マタイによる福音書19章 「愛の戒め」

アウトライン

1A 結婚についての戒め  1−12
   1B イエス 1−2
   2B パリサイ人 3−9
   3B 弟子 10−12
2A 永遠のいのちに至る戒め 13−30
   1B  イエス 13−15
   2B 金持ちの青年 16−22
   3B 弟子 23−30
      1C 救い 23−26
      2C 報い 2 7−30


本文

 マタイによる福音書19章をお開きください。今日の題目は、「愛の戒め」です。ここの章では、神の戒めについて2つの事が話されています。一つは、結婚についての神の戒めです。もう一つは、永遠のいのちに至る神の戒めです。そして、このことを話している3種類の人物が登場します。一つ目がイエスです。二つ目はパリサイ人と金持ちの青年です。そして三つ目は弟子たちです。その3つが、それぞれ神の戒めについて話しています。私たちはそこから、彼らがとってきた神の戒めへの態度を見ていきたいと思います。

 イエスが神の戒めをどのように見ておられたのか。また、パリサイ人と金持ちの青年は、神の戒めをどのように見ていたのか。さらに、弟子たちは神の戒めについて、どのような反応をしているか。これらのものを見ていきながら、私たちが神の戒めをどのように見ていくべきか、またはどういうことを注意しなければならないのかを見ていきたいと思います。

1A 結婚についての戒め  1−12
1B イエス 1−2
 まず、結婚についての戒めについて読んでいきましょう。イエスはこの話を終えると、ガリラヤを去って、ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方に行かれた。すると、大ぜいの群衆がついて来たので、そこで彼らをおいやしになった。

 イエスに大ぜいの群衆がついて来ました。イエスの行かれるところには、いつも群衆がついて来ています。それはなぜでしょうか。彼らが、イエスのあわれみに引かれていたからです。イエスは、人々をいやすことを止めることをなさいませんでした。ご自分が間もなく十字架につけられるという、ある意味で大きな個人的な問題をかかえておられたのに、ご自分を無にして、人々のことを考え、人々の必要を満たすことに集中しておられました。

2B パリサイ人 3−9
 パリサイ人たちが、みもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっていることでしょうか。

 
当時、ユダヤ人たちの間で、離婚をすることの理由について意見が分かれていました。それは、モーセの律法についての議論でした。申命記24章1節にはこう書かれています。人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。ここの「何か恥ずべきこと」とはいったい何であるかが議論されました。

 ある学派は、それは妻が姦淫した場合であると言いました。そして、もう一つの学派は、男が女を気に入らなくなったら、どんな理由であっても離婚できると考えました。このように、議論が大きく分かれていたのです。むろん、イエスについて来ていた群衆たちも、いずれかの意見を持っていたでしょう。そこでパリサイ人は、イエスにどちらかの意見を言わせて、その意見とは合わない人々をイエスから去らせようと企んでいたのです。

 イエスは、答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女とに造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」

 イエスは、律法が与えられる時からさらにさかのばって、天と地が創造された初めの時に戻られています。神は、結婚を一生涯続くものとして定められました。

 彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。

 彼らは、私たちが先ほど読んだ申命記24章を引用しています。彼らがここで、「モーセは」と言っていることに注目してください。当時のユダヤ人たちは、モーセが神の預言者であることを認めていました。モーセが話したことは、神からのみことばだったことを信じていたのです。したがって、イエスがモーセの言ったことに反することを言えば、イエスは群衆の支持を得られなくなってしまいます。このように、パリサイ人の質問は誘導尋問的であり、その目的は、群衆をイエスから引き離すことでした。彼らの関心事は群衆の支持でした。 彼らは、神の戒めをふりかざして、実は、群衆の関心をイエスから自分たちに向けるパワーゲームに終始していたのです。したがって、パリサイ人にとっての神の戒めは、自分の名誉欲を満たす手段でしかなかったのです。

 そこで、イエスは、離婚に関するモーセの律法について、ご自分の立場を話されます。
モーセは、あなたがたの心がかたくななので、あなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。

