マタイによる福音書24章36節−25章13節 「目をさましていなさい」

アウトライン

1A ノアの日  36−44
   1B ノアの箱舟  37−42
   2B 家の主人 43−44
2A 食事を与えるしもベ  45−47
   1B 忠実な思慮のあるしもベ  45−51
   2B 悪いしもベ 48−51
3A 十人の娘  1−13
   1B 油を持つ賢い娘 1−5
   2B 花婿の到来 6−10
   3B 油を持たない愚かな娘 11−13

本文

 それでは、マタイによる福音書24章をお開きください。今日は、24章の後半部分と25章の前半部分を学んでみたいと思います。ここでの主題は、「目をさましていなさい」です。私たちは前回イエスが弟子たちに、世の終わりとキリストが来られる前兆について話されているのを読みました。 イエスは、世界大戦とききんと地震によって終わりが始まり、その後ユダヤ人が迫害を受け、あわや絶滅しそうになるが天変地異をもってキリストが再び来られることを話されました。私たちは、2つの世界大戦を見て、さらにイスラ工ルが建国されたことによって、終末の時計が回り始めているのを知ることができます。

 そして、イエスは、これらすべてのことが起こらない限り、この時代は過ぎ去らない、と言われました。また、天地は滅び去るがご自分のことばは決して滅びることはないと言われています。目に見えるものは一時的です。いつかは滅んでしまいます。しかし、キリストの語られる目に見えない神の国は、永遠に竪く立ちます。ですから、私たちは、勢いをもって悪くなっているこの世に目を留めるのではなく、間もなく来ようとしている天の御国に思いをはせることが必要です。一時的なものではなく、いつまでも残るものに目を留めるべきであることを、前回で学びました。

1A ノアの日  36−44
 そして、24章36節で、イエスはこう話されています。 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

 弟子たちは、イエスに、「世の終わりや、あなたの来られるときはいったいどのような前兆が起こるのでしょうか。」と聞きました。そして、イエスはそれに答えられました。そこで弟子たちは、「すべてのことがまだ成就していないのだから、キリストはまだ来ないであろう。」と考えることはできたはずです。この世でいま起こっていることをキリストのみことばに照らし合わせれば、まだ、キリストが来られるまでには時間があるだろうと考えることができます。しかし、イエスはここで、「そのようには決して考えることはできません。」と言われているのです。私たちが、キリストはまだ来られないだろうと考えた時点で、日と時を設定してしまっています。今日やこの時には来ないであろうと考えるからです。しかし、イエスは、「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。」と言われました。

1B ノアの箱舟  37−42
 人の子が来るのは、ちようど、ノアの日のようだからです。洪水の前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとうりです。

 イエスは、ノアの日のときを用いて、ご自分が来られるときのことを話されています。ノアが箱丹を造りなさいと神から命じられたのは、洪水が超こる100年も前のことでした。彼とその家族が大きな箱舟を建設しはじめましたがその間大洪水が起こるような気配は何一つ見ることはできなかったのです。それは、洪水が起こる前日まで、いや、数時間前、数分前までもその前ぶれを見ることはできなかったのです。イエスは、人の子が来るのもそのとおりです、と言われます。

 キリストは、いつ何時来られるかわかりません。私がこの文を言い終わる前に来られるかもしれないのです。

 けれども、「イエスは、ちようとご自分が来られる前兆を話されたばかりではないか。それなのに、なぜ、ここで何の前ぶれもなく来られることを語られているのか。」と疑問に思うかもしれません。

 聖書では、この一見矛盾したようなイエスの発言を、詳しく説明しています。キリストが再び来られるとき、2つの側面、局面があります。一つは、キリストがこの地上に来られることです。これはよく、地上再臨と呼ばれます。私たちは、前回その部分を学びましたが、24章30節に、「地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲の乗って来るのを見るのです。」とありました。そして、もう一つは、キリストが空中に来られる再臨があります。これは、空中再臨と呼ばれます。テサロニケ人への第一の手紙4章をお開きください。16節から読みましょう。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者がまず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」キリストが地上に来られるときは、さまざまなしるしが伴いますが、キリストが空中に来られるときは、何のしるしもなく、クリスチャンがたちまち雲の中に引き上げられてしまいます。イエスがこれから話そうとされているのは、この空中再臨のことです。


