マタイによる福音書25章14−46節 「キリストのさばき」


アウトライン

1A タラントの清算 14−30
   1B 財産のもうけ 15−18
   2B 忠実な者 19−23
   3B なまけ者 24−30
      1C 隠蔽 24−25
      2C 没収 26−30
2A 国々のさばき 31−46
   1B 選り分け 31−33
   2B 羊 34−40
   3B 山羊 41- 46

本文

 マタイによる福音書25章をお開きください。今日は、25章の後半部分14節から最後までを学びます。ここでの主題は、「キリストのさばき」です。私たちは、前々回からイエスさまが弟子たちに、世の終わりとご自分が来られる時について話されています。世の終わりとご自分が来られる前ぶれについて話されたあと、「目をさましていなさい。」と言われて、ご自分がいつ来るのかわからないことを語られました。今日学ぶところも、キリストが来られる時についてですが、ここでは、キリストが来られたら、まず初めに何をされるのかが書かれています。

 2つの話が出てきます。一つはタラントを預けられるしもべたちのたとえです。もう一つは、国々の民がキリストのもとに集められる話です。この2つの話に共通していることは、キリストが来られるとき、私たち人間をさばくことです。私たちの人生には、さまざまな評価があります。だれかが死んだら、葬式の時にその人が生きている時にどのようなことをしてきたかを紹介します。けれども、本当の評価は神から来るのであり、キリストは、ご自分が来られるときにそれを行われるのです。

1A タラントの清算 14−30
 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。

 イエスは、ご自分のことを、「旅に出て行く人」としてたとえられています。イエスは、間もなく弟子たちのみもとを離れます。十字架につけられ、3日目に復活された後、40日間弟子たちとともにおられて、天に昇られました。そして、今、イエスは物理的には私たちとともにおられません。しかし、この人は、旅に出ていく前に、しもべたちに自分の財産を預けています。それは、むろん、しもべたちが、主人の財産で生きていくことができるためです。イエスは、天に昇られた後、弟子たちに聖霊の賜物を与えられました。弟子たちは、聖霊によって生きることができるようになったのです。このように、主の財産を預かるとは、主により頼んで生きることを表しています。

1B 財産のもうけ 15−18
 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりは5タラント、ひとりは2タラント、もうひとりには1タラントを渡し、それから旅に出かけた。

 彼は、「おのおのの能力に応じて」、財産を渡しました。彼は、ある特定のノルマを達成しなさいと命じられたのではなく、それぞれの能力に応じて財産を任しました。この世の仕事では、私たちにある一定の基準を要求して、それを満たすことができないと用いられませんが、神はその反対に、どのような人をも用いることができるのです。なぜなら、能力以上のことを任せておられなからです。と同時に神は、能力以下のことも任せられません。ある人がこのような質問をしたとします。「福音のことばを聞かなければ信じることができないと言うならぱ、言語能力のない身障者に救いはないのか。」と。もちろん救いはあります。言語能力のない人にも、人間としての能力はあるからです。植物や動物にはない人間としての能力を、神はその人に備えてくださっています。問題なのは、そのような質問をする本人です。その人は質問をしているのですから、言語能力はあるのです。なのに、信じていないのですから、その人は神の与えられたその能力を用いていないことになります。そうしたら、神はその人には責任を問われるのです。神は、おのおのの能力に応じて、ご自分の財産を預けられます。

 そして、「ひとりは5タラント、ひとりには2タラント、もうひとりには1タラントを渡し」とありますが、1タラントは6000デナリになります。1デナリは、当時の一日の労賃に値するものですから、一日1万円の賃金だとすると、5タラントの人は、3億円の財産を預けられたことになるのです。かなりの金額を主人はしもべたちに預けています。

 5タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに5タラントもうけた。同様に、2タラント預かった者も、さらに2タラントもうけた。

