マタイによる福音書20章 「惜しみなく与える王」


アウトライン

1A 報いて与える王 1−16
   1B 雇用(召し)  1−7
   2B 賃金(賜物) 8−10
   3B 約束(恵み)  11−16
2A 仕えて与える王 17−28
   1B 十字架と復活  17−19
   2B 父のしもベ 20−24
   3B 購いのいのち 25−28
3A あわれんで与える王 29−34
   1B 盲人の叫び 29−31
   2B いやし  32−34

本文

 
マタイによる福音書20章をお開き<ださい。ここでのテーマは、「惜しみなく与える王」です。私たちは前回、金持ちの青年について学びました。彼は、自分の持ち物を捨てることができなかったので、イエスについて行くことはできませんでした。しかし、イエスの弟子たちは、自分のものを捨ててイエスに従っていました。そこでペテロは、こう言っています。「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってきました。私たちは、何がいただけるのでしょうか。(19:27)」イエスは、彼らがイスラ工ルの部族をさばく地位につくことと、報いを幾倍も受け、永遠のいのちを受け継ぐことを話されました。ただ、イエスは、「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。(19:30)」と付け加えられています。イエスは、このことをたとえを用いて説明されますが、私たちが今から読むのは、そのたとえです。

1A 報いて与える王 1−16
 1節から16節までがそのたとえですが、全てを読んでみます。天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。彼は、労務者たちと一日1デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。それから、9時ごろ出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。」彼らは出て行った。それからまた、12時ごろと3時ごろに出かけて行って、同じようにした。

 また、5時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。「なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。」彼らは言った。「だれも雇ってくれないからです。」彼は言った。「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。」こうして夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。「労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。」そこで、5時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ1デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らはやはりひとリ1デナリずつであった。そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」

 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。「私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と1デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法はありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。

 みなさんは、このたとえを一読して、とのような感想を持つでしょうか。私は、やはり不公平だと思いました。朝早く働いた人と夕方5時から働いた人の賃金が同じであり、しかも、最後に来た者から賃金が支払われているからです。けれども、このたとえを理解するための鍵は、一番最初に出てくる言葉です。「天の御国」ですね。私たちの側、つまり地上の国からこのたとえを読むと、実に不公平な取扱いであります。しかし、天の御国、つまり、神の側からこのたとえを読むと、神のみこころ、つまり神の考えておられることが実によく分かります。このたとえでは、ぶとう園の主人は神を表しています。そして、労務者は私たち人間です。私たちが、神のために働く者たちとして描かれています。

1B 雇用(召し)  1−7
 1節から7節までには主人が労務者を雇っている部分が出てきます。彼は、一日のうちに何回も人々を雇っています。朝早くと、午前9時、正午、3時、そして、5時です。そして、終業時間が6時でした。この主人は、ずいぶん割に合わない雇用の仕方をしています。日雇い労働なのですから、朝から晩までみっちり働く人を最初から雇わなければ損をします。けれども、彼はひっきりなしに人々を雇い、しかも終業1時間前にも出て行っています。実は、彼は自分の利益のために雇っているのではありません。人々を雇いたいと思って出て行っているのです。あるいは、人々に賃金を払いたいと思って出て行っています。

 
実はここで、神が私たちを救いに召しておられる姿が現われています。神は、何とかしてひとりでも多く、罪から救われて神の国の一員になってほしいと願われているのです。そのために、何回も何回も福音を聞く機会を与えられました。したがって、雇われる時刻は、私たちが救われる時期ということができます。あるいは、イエスが再び来られるまでの、福音を聞くことができる時代と言うことができます。救われる時期で考えるならば、朝早く雇われる労務者は、いわば、小学生の時にイエスを救い主として受け入れている人です。そして、5時に雇われている人は、老年になってイエスを王と告白した人と言えるでしよう。この時刻をイエスが再び来られるまでの時代と考えるなら、5時に雇われる人は、イエスが再臨される直前に救われる人たちです。いずれにしても、神は、何とかしてひとりでも救われることを願っているのです。それが、終業の時刻になるまで、何回も市場に出て人々を雇う主人の姿に現われています。