 そのとき、畑にふたりがいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

 取られる者たちは、キリストを信じる者たちであり、残される者たちは、キリストを信じていない者たちです。キリストが空中に来られる時は、日常生活を営んでいるとき突然引き上げられます。そして、ノアとその家族が箱舟入った直後に洪水が襲ったように、クリスチャンが空中に引き上げられてから、地には災害が始まります。洪水は水による神のさばきでしたが、次は火によるさばきであるとペテロは言っています(2ペテロ3:7参照)。私たちは前回さまざまな苦難がユダヤ人をはじめとして全世界の人々に襲うことを学びましたが、それは、キリスト者がこの地から取られた後に起こるのです。

 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

 この「目をさましていなさい。」というイエスの勧めは、キリストは来られることをいつでも期待していなさい、ということです。わたしが来る日に思いをはせて、わたしに会うことを最大の願いにしなさい、ということです。私たちは創世記の学びで、アブラハムがメルキゼデクから祝福のことばをもらい、それが彼にとってソドムの王からもらう財産よりもはるかに尊いものであったことを学びました。彼にとって、主ご自身がもっとも大きな財産だったからです。私たちにとっては、キリストにお会いすることが最大の喜びです。それが、もっとも興奮することで、キリストから祝福のことばをいただくことが、自分が生きているうちで、最大の喜びではないでしょうか。その期待を、いつ、どんなときでも持ち続けなさい、とイエスは言われているのです。ある人は、私たちが朝起きたら、このような祈りをしてみたらどうかと薦めました。「イエスさま、あなたが今日来てください。でも、来られなくても、あなたにお仕えできるのですから、感謝します。」キリストが来られることを、毎日の祈リにしてみてはいかがでしょうか。

2B 家の主人 43−44
 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぽうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしようし、また、おめおめと自分の家に押し入られなかったでしよう。

 ここには、どろぼうが夜に家に入ってくるたとえが書かれています。 どろぼうは盗みを真っ昼間には行なわず夜に活動しますが、それは、人々に見られたくないからです。ですから、聖書では、夜という言葉が、悪いことを隠れて行なう暗やみに使われています。つまり、このたとえは、キリストがこの世が暗くなっているとき、罪や不法がはびこっているときに来られることを意味しているのです。ノアの時代に洪水が起こる前は、「人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」とありましたがそれは、単に日常生活を行なっていることを表しているのではなく、肉の欲におぼれている人々の姿を表していました。創世記にある大洪水の記事では、「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐に満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。(6:11―12)」とあります。人々は、自分たちが堕落しているとはあまり意識せずに、日常の生活を営んでいるのです。そのような時に、突如としてキリストが来られます。そして、このたとえにある「家の主人」は、キリストを信じる者たちを指しています。パウロは、テサロニケにいるクリスチャンに、「兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。(1テサロニケ5:4−5)」と言いました。キリストを信じる者たちは、罪や不法から離れて生きることができるようにされています。

 つまり、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちが神の愛と恵みにとどまることによって、神はキリストの血によって私たちをきよめて、暗やみの力から私たちを守ってくださるのです(1ヨハネ1:7参照)。ところが私たちが神に信頼することをせず、自分の力や自分の方法で生きるのであれば、私たちは暗やみの中にいます。そのような時にキリストが来られたら、私たちは、夜にどろぼうに入られた家の主人のようになってしまうのです。祝福であるはずのキリストの来臨が懲らしめを受ける悲しみ日になってしまいます。

