の王たちが自分の子どもから税金を取り立てないように、天の御国の子どもである弟子たちも、天の父のものである神殿に納税しなくてもよかったのです。したがって、弟子たちは、「天の御国の子ども」という立場に注目するようになったのです。そして、弟子たちは、自分を他の弟子と比較させるようになり、競争を始めました。誰が一番高い立場に、あるいは地位につくことになるのかをイエスに尋ねたのです。

 しかしイエスは、この考えを根底から変えなければならないことを話されました。彼らの問題は、キリストから目を離し、自分達の地位や立場に注目したことです。彼らの注目していた立場は、確かに現実のものとなります。イエスは後に、「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従ってきたあなたがたも12の座に着いて、イスラエルの12部族をさばくのです。(19:28)」と言われます。しかし、問題は、キリストご自身から目を離して、自分に与えられている立場に焦点を当てるようになったことです。したがってイエスは、「心を根底から入れ替えなさい。自分のことで思いをいっぱいにするのではなく、わたしのことでいっぱいにしなさい。」と言われているのです。そしてイエスは、小さな子どものように自分を低くしなさい、と言われています。これは、子どもの純粋無垢な性質を指しているのではなく、子どもの地位のことを指しています。子どもは、大人のように権利が与えられていません。ガラテヤ書に、「相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わない(4:1)。」とありますが、子どもはある意味で奴隷と同じ状態にいます。当時子どもは、かわいらしい存在であると言うよりも、つまらない存在であるとされてきました。この立場を持ちなさい、とイエスは言われているのです。

 私たちは、神から様々な恵みを与えられています。衣食住は勿論ですが、今置かれている立場や状況、才能などもすべて神から来たものです。けれどもそうした自分の立場や能力に注目し始めると、私たちはキリストを忘れて自分自身を考えるようになります。その時にキリストを基準にした生活ではなく、自分を基準にした生活を始めるようになるのです。自分と他の人を比較して、自分が優れているとか、劣っているとかを考えるようになります。「誰が一番偉いのですか。」という弟子たちの質問は、まさにそうした自分への思いから出てきたのです。しかし私たちは、キリストを思いの中で大きな方とすべきです。自分のあらゆる生活の中で、キリストを認めるべきです。それは、キリストに占領された生活と言ってもいいでしょう。その時にはじめて、自分が小さなものである事を発見します。したがって自分と他人を比較するのではなく、常に自分とキリストを比較することが大切です。あの人が自分をどう思っているのか、と考えるのではなく、キリストは自分にどう関わっておられるのか、と考えるべきです。つねにキリストを基準とする態度がへりくだりなのです。


 こうしたへりくだりによって、私たちは教会の他の人を受け入れることができます。5節を読みましょう。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。

 「このような子ども」とは、世の価値観から低く見られている者達です。私たちは、そういう人を受け入れることができませんが、それは自分とその人を比べているからです。でも見て下さい。「わたしの名のゆえに」とあります。キリストと自分を比べる時に私たち自身が小さいことを発見します。そのため、他の小さな人を受け入れることができるのです。

 ただ、その受け入れはとても積極的なものです。「私たちを受け入れるのです。」とあります。つまり小さな者から、世から低く見られている者から、私たちはキリストご自身を知ることができます。マザー・テレサは、栄養失調で痩せ細っている子どもを抱いて、「私は、この子の中に神を見ます。」と言いました。それは、彼女が無理に考え出したことではなくて、彼女がいつも神を見ているので、自分に出くわす子どもが神によって与えられた事を知るからです。そして私たち自身も、キリストによって心砕かれ、低い者とされた者達です。ですから、私たちが集まるとき、他の人からどんどんキリストを学んでください。私たちは、教会に来るどの人からも、キリストのあわれみ、恵み、きよさ、その他もろもろのご性質と働きを学ぶことができるのです。その時に初めて私たちは、互いに受け入れあう事ができ、キリストがその交わりに現わされます。

