マタイによる福音書23章 「愛のさばき」
アウトライン
1A イエスの警告 (群衆と弟子たちに対して) 1−12
1B 実行しない者 1−4
2B 見えをはる者 5−7
3B 高ぶる者 8−12
2A イエスの嘆き (律法学者とパリサイ人に対して) 13−36
1B 経過 13−28
1C ほかの福音 13−15
2C 行ないによる義 16−22
3C 奴隷 23−24
4C 肉の誇り 25−28
2B 結果 - 迫害と殺人 29−36
3A イエスの断罪 (エルサレムに対して) 37−39
本文
マタイによる福音書23章をお開きください。ここでの主題は、「愛のさばき」です。前回私たちは、宗教指導者たちがイエスを、ことばのわなにかけようとしている部分を読みました。ところが、イエスはことごとく彼らの質問に答えられ、最後はイエスの方がパリサイ人に質問をしました。彼らは答えることができませんでしたが、そこで23章に入ります。
1A イエスの警告 (群衆と弟子たちに対して) 1−12
そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、こう言われた。
「そのとき」とは、イエスがパリサイ人に質問をされて、彼らが答えられなかったときのことです。今からイエスは、群衆と弟子たちにパリサイ人の過ちについて話し始められますが、それは、彼らの面前で行われているのです。彼らの堪忍袋の緒ガ何本も切れるのを知りながら、イエスは彼らの過ちに陥らないように、群衆と弟子たちに話されます。
1B 実行しない者 1−4
律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが実行しないからです。
イエスが第一番目に指摘された彼らの過ちは、神の掟を教えながら、実行していなかったことです。「モーセの座」とは、神の掟を人々に教える立場にあることを示しています。私のように、聖書を教える働きをしているような者には、このイエスのみことばが特に当てはまります。教えていながら実行しないことがないように、十分に注意しなければいけません。ただ、キリストを信じる者すべてにも、このみことばは当てはまります。ヤコブは、「信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは死んだものです。(2:17)」と言いました。信仰とは、単に聖書の教えを信じていることではありません。信仰とは、生きた父なる神への深い信頼です。または、御子キリストに対する深い愛です。したがって、神とキリストの命令を聞くとき、そこには自ずと従順が生まれます。神を愛しているので、進んでその戒めを守りたいと願うのです。したがって、行ないが信仰の結果として現われます。言うだけで行なわないのは、本当の信仰ではありません。
また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に乗せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。
ここでは、彼らが、自分たちの教えていることを他人には当てはめるが、自分には当てはめていないことを示しています。私たちが聖書を読むときに、つねに気をつけなければならないことはこれです。何か自分にとって新しいことが分かったとき、私たちはそれを他人に当てはめて、他人を変えようとします。それは、重い荷を人に負わせて、自分は指一本ふれないことをしているのです。神がそのことを自分に示されたのは、まず自分自身が変わらなければいけないからです。自分自身の問題として受け止めることができる人がはじめて、他人に神の真理を分かち合うことができます。
2B 見えをはる者 5−7
彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。また、宴会の上席や会堂の上席が大好きで、広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれるのがすきです。
イエスが第二番目に指摘された彼らの過ちは、人に見せびらかすことを好んだことです。人から注目されたり、人から認められることを求めました。私たちは、イエスが、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。(6:1)」と言われたのを学びました。私たちがキリストに仕えていく中で、人々に良い行ないをします。それは、人々がその行ないを見て、神がほめたたえられるためなのですが、いつのまにか自分がほめたたえられるために行なっていることがよくあるのです。けれどもそれは、悪魔の罠です。私たちは自分のしていることが、神を喜ばせるためにやっているのか、それとも自分を喜ばせるために行なっているのか、その心の動機を吟味する必要があります。
3B 高ぶる者 8−12
しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。