 だから、あなたがたは用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

 「目をさましていなさい。」という勧めから、「用心していなさい。」という勧めに変わりました。しかも、「あなたがたは用心していなさい。」と直接的に語られています。つまり、これはクリスチャンに対する警告です。私たちは、キリストが来られるのを待ち望むだけではなく、キリストにお会いするのに,ふさわしい生き方をしなければいけません。キリストが来られるということが自分の生活に直接結びつかないといけないのです。そして、私たちが用心しなければならない理由として、人の子が「思いがけない時に来る」とあります。次のたとえは、思いがけないキリストの到来を説明しています。

2A 食事を与えるしもベ  45−47
1B 忠実な思慮のあるしもベ  45−51
 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしようか。主人が帰ってきたときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

 最初に、忠実な思慮深いしもべが書かれています。彼は、キリストが来られることを準備していた、用心していた人物です。まず、彼は、主人から家のものを任されました。そして、それを用いて生きていました。自分が生きるために、主人のものによって生きたのです。つまり、主により頼む生き方をしていたのです。キリストにお会いするのにふさわしい生き方とは、このような生き方です。  自分の力や方法で生きていこうとするのではなく、生活のすべての面においてキリストを認めて、キリストとの関わりを大事にする生き方です。そして、彼は、仲間のしもベに食事を与えていました。

 これは、私たちキリスト者が、互いにキリストの愛を分かち合うことを示しています。それは、兄弟姉妹に何か特別なことをするのではありません。もちろん、困っているときに助けることなどは必要なことですが、それが中心事項ではありません。自分自身がキリストを主として生きて、この方に喜んでお仕えしていることが、キリストの愛を分け与えることになります。もし、たとえ何か良いことを行なっても、神を喜ばすのではなく相手を喜ばそうとしているのなら、神の目には何の価値もありません。けれども、神に信頼して、神を喜ばすなら、自然にキリストの愛が他の人に流れ出てくるのです。

 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。

 主人は彼を「幸いである。」と評価し、全財産を彼に任せられます。このように、キリストの再臨は、私たちが評価を受けるときです。この「全財産を任せられる」とは、クリスチャンが神の国において、キリストのものを管理すること、支配することであります。神はアダムに、「地を支配せよ。従えよ。」と命じられました。人が造られた目的は、神のものである被遣物を支配して、管理することです。人が罪を犯したので、今はそれができなくなっていますが、キリストが来られるときに、私たちはその役割を担います。私たちがこの地上で生きているのは、ある意味で、神の国に入るための訓練であると言ってよいでしょう。私たちは、神からさまざまなものを任されています。まず自分自身。自分の時間、才能、財産は神のものです。さらに、自分の身の回りにいる人々も任されています。これらをよく管理することは、私たちが神の御国を相続するための準備をしていることなのです。

2B 悪いしもベ 48−51
 ところが、それが悪いしもべで、「主人はまだまだ帰るまい。」と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思いがけない時間に帰ってきます。

 この悪いしもべは、キリストの来られるのを準備していなかった者です。その大きな理由は、「主人はまだまだ帰るまい。」と思ったことです。自分が期待しているよりも、主人が帰ってくるのが遅くなったので、まだ帰ってくることはないと思ったのです。そのために、自分に任されたものを管理することを怠りました。主人がまだ帰ってこないとか、主人が遅れたとかという表現が後になっても出てきます。それは、キリストが来られるのが、私たちの期待するよりも遅くなることを示唆しています。イエスが、「しかリ。わたしはすぐに来る。」と言われてから、2千年近くになっています。当初、教会は、ローマ帝国の激しい迫害にもかかわらず、勢いよく成長しました。主が再び来られることを期待していたからです。ところが、ローマがキリスト教を国教と認めたころから、教会は死んでいきました。それは、キリストが来られるという信仰を失ってしまったからです。キリストがすぐ来られると思ったのに、遅すぎると思ったのです。そのために、教会はいのちを失いました。私たちの個人生活でも同じです。主がまだ来ないだろうと思うことは、キリストにあって生きる力を失います。神についての事柄よりも、自分や世の中の事柄に興味を持ち始めます。このしもべは、「仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始め」ましたが、キリストから離れて世の仲間になってしまうのです。