 7節をご覧ください。5時に市場にぶらついていた人は、ぶとう園の三人にこう言っています。「だれも雇ってくれないからです。」

 だれも、夕方5時になるまで彼らを雇ってくれませんでした。この主人の頭には、彼らをどれだけ使うことができるか、というものはありません。だれにも雇われなくて、ひもじい思いをしていたのだろう、とかわいそうに思っていたのです。これが、老年になって信じる人のたとえならぱ、これは、老年になるまで福音を聞く機会がなかった人たちのことです。それまでは、希望もなく、さまよいながらの人生を送っていました。神なしの人生はとても辛いものです。このように、5時に雇われた人は、だれも雇う人がいない、とてもかわいそうな人たちであると、この主人は考えたのです。

2B 賃金(賜物) 8−10
 このことを念頭におけば、なぜ主人が最後に来た人に最初に賃金を与えたのかを理解できます。8節から10節までに、主人が賃金を払う部分が出てきます。主人は、雇われていなかったのに雇われた5時からの労務者を見て、喜びもひとしおです。「ほんとうに良かった。あなたはずっと雇われていなかったので、辛かったろう。でも、最後に雇われたのだ。さあ、給料を与えよう。」というような気持ちになっています。そのために、最後に来た者に先に賃金を支払いました。この喜びを、イエスは、他のところで、失われた羊を見つける羊飼いにたとえています。マタイの18章12節です。「あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を残して、迷った一匹を探しに出ないでしょうか。そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。ですから、主人はこの時点で、最初に雇われた人以上に、最後に雇われた人を喜んでいます。それで、最初に賃金を与えているのです。

 そして、賃金はすべてのものに1デナリずつでした。朝早くから働いた者も1デナリでした。この世のものさしでは、あまりにも不公平です。しかし、この主人は、この賃金を働いたことに対する報酬として払っていません。むしろ、プレゼントのように彼らに払っています。この主人は、もともと利益を得るような動き方をしていないからです。実は、この賃金は、永遠のいのちのプレゼント、つまり賜物です。使徒パウロは言いました。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)」神は、幼年の時に人を救っても、老年の時に人を救っても、等しく永遠のいのちを与えられます。主人は、みなに等しく賃金を払いました。

3B 約束(恵み)  11−16
 そして、最初から働いた者が文句を言いますが、この時点で、なせ彼らが誤っているのかを知ることができます。11節から15節までは、賃金の約束事についてですが、彼らは一日1デナリもらうという約束を忘れていました。

 彼らは、ぶとう園で働いたことを苦痛に思っていました。「一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」と言っています。けれども、雇われていなかったのに働くことができたのですから、それはむしろ喜びだったはずです。確かに労苦があり、暑さもあったのでしょう。しかし、働けなかったのに働けたその恵みを、彼らは忘れていたのです。

 これは、主によって救われて、主のために働いている私たちが、それを喜びとせずに苦痛に思ってしまう姿です。イエスはペテロに、「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。(ルカ18:29、30)」と言われましたが、この世における数倍もの報いとは何でしょうか。お金持ちになることでしょうか。違いますね。これは、主のために働けるという報いです。主が、この弱くて愚かな私をとおしてでも働かれて、主のみわざを見させていただくのは、大きな喜びのはずです。けれども、私たちは、この恵みの中にいると、いつの間にか恵みの大切さを忘れてしまいます。神なしには、自分がいかにみじめであるか、希望がないかを忘れてしまいます。そこで、主のために働けるという、喜びではなくて、クリスチャンになってから経験した苦しみだけを思い出してしまうのです。

 彼らの文句に対する主人の答えは、とても興味深いです。ます彼らに、1デナリの約束をしたことを思い出させています。自分の分をとればよいのであって、私が他の人に与える分をねたむな、と言っています。これは、天における報いが、他のクリスチャンと自分を比べるようなものではないことです。私たちが天国に入ったら、だれがー番いい地位についていて、だれが低い地位についているか比べ合いをすることはありません。天国に入ったら、ただ神と主イエス・キリストの栄光が満ちているだけです。神が、キリストにあって私たちにくださる報いは、ひとりひとりに対するものであって、お互いに比べることはできないものです。天国に備差値はありません。そして、主人は、自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法はあるのか、と聞いています。これは神の主権ですね。神はご自分のあわれむ者をあわれみ、ご自分のいつくしむ者をいつくしまれます(ローマ9:12参照)。