 ここで大事なのは、「あなたがたの心がかたくななので」というころです。神が初めに男と女を造られたとき、ふたりを対等の関係として造られました。アダムのわきからエバが造られたのです。しかし、彼らが罪を犯したので、その関係は男性が女性を支配するというものに変わりました。あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。(創世記3:16)」と神はエバに言われました。そのため、結婚関係は男性優位となり、夫婦によって構成される社会全体も男性社会に変わってしまったのです。

 そこで、パリサイ人など当時のユダヤ人は、離婚をする権利が一方的に男性にあると考えました。先ほどのモーセの律法を使って、妻には離婚をする権利はなく、男性にだけあると考えました。彼らはそれを、権利として捉えるだけではなく、義務としてとらえることによって、自分たちが神の戒めを守っていると自負していたのです。 ところが、モーセがこの言葉を話したのは、彼らが解釈した意味とは正反対のものです。人間が堕落したため、人間社会はすでに、夫が一方的に妻を離婚するように変わり果てていただけでなく、何かでっち上げの理由をあげて、妻を離婚させる者もいたのです。

 
そこでモーセは、正当な理由なく して妻を離婚させてはならない、ということで、離婚状を出しなさいと言いました。離婚状は、ふたりか三人の証人がいなければ発行できないものですので、男は離婚理由を捏造することはできなかったのです。ですから、モーセがこのことばを話したのは、むしろ、離婚を制限させるためのもので、離婚に同意したり、ましてや命令しているものではありません。そこでイエスは、この律法に関して、彼らの問題の核心をつかれます。

 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためではなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。

 なぜ、パリサイ人は、このモーセの律法を高らかに掲げたのでしょうか。自分が姦淫したかったからです。離婚をするとき、自分の妻よりも好きな女ができるからというのが、多くの場合です。離婚をするための理由がいろいろあるかもしれませんが、最終的に離婚に至らせるのは、他に好きな女、あるいは男ができるからなのです。こうして、イエスは、離婚の背後にある人間の自己中心性をつかれています。

 この間題はパイサイ人だけにあるのではなく、私たち自身にもあります。私たちの肉は、自分の考えていることや行なっていることを肯定したい、正当化したいと願っています。そうした心で聖書の言葉を読むときに、自分を肯定してくれるような読み方をしてしまいます。その時には決まって、パリサイ人のように誤った解釈をしているんですね。ベテロはこう言いました。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。(2ペテロ3:16)」

 ですからパリサイ人は、モーセの律法を曲解して、自分の情欲を満たそうとしていたのです。

3B 弟子 10−12
 弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。

 弟子たちは、イエスの教えられた神の戒めについて、実に正直な反応をしています。そんな、離婚して姦淫の罪を犯すなら、僕はすぐに罪を犯してしまう、と言っているわけです。つまり、彼らは神の戒めを見るときに、自分がそれには到達していないことを悟りました。 パリサイ人は自分を肯定するように神の戒めを読んでいましたが、弟子たちは自分を否定するように戒めを見ていきました。イエスは、「自分を捨て」あるいは自分を否定して、「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マタイ16:24)」と言われましたが、弟子たちは、イエスが教えられた高い基準を自分で満たすことはできないことを知っていたのです。だから、彼らはイエスに従っていたのです。イエスから助けを得、イエスから助言を受け、イエスから力を受けるために、イエスとともにいました。これがキリストの弟子の姿であり、私たちが歩むべき道です。

 しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。」

 
これは、肉体的に障害を持っていたり、そのような能力が備えられないで生まれてきた人のことです。

 また、人から独身者にさせられた者もいます。

 未亡人などは、自分の選択ではなく人から独身者にさせられた人です。

 また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる人は、受け入れなさい。

 
自分が宣教や奉仕の働きのために、なるべく自由な時間をつくりたい、と願っている人は、結婚をしないで独身のままでいます。このようにイエスは、神のみこころによって独身であるものもいれば、結婚する者もいることを話されました。ユダヤ人社会では結婚することが当然と見られていましたが、イエスはそうではありませんでした。独身者であるからとか、結婚看であるからとかでえこひいきをされなかったのです。イエスは、弱い立場にいる独身者に対して、特別な計らいを示しておられるのです。このように、神の戒めはあわれみの現われであることをイエスは知っておられました。人間はそれを自分の都合に合わせて曲解しますが、イエスは愛によって律法を全うされたのです。