 そして、彼をきぴしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

 偽善者と同じにするとは、ゲヘナに投げ込まれるということです。私たちはたとえ、外側がクリスチャンのようであっても、内側がそうでないなら、決して天の御国に入ることはできません。クリスチャンのように話し、クリスチャンのように行動し、クリスチャンのように振る舞ったとしても、もし、キリストによる神との生きた関係をもっていないなら、キリストを公然と否定した者たちと全く変わらないのです。パウ□は言いました。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。(2コリント13:5)」 自分は信仰によって生きているか、それとも、自分の行ないによって生きているか吟味しなければいけません。

3A 十人の娘  1−13
 イエスは、目をさましていること、用心していることについて、さらにもう一つのたとえを話されます。

1B 油を持つ賢い娘 1−5
 そこで、天の御国は、たとえで言えば、それぞれがともしぴを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。

 イエスは、当時のユダヤ人の結婚の儀式をたとえとして用いられています。花婿は、婚約した花嫁の家まで行き、花嫁を引き取リに来ます。そして、花嫁を引き連れて、花嫁行列をともない結婚式と披露宴に入ります。その時、花嫁の友人の女たちが、花嫁の家に来た花婿をともしぴをもって出迎えることになっていました。花婿はキリストのことです。そして、十人の娘は人間全体と言ってよいでしよう。

 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしぴといっしょに、入れ物に油を持っていた。

 十人の娘が賢い者と愚かな者に分けられていますが、それは、ただ一つ、油を持っていたか、そうでないかの違いでした。そのほかはみな、同じだったのです。賢い娘たちは、花婿がいつ来られるかわからなかったので、万が一に備えて油を用意しました。彼女たちは、花婿が来られる将来の出来事を、真剣に受け止めていたのです。これは信仰を表しています。賢い娘とは、キリストが来られるという将来の出来事を、信仰をもって生きている人たちです。また、彼女たちは、ともしびがついているのは、油のおかげであることを理解していました。ともしび自体に注目したのでなく、ともしぴの源に注意を払っていたのです。表面的なことや外面的なことよりも、内面的なことや本質的なことに目を向けたのです。これは、キリストに対する信仰を表しています。キリストが道であり、いのちであり、真理です。すべてのものがキリストによって造られ、キリストによって成り立っています。すべての知恵と知識の宝は、キリストに隠されています。このキリストに目を留めている者が、油を持っている娘たちです。

 キリストを心の中であがめている者とそうでない者、表面的には大きな違いがありません。どちらも同じように日常生活を営んでいます。しかし、キリストに目を留めている者は、その生活にある意味や意義を心得ているのです。自分が生きている意味。自分が仕事をしている意味。結婚の意味、学校で学ぶ意味、社会や国家が存在している意味など、すべての意味は、キリストに見出されるのです。そして、聖書では、聖霊が油にたとえられています。将来のことにおける信仰については、聖霊は贖いの日のための保証と言われています。キリストが来られるときに、必ず救われることの保証が聖霊ご自身なのです。また、聖霊はキリストの御霊と呼ばれています。キリストが私たちの現実の生活の中で生きて働かれるとき、聖霊によって働いてくださいます。このように、賢い娘は、聖霊によって導かれる人々です。

 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

 ここに、再び「遅れた」という言葉が出てきます。教会はずっとキリストの再臨を待ち望んでいるのですが、私たちの期待よりも遅くなっています。

2B 花婿の到来 6−10
 ところが、夜中になって、「そら、花婿だ。迎えに出よ。」と叫ぶ声がした。

 花婿は、一番来てほしくない時に来ました。真夜中になって一番眠いときです。先ほど説明しましたように、夜はこの世の暗やみを表しています。この世の流れがますます激しくなり、それに抵抗するカがつきて、元気を失ってしまうようなときです。しかし、そのような時だからこそ、キリストは来られるのです。ロトは、ソドモとゴモラにある悪い行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていましたが、神は御使いを遣わして、彼をその誘惑から救い出されました。同じように、私たちは今の悪い世を見て、心が痛められ、誘惑に耐えるのも疲れてきますが、その時に神は私たちを救い出されるのです。