 5タラント預かった者と、2タラント預かった者は、どちらももうけをしました。ただ、ここで注意してていただきたいのは、もうけは主人の財産から出たものであり、そのもうけも主人の財産であることです。自分が何かをして、自分の財産が増えたのではなく、主の財産を用いて、主の財産が増えたのです。これが、信仰によって生きる姿です。神は、キリストを信じる者たちに、ご自分の力やいのちを与えられます。私たちが一生懸命頑張って、主のみわざを行なうのではなく、主が、キリストを信じる者たちに働かれて、ご自分のみわざを行われるのです。二人のしもべは、主人の財産を用いて主人のもうけをしました。

 また、5タラント預かった者は5タラントのもうけをして、2タラント預かった者は2タラントのもうけをしています。もうけが預かり金と同額です。これは、主のみわざが、多くもなく少なくもなく私たちのうちで働いて いることが示されています。 アブラハムは、ひとり子イサクをささげなさい、と主から命じられました。彼は、主の御声に聞き従いました。それによって、父なる神がひとり子キリストのいのちを、私たちの罪のためにささげられたことが、くっきりと現われました。ここで、アブラハムが「イサクだけでなく、イシュマ工ルもささげましよう。」と言ったら、神の考えておられたことは台無しになってしまいます。それは、5タラント預かったのに、自分の財産も付け加えて6タラントもうけたようなものなのです。5タラントもうけたということは、その人のうちでキリストが完全に現われたということになります。2タラントもうけた人も同様です。このように、二人のしもべは、預かった金額と同額のもうけをしました。

 ところが、1タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

 彼は、主人がその能力に応じて預けたものを、地に隠してしまいました。つまり、自分が主から受けたものによって生きませんでした。つまり、これは不信仰を表しています。福音のことばを聞いているのに、それを信じない。キリストのみことばを聞いて、それに従う能力が与えられるのに従わない。これが不信仰を示しています。彼は1タラントのもうけをすればよかったのですが、それを怠ったのです。

2B 忠実な者 19−23
 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算した。

 主人は、旅から戻ってきました。つまり、キリストが天から来られることがここに示されています。

 そして、「よほどたってから」とありますね。前回の学びでは、「主人はまだまだ帰るまい。」と心の中で思った悪いしもべの話と、「花婿が来るのが遅れた」という話を読みました。キリストは、私たちの期待よりも遅く来られるのです。そして、主人が来られてまず初めに行なったことは、清算です。自分の財産がどれだけ増えているかを見るためです。つまり、キリストは、私たちの生活からどれだけご自分のわざが現われたかを見るために来られます。これが、別の言葉で言うとさばきです。

 私たちはさばきと聞くと、罰が与えられるのを想像しますが、それだけではありません。聖書には、神のさばきについて、3つの種類が書かれています。1つは、文字通りの罰です。断罪です。罪に定めることです。有罪の判決を受けることです。「人間は、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)」とありますが、人を罰するためのさばきです。 2つめに、懲らしめがあります。パウロは、「私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(1コリント11:32)」と言いました。小さな子供が、ストーブを触ろうとしたら、お父さんが手をたたいて、その子の手を払いのけたとします。子どもは言、手が痛くて泣いてしまいますが、ストーブから大やけどをすることから守られたのです。これが、懲らしめです。一時的には悲しみが伴いますが、永遠の益がもたらされます。

 そして、3つめは、賞や報酬を受け取るさばきがあります。オリンピックで、審査官は選手たちの成績を判定します。最もよい成績を取ったものには、金メダルを授けます。パウロは言いました。「
私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。 (1コリント4:5)」 各人に対 する罰が届くとは書かれていないで、称賛が届くと書かれています。私たちは、この称賛を得るために、つまり、賞を得るために走っている競技者のような者です。この3つの種類のさばきがありますが、キリストが来られるとき、3つ目のさばき、つまり、報酬を与えるようなさばきを行われます。次をご覧ください。

