マタイによる福音書1章 「イエスのルーツ」
これから、マタイによる福音書を学びます。私たちはこれまで、永遠のいのちを得たという確信を与えるヨハネの第一の手紙、信仰によって義と認められるという救いを教えるローマ人への手紙を学び、そして教会の誕生を教える使徒の働きを読みました。ついに私たちはマタイによる福音書、私たちの信仰の目標であられる、イエス・キリストのご生涯を学びます。
1A 系図によるイエスの先祖 ―約束のメシヤ―
1B ダビデの子
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
新約聖書の始まりは「系図」から始まります。これの意義は、旧約聖書を読んできている人でなければ分かりません。系図はまさに神が救済のご計画の核心を示していることを、旧約を学んでいる人は知っています。アダムが罪を犯し、エバを惑わした蛇に対して、「おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。(創世記3:15)」と神は宣言されました。神が人をご自分のかたちに造られ、親しい交わりをしていたのにそれを切り離した蛇の仕業を、「女の子孫」によって粉砕するという約束であります。これが後にヘブル語で「油注がれた者」すなわち「メシヤ」と称されるようになり、神が自分の救いを果たされるために選ばれた者であります。
「女の子孫」でありますから、その後に出てくる子にメシヤが出てくるのです。それで創世記は注記深く、系図を記しているのです。創世記5章はアダムからノアまでの系図、11章はノアからアブラハムまでの系図を、そして創世記、出エジプト記、その他の書物にも、注意深く系図を記しています。ルツ記の最後にはダビデに至る系図が記されており、そしてバビロン捕囚後に編纂された歴代誌においては、詳細に自分たちに至るまでの系図を記しています。これらは、「女の子孫」という、メシヤをもたらす神の約束を意識して書かれたものです。
そしてここで、「イエス・キリストの系図」とあります。イエスが名前でキリストが姓であると私たちは思いがちですが、そうではありません。言い換えますと「イエスというメシヤ」ということです。イエスという名の救い主、油注がれた者の系図であるということであり、歴史上に現われたイエスこそが神が約束されたメシヤであるということです。
新改訳は「アブラハムの子孫、ダビデの子孫」と訳していますが、ギリシヤ語は「ダビデの子、アブラハムの子」となっています。強調しているのはダビデの子の方です。ここが、著者マタイが書き出そうとしていることです。神が、人を罪からお救いになることによって、ご自分の国を回復されます。人が神に逆らうのではなく、神に従い、神の支配を受けるように回復されようとしておられます。
そこで主は、ダビデを選ばれました。イスラエルには初めサウルが王として建てられましたが、それは人が選んだ王であり、王自身、神の命令に背きました。それで神はほかの人を選び、それがダビデでした。ダビデは「愛された者」という意味であり、また「神の心にかなう者」と呼ばれました。彼が王ととしてイスラエルで認められた時に初めに行なったことは、神の箱を自分の町エルサレムに運ぶことです。彼は神への礼拝と讃美をもっとも愛しました。彼は王でしたが、彼自身は神を王としあがめていたのです。
そこで神は彼に対して約束されたのです。「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。(2サムエル7:12-13)」ダビデの王座からメシヤが現われるという約束です。そこで「ダビデの子」というのが、メシヤを表す呼び名の一つになりました。そして詩篇には、ダビデの子としてのメシヤの姿が濃厚に描かれており、預言書でもその通りです。有名なイザヤの預言を引用します。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。(9:6-7)」
したがって今、マタイが強調しているのは、「イエスこそが、約束のダビデの子である」ということです。
2B アブラハムの子孫
そして「アブラハムの子孫」とあります。ここにもメシヤ的期待が当然かけられています。ノアの子孫としてアブラハムが系図の中に出てくることを先に話しました。主はアブラハムに、「あなたの子孫によって、わたしは全世界を祝福する」という約束を与えられました。それはアブラハムの子孫であるイスラエルを通して、ということもありますが、それよりもイスラエルから出てくるキリストのことを表しています。ガラテヤ3章16節にはこう書いてあります。「ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。(ガラテヤ3:16)」
そこで系図には、アブラハムからダビデまでの系図、そしてダビデからバビロン捕囚まで、そしてバビロン捕囚からヨセフまでの系図を記し、イエスこそがメシヤであることを示しています。
3B 4人の女
1節から6節まで読みます。1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。1:2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、1:3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、1:4 アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、1:5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ、1:6 エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、・・・