2B  警告  つまずき  6−9
 それでは、私たちがへりくだることを怠ったら、どのようになるのでしょうか。6節です。 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

 へりくだりを怠ると、他の兄弟をつまずかせることになります。つまずかせるとは罪を犯させるということですが、兄弟に罪を犯す機会を与え、信仰の歩みを止めさせるように促してしまうのです。イエスはこのことを非常に深刻に考えておられます。まさに神のさばきに値するからです。そしてそのさばきは、大きい石臼を首にかけられて湖の底で溺れ死ぬような残酷な死に方よりもさらにひどいものです。

 つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。

 この世は人をつまずかせる事に満ちています。人々に罪を犯させ、キリストを信じなくさせるものが溢れています。しかし、教会はこの世が暗くなればなるほど、光り輝きます。私たちは、クリスチャンだということで嫌がらせをされたり、馬鹿にされたりするとき、また試練に会うとき苦しいですが罪を犯すことはあまりありません。むしろ、主のみを求め、天の御国を慕う気持ちが増し加えられます。しかし、教会の中で罪があったり、妥協があったりすると、たちまち教会の力は失われます。それが拡がるからです。パウロは、「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかなパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。(1コリント5:699)」と言いました。したがって、つまずきをもたらす者は忌まわしい者です、とイエスは言われています。したがって、教会生活においてまず自分自身をつまずかせないようにすることが大事な事です。

 もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

 
この「手足を切って捨ててしまいなさい。」とか、「目をえぐり出しなさい。」というのは、罪を犯さないためにいかなる犠牲を払っても構わないということです。私は教会でつまずいたという経験は沢山憶えています。その中で、本当につまずきと呼ぶに値するものは少ないですが、でも、つまずいたという経験は憶えています。けれども、自分が犯した過ちや罪で、人をつまずかせたと思う経験は本当に少ないです。それだけ自分中心で、相手の必要に鈍いんですね。ですから、ここに書かれてあるように、まず自分自身を吟味して、罪を犯す機会を極力なくすことに関心をよせるべきなのです。自分が教会の中で何をしてもらえるかという思考から自分が教会において何をすることができるか、何を避けなければならないかという思考に変えるべきです。

3B  勧め  見下さない  10−14
 次に、イエスがそれほどつまずきを深刻に考えておられる理由が書かれています。あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。

 天におられる父にとって、ご自分のこどもはとても大切な存在です。ひとりひとりに天の御使いを使わされて、その御使いが父の御顔を見るようにさせているのです。ひとりひとりが大切で特別な存在だから、誰もつまずいて欲しくないのです。本当の尊厳や人権は、神から来ます。ある牧師は、「日本国憲法に人権などというものはない。神という言葉が一つも入っていないからだ。」と言っていましたが、私たちは神によってのみ、人がいかに大切な存在であるかを認めることができるのです。

 [人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです。]あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。

 
「滅んでいる」とは、神から離れ、燃えるゲヘナに追いやられる人を指しています。ですから神は真険です。私たちはつまずいてもポーっとしていますが、神はそのひとり子を死に引き渡すという大きな犠牲を払ってくださいました。神の目に私たちは高価で尊く、私たちを愛して下さっているからですね。ですからひとりが悔い改めれば、神は羊飼いのように喜び勇むのです。

 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

 神は、ご自分と人を切り離す罪をひどく憎んでおられます。イエスが、つまずきを忌まわしいものとされたのは、そうした父の思いを反映したものだったのです。

2A  責める  15−20
 こうして私たちは、へりくだることが教会においてほかの兄弟に示すべき態度であることがわかりました。へりくだりによって他の兄弟はキリストを受け入れますが、へりくだらないときに、他の兄弟をつまずかせることになります。次は逆に、私たちが他の兄弟からつまずきを受けそうになったら、どうすればいいのかが書かれています。イエスは、その兄弟を責めなさい、と言われています。

1B  対象  罪を犯す兄弟  15−17
 また、もし、あなたの兄弟が{あなたに対して}罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。