 すると、5タラント預かった者が来て、もう5タラント差し出して言った。「ご主人さま。私に5タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに5タラントもうけました。」その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。 主人の喜びをともに喜んでくれ。」

 主人は、しもべをほめました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。」キリストが再び来られる時、私たちはキリストからおほめのことばをいただくのです。彼は、忠実であったことをほめられています。そして、主人は、「わずかな物に忠実だった」と言っています。よく考えてください。 5タラント、3億円相当のお金を、「わずかな物」と言われているのです。クリスチャン生活は、祝福に満ちた生活です。この世において、愛、喜び、平安など、キリストがなければ決して得ることができないものを持っています。罪が赦されて、信仰によって正しい者とされて、天と地を造られた神を、「お父さん」と呼ぶことができるのです。けれども、それは、神にとってほんのわずかな物にしかすぎません。神は、私たちにたくさんの物を任せられますが、私たちが到底考えつくことのできない祝福を、私たちのために天に用意されています。

 さらに、主人は、「主人の喜びをともに喜んでくれ。」と言っています。ここに、喜びはしゃいでいる主人の婆を見ます。私たちが主のことを考えるとき、時々笑みを顔に浮かベるか、基本的には、しかめっ面をしている主の姿を考えてははしまわないでしょうか。けれども、私たちがマラソンを完走したのを、まるで自分が完走したかのように、いっしょになって喜んでくださる方なのです。これが、キリストのさばきです。みなさん、考えられますか。私は、この日が来るのが待ち遠しいです。

 2タラントの者も来て言った。「ご主人さま。私はタラント預かりましたが、ご覧ください。さらに、2タラントもうけました。」その主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」

 主人から5タラントもうけたしもべに言われたことばと、ここのことばを比べてください。一語も違わないで同じです。主人は、2タラントもうけた者に、全く同じ評価をしています。なぜでしょうか。主人の評価は、ノルマではなくて忠実さに基づいていたからです。みなさん、ビリー・グラハムのことを考えてください。彼は、世界中を巡って、何千万人の人をキリストに導いた伝道者です。たった一人の救われた魂でも、天では喜びの渦が巻き起こっているのに、何千万の魂が彼を通して救われました。そして、今、病の床に伏せっているキリストにある兄弟がいるとしましょう。彼は、キリストをあがめ、キリストに感謝し、キリストに望みを抱いて日々を生きています。天においては、どちらが多くの報酬を受け取るでしょうか。同じなのです。神は、おのおのの能力に応じて財産を預けて、二人ともそれに忠実だったからです。これが恵みの福音です。神は、すべての人を用いることがおできになります。

3B なまけ者 24−30
1C 隠蔽 24−25
 ところが、1タラント預かっていた者も来て、言った。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの1タラントを他の中に隠しておきました。 さあとうぞ、これがあなたの物です。」

 彼は、主人をひどい方としてしか見ることができませんでした。誤った見方をしていたのです。これこそ、まさに悪魔の仕業であり、人間の最大の罪です。それは、神の恵みと神の愛を、ひどいものだとして見せることです。それは、彼は不信仰になっており、行ないの世界に生きていたからです。彼は、「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集める。」と主人に言いました。彼は、5タラント預けられた者、2タラント預けられた者を見て、自分が1タラントしか預けられていない、と考えたのでしょう。それなのに、主人は、私たちに多くのもうけをせよと言っている。そりゃ、5タラントもうけた奴のほうがもうけるに決まっているのに、主人は、1タラントから多くの金額を絞り出そうとされているのかと考えたのです。つまり、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるのだ、と思いました。

