オリーブ山での講話 (The Olivet Discourse) 2001/09/13

今回の米同時多発テロに絡んで、クリスチャンから、「終わりの時では?」「主の再臨が近いのでは?」という声を聞きました。そこで、オリーブ山における、イエスさまご自身の預言から、世の終わりの前兆について学んでみたいと思います。(イエスさまのお話しは、三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカにて記されています。)


三つの質問

弟子たちは、次の質問をイエスさまに聞きました。

お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。(マタイ24:3
先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。(ルカ21:7

弟子たちは、三つの質問をしています。

1.「これらのことはいつ起こるのでしょう?」 − これらのこと、とは、弟子たちが今見ている神殿が破壊されることを指しています。いつ、この神殿の石がくずされるか、その前兆はどのようなものか、という質問です。

2.「あなたの来られる時はどんな前兆があるのでしょう。」主が再臨されるときの前兆は何か、ということです。

3.「世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」この時代の終わりに、どのようなしるしがあるか、ということです。


教会時代に起こること

イエスさまは初めに、彼らの質問に答えずに、このような前兆が起こる「前」の時代のことを話されています。

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。(マタイ24:4-6)」

この時代における主な特徴は二つあります。一つは、偽キリストが現われることです。イエスがお現われになられる前には、だれも自分がメシヤであると言った者はいませんでした。イエスが登場されてから、その後の時代で自分がメシヤであると自称する者たちが現われました。もう一つの特徴は、紛争(戦争のこと、戦争のうわさ)です。この二つのことが起こっても、それは世の終わりの始まりではありません。


世の終わりの兆し

次にイエスは、世の終わりのはじまりについて、− つまり三つ目の質問について − お答えになります。

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

三つの福音書とも、世の終わりの初めは、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がることとなっています。これにともない、方々にききんと地震があり、これらのことが、「産みの苦しみの初め」なのです。

この「民族は民族に」と「国は国に敵対して立ち上がる」というのは、これはユダヤ人の言葉であるヘブル語の言い回しです。イザヤ19:1−4や2歴代誌15:1−7を読みますと、この言い回しは「全体に広がる」という意味があります。オリーブ山においてイエスさまは、全世界を念頭に置かれているので(14節など)、ここでは「世界的な規模の紛争」ということになります。前世紀の初めに人類は、二つの世界大戦を経験しました。そして、その後の世界を見ますと、これまでにない世界規模の「ききん」があり、それから「大地震」がありました。紀元後から18世紀までに記録されている地震で亡くなった人数をすべて足しても、19世紀に起こった地震で死んだ人数ははるかにしのぎます。したがって、私たちはすでに「産みの苦しみ(→文字通りの意味は「陣痛」です)の初め」を経験しているのです。

そしてオリーブ山の講話においては、直接的に言及されていませんが、旧約聖書には、イスラエルが離散から戻ってくるという膨大な数の預言が散らばっています。たとえば、エゼキエル書20章33−38節です。第一次世界大戦のときに、自分たちの生存が脅かされ続けてきた、離散のユダヤ人たちがシオニズム運動を開始させました。第二次世界大戦を契機に、イスラエル国が建国されました。このことからも、私たちが「産みの苦しみの初め」の中にいることを、知ることができます。


使徒たちの体験

そしてイエスさまは、ご自分が地上におられる時代に戻られて、使徒たちが受ける苦しみについて予告されます。

しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。(ルカ21:1219

この個所は、「これらすべてのことの前に」と始まっています。世の終わりの前兆が起こる前に、使徒たちが通らなければならないことをお話しになりました。


エルサレムの崩壊

そしてイエスさまは、弟子たちの第一の質問に答えられます。

しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。(ルカ21:20-24

この預言は、細部にいたるまで成就しました。紀元70年にローマ総督ティトスが率いる軍によって、神殿は破壊され、ユダヤ人は捕らわれの身となり、その時から世界中に散らばる離散の民となったのです。


大患難

イエスさまは、次に、二つ目の質問(主の再臨の兆し)にお答えになる準備をされます。主が再臨される前に定められている大患難です。

そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。(マタイ24:9−14)

この個所は、マルコ13:9−13とルカ21:12−19に類似していますが、ここでは「そのとき」という言葉から始まります。マルコとルカは、世の終わりの初めの前に起こる出来事であり、マタイは世の終わりの初めから起こる出来事です。似たようなことが起こるのですが、違う出来事についてお語りになっています。