パリサイ人、律法学者の三番目の過ちは、高ぶりでした。なぜなら、先生、父、師とは、自分を高ぶらせるような呼び名だからです。しかし、この「先生」「父」「師」という呼び名は、残念ながら現在の教会の中で頼繁に使われています。先生と師はプロテスタント教会の中で、父はカトリックで使われています。 しかし、私たちがこのイエスのみことばを真剣に受け止めるなら、そのいずれをも用いるべきではありません。
「先生」という呼び名の中には、神のみことばを教える者が他の信者よりも神に近しい関係にあるような意味を含ませます。それで、その者と他の信者たちの間には自に見えない隔たりが出来ていて、先生は神によりささげている特別な人で、他の信徒はあまりささげていないという印象を持たせます。 しかし、そんなことでは絶対にないのです。イエスは、「あなたがたはみな兄弟だからです。」と言われました。だれかが他の人よりも神から重要視されているようなことは決してなく、だれかが神により近づいているようなことは決してないのです。キリストにあって私たちは一つであり、キリストの十字架によって隔ての壁はみな壊されました。キリストと人との間に、どのような仲介者をも置いてはいけません。
それでは、先生と呼ばないことで、問題は解決するのでしょうか。いや、そうではありません。私たちは、求道者レベルと信者レベルに分けます。また、信者があたかも不信者よりも優れているという態度を持ちがちです。これらの問題はみな、賜物とその人の品性を混同しているところから来ます。信者と不信者が異なるのは、永遠のいのちという賜物を得ているか、そうでないかの違いです。信者と求道者の違いは、信仰の賜物が与えられているか、そうでないかの違いです。牧師教師と他の信者の違いは、教える賜物を神から与えられているかそうでないかの違いです。賜物ですから、その人の品性とか行ないによって得たものではありません。あくまでも神の恵みなのです。使徒たちは、そのことをよく心得ていました。使徒には、そのことばがそのまま神のみことばになるような権威が神から与えられていました。牧師の権威どころではありません。しかし、使徒ヨハネは、自分を他の信者と同じレベルに書いています。「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者である。」と言いました(黙示1:9)。使徒パウロは、自分を求道者と同じレベルに置いています。「私はすでに得たのでもなく、すでに完成されているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。(ピリピ3:12)」と言って、自分を不信者と同じレベルに置いているのです。したがって先生と呼ばれるような人はこの世には存在せず、ただキリストだけが私たちの先生です。
そして、「父」という呼び名は、先生よりもさらに悪いです。なぜなら、先生は神と人との仲介者のような位置に置きますが、父は神ご自身と同じ立場におくからです。霊的ないのちを与えることができるのが父であります。ですから、天にいます神のみが父と呼ばれるにふさわしい方です。
さらに、「師」という呼び名も人につけるにはふさわしくありません。牧師、伝道師、○×さん」ならず「○×師」と呼ばれますが、それには一つの特権を暗に意味しています。しかし、例えば牧師、いや聖書的には牧者ですが彼は他の兄弟を神のみことばによって養う働きに任じられて、教える賜物を与えられている者であり、彼も兄弟なのです。師はキリストのみです。そうした呼ばれ方の背後にある根本的な問題を、イエスは次に話されています。
あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
教役者を英語ではministerと訳されますがministerの意味は「奉仕者」です。つまり、人々に仕える者であり、人々から仕えられる者ではありません。奉仕者は、カバンを持ってもらう方ではなく、逆にカバンを持つ方なのです。牧会の働きは神のみこころです。私たちはみな、みことばを教える賜物を尊重しなければなりません。その賜物がなければ、キリスト者として成長することは不可能だからです。しかし、牧者が人々に仕えられるようになると問題です。それは高ぶりの現われだからです。イエスは、この高ぶりに気をつけなさいと群衆と弟子たちに注意されました。
2A イエスの嘆き (律法学者とパリサイ人に対して) 13−36
イエスは次に、律法学者とパリサイ人たちに直接語り始めます。イエスは「忌まわしい者だ。偽善者の律法学者、パリサイ人たち。」という言葉を、8回くり返されています。
「忌まわしい」という日本語は嫌悪感を表していますね。けれども、原語のギリシャ語はそうではありません。怒りと悲しみが混じり合った言葉です。だから、「嘆かわしいことよ。」と訳したほうがよさそうです。イエスは、彼らを愛しているがゆえに、激しい痛みと悲しみをもってさばきを宣告しました。そして、イエスの怒りは、「偽善」という言葉に現われています。偽善は、俳優に使われていました。つまり演技です。彼らのしていたことはみな演技であったことに、イエスは怒りをおぼえられたのです。
