マタイ25章31-46節 「最も小さい者たち」
アウトライン
1A イエス・キリストの再臨 31−33
2A 分けられた諸国の民 34−41
1B 祝福された人々 34−40
2B 呪われた者ども 41−46
本文
マタイによる福音書25章を開いてください。31節から46節までをお読みします。
新年に当たって、私たちが注目したいイエス様の御言葉は、今読んだ箇所の40節です。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりのしたのは、わたしにしたのです。」イエス様が、卑しめられ、苦しみを受け、貧しい人々のことについて、「それはわたしである」と仰っている言葉です。
私たちは先週、クリスマス礼拝において、イエス様がお生まれになるときに、皇帝アウグストの勅令によって両親が強制的に住民登録をさせられたこと、そして家畜のいる洞窟で出産し、飼い葉桶で赤ん坊イエス様が寝かされた箇所を読みました。しかし、そのような卑しい形でお生まれになってきたキリストが今、この世界を見ていると、当時の世界帝国の皇帝よりも遥かに大きい影響力を与えています。アウグストなどこの世の指導者は、力によって人々を支配しようとしたのに対して、この方はへりくだりと愛によって人々を支配しておられます。低い所に神はご自分の力を現されます。
そして今読んだ箇所は、初めに来られた時ではなく、再び来られる時です。終わりの日に、力をもって、栄光を帯びて帰っておられます。すべての国々を征服し、ご自身が王の王、主の主となられます。そして、全ての者たちをある者は神の国の中へ、またある者は地獄へと投げ込まれます。人々は、どんな民族の人がいても、どんな国の人がいても、男でも女でも、お金持ちでも貧乏でも、神の国の中に入るのか、それとも地獄に行くのかのどちらかの道を最後に選ばなければいけない、という教えです。その時の判断になるのが、何か人生の中で大きな偉業を成し遂げたかどうか、ではなく、「最も小さい者たちのひとりにした」ことによって裁かれます。主は、ご自身の裁きにおいても、低められた者を大切に見ておられます。低められた者たちの間で何が行われたのかにしたがって裁かれるのです。
1A イエス・キリストの再臨 31−33
31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
これは、イエス様が再び地上に戻られる時の光景です。イエス・キリストは、十字架の上で私たちの罪のために死なれ、三日目によみがえり、そして天に昇られました。今は、天地を創造された父なる神の右の座に着いておられます。そして、この世の終わりの時にこの方は戻ってくると約束されました。
再び戻ってこられることについて、主は弟子たちに、世界がこれからどうなっていくのかについて語られました。その言葉がことごとく、人間の歴史の中で実現し、実に現在に至るまで実現しつつあります。オリーブ山のところから、荘厳な神殿をイエス様は見ておられましたが、それは石が積み上げられたままで残ることはないと預言されましたが、果たして約四十年後にそうなりました。
そしてイエス様はこう言われました。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。(ルカ21:10)」前世紀から、私たち人間は特別な時代に入りました。世界的に国が国に、民族が民族に敵対して戦争をするようになりました。二つの世界大戦を経験して、それ以降、核戦争の危機の時代に入りました。今もイランが核兵器を開発中で、イスラエルとアメリカに対して実際に使用しようと準備しています。
そして大地震がある、とイエス様は言われましたが、前世紀に起こった一千人以上の死亡者を出した大地震は、その前の歴史にある同じ規模の大地震の数を加えても、もっとさらに多いと言われています。去年だけを考えてみてください。ニュージーランドで地震が起こり、世界がいったい何なのだろうと不思議がっている矢先に、世界最大規模の地震を私たち日本人は経験しました。トルコでも地震が起こりました。そして洪水が世界各地で、これまでにない規模と頻度で起こりました。これらはすべてイエス様が予告された通りです。
今は地上で異変が起こっていますが、イエス様は天における異変が起こると予告されています。私たちは、それはまだ見ていませんが、これから起こることでしょう。