 そして最後に、主人は、私は気前がいいと言っています。この主人は、なぜ気前よくすることができたのでしょうか。お金がたくさんあったからです。富んでいたから、1時間しか働かない者にも1デナリを与えることができたのです。私たちの神は、栄光の富に満ちたお方です。パウロは、「私の神は、キリスト・イエスにある栄光の富をもって、あなたがたの全ての必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19)」と言いましたが、神は私たちから何かを得ようとする貧しい方ではありません。与えても、与えても、けっして乏しくなることのない、ものすごく富んだ方なのです。ですから、たった1時間しか働かなかった者にも、かわいそうに思って同じ1デナリを与えたのでした。

 これで、このたとえの意義をおわかりになったでしょうか。人間の側から見れば、実に不公平な取り扱いですが、神の側から見れば実に理にかなったことなのです。このように、神は、惜しみなく報いを与えて下さる方として紹介されています。

2A 仕えて与える王 17−28
 次に与えるとは、人々に仕えることによって可能になることを読んでいきます。

1B 十字架と復活  17−19
 さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、12弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は3日目によみがえります。」

 イエスは、弟子たちに十字架と復活の出来事を明確に伝えました。たとえも用いずに、だれでも理解できるようにはっきりと話されています。そして、これで3度目です。弟子たちが、自分たちの主に起こることの心の準備をしてほしかったのでした。

2B 父のしもベ 20−24
 しかし、この前学びましたように、キリストが十字架につけられるとは、自分たちのキリスト観とはあまりにもかけ離れていたので、心の準備ところか、頭の中で処理できなかったのです。そこで、次のような出来事が起こります。

 そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしよにイエスのみもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエス彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとリは左にすわれるようにおことばをください。」

 ゼベダイの子とは、ヨハネとヤコブですね。その母が、息子たちをイエスの右大臣と左大臣にしてほしいと申し出ています。昔にも、マザコンは存在していたようですね。それはともかく、イエスが十字架と復活の話をした直後に、彼らは、自分たちがどのような高い地位に着くことができるのかに興味を持っていました。イエスがエルサレムに向かうことを話されればそれだけ、彼らは、政治的なメシヤ王国が再建されることを夢見たのです。ですから、弟子たちは以前にも、「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」と聞き、また、ペテロは、「私たちは、何かいただけるのでしょうか。」と聞きました。イエスと弟子たちの心がしだいにすれ違っています。

 けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。

 
ここの杯は、むろん十字架における苦しみを指します。

 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。」

 確かに、ヤコブは後にへロデの手によって殉教し、ヨハネはパトモス島というところで幽閉されます。

 しかし、わたしの右と左にわることは、このわたしが許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」

 ここでは、イエスが父の権威にゆだねられているのを見ることができます。イエスは地上にいる間はずっと、父なる神のしもべとして神に仕えておられました。ここから、面白いことがわかります。先ほどの主人と労務者のたとえでは、父なる神が人々に惜しみなく与える方として紹介されていました。イエス・キリストは、この父のみこころに従うために、ひたすら人々に与える生き方をしていたのです。そして、ご自分のいのちさえも与えられたのです。それは、あくまでも父なる神に仕える  ためだったのです。

3B  購いのいのち 25−28
 そこで、次を読みましょう。このことを聞いたほかの十人は、この兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。 「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたい者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、購いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

 
ここでも、イエスが、ご自分のいのちを与えるまで、仕えておられたことがわかります。そして、ここの箇所は、イエスが父なる神に仕えられたように、あなたがたはキリストに仕えなさいという命令です。ここに、「異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。」とありますが、私たちのお互いの関係の中で、自分の思っているようになってほしい、自分の必要が相手から満たされたい、という思いでいるならぱ、この異邦人の支配者と同じです。けれども、私たちが人々に仕えるとき、決まってそうした気持ちが出てきます。すると、人々に仕えたり、親切にしているつもりなのが、いつの間にかその人から何かをもらいたいと願ってしまうのです。そして、それはまさに、人々を支配したいという気持ちなのです。