2A 永遠のいのちに至る戒め 13−30
 次からは、永遠のいのちに至る戒めです.ここでも、同じパターンを見ることができます。

1B  イエス 13−15
 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが遜れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。そして、手を彼らの手に置いてやってから、そこを去って行かれた。

 
イエスは、子どもに手を置かれました。ここにも、イエスのあわれみを見ることができます。前回私たちは、当時のユダヤ人社会では、子どもは身分の低い者、つまらない者とみなされてきたことを学びました。イエスはそうした弱い立場にある者に、人間からは見下げられている者に心を寄せられています。

2B 金持ちの青年 16−22
 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

 この人は、イエスが子どもに手を置かれる姿を見ていて、イエスに永遠のいのちについて尋ねました。つまり、人間にとって本当に大切なものを見たのです。けれども、彼は自分にそれがないことに気づいていました。つまり、むなしかったのです。もうちょっと後を読みますと、彼は金持ちの青年であり、他の福音書を見ますと、彼は役人であったことがわかります。青年でお金持ちで、そして国を司るような高い地位を持った人なのですから、まあ、誰もが、これさえあれば幸せになれると思わせるような典型的な人物でしょう。しかし、面白いことに彼はむなしかったのです。

 そして、彼は、イエスのうちにあるような豊かないのちを、良い行ないによって得られるものだと思っています。イエスのように良い行ないをしたいと思っていたのです。そこで、イエスはこう言われます。

 なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はひとりだけです。

 このひとりとは神のことですが、実はここで、イエスはご自分が神であることを青年に気づかせようとされています。あなたはわたしに良いことについて尋ねているが、良い方は神ひとりだけであり、わたしがその神である、と言われているのです。したがって、イエスがここで教えたいのは、永遠のいのちとは、自分の行ないではなくて、神とつながっていることによって得られるんだよ、と言うことです。自分の行ないによるのではなくて、神との親しい関係、神との交わりをすることによって得られます。弟子たちは、イエスとともにいることを主眼としましたが、イエス・キリストとつながって、イエス・キリストと強い結びつきを持つことによって、良い行ないが結果として現われるのです。イエスは、この青年に、このことを悟ってほしかったのでした。

 そこで、イエスはこう言われています。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」彼は、「どの戒めですか。」と言った、イエスは、「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

 イエスは、神の戒めを守りなさい、と言われています。しかし、それは逆に、青年に神の戒めを守ることができないことを知ってほしかったからです。私たちは、イエスの山上の説教を聞いて、パリサイ人の律法の教えと、イエスの律法の教えの違いを知りました。パリサイ人の教えに比べると、イエスのは非常にきぴしいことを理解しましたね。「殺すな。」という戒めは、兄弟に「ぱか」と言ったら地獄行きです、という教えだったのです。ですから、私たちは神の戒めを見ると、自分がとことんまで悪い人間で、心の底から邪悪に満ちていることを知ります。それで、私たちは一目散に、「イエスさま、助けてください。」と言って、キリストの十字架に駆けずりこんで来るのです。これが、律法の目的なんですね。パウロは、「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。(ガラテヤ3:24)」 と言いました。

 ところが青年の応答を読んでください。この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何かまだ欠けているのでしょうか。」

 彼は、神の戒めの真の意味を理解していませんでした。彼も、パリサイ人と同じように自分の都合に合わせて神の戒めをとらえました。それで、自分はさほど悪い人間ではないと考えていました。  これが、聖書の言う高慢です。自分はそれなりに頑張ってきた。なかなかうまくやってきたと思う。だからキリストは必要ないという態度です。私たちはそれを、「まじめ」という言葉で表現して肯定的な評価をしますが、神にとっては、不潔な着物のようであります。

 
しかし、この青年は、私たち自身のうちにもあります。クリスチャンであるけれども、そこにメリハリがない。毎日が同じように過ぎていく。何かむなしい。自分は何をすればよいか、よくわからない。特に大きな罪を犯していないし、聖書は読んでいる、教会にも通っている。でも、つまらない。こんな態度になっているのは、神の戒めの下に自分自身を置いていないからです。 この青年が、「何かまだ欠けているでしょうか。」と言ったように、キリストを信じていながらも、自分が生きている目的さえはっきりしなくなります。そこでイエスは、パイサイ人に対してされたように、青年の問題の核心をつかれています。