そしてイエス様は、ユダヤ人に対して大きな迫害が来ることを予告されました。エルサレムにおいて、「荒らす憎むべき者」がユダヤ人神殿の中に入って、自らを神であると宣言します。そしてユダヤ人らを虐殺すべく、彼らを追っていきます。しばしば、ユダヤ人は「世界の日時計」と呼ばれます。ユダヤ人が今、どのような状態にいるかによって、世界がどうなっているかが分かるというものです。1948年にイスラエルの国が建国されました。そして1967年にエルサレムがイスラエルの主権下に入りました。これは、神が散らされた世界のユダヤ人を集めるという約束の通りであり、驚くべき預言の成就ですが、イエス様はまた、ユダヤ人が最も大きな試練の中に入ることも前もって語られました。つまり、第二のホロコーストが起こる、ということです。
ユダヤ人はその時に絶滅の危機に瀕します。荒らす憎むべき者あるいは反キリストは、世界の軍隊と共にユダヤ人を滅ぼそうとします。けれども、聖書によると、その時に主イエス・キリストが戻ってこられます。彼らを救うために天から戻って来られます。世界の軍隊は神とキリストに対して戦いを挑みます。「ハルマゲドンの戦い」と呼ばれるものがそれです。けれども、イエス様はご自分の口から出てくる剣をもって、これらの軍隊に戦われます。そして、大きな天変地異が起こりますが、キリストが地上に足をつけたときに、世界は一変して、この地上は神が初めに考えておられたとおりの、回復し、完全な状態に戻るのです。
今、イスラエルの国はイランからの核攻撃を受ける危機に瀕しています。彼らは打たれる前に各施設を破壊することで先制攻撃する選択も残していますが、そうしたら世界が一斉にイスラエルを非難することでしょう。イスラエルはさらに孤立します。これらのことも、イエス様が予め、紀元30年頃に弟子たちにお語りになったことです。
そしてこの方が地上に戻ってこられ、神の国を立てられる時に、地上にいる世界の国々の人々を二種類に分けられます。
32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
羊飼いがよく行う光景を、イエス様は例えで使われておられます。群れがありますが、雄の山羊はしばしば羊に対して敵対的になるので、その時に山羊と羊を選り分けるのです。主は、すべての国々の民を、右か左に分けられると仰られます。右に分けられた者たちは、神の国の中に入れられ、左に分けられた者たちは、地獄の中に投げ込まれます。どんな国の人であっても、どんな民族でも、男も女も、金持ちであっても貧乏であっても、世界はこの二種類の人たちで成り立っています。神の国に入る人々と、地獄に行く人々であります。
2A 分けられた諸国の民 34−41
1B 祝福された人々 34−40
34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
具体的にはこの出来事は、イエス様が世の終わりに起こると言われた「大患難」が終わってから行なわれます。先ほどお話ししましたように、ユダヤ人はこれまでにない大きな試練を受けます。けれどもその間に、彼らの不信仰は練り清められて、イエス様が戻って来られる時には確かにこの方がメシヤである、救い主であることを悟ります。このようにユダヤ人が試練の中を通っている時に、彼らを自分の命の危険を顧みずに、その苦境の中にいる彼らを助ける人々の姿がここに描かれています。イエス様が、「これらわたしの兄弟たち」と仰っていますが、彼らはユダヤ人のことです。諸国の民に対するユダヤ人として、イエス様はご自身もユダヤ人なのでそう呼ばれました。
ここで大事なのは、イエス様がこれら苦境の中にいる人々とご自身を同一視しておられることです。苦しみの中にいる人々に対する親切な行為は、実はわたしに対してしたのだ、と言わしめるほど、イエス様は弱い者と一つになられていたのです。単なる同情ではありません。一体感を抱いておられるのです。
2B 呪われた者ども 41−46
そして地獄に投げ落とされる者たちの姿を次に見てみましょう。
41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』46 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」
左にいる者たちは、永遠の火の中、地獄の中に入ります。ここで41節に書かれていることに注目してください。「悪魔とその使いたちのために用意された」とあります。数多くの人が、「人々を地獄の中に送り込む神なんて、ひどすぎる。」と言います。いいえ、神は人々を地獄に送りこむことはありません。地獄は人間のために造られたのではないのです。ここあるように、神に反抗した悪魔、そしてその手下の堕落した天使のために用意されたものです。しかし、人々が悪魔の偽りに聞き従い、イエス・キリストが救いの道であることを自ら拒むのであれば、悪魔のところに行くことを自ら選び取ることになります。