 私たちがアメリカにいるとき、2、30年そこに住んでいる、クリスチャンの夫婦と仲良くなっていました。彼らから面白いことを聞いたのですが、彼らは娘を高校に車で連れていくとき、近くにいる友達も乗せて学校に行きました。アメリカ、特にカリフオルニアでは、高校に行くにも車以外の交通機関がないので、たいていは親が車で送り迎えします。そして、その親たちはそのことをありがたがっていました。しかし、自分が娘を車で連れていくことができないとき、その親たちは彼女を連れていくことをせずに、自分の子どもだけを乗せて学校に行くのです。最初は、そのことが理解できなかったようなのですが、今は、アメリカ生活も長いので慣れているようです。私がその話を聞いたとき、アメリカ人は何と薄情な人たちであるのかと思いました。けれども、「自分がこれだけ親切にしているのだから、おそらくは相手も親切にしてくれるであろう。」と、自分が期待していることがそもそも間違っていることに気づきます。これは、日本人の心の中に深くしみついている義理人情なんですね。もちろん、アメリカ人でも他の国の人でも人々から見返りを期待するのですが、日本人の場合は、その見返りを親切という名のもので期待しているのに特徴があります。

 このように、私たちが人々に仕えるとき、どうしても見返りを期待します。それから解放される方法は、一つだけあります。キリストに仕えることです。私たちがキリストを自分の主とし、キリストに仕えているのであれば、惜しみなく、人々を愛し、人々lこ仕え、人々に与えることができます。なぜなら、キリストが父なる神に仕えたからであり、父なる神は惜しみなく与える方だからです。パウロやペテロが書いた手紙で、人間関係の語られている部分を読んでください。例えば、「キリストが教会を愛されたように、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。(エペソ5:25)」とパウロは言いました。ペテロは、「人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。(1ペテロ2:13)」と言っています。いずれも、キリストが基準となっています。私たちが人々に仕えるとき、人々に親切にするとき、人々に何か必要としているものを与えようとするとき、どうか、一歩下がってキリストを自分の前に置いていてください。人々と直接結びつこうとせずに、必ずキリストを中に挟んで結びついてください。その時にはじめて、兄弟姉妹が互いに謙遜になり、互いに仕え合うことができるのです。

3A あわれんで与える王 29−34
 このように、イエスは、父なる神に仕えることによって人々に与えられました。次に、イエスのこの姿勢が、実にはっきりと現われている部分を読みます。

1B 盲人の叫び 29−31
 彼らが工リコに出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。タピデの子よ。」そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。タビデの子よ。」と叫び立てた。

 ここに、盲人が「イエスが通られると聞いて」となっていることに注目してください。大ぜいの群衆たちはイエスについて行っていましたが、彼らはイエスが通っていること自体を知りませんでした。 他の大ぜいの人は、イエスのところに行くことができましたが、盲人たちはできませんでした。したがって、彼らは、この時点で、イエス・キリストの福音を知る機会が初めて与えられたのです。だから彼らは必死です。「主よ。タビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫び立てました。この盲人は、5時に最後に主人に声をかけられた人々であります。「だれも雇ってくれないからです。」とその人々は言いましたが、ずっと神の福音を聞くことができなかったのです。

2B いやし  32−34
 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

 群衆はふたりの盲人をたしなめたのに、イエスは立ち止まられました。そして、彼らをかわいそうに思い、いやしを与えられたのです。ぶどう園の主人は5時に雇われた人々をかわいそうに思いました。それは、ずっと雇われていなく、さみしく、辛い思いをしていたことを知っていたからでした。ここでもイエスは、ずっとご自分にふれることのなかった彼らをかわいそうに思い、彼らの目にさわり、いやしを与えられたのです。そして最後に、彼らが「イエスについて行った。」とあります。彼らは、タビデの子、メシヤ、キリストにつき従いたかったのです。しかし、目が見えなくて、その機会を逸していたのです。従いたいのに従えなかった、福音を信じたかったのに、信じる機会がなかった人々に、イエスは深いあわれみを示されています。つまり、イエスは、ご自分の父のみこころをくまなく人々に示されたのです。

 こうして、私たちは、惜しみなく与える神の姿と、この父なる神に仕えることによって惜しみなく与えるキリストの姿を見ることができました。キリストは神ご自身であられましたが、私たちに模範を残すために神のしもべの姿を取られました。私たちはキリストのしもべです。キリストに仕える者たちです。キリストが、父なる神に仕えることによって惜しみなく与えられたように、私たちは、キリストに仕えることによって惜しみなく与えることができます。ですから、大事なのは、自分のキリストを主としてあがめる生活をすることです。生活の中にあるあらゆる関係の中で、キリストを最も大事な方とするとき、あふれるばかりの神の富が、私たちをとおして流れるようになります。パウロは、こう言いました。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)」


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