 多くの人が、イエス・キリストのみことばによってつまずきます。「汝の敵を愛せ」と言われたイエスのみことばを、そんなことできるわけがないのに命じるなんて、ずいぶんひどい方だと考えます。でも、イエスは、あなたがたの力で敵を愛せよ、と言われたのではありません。イエス・キリストは、実にご自分の敵を愛されました。十字架につけて、イエスをののしっている者たちのために、「彼らの罪をお赦しください。彼らは、何をしているのかわからないのです。」と祈られました。このキリストが、ご自分を信じる者たちのうちに住まわれて、その中で働きたいと願われているのです。ですから、キリストが言われているのは、「わたしを信じなさい。」と言うことだったのです。しかし、このしもべは、自分の行ないで生きようとした者であり、主人の財産を土に埋めてしまった、つまり、主を無視して、自分勝手に生きたのであります。

2C 没収 26−30
 ところが、主人は彼に答えて言った。「悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのに。」

 主人は、彼が少しでも預けたお金を運用するのを願っていました。主人は、もうけの額など気にせず、自分の財産からもうけがあること自体を期待していました。そうすれば、他のしもべと同じように報酬を受けたのです。それなのに、このしもべは、主人が多くのものを自分に要求していると思って、完全に主人の財産を放棄してしまいました。これは悲劇です。なんと多くの人が、神のみことばを誤解して、信仰を持たないでいるでしょうか。なんと多くの人が、神のみことばを誤解して、信仰の歩みを止めてしまっているのでしょうか。神は、からし種のような小さな信仰によっても、十分にご自分のなさりたいことを行なうことのできるのです。

 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを10タラント持っている者にやりなさい。だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

 二人のしもベは、与えられた財産がさらに増えて豊かになりましたが、この悪いしもべは、与えられていたものまでが取り上げられてしまいました。私たちには永遠のいのちが与えられています。私たちは、それを豊かに持つことができます。だから、クリスチャン生活は楽しいのです。日に日に豊かになるからです。ある時は私たちの信仰が後退するかもしれませんが、その後退までもが、次の前進のための糧となります。しかし、永遠のいのちを持たない者は、今の自分のいのちがなくなります。どれだけの人が、年をとるごとに、むなしさと疲れをおぼえているのでしょうか。そして、この命は消え去ります。

 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

 この暗やみは、地獄のことです。たとえ、クリスチャンのような振る舞いを見せても、神との生ける関係を持っていなければ、地獄に落ちてしまいます。

2A 国々のさばき 31−46
 ここまでが、タラントのたとえの部分です。次にイエスは、キリストが来られたときに国々が集められることを話されています。

1B 選り分け 31−33
 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。

 ふたたび話は、キリストの地上再臨に戻っています。イエスは、「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。」と言われてから、ずっとご自分が空中にまで来られる話をされていました。その時、キリストは、信じている者たちのために、報酬を与えるために戻ってこられます。そして、ここからはご自分が地上に戻っておられる話をしています。まず、イエスは、地上に来られると、神の御国における栄光の位に着きます。

 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を自分の左に置きます。

 神の御国が始まる前に、イエスの御前にすべての国々の民が集められます。彼らは、大患難の中で生き残ってきた者たちです。しかし、生き残ったからといって、そのまま神の国に入るのではありません。イエスは、羊と山羊とにより分けて、さばきを行われるのです。羊が祝福された者たち、山羊がのろわれた者たちですが、人間はこの2つの種類に分けられます。彼らは、いろいろな人種によって成り立ち、異なる性別を持ち、異なる国、異なる社会の中に住んでいますが、キリストの御前には、たった2つにしか分けられません。

2B 羊 34−40
 そうして、主は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」

 この祝福された者たちは、神の御国に入ることができます。面白いことに、それは世の初めから定められていました。なぜなら、神は、世の初めから世の終わりのことのすべてをご存じだからです。彼らがなぜ祝福されるのかその理由が次に書かれています。

 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇えていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。