そして彼らが地獄に定められる根拠が、先ほどと同じ「この最も小さな者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです」というものです。
そこで2012年の始まりにおいて、私たち教会がどのような方向性を持ち、計画を立てればよいのか。そして私たち個々人が何を大切にして生きていけば良いのかについて考えてみたいと思います。
今読んだ箇所は、大患難の時に異邦人がどのように苦難の中にいるユダヤ人を助けるのか、ということであると話しましたが、けれども、イエス様が苦しみの中にいる者たち全般に対して、同じ思いを持っておられることは確かです。イエス様の目はいつも、弱い者、必要を持っている者、心の貧しい者に向けられていました。他の人々であれば、気づかないでいる人々、見過ごされている人々も、イエス様はじっくりと見ておられました。
例えば、生まれつき盲目の人がエルサレムにいました。その人はエルサレムの人々はだれも知っていましたが、ヨハネ9章1節を読むと、「イエスは道の途中、生まれつきの盲人を見られた。」とあります。ここの「見られた」は肉眼で見た、という意味ではなく、「見て、心に留められた」という極めて関心の強い見方です。そしてイエス様は、その目を直され、さらにその人はイエスを自分の救い主として心に受け入れ、礼拝しました。
エリコにおられた時は、ザアカイという背の低い取税人がいました。群衆がイエス様を取り囲んでいましたが、彼は背が低いのでいちじくの桑の木に登って見ていたところ、イエス様は彼に声をかけて、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。(ルカ19:5)」と言われました。そして、彼の家で食事をされて、ザアカイはこれまで人々からだまし取っていたお金を出して、これを四倍にして返すと言いました。彼は悔い改めて、救われたのです。
同じように、イエス様が群衆の中を歩かれていて、道が塞がっていた時に、12年間長血を患っていた女が、群衆の中に紛れ込み、イエス様の着ている物に触りました。触りさえすれば、きっと直ると思っていたからです。すると血の源がかれて、癒されました。イエス様は、「だれがわたしにさわったのですか。」と問われました。弟子たちは、「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれかわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」と聞きました。けれども、イエス様は自分の病が直ると信じて触った手と、他の群衆がご自分を触っているのと、しっかりと区別してその信仰の手には気づかれていたのです(マルコ5:25-34)。
同じように、イエス様は家で御言葉を語られていた時に、中風を患っていた患者を運んでいた四人が、入口から入れないのを見て、屋根にあがり、その屋根を壊して、床をイエス様がおられるところに引き下ろしました。イエス様は、「彼らの信仰を見て」とあります。そしてその中風を患っている者の罪を赦され、そして中風も癒されました(マルコ2:1-12)。他の者たちの行動とは区別されて、そこにある信仰をご覧になったのです。
イエス様は、そのように必要のある人々に敏感であるだけでなく、そのような人々が行なっていることに対する見方が他の人と異なっていました。パリサイ人のシモンの家で食事をされていましたが、人々がいろいろ出入りする中で、不道徳な女がイエス様のところにやって来て、涙で御足を濡らし、髪の毛でぬぐい、口づけして、香油を塗りました。シモンは、「不道徳な女に触らせている。預言者なら、そんなことしないはずなのに。」と心の中で思いましたが、イエス様は、「あなたは、わたしが家に入る時に、足を洗ってくれませんでしたし、口づけもしませんでしたし、油も塗りませんでした。この女はそれらを行なったのです。」と言われました。当時、これらの行為は客に対して、目上の人々に対して敬う行為だったのです。そしてイエス様は、「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。(ルカ7:47)」
献金においても、そうです。神殿にある献金箱にパリサイ人が献金を投げ入れていました。けれども、貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れました。レプタは当時、最小の単位の銅貨です。ところがイエス様は弟子たちにこう言われました。「それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」(ルカ21:3-4)」