1B 経過 13−28
それでは、彼らに神のさばきが下るまでの経緯を見てみましょう。
1C ほかの福音 13−15
イエスは、「しかし、忌まわしい者だ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、入ろうとしている人々をもはいらせないのです。
これを、ほかの福音、あるいは、偽りの福音と呼んでもよいでしょう。イエスのみことばは、人々を天の御国に導き入れるよい知らせ、つまり福音でした。しかし、彼らのことばは、人々を天の御国に導くことを約束しながら、実は地獄に陥れるような偽りの福音だったのです。今のことばを使うと異端がそれに当てはまるでしょう。彼らは、羊の皮をかぶった狼であり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者です。
忌まわしい者だ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見えのために長い祈りをするからです。ですから、あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしながら、見えのために長い祈りをするからです。ですから、あなたがたは、人一倍ひどい罰を受けます。
私たちが異端のことを話すとき、工ホバの証人とか統一協会とか組織的な異端を考えますが、それだけではありません。やもめのように、明日のための食が保証されていない立場の人を、食い物にするような実際的な異端もあります。必要以上に献金を要求したり、与えられた信仰以上の奉仕を要求したりして、実は、自分の名声や財産が与えられることが目的になっています。その者も、組織的な異端と同様に、人一倍ひどい罰を受けるのです。
忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするからです。
ここの「改宗者」とは、ユダヤ教に改宗した異邦人のことです。ユダヤ人のための宗教なのにその教えに献身するのですから、とても熱心な信者になったことがわかります。イエスはそのことを、「自分よりも倍も悪いゲヘナの子にするからです。」と言われました。家々を訪問し、街頭に立っている工ホバの証人の方々はそれに当てはまるでしょう。彼らは、実に熱心な信者さんたちです。そして、とても純粋な人たちです。しかし、工ホバの証人の指導者たちの悪巧みによって、天国とは正反対の方向に一心に走っているのです。だから、イエスはその指導者たちを、忌まわしいものだと呼ばれました。
2C 行ないによる義 16−22
こうして、彼らは偽りの福音を教えていたことがわかりますが、その内容はどういうものなのでしようか。それが次に書かれています。
忌まわしいものだ。目の見えぬ手引きども。あなたがたはこう言う。「だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神段の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。愚かで、目の見えぬ人たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。また、こう言う。「だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。」 目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。
神殿は、神が住まわれるところです。そして、祭壇は、その神と人が交わることができるように、供え物をするところです。ですから、神殿に誓うとか、祭壇に誓うとは、私たちが神との交わりの中に入っていくことを意味します。私たちに人間関係があるように、神と私たちには関係があります。 その関係を持つための入口が祭壇であり、その深い交わりは神殿の中で行われます。しかし、パリサイ人と律法学者は、神殿への誓いはたいしたものではなく、神殿の黄金に対する誓いが大事であると言いました。また、祭壇への誓いはたいしたものではなく、祭壇への供え物が大切であると言いました。黄金も供え物も人間が神に対してした行為ですが、人間の行ないのほうが、神ご自身との関係よりも大切であると言っているわけです。
したがって、彼らの福音は、行ないによる正しさでした。キリストの福音は、神の恵みに応答する信仰による正しさでした。今日の宗教や異端はすべて、人の行ないによって救われると教えます。しかし、キリスト教会のなかにも、その教えが入り込んでいます。例えば、ヒューマニズム、つまり人間中心主義があります。私たちのうちには良いものがあって、キリストの教えは、私たちの行ないによって守ることができるというものです。心理学、積極的思考、「自分を愛しなさい。」という教えなどが現在の教会の中にはやっていますが、みな、私たちに何か良いものがあることを前提にしています。しかし、それなら、キリストの十字架における死はまったく意味がなくなってしまいます。