 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人に与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

 イエスは、神の戒めを正しく教えられました。先ほど、「隣人を愛しなさい。」という戒めを引用されました。青年は、「そんなことは守っております。」と言いましたが、もし本当に隣人を愛しているのなら、貧しい人に自分の財産を与えることはできたはずです。他の福音書によりますと、持ち物をみな売り払いなさい、とイエスは言われています。つまり、貧しい人のために、自分の財産をみな売って、自分が飢え死にするほどの激しい愛が、「隣人を愛しなさい。」という意味だったのです。私たちにはそんなこと到底できません。しかし、イエスにはその愛がありました。事実、ご自分のいのちを私たちのためにおささげになったのです。このように、神の戒めの本質は愛なのです。イエスは、群衆をいやされたときも、子どもに手を置かれたときも、この愛の立場を貫かれましたが、キリストは、愛によって律法を成就されました。

 こうして、彼は、自分の問題を神の戒めによって知ることができました。この青年と同じように、私たちも、自分に根を張っている問題を自分ではなかなか発見できません。しかし、「神のみことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4:12)」とヘブル書には書かれています。私たちは、神のみことばによって、自分を吟味して、自分をさばくことができるのです。

 ところが、青年はこのことを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

 イエスが青年に期待されていたのは、彼が、「主よ。私は罪人です。」と告白することでした。そして、イエスに従うことだったのです。しかし、残念なことに、彼は、イエスから去って行きました。ペテロがイエスから召命を受けたときのことを思い出してください。ベテロにある根本的な問題は、魚釣りでした。彼は、自分の職業に誇りを持ち、ある意味で漁を自分の神としていたのです。けれども、彼が夜通し漁をしていたのに、一匹も釣れないことがありました。イエスは、「網をおろして見なさい。」と言われたので、ペテロがおろしましたところ、網がはちきれそうになるほどに魚がはいっていたのです。そのとき、ベテロは自分の問題を自覚しました。「主よ。私のようなものから離れてください。私は、罪深いものですから。」と言いました。けれども、イエスは、「わたしについて来なさい。」と言われたのです。そして、ベテロは自分の漁も捨てて、イエスに従いました。

 
イエスは、青年に話されているとき、同じようなことを期待されていました。しかし、彼は、イエスにつながるのではなく、イエスから離れ去ったのです。私たちは、ベテロのようになるか、この青年のようになるかの選択があります。自分の根本的な問題が聖霊によって指摘されたとき、「こわがることはない。わたしについて来なさい。」という、イエスのあわれみに満ちた呼びかけに応答するか、自分の悪い行ないを捨てたくないのでイエスから離れ去るかの選択があります。

3B 弟子 23−30
 イエスはここから、弟子たちとの会話を始められます。

1C 救い 23−26
 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいることはむずかしいことです。」

 この時点で、弟子たちはイエスの言われていることを、よく理解できていないようです。そこでイエスは、弟子たちに、彼らが理解できるようにくり返して話されます。

 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。

 これで、弟子たちはわかりました。らくだは、当時、その地域で知られている、もっとも大きい動物でした。そして、針の穴は、私たちが日常生活で見かける最も小さな穴です。金持ちが神の国に入るのがそれほどむずかしい、というか不可能なのです。

 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」

 
弟子たちは、また素直な反応をしていますね。私たちは、だれでもお金持ちになることを願います。事実、ユダヤ人たちはお金を持っていることは、神の祝福であるとされていました。ところが、そのお金持ちでさえも神の国に入れない、とイエスは言われたのです。弟子たちは、それでは自分も、他の人も救われようがないではないか、と考えたのです。このように、弟子たちは、イエスの教えを守ることは自分にはできないことを、すばっと認めました。先ほどの、結婚についてのイエスの教えと同じ反応ですね。

 イエスは彼らをじっと見て言われた。イエスは、弟子たちをじっとご覧になりました。とても大切なことを話されるからです。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