今、アブラハムからダビデまで、そしてダビデの息子ソロモンまでの部分を読みました。ここに四人の女性が出て来ます。「タマル」「ラハブ」「ルツ」そして「ウリヤの妻」つまりバテ・シェバです。系図として極めて、不自然なものになっています。旧約聖書の系図には、ほとんど男だけが並べられているからです。ですからここに、マタイの恣意的な挿入があると考えてよいのです。
ここには、異邦人であるとはっきり分かる女が三人います。そして性的な汚れあるいは罪を犯した女が三人います。異邦人はタマルとラハブとルツです。タマルは遊女の格好をして舅であるユダから子を宿した女です。ラハブはカナン人の遊女ですが、エリコに偵察にきたイスラエル人を救うことによって、彼女とその家の者たちはエリコの破壊を免れることができました。そしてルツは、エリメレクの家族の息子の一人と結婚したモアブ人です。後にベツレヘム人のボアズと結婚しました。そしてバテ・シェバはユダヤ人であったかもしれませんが、夫はウリヤでありヘテ人です。ダビデが彼女を引き寄せて、彼女と寝ました。
これらは歴然としたユダヤ人の歴史であり、聖書に克明に記されていますが、一般のユダヤ人の間では避けて通りたいような話しでしょう。しかし、ここにイエス・キリストが来られた目的があります。それは、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。(ルカ19:10)」という目的です。ユダヤ人だけでなく、異邦人をも救いの中に入れる、そして正しい者ではなく罪人が悔い改めるための来たのだ、という主が来られた目的です。
イエス・キリストの系図の中に、この四人の女の血が入っているというところに、神の憐れみと救いの目的が組み込まれているのです。もし、「私は罪深い者だから、信仰に入るにはふさわしくない。」というためらいがあるならば、「私はキリスト教にはこれまで触れたことがない、部外者だ。」という疎外感があるなら、それはこの場で捨て去ってください。むしろ罪深いからこそ、キリストが来て下さいました。部外者だからこそ、キリストが来てくださいました。
4B 呪われたエコヌヤ
それでは再び6節から読みたいと思います。
1:6 エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、1:7 ソロモンにレハベアムが生まれ、レハベアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、1:8 アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、1:9 ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、1:10 ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、1:11 ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
ダビデからバビロン捕囚までの系図ですが、これらはすべてダビデ家の王の系図になります。けれども、旧約の歴史を詳しく知っている人はこのエコヌヤから、王となる子孫は出てこないということを知っています。エコヌヤは「エホヤキン」とも呼ばれている人です。ヨシヤの死後、息子エホアハズが治めましたがエジプトが追放しました。兄弟エホヤキムが王となりました。エホヤキムの死後、エホヤキンが王となりましたが、わずか三ヶ月でバビロンが二度目の捕囚を行ない、彼はバビロンに捕え移されました。
そして預言者エレミヤは、彼についてこう預言したのです。「このエコヌヤという人は、さげすまれて砕かれる像なのか。それとも、だれにも喜ばれない器なのか。なぜ、彼と、その子孫は投げ捨てられて、見も知らぬ国に投げやられるのか。地よ、地よ、地よ。主のことばを聞け。主はこう仰せられる。「この人を『子を残さず、一生栄えない男。』と記録せよ。彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいないからだ。(22:28-30)」エコヌヤからはダビデの王座に着く者は実質的に出てこない、というのです。
それでは、エコヌヤ以降の系図を示し、イエス様にまで至らせているこの系図では王になることはないではないか?という疑問が出てきます。その疑問を解消するのは、ルカによる福音書にある系図を見なければいけません。ルカ3章23節からヨセフからさかのぼり、アダムにまで至る系図が記されていますが、マタイにある人物と他の人々が出て来ます。つまりルカは、「ヨセフ」とありますが実はマリヤの系統であり、マリヤの父からさかのぼっているのです。そして、それは「ナタン」というダビデの息子によって、ここにあるマタイの書き記した系図に合流します。マタイ伝では、ダビデの息子ソロモンに王権が受け継がれましたが、その他にナタンという息子がいました。ですから、イエス様はマリヤを通してダビデの子としての約束を受け継ぐことができます。
けれども、一般のユダヤ人の認識では、ソロモンがダビデ王族を受け継ぐ者であり、エコヌヤまでそれが続き、その末裔が正式なダビデ王族を受け継ぐ者となります。つまりイエス様は、「血統」としてはマリヤによってダビデの子であられ、「継承」としてはヨセフによってダビデの子であるということができます。マタイは、一般のユダヤ人読者を意識して書いています。そこでダビデ家の正統性を強調しているのです。