もし、私たちのうちに善というものが少しでもあるなら、キリストは十字架につけられる必要はなかったのです。また、形式主義があります。礼拝に出席すること、什一献金をささげること、奉仕をすることそのものが、神との関係よりも大事になっています。表面的には神との関係が大切であると言いますが、実際は、そうした儀式や世の慣習に従っているのです。しかし、それは、神殿の黄金に誓わせること、祭壇の供え物に誓わせることと同じなのです。
ですから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上の物をもさして誓っているのです。また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。
祭壇に誓えば供え物にも誓っており、神殿に誓えば、神殿だけでなく神にも誓っており、天に誓えば、天だけでなく神にも誓っています。これを言い換えますと、私たちが、自分と神との関係をもっとも大切にするとき、つまり、信仰によって歩むとき、結果として行ないの実を結ぶことを表しています。私たちが生きた神との交わりを願うとき、自ずと礼拝に参加します。私たちがキリストの愛にふれたとき、自ずと他の人にキリストを伝えます。すべての良い行ないは、神とキリストとの関係の中から生まれるのです。イエスは言われました。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。(ヨハネ15:5)」 キリストにとどまることを最大の関心事とするときに、多くの実を結びます。
3C 奴隷 23−24
こうして、偽りの福音が行ないによる正しさ、行ないによる義であることが分かりました。それでは、行ないによる義を追求した結果、どのようになるかを見てみましょう。
忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。
律法の中には、収穫の十分の一を神に納めることが書かれていますが(レピ27:30)、彼らは自分の家にある、はっかなどの香辛料の十分の一を測ってそれをささげていたのです。つまり、彼らは、一つ一つの細かい規則やきまりの奴隷となっていたのです。そのために、正義やあわれみや誠実などの大事な律法を忘れています。工ホバの証人の輸血禁止などは、その典型的な例です。 動物の血を食べてはならないという律法を誇大解釈して、人の血を自分のからだに入れることを禁じて、多くの尊いいのちが失われています。このように、私たちが行ないによって正しい者になろうとすると、自分たちを規則の奴隷にしていきます。
目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよはこして除くが、らくだはのみこんでいます。
このことばは、英語では、「大事を見過ごして、小事にこだわる。」ということわざにもなっています。同じく動物の血を食べてはならないという律法から、彼らはぶどう酒を飲むとき、ぶよをこして除きました。ぶよが動物の血を吸っているかもしれないからです。 しかし、当時その地域で一番大きい動物であったらくだを飲み込んでいる、つまり大量の血を食べています。
4C 肉の誇り 25−28
行ないによる義を教える偽りの福音は、人を奴隷と化すだけでなく、自分たちの肉を誇らせます。
忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。忌まわしいものだ。偽善の律法学者。パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓は外側が美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいように見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。
彼らの問題は、人に良く見られたいという虚栄心と、人を恐れる心でした。そのために、外側をきよくすること専念していましたが、心の態度をきよめることには手を出していなかったのです。これは、私たちの肉が持っている根本的な問題です。私たちは無意義のうちに、他人が自分をどう思っているか、どう見ているかによって自分の行動を決めますが、その心の状態は非常に自己中心的です。けれども、多くの場合、そうしたものが文化の中で美徳と考えられています。白い墓のように見えます。私たちは世間体を気にしたり、義理で動いたり、多数派の意見に自分を合わせたりしますが、それが自己中心と受け止められずに、親切であるとか、協調性があるとかと言われるのです。