 ギリシャ語には、「あなたの兄弟があなたに対して罪を犯したら」となっています。このイエスのみことばで大事なことは、「ふたりだけのところで」となっていることです。私たちは、できるなら人と対決したくないと思います。ですから、人の言ったことや行ったことでつまずきそうになったら、その人のことを心のなかでずっと悪く思っていたり、人に陰口を言ってみたりします。あるいは、その教会を離れます。けれども、そうしたことで問題は解決しません。イエスは、「ふたりだけのところで責めなさい。」と言われました。自分の感じていることを、率直に相手に伝えなければいけません。兄弟を責めたときに初めて、相手に謝るチャンスをあたえるのです。また、自分が誤解していて、相手を誤ってさばいていた事がわかる場合があります。その時は反対に自分もあやまることができるのです。私たちはみな不完全なものなのですから、互いにつまずきやすいものです。ですから、相手を赦すことを前提にして、兄弟を責めることは和解をもたらす大切な真理なのです。

 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。

 もし兄弟が本当に罪を犯していることが発覚して、それを指摘しても聞き入れないなら、他に一人か二人を連れてきます。その人が、「いや、私はそんなことを言わなかった。」と言い逃れをするかもしれないからです。証人が必要となります。

 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

 
兄弟を責めて、証人もつけて、なおかつ教会に告げても聞き入れようとしないなら、その人を交わりからはずす必要があります。パウロは、「もし、兄弟と呼ばれるもので、しかも不品行な者、貪欲なもの、偶像を礼拝するもの、人をそしるもの、酒に酔うもの、略奪するものがいたら、そのようなものとはつきあってはいけない、一緒に食事もしてはいけない、ということです。(1コリント5:11)」と言いました。これはもちろん、教会を罪というパン種から守るためでありますが、それだけではなく、本人が神の赦しを受け入れるためです。放蕩息子の話を思い出してください。父は、財産の分け前をもらう弟息子が自分に反抗している事は知っていたと思います。事実、彼は放蕩の限りを尽くすのですが、父はそれを赦されました。それは、彼が自分の蒔いた種を刈り取らなければ、父の愛を知ることができなかったからです。このように教会がある兄弟を交わりからはずすことは、その人が自分の犯した罪の結果を自分の目で見るためであり、教会は彼が回復するのを見守らなければなりません。

2B  根拠  天におられる父  18−20
 それでは次に、教会にそのような権限が与えられている理由を見ていきたいと思います。 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。

 
教会は、単なる人の集まりでもなく人の組織でもありません。教会は天に起こっている現実を地上で表すための機関と言うことができます。ですから、罪を犯している兄弟を交わりからはずすことは霊的な分野において、彼がサタンの罠にはまっていることを地上で現した行為です。

 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

 教会に与えられている権限は、祈りの中で発揮されます。祈りが自分の願いがかなえられるのではなく、神の願いが実現するために私たちが心を開くことであることを、私たちは前回学びました。そのような祈りを心を一つにして行うとき、私たちは天で行われている現実、神の現実を見ることができるのです。そしてまた、見ていかなければいけません。そのために教会があるのです。

 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

 私たちが集まる目的は、私たちの中におられるキリストを知ることです。私が他のクリスチャンと会うときに、その人を知ることを期待してはいけません。キリストをさらに深く知ることを期待してください。祈りの中で、賛美のなかで、聖書の学びの中で、そして、私たちの会話の中で、キリストはご自分を私たちに示してくださいます。私たちの交わりは、御父と御子との交わりであると使徒ヨハネは言っています。(1ヨハネ1:3)。

3A  赦す  21−35
 これで私たちは、兄弟を責めなければならないことがわかりました。それで、兄弟があやまれば赦さなければなりません。次から、その赦しについて書かれています。

1B  程度  7の70倍  21−22
 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

 当時のラビは、赦すのは3度まででよい、と言っていましたから、ペテロはかなり頑張っています。イエスが先ほど、「低くなりなさい。」と言われたから,ペテロなりに応答しているのでしょう。けれども、次のイエスのみことばで、彼の頑張りはこなごなに砕かれます。