1:12 バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、1:13 ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、1:14 アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、1:15 エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、1:16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
16節は上手な訳になっています。「生まれた」という動詞が続いていましたが、それは父から子が生まれたように書かれていますが、16節だけは「このマリヤからお生まれになった」とあります。ギリシヤ語でも明確に、ヨセフから生まれたのではなく、マリヤから生まれたことを強調しています。なぜなら、ヨセフの血をイエス様は受け継いでいないからです。マリヤから聖霊によってお生まれになりました。
1:17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。
三つの区分でそれぞれが十四代となっていますが、実はところどころで旧約聖書の系図には出てくる人物が何人か省略されています。これは当時の系図においては、しばしばあることです。「生まれた」とか、「何々の子である」と言っても必ずしも直接の出産ではないことがあります。もっとも分かりやすいのは、エバが「すべて生きているものの母であった(創世記3:20)」とありますが、私たちが直接、エバのお腹から出てきたわけではないのと同じです。
これは「十四」というものを意図的に書き記したかったのだろうと思われます。ギリシヤ語もそうですが、ヘブル語には、そのアルファベット一つ一つに数字があてがわれています。ダビデはdwdという子音で、d(dalet)が4、w(vav)が6なので、4足す6足す4で14になります。やはりここでもマタイは、ダビデ王を強調し、イエスがダビデの子メシヤであることを強調しています。
ところで、福音書が四つもあることに誰もが興味を持つと思います。これは一つの出来事に、四人の証言があると考えれば良いでしょう。それぞれが、イエス様のある側面を強調しているわけですがマタイは紛れもなく、旧約聖書の中に生きてきたイスラエル人を意識しています。そしてユダヤ人の王としてのキリストを強調しています。
マルコは福音書の中で最も短いですが、教えよりも、教えにともなうしるしやイエス様の行ないに焦点が置かれています。「すぐに」という副詞が何度も出てきますが、「要はイエスは何を行われたのですか?」と、ちょっとせっかちになっている人(?)に書かれています。ローマ人向けであると言われています。神に黙々と仕える「僕」たるキリストが強調されていると言われます。そしてルカは、ギリシヤ人あるいは、ギリシヤの影響を強く受けているユダヤ人です。彼はそして医者でした。彼の描くイエス様は、ギリシヤ人が読んで納得するような、完全な人としてのイエスです。そのギリシヤ語も当時のギリシヤ文学の中でも残りえる美しさがあると言われています。そしてヨハネは、朴訥にイエス様の神なる姿を示していています。この方が神から来られたことが前面で表れています。
そしてそれぞれの福音書が興味深いことに、自分自身を示すようなことを少しだけ挿入しています。マルコは、イエス様がユダヤ人に捕えられたときに、裸で逃げた青年を描いていますが、それが本人ではないかと言われています(14:51)。ルカは冒頭からテオピロに対して自分が書いていることを示しているし、ヨハネは「主に愛された弟子」と記しています。マタイはどうかと言いますと、イエス様が弟子たちのことを話されたとき。「自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。(マタイ13:52)」という管理者の働きをあなたがたはしている、と話しましたが、それはマタイ伝にしか出てきません。これは、お金の管理をしていた取税人であるマタイ自身のことを表しているのではないかと言われています。
マタイは取税人です。ローマ帝国のためにユダヤ人から税を徴収する人でありましたが、ユダヤ人から酷く嫌われていました。そこで自分の懐に入れているのが普通であり、彼らは金持ちでした。そのマタイがイエス様に何もかも捨てて従っていったのですが、税を徴収する人らしくその記述は几帳面です。起こった事実を整理して並べています。
2A 聖霊によるイエスの誕生 ―神の子キリスト―
使徒パウロがこう言いました。「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。(ローマ1:3-4)」マタイは今、肉によるダビデの子孫としてのイエス様を描きましたが、今度は神の御子としてのイエス様を書き記します。すなわち、アダムから受け継いだ罪を持たずして、聖霊によってマリヤからお生まれになった、ということです。
1B 処女降誕 ―アダムの性質を宿さない―
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