 娘たちは、みな、起きて、自分のともしぴを整えた。

 愚かな娘も賢い娘も、みな起きました。信仰のない人も、世が悪くなっていることは気づいているのです。しかし、次から違いが出てきます。

 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。「油を少し私たちに分けてください。私たちのともしぴは消えそうです。」しかし、賢い娘たちは答えて言った。「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。」

 愚かな娘は、油を用意していなかったのでともしぴが消えそうになっていました。ところが、賢い娘は分け与える油は持っていません。これは、信仰についての真実を表しています。私たちは、信仰を他の者に分け与えることはできないのです。自分がキリストを自分の救い主として信じ、自分が決断してキリスに従わなければいけません。たとえ親や兄弟がクリスチャンであっても、その信仰は彼ら自身のものであって、自分のものではないのです。

 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。

 花婿は、他の娘たちが店から戻ってくるのを待っていませんでした。これは、ちよっと酷ではないかと思います。けれども、これは真実です。私たちが生きている間にキリストを信じない限り、死んでから後悔しても遅すぎます。キリストが来られる前に信じない限り、来られてから後悔しても遅すぎるのです。

3B 油を持たない愚かな娘 11−13
 そのあとで、ほかの娘たちも来て、「ご主人さま、ご主人さま。あけてください。」と言った。しかし、彼は答えて、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と言った。

 この娘たちは、「ご主人さま。」と呼びましたが主人である花婿は、「私はあなたがたを知りません。」と言っています。このギヤップはいったい何なのでしようか。この「知る」というのは、知識の上で知っているということではありません。個人的に人格的に知っているということです。私たちは日常の会話の中で、「あの人のことは知っているけど、本当のところは知らない。」みたいな言い方をしますが、前者は知識で、後者は個人的な人格的な関係のことを表しています。

 愚かな娘たちは、キリストとの人格的な関係を持っていなかったのです。現に彼女たちは、キリストが来られることを真に受け止めず、油を持たないで生きていたのです。彼女たちは、この世のことで満足していたのかもしれません。また、自分の行ないをたよりにしていたのかもしれません。イエスは他の箇所でも、「わたしはあなたがたを全然知らない。」と言われましたがそれは、「主よ。主よ。」と叫び、悪霊を追い出したり、奇跡をたくさん行なっていたり、多くの行ないをしていた人々に対するものでした。自分の行ないをたよりにする者に対しても、戸は閉められるのです。唯一、キリストとの人格的な関係を持っている人たちのみがその婚礼に招かれます。

 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

 これが、24章の36節からここまでの結論です。イエスは、「目をさましなさい。」と言われていますが、賢い娘は、夜に眠ってしまいました。なのにどうして、目をさましていたのでしょうか。それは、彼女たちは信仰によって、花婿が来ることを見ていたからです。いつでも主にお会いすることができるように、油をいつも携えていました。つまり、彼女たちは信仰の目を持っていました。これが私たちの取るべき態度です。キリストが来られるときに、私たちは主をはっきりと見ることになりますが、私たちの生活のすべての分野においても、主をはっきりと見ていくことが必要なのです。あるいは、主がともにおられることを意識することが必要です。忠実な思慮のあるしもべも同じでした。物理的には主人はいなかったが帰ってくる主人をいつも思って、仲間のしもべたちに食事を与えていました。いつも、どこにおいても主を認めて、主がともにおられることを明確に認識していたのです。私たちも、物理的にキリストをまだ見ていません。しかし、信仰をもって目に見えない主がともにおられることをはっきりと認めるとき、「目をさましていなさい。」「用心していなさい。」というイエスの命令を守り行なうことができるのです。


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