ここでは主に五つのことをおっしゃられています。第一に、聖徒たちに対して、激しい迫害が起こります。第二に、多くの偽預言者が現われます。第三に、不法と罪がはびこります(テサロニケ第二2:6−7参照)。第四に、イエスを信じた者たちが生き残って、最後には救われます。第五に、福音が全世界に宣べ伝えられます。


荒らす憎むべき者

そして、イエスさまは、大患難の後半部分をお話しになります。

それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。死体のある所には、はげたかが集まります。(マタイ24:15−28)

これをまとめますと、次の要点になります。

1.荒らす憎むべき者が、聖所の中にはいり、自分こそが神であると宣言します。

2.この、荒らす忌むべきものにより、ユダヤ人たちが逃げます。(※)

3.彼らは非常に人数が少なくなりますが、それでも一部は生き残ります。

4.にせキリスト(反キリストのこと)と、偽預言者が不思議やしるしを行ないます。

5.キリストがすでに戻られたといううわさが広まります。

6.そして、諸国の軍隊が集まってくることが言及されています。(からだがあるところに、はげたかが集まる)

(※ ここの「選びの民」がクリスチャンではなくユダヤ人です。というのは、彼らが「ユダヤ」にいること、「安息日」にならないように祈ること、荒らす憎むべき者が、ユダヤ教の神殿に入っていくことなどがあります。イスラエル人は今でも、選びの民なのです(ローマ11:28−29))


キリストの再臨のしるし

こうして大患難で起こることをお話しになったあと、再臨のときのしるしを語られます。

だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。(マタイ24:29−30)

そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。(ルカ21:25−27)

上のイエスさまの言葉をまとめますと、「完全に真っ暗やみになり、それから突然、主ご自身の栄光の輝きが世界を照らす」ことになります。

 

したがって、弟子たちの三つの質問に対するイエスさまの答えは、まとめると次のとおりになります。

一つ目の質問 → ユダヤ人の神殿が破壊される前に、軍隊に囲まれること。(紀元70年に成就)

二つ目の質問 → 世の終わりの初めは、世界規模の戦争があること。(前世紀初めに成就)

三つ目の質問 → 完全に暗闇になり、それから主の栄光の輝きが現われること。(まだ先)


イスラエルの帰還

この再臨のときに、ユダヤ人が世界中から集められます。

人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイ24:31


クリスチャンへの勧め

そしてイエスさまは、クリスチャンたちに対して、次の勧めを行ないます。

これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。(ルカ21:28

ここの「これらのこと」とは、世界的規模の紛争ですが、世の終わりの初めが来たら、上を見上げなさい、と主はおっしゃられています。テサロニケ第一4章には、主が天から来られて、信者たちを空中にまで引き上げられることが告げられています。ですから、「頭を上に上げなさい」と主はおっしゃられているのです。


いちじくの木のたとえ

いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(マタイ24:36−42)

いちじくの木は、イスラエル人にとって、よく見かける光景でした。みな、葉が出てくれば、夏が近いことが分かったのです。日本人が、梅や桜を見れば、春が近づいたこと(あるいは、春になったこと)を知ることができるのと同じことです。


教会の携挙

ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。(マタイ24:36−42)

イエスさまは、ご自分が突然来られることについて語られています。ひとりは残され、ひとりは取られます。そして、この日は父なる神しか知らず、いつか分かりません。この記事と、そのすぐ前の、主の再臨の前兆は矛盾があるように感じます。一方では前兆があり、もう一方には何も前兆がなく、予測不能なわけです。使徒たちの書簡を読みますと、これが二つの別の出来事について語られていることを知ります。前兆があるのは、今読んできましたように、「キリストが地上に再臨される」ことです。前兆がなく、だれかが取り去られるのは、「キリストが天から来られて、信者たちを引き上げる」携挙についてです。

携挙について大事なことは、これが、「いつくるか分からない」ということです。今すぐに来られてもおかしくありません。また、携挙は、すべての目が見ることができる地上再臨とは異なり、一瞬の出来事です。そして、携挙が来る時は、飲んだり食べたりしている日常生活が繰り広げられており、地上再臨前の大惨事になっている地上の風景とは異なります。