分かりますか、イエス様は常に、事欠いている人に対する目がありました。事欠いているとは、別に経済的な意味だけで話しているのではありません。心の貧しさのことを話しています。自分には良いものがない。自分は自分以上の存在が必要だ。神が必要である。だから私は神に拠り頼む、ということを強く意識している人、そして神を愛して、神に捧げようとしている信仰を持っている人々のことを言います。イエス様は、このような人々に対する情熱を持っておられました。そして、終わりの日には、このような人々とご自身を一体化させて、このような人々に対する働きによって、ある人を神の御国に、またある人を永遠の刑罰に定められるのです。
私たち信仰者は一人一人、宣教に召されています。それは、イエス様が天におられたのに、地上に神によって遣わされて、失われた人々を捜されたように、自分自身をイエス様でいっぱいにして、イエスの御霊で満たされて、自分自身が見ている中にイエス様の目を持つことです。その人々に仕えることが、そのままイエス様に仕えることなのだ、という情熱を持つことです。
教会によっては、年の始めに教会の計画を立てます。この一年に達成する目標を設定します。ある時は、教会に連れてくる人々の数の目標を掲げます。ある時は新しい教会堂の資金に対してどれだけ貢献できるのかを前約束をさせます。もちろん、私たちは人々により効果的に仕えていくために、新しい場所、新しい建物が必要になることもあるでしょう。
けれども、私たちにとってはるかに大切なのは、私たちの周りにいる、イエス様でなければ見分けることのできない、必要を持っている人々に心を留めることです。普通であれば見過ごしてしまうこと、見過ごしてしまうものに、神の聖霊によって見分け、それに手を差し伸べることです。私たちの能力では無理です。私たちの間でさえ、見失ってしまうかもしれません。去年私が与えられた、みなさんに分かち合った御言葉は続けて今年の目標でもあります。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:34-35)」互いに愛すること、互いに仕えること、互いの必要に敏感になること、そして祈り、励まし、助け、訓戒すること。これらは続けて行っていく必要があります。
そして今年は、さらに自分の周りにいる人々、教会の周りにいる人々に対してイエス様の心を持つことです。決して自分のことだけに、自分たちのことだけに関心を寄せるのではなく、むしろイエス様のところに人々を連れてくる目が必要です。だから、神の御霊に満たされることを熱心に求める必要があります。そして、その愛の情熱に突き動かされる時に、自分自身がどれだけ犠牲を払っているのかという義務感や疲れを覚えることがなく、ただその人を愛するがゆえに労力している自分自身がいることに気づくでしょう。
イエス様は、ご自身が戻って来られる時に、教会に対しては報いを与えてくださいます。この地上においてある者には五タラントを任せ、ある者には二タラントを任せましたが、その金銭を運用して商売をして、もうけを得た僕に対して主人がこう言いました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:23)」わずかな物に忠実だったから、ということで報いを受けます。私たちが自分は大したことをできない等と自分自身を卑下している時に、実はイエス様が見ている世界を自分は見失っていることに気づくべきです。みなさんは、今、自分が置かれているところで十分に祝福されているのです。その召されたところで主に仕える時に、主は多大な報いをもって私たちに臨んでくださいます。
その反対の危険も最後に警告しておきましょう。わずかなことに気を留めることは、悪い事柄に対しても同じです。他の箇所で、イエス様は天の御国は、畑の中に毒麦の種が蒔かれたときのようなものであることを話されました。そして、その種によって出てきた毒麦は収穫の時までは抜き取られることはありませんが、収穫の時に刈り取られて、火で焼かれてしまいます。悪い物も「小さなもの」から始まります。
その悪い物とは、私たちの「肉」です。御霊に導かれて、キリストの愛に突き動かされて行うのではなく、自分たちがいかに優れているのかを示すための動機に変わってはいないか。自分に嫌なことをしてきた人に対して、怒りや苦みを抱いたままにしていることはないか。他の兄弟や姉妹を裁いてはいないか。自分のことばかりを考えて、他の人々にすべき行ないを怠っていることはないか。これらのものはみな、御霊を打ち消す行為であり、主が力強く教会によって働かれる火に水をかけるようなものです。これらも、私たちの心の内にある僅かな動きによって、それが肥大化していきます。パウロは、「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。(2コリント13:5)」と言いました。