ここに「わたしが」「わたしが」とくり返されていることに注目してください。キリストのさばきの基準は、一人一人がキリストに対して何をなったかに関わっています。

 すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたすけしましたか。」

 彼らは、キリストに対して行なったことを覚えていないようです。自分がした良い行ないをよく覚えていません。先ほどのタラントのたとえを思い出してください。良い忠実なしもべたちは、主人の財産によって商売をして、そのもうけが自分のものではないことを認識していました。自分たちはただ、主人が行われることの器にしかすぎなく、自分たちはただそのわざがなされるのを見るだけに過ぎません。だから、ここのキリストの右にいる人々も、自分がこれだけのことをやった、と思うことができないのです。工ペソ書2章8節には、こう書かれています。「 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」 どうですか、私たち刑信仰によって歩むときに、神が備えてくださった良い行ないが現われ出るようになります。神がしてくださったことなのですから、自分を誇ることができません。ですから、ここに出てくる人々のように、自分たちがしている良い行ないをさえ目に留まらないのです。

 すると、主は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがこれらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとリにしたのは、わたしにしたのです。」

 王である者が実は最も小さな者といっしょになってくださっています。これは驚くべきことです。イエスは、天と地にあるすべての権威を持っておられる方です。そのイエスが、人々からさげすまれるような困窮している者たちといっしょになってくださいます。私たちは、生活の中でキリストがどのように働かれているか分からなくなるときがありますが、実は、日常生活の中でキリストに出会っているのです。そして、イエスは、ここに出てくる人々を「わたしの兄弟たち」と言われていますが、これは、肉の兄弟たちであるユダヤ人のことです。私たちは24章で、ユダヤ人が今までかつてないほどの患難を味わうことを学びました。その大迫害の下で、多くの人は困窮します。お腹が空いたり、着る物がなかったり、泊まるところがなかったり、牢に入れられたりします。彼らを助けることは、自分も殺されてしまいます。しかし、そのような危険を冒してまでも助けようとしたのは、彼ら自身がキリストを信じていたからです。それゆえに、彼らはキリストの右に置かれて、神の御国を受け継ぐようになります。

3B 山羊 41- 46
 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。」

 のろわれた者どもは、永遠の火に投げ込まれます。これが、「悪魔とその使いたちのために用意された」とあることに注目してください。地獄は、神が私たちを罰するために造られたのではありません。悪魔とその手下である悪霊たちのために造られました。しかし、多くの人は、悪魔の言うことを聞いて、悪魔に従っているので、彼らとともに永遠の火に投げ込まれるのです。テモテヘの第一の手紙2章には、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」とあります。神がおられる天に、すべての人を導き入れたいと願われているのです。

 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べ物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたすけてくれなかった。

 今度は、さばきの基準が、キリストに対して行なわなかったことになっています。

 そのとき、彼らも答えて言います。「王よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。」

 彼らは、自分たちが行なわなかったことを覚えていません。逆に言うと、自分たちの良い行ないは覚えているのです。「私たちは、これこれ良いことをしたではないか。」と訴えているのです。これが、自分の力で生きて、自分の思うままに生きてきた人々の姿です。ヤコブは、「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です(ヤコブ4:17)」と言いましたが、自分たちが何をしてきたか、何をしてこなかったかということさえ、正しく見ることができないのです。

 キリストを信じている者たちであっても、行ないにたよるときに、そのようになります。「私は、これだけのことをしてきたのに、また、罪になるようなことは特にしてこなかったのに、なぜ神は私を祝福してくださらないのか。」と不満に思うときがあります。そのような時は、決まって、自分が信仰に立っているのではなく行ないに立とうとしているのです。信仰に立っているときは、神の恵みとあわれみのみが目についてきます。自分がしてきた良いことは、眼中にありません。しかし、行ないに立っているときに、本当にしなければならない大事なことを忘れています。

 すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。」こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいリ、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。

 このように、すべての国々の民は、永遠の刑罰にはいるか、永遠のいのちにはいるかの2つの選択しかありません。天国か地獄かです。どちらに行くかを決めるのは、自分がキリストに対して行なったことによります。こうして、私たちは、キリストが来られるときは、さばきの時であることを学びました。この真実を受け入れるとき、私たちは本当の意味で、主を信じ、主によって生きていくことができるのです。


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