そしてイエスさまは、「目をさましていなさい」と勧めておられます。この意味はテサロニケ第一5章を前半部分を読むと分かります。「昼間の子」として歩んでいること、愛と信仰を胸当てとして着け、救いの望みを抱きつつ、慎み深くしていること、です。(終わりの時を語ると、すぐにセンセーショナルになる傾向があります。あるいは、「伝道に出て行きなさい」と何らかの活動を引き出すように誘導されることもあります。けれども、神は、「慎み深くしている」ことを命じておられます。)


「目をさましなさい」のたとえ

「目をさましていなさい」とおっしゃられてから、イエスさまは、この勧めを強固にされるために、いくつかのたとえをお語りになります。

1.門番

気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。(マルコ13:33-37

「目をさましている」ことが強調されています。

2.家の主人のたとえ

しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。(マタイ24:43-44

ここでの強調点は、「用心している」ことです。「用意している」と言いかえることができるかもしれません。貴方は今、用意ができていますか?

3.忠実なしもべと悪いしもべ

主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ24:45-51

ここのたとえの強調点は、「労している」ことです。第一と第二のたとえで、しばしば陥る過ちは、何もせずに、ただ待っているだけ、という態度を取ることであります。しかし、待ちつつ、主から任されたものを忠実に行なっていくように、私たちは命じられています。

4.10人の娘

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

このたとえの明確な要点は、「目をさまして、用意していなさい」です。当時のユダヤ人の婚姻の儀式は、花婿が花嫁の家に行って、彼女をいっしょに自分の連れて行きます。彼が自分の家にもどるそのところに、娘たちが行列をなして歩き、それに続く、結婚式と祝宴をふるまいます。「油」は聖霊を表しているのでしょう。聖霊を抱く信者がキリストともに、結婚式の中に導かれ、聖霊を抱いていない不信者は、入ることができません。

5.タラントのたとえ

天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ25:14-30

ここでも、強調点は、目をさましつつ、用心しつつ、「労する」ことです。

このように、たとえはみな、「目をさましていること」「用意していること」「労していること」の三つであります。たとえを詳細に、何を意味するのか考えるのではなく、イエスさまが意図されていた、「霊的真理を、具体的なたとえによって、分かりやすくする」ことに、私たちも準じなければいけません。たとえの要点さえつかめば、それで目的はほぼ達成されたことになります。


諸国の民のさばき

オリーブ山での講話は、諸国の民がさばかれるところで終わります。

人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」(マタイ25:31-46

これは、主が実際に地上に戻ってこられて、栄光の位にお着きになるときに行なわれることです。全世界の諸国の民が集められて、主によってさばかれます。ヨエル書3:1−3で預言されていることと同じ出来事です。そこには、「ヨシャパテの谷」で主がさばきを行なわれますが、この谷は、エルサレムの東側の城壁と、オリーブ山の間にある、ギデロンの谷のことです。

ヨエル書にあるように、この「小さい者」とは、イスラエル人たちのことです。(キリストも、肉によればユダヤ人の兄弟であります。)大患難の最後まで生き残った異邦人が連れてこられて、そこで、大患難においてユダヤ人に対して何を行なったかを問われます。彼らを助けた者たちは右に、助けなかった者たちは左に選り分けられます。

大患難のときには、ユダヤ人はこれまでにない大迫害にあい、彼らを助けるということは、即、自分も殺されることを意味します。したがって、これらユダヤ人を助ける異邦人は、すでにイエス・キリストを主として受け入れている人々であると考えられます。

こうして、最後までいた諸国の民は、ユダヤ人をとおして、主イエスに対する取り扱いをどのようにしたかでさばかれ、良くしたものは御国に入り、永遠のいのちにはいり、悪くしたものは永遠の刑罰に入ります。


あとがき

以上の聖書講解は、Arnold FruchtenbaumThe Footsteps of the Messiah”(Ariel Ministries Press)を参考にしています。これら終わりの時の、聖書個所の解釈は、細かい部分で聖書教師によって違いが生じて来、これが絶対であるということはできません。しかし大事なことは、たとえいろいろな解釈があったにしても、「これらのみことばに、目を留めて、思い巡らす」ことであります。いろいろな解釈があるからと言って、分からないから気にしなくて良い、という愚かなことは、クリスチャンであればしないはずです。終わりの時についての聖書個所もこれと同じで、聖霊にみことばを照明していただきながら、読み進めていくことができます。


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