私はかつて、クリスチャンであることは両親に反抗しているのではないか、と思いました。いつも親に従う自分が理想の姿であると考えたからです。しかし、それは、親を大切にしているのではなく、自分が良い子に見られたいという肉の思いであることが後に分かりました。その思いから解放されるには、キリストの十字架を見つめることです。自分の肉がキリストとともに十字架につけられたことを信じなければなりません。それによって初めて、他人を気にする生活から他人を愛する生き方に変わっていくのです。つまり、内側をきよめれば、外側をきよめることになります。
2B 結果 - 迫害と殺人 29−36
そして、偽りの福音の最終的な結果を見たいと思います。それは、真に正しい者に対する迫害と殺人です。
忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、「私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。」と言います。こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。あなたがたも先祖の罪の目盛りの不足分を満たしなさい。
彼らは、完全に自分たちを欺いていました。先祖はかつて、このようなひどいことを行なったが、私たちはそのようなことはしないと考えたのです。先祖の罪を他人事のようにして考え、非難したのでした。しかし、そのような態度になっている時こそ、もっとも危険です。パウ□は、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(1コリント10:12)」 と言っています。
おまえたち蛇ども。まむしのすえども。おまえたちは、ゲへナの刑罰をどうしてのがれることができよう。
これは、明白なさばきの宣告です。
だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。
これは、使徒の働きにおいて文字通り起こっています。
それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたパラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。
彼らは、真に正しい者たちへの迫害と殺人に明け暮れました。これは、宗教と福音との戦いであります。宗教は、自分が正しくなるようになりなさいと教えます。しかし、福音は自分が誤っていることを認めなさい、と教えます。 私たちがみことばを聞くとき、御霊が働かれて、自分の肉の部分が明らかにされますが、それが罪意義を感じている部分ならば問題はありません。なぜなら、私たちの心に悲しみが起こるからです。イエスは、「悲しむ者は幸いです。その人はなぐさめられるからです。」と言われました。しかし、含まで正しいと固く信じていたことが、急に肉であることを発見すると大変です。発見したときに、ペテロが目が見えず、ものが言えなくなったように放心状態になればよいのですが、さもなければ、私たちは迫害者となります。偽りの福音、つまり宗教は真っ向から福音と対立して、福音を信じる者に迫害を与えるのです。
3A イエスの断罪 (エルサレムに対して) 37−39
ここで、律法学者とパリサイ人へのイエスの嘆きは終わります。最後にイエスは、エルサレムの町に対して神のさばきを宣告されます。
ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんとりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
エルサレムは神の都です。そこには、イスラ工ルの多くの指導者が代々住んできました。しかし、彼らは神の預言者を次々に殺し、最後にキリストご自身を殺します。そのことへの神の怒りをイエスは宣告されますが、その怒りには愛がありました。神は、めんどりがひなを翼の下に集めるように、彼らを何度も何度もご自分のもとへ集めようとされたのです。エルサレムがさばかれることに最も痛みをおぼえたのはユダヤ人よりも神ご自身だったのでしよう。神の愛する民が、罰を受けなければならなかったからです。
あなたがたに告げます。「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。
この言葉は、イエスがエルサレムに入られるとき、群衆が叫んだ言葉であり、イエスがメシヤであることを認める言葉です。ユダヤ人の指導者たちがそれを叫ぶときまで、彼らはイエスを決して見ることができません。これは、キリストが再び来られる直前に、彼らが大患難の中から叫ぶ言葉になります。そのとき、彼らはイエスを初めてキリストとして認めるのです。
こうして、エルサレムはキリストを拒みました。そのため、エルサレムが神にさばかれます。次回からは、そのさばきが取り除けられる時のこと、つまり終わりの時のことを学びます。その多くは、私たちにとっても先のことです。
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