聖霊による誕生は、マリヤの処女降誕によって明らかにされています。ふたりがまだ一緒にならないうちに、つまり、まだ正式な結婚をしないうちに、マリヤは妊娠しました。実は、このとき二人は婚約の状態にありました。婚約といっても、当時のイスラエルの慣習には二段階があって、第一段階は二組の夫婦がそれぞれの子どもを結婚させるように決めます。第二段階は、実際の結婚の一年前に行われて、二人は結婚をするための準備をします。マリヤが妊娠した時、二人は第二段階の婚約の状態にいたのです。このときは法的に婚姻関係にありますので、マリヤはつまり姦淫の罪を犯したことと等しいです。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
私たちの申命記の学びの中に、このことについての律法が書かれています。「ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。(申命22:23-24)」彼女は石打ちの刑に処せられるはずでした。
けれども彼は「正しい人」であった、そして「内密に去らせようと決めた」とあります。同じく申命記で「妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。(24:1)」とあります。離婚状の準備をしていたのです。「正しい」といえば、私たちは彼がマリヤを石打ちの刑にさせるのでは?と思うかもしれません。いいえ、「正しい」という言葉の中には憐れみも含まれているのです。彼女に対する慈愛が、その正しさの中にありました。
2B 夢の中の命令 ―天から来られた方―
1C 神からの使者 (霊的存在からの確証)
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
マリヤ本人に対しても聖霊による懐胎について、天使からお告げを受けていましたが、ヨセフも同じように受けました。サムエル記第二7章には、「わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。」とありました。ダビデの子のみならず、神ご自身の子であることも含まれていました。
そしてこのことは、イエス様には初めから罪がなかったことを証明するものとなります。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ5:12)」人から生まれれば、その人はアダムからの罪の性質を受け継いでいます。ですから、イエス様は生まれながらにして、そのうちに罪を宿しておられませんでした。肉体は私たちとまったく同じものを身にまとっておられ、肉体にある弱さは担っておられましたが、罪を持っていなかったし、罪を犯すことはありませんでした。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル4:15)」これが、イエス様が処女からお生まれになったということの重要性です。
そして次に、生まれてくる男の子に「イエスと名づけなさい」と天使は命令しています。イエスというのはギリシヤ語で、そのヘブル語にあたる言葉は「ヤホシュア」です。「ヨシュア」がその短縮形です。エホバ・シュアという意味になります。これを訳すと、「ヤハウェは救い」つまり「主が救い」という意味なのです。ですから、天使が、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と言ったのは、実は、ヘブル語の言葉遊びをしています。
2C 聖書の預言の成就 (永遠の方からの確証)
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
これはイザヤ書7章14節にある預言です。メシヤは処女から生まれることが預言されていました。そしてこの方の名は「インマヌエル」ですが、訳すと「神は私たちとともにおられる」です。つまりこの方ご自身が神なのだ、ということです。イエス・キリストは、神のひとり子であり、神から使わされた救い主だけであるだけではなく、神ご自身です。
したがって神は、ご自分が人間の姿をとられることによって、私たちが神を知るようになることを願われています。神がどれほど人間に心をかけてくださっているかを人間が知るためには、神ご自身が人間になられることは必要だったのです。もし私たちが蟻のことが大好きで、蟻に自分が蟻を好きであることを知らせようとしましょう。食べ物を与えたり、指を蟻に持っていったり、いろいろな努力をしたあと、みなさんはこう思うでしょう。「もし自分が蟻になっていれば、伝えられるのに。」と。
3B 従順な応答
1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。
ヨセフは、天使が告げた神の命令を、一つも残さず守りました。このヨセフの神に対する従順があってこそ、イエスが神から来られた方としてこの世に現れることが可能になったのです。例えば、もしヨセフが、結婚してからすぐにマリヤと性的関係を持ったとしたら、生まれてくるイエスはヨセフの子どもという疑いが出て、イエスが神の御子であること、救い主であることの証しをする事ができなくなります。かつてアブラハムの妻サラが、異邦人の王のところに入りそうになったときに、神がそれを阻まれましたが、同じ危険があったのです。それをヨセフは避けました。
私たちも同じです。私たちが神の命令に従うときに、イエス・キリストがどのような方であるのかを人々に示すことが出来ます。もし、私たちが自分たちの理解に頼って、神に命じられたことを怠るなら、人々は私たちのことを思い出しますが、イエス・キリストの事は何もわからなくなるでしょう。私たちが神に用いられると言う事は、これほど重大な責任を負っているのです。こうして、ヨセフが神の命令に従順に従ったがゆえに、キリストは神から来られた方として、また、人となられた神として世に証しすることが出来たのです。