 救いは、人の行ないによるのでなく、完全に神の行ないです。このことを詳しく知るために、実際に金持ちで自分の財産を捨てて、救われた人を見てみましょう。それは、ザアカイです。ルカによる福音書19章に出てきます。お開きください。

 ザアカイは、イエスを自分の家にお迎えしたあと、財産の半分を貧しい人に分け与え、不正にもうけたお金を4倍にして返すことを約束しました。青年は悲しんでイエスを去ったのに、なぜザアカイには、そのようなことができたのでしょうか。4節を見てください。ザアカイは、イエスをなんとかして見たいと思って、いちじくの桑の木に登りました。彼の関心事は、イエスだったのです。イエスご自身を彼は慕い求めていました。その反面、金持ちの青年はどのような良いことをすればよいかに関心があったのです。その一方、ザアカイは、イエスご自身を自分の心に全面的に受け入れました。そして、イエスの働きによって、財産を捨てるという自分には決してできないことをできるようになったのです。ここが、とても大切です。

 私たちは、イエス・キリストを信じるとき、自分の非が赦されたい、自分の心がきよめられたい、自分の心が満たされたい、とか、さまざまな動機をもって信じます。最初はそれでいいのかもしれません。しかし、それ自体は、イエス・キリストに対する信仰とは異なる信じ方なのです。青年が、イエスに引かれて、「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいでしょうか。」と聞きましたが、イエスご自身が信仰の対象なのではなく、自分の目的が達成されるための手段になっていました。しかし、ザアカイのように、イエス・キリストそのものに対して信仰を持つとき、イエスが私たちのうちに働いてくださり、私たちには到底できない愛のわざを、イエスが代わりにしてくださるのです。ですから、大事なのは、この、イエスヘの愛、イエスヘの飢え渇き、イエスへの結びつきです。

2C 報い 2 7−30
 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは何もかも持てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何かいただけるのでしょうか。」

 ペテロは、信仰についてについて、とても重要なことを話しています。つまり、捨てることと、従うことです。これは、言い換えますと、私たちが持っている関係の中でイエスを最も大切な方とすることです。つまり、自分の主にすることです。私たちには、家族とか友人とか、会社とか、生活のさまざまな面において関係をもっていますね。もし、私が誰かとの関係を大切にするなら、今まで一番大切にしていた関係を捨てて、その新しい関係のために自分を従わせなければいけません。例えば、結婚などは良い例です。自分にとって妻が最も親しい友となり、他の大切な関係は二の次になります。したがって、イエスを信じるとは、捨てる、ということと、従うということを同時に行なう、決断なのです。

 ここでペテロは、「何かいただけるのでしょうか。」と言っていますが、これは、私たちがイエスを信じる信仰に対する報酬のことです。イエスは、このことについて答えられます。

 まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも12の座に着いて、イスラエルの部族をさばくのです。

 これは、千年王国における報酬ですね。ベテロ、ヨハネ、ヤコプは漁師、マタイは取税人、だれもイスラエルを治めるようなメンバーとは決して言えません。けれども、神かこのような小さな私たちを、ご自分の恵みによって引き上げてくださるのです。

 また、わたしの名のために、家、兄弟、柿妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。

 ここには、私たちがこの世で受ける報酬と、死んだ後の報酬が書かれています。私たちは、イエスを信じるために死ぬ直前まで待つ必要はありません。たとい、今まで最も大事にしていた家族との関係がゆらいだとしても、この生きている間に、神に祝福された人生を歩むことが約束されています。そして、もちろん、死んだら、神と永遠にともにいることになります。このように、神が私たちに与えてくださる報いは、私たちがイエスに従ったときの犠牲とは、比較にも、ならないほど、ものすごく偉大なものなのです。

 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。

 イエスは、ペテロの考えを大幅に受け入れた上で、少し正されています。ベテロは、「私たちはこれだけ従ってきたのだから、何かご褒美をください。」と、神に借りをつくった言い方をしています。そこでイエスは、借りではなく、あくまでも恵みであることを強調されるために、信仰的に先を進んでいるように見える人が報いが後になったり、新しく信じたばっかりの人でも報いが先になることがありますよ、と言われています。このことを、20章のたとえで、イエスはさらに詳しく説明されますので、次回を待ちましょう。


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