 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

 7度を70倍、つまり490回です。まじで490回赦してみて下さい。おそらく、途中で数を数えるのがいやになり、「主よ。私は自分では赦せません!」と叫び声をあげるのではないでしょうか。つまり、私たち人間が思いつく赦しと、神の考えておられる赦しとは、桁外れに違うのです。

2B  土台  神の赦し  23−27
 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。

 イエスは、これから、神を地上の王にたとえて、神の赦しとはなにかを説明されます。

 王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。

 タラントとは、当時のギリシャの通貨で最も単位の大きいものです。今のお金で言うなら、何千億円という単位の額です。つまり私たちの犯した罪は、神の御前にこれほど膨大に積みあがっています。

 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。

 日本語に「水に流す」という言葉がありますが、神の真理はそうではありません。自分の思ったこと、話したこと、行ったことのすべてについて責任を問われます。

 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。 次に注目してください。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。

 
神は、到底払いきることのできない負債を、文字通りすべて赦してくださいました。ご自分の子キリストの犠牲によって、それが可能となったのです。このように、神の赦しは計り知ることができないほど大きく、完全なのです。

3B  適用  人の赦し  28−35
 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。

 1デナリは、1タラントの6千分の1の額です。つまり王に対する負債と比べると、6千分の1に相当します。それを彼は、他のしもべに対し貸しているのです。他の兄弟が自分に罪を犯したといっても、私たちが神に対して犯した罪に比べれば、一つぶの米にもならないほど小さなものであることがわかります。

 彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ先ほどの王に対する嘆願と似ていますね。けれども、次を見て下さい。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。

 王が借金を全部帳消しにしたのに、彼は牢獄に入れてしまいました。これが、私たち人間の赤裸々な姿です。自分を省みることをせずに、人の犯した罪は赦せません。

 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。

 
これは永遠の地獄ですね。1万タラントの借金を返すことなど、到底不可能です。

 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

 
心から赦すのが、イエスの命じられる赦しです。私が赦したのはこれで3度目だ、と数を数えているうちは、本当に赦していないのです。赦すとは過ぎ去らせる事です。つまずきを受けたことを、思いの中にとどめておかないことです。

 さてここでしもべの仲間を赦せなかったのは、何故でしょうか。それは自分がどれほど王から愛されているかを知らなかったからです。彼は、「どうか猶予ください。そうすれば全部お支払いいたします。」と言いましたが、自分が払いきれない負債を負っていることを理解していませんでした。だから、100デナリの借金をしている兄弟を赦せなかったのです。私たちが兄弟を赦すのは、自分がしっかりと神の赦しを信じているかどうかに関わっています。まず、自分がどれほどの罪を犯してきたのか理解しなければいけません。1万タラントなのです。そして、神はそれを全部赦してくださったことを信じなければいけません、一部ではなくて全部なのです。それと、自分が受けたつまずきと比べてください。神がキリストにあってこれほど赦されたのだから、私もあなたを赦します、となるはずです。これが、心から兄弟を赦すことです。

 これで教会においてお互いに示すべき私たちの態度について学びました。すべてに共通することは、キリストを自分の基準にすることです。キリストを見つめる時に、自分を低くすることができます。キリストが罪を忌み嫌われていることを考えるときに、私たちは兄弟を責めなければいけないことがわかります。そして、キリストにある神の赦しを知るときに、他の兄弟を赦すことができるのです。教会における良い人間関係は、キリストを基準にした生活を送ることによって可能となります。絶えずキリストと自分を比べ、自分に起こった全て事の背後に、キリストがおられる事を認め、キリストが自分の行っていることに対し、どのような意見をもっておられるかを考えます。私たちは、キリストのからだです。キリストは必ず、私たちをとおして、自分の現実を人々にお見せになります。そしてキリストの輝く栄光、キリストの全能の力、キリストの復活、キリストの自由という働きが私たちを通して行われるのです。



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