マタイによる福音書26章36−75節 「みことばによる主との関わり」
アウトライン
1A イエスの祈り 36−56
1B 父のみこころ 36−46
2B 預言の成就 47−56
2A イエスの告白 57−75
1B 神の御子キリスト 57−68
2B ペテロの否定 69−75
本文
マタイによる福音書26章を開いてください。今日は、36節から26章の最後までを学びます。ここでの題は、「みことばによる主との関わり」です。前回の題は、「十字架による主との関わり」でした。十字架によって、私たちと主イエスとの関わりが決められることを学びました。イエスに香油をかけた女は、キリストが十字架につけられる事実をしっかりと受け止めて、キリストを礼拝し、良い行ないをしました。ユダは、この十字架のことばを受け入れることをしなかったので、イエスを裏切ることを考えました。 さらに、弟子たちは、キリストの十字架を受け入れることができなかったので、肉の弱さに打ち勝つことができず、イエスにつまずきます。このように、キリストの十字架は、私たちと主との関わりを決定的なものにします。今日の題は、「みことばによる主との関わり」です。神のみことばによって、キリストと私たちの関わりが決まってくることを学びます。
1A イエスの祈り 36−56
1B 父のみこころ 36−46
それからイエスは弟子たちといっしょにゲッセマネという所に来て、「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
イエスは弟子たちをご自分のそばに置かれましたが、すぐ近くにまでは連れていきませんでした。彼らと少し距離を置いています。
それから、ペテロとゼベタイの子ふたりをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
イエスは、ペテロとヨハネとヤコブの3人は連れて行きました。この3人は、イエスが栄光の御姿に変えられたときに連れられたのと同じ3人です。この3人に、ご自分が悲しみもだえる姿を見届けてほしかったのです。なぜでしょうか。彼らは、イエスが栄光に輝くキリストであることを目撃しました。このキリストが、人々からのけものにされ、あざけられ、打たれ、十字架につけられることを知ってほしかったのです。
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
イエスは、この苦しみの時を彼らといっしょにいることを願われました。イエスは、弟子たちをご自分の友として慕っておられました。死ぬほどの悲しみを、彼らにも伝えたかったのです。イエスは言われました。「わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15)」イエスは、私たちにもご自分の気持ちを伝えたいと願われています。
それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
イエスは、少し進んでいって、御父に祈られました。つまり、この3人の弟子たちからも離れて祈られました。それは、イエスはただひとりで、父なる神との交わりを求めたからです。逆に言うと、イエスが弟子たちと交わりをしたのも、群衆とともにおられたのも、すべて御父との交わりから始まっていました。イエスは、「わたしと父はひとつです。」と言われました。人間の中では夫婦が最も親しい交わりをしていますが、イエスは、それよりはるかに深い交わりを御父と持っておられたのです。 しかも、永遠の昔からの交わりです。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。(ヨハネ1:1)」とあります。このように、イエスは弟子たちとともにおられましたが、少し距離を置いておられました。それは、弟子たちとの、べったりとした関係が嫌だったからではなく、父なる神と一つになる交わりを可能にするためでした。私たちも、キリストに倣う必要があります。私たちは互いにいっしょにいるが、少し距離を置く交わりが必要です。それは、さばさばした関係を持つためではなく、むしろキリストとの密接な交わりを持つためなのです。
しかし、イエスが死ぬほどの悲しみを持たれたのは、この父との交わりがなくなってしまうことでした。「この杯」とは、父なる神との断絶を味わうことでした。イエスは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。父なる神との断絶です。永遠の昔から持っていた、父とひとつになっていた、その交わりを切り離されます。だから、イエスは、文字通り死ぬほどに悲しまれたのです。「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られたのです。イエスはこれから、弟子のひとりであるユダから裏切られます。そして、他の弟子たちはイエスを見捨てて、逃げます。ペテロは、イエスを知らないと言います。イエスはご自分が愛されていた弟子たちとの断絶を味わいますがここでは御父との断絶を味わうのです。アダムは、自分の罪によって神との断絶を味わいました。罪の結果は、神との断絶であり、霊的な死を意味します。パウロは、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。(2コリント5:21)」とパウロは言いましたが、イエスは、私たちの罪のために、神との断絶を味わうのです。
しかし、イエスは、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈られています。イエスは、父のみこころが成し遂げられることを、ご自分の願いよりも優先されました。これが私たちのあるべき信仰の姿です。ヘブル書11章1節には、「 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。これは、自分の望んでいることが保証されるのではなく、神の望まれていることが保証されることなのです。自分の願いではなく、神の願いを受け入れることが信仰です。イエスは、私たちに模範を残されました。自分の願うことではなく、神のみこころがなされることを願うのが、私たちのあるべき祈りです。
それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
イエスが3人の弟子をご自分の近くに引き寄せたのは、彼らもいっしょに、目の前に迫っている試練に準備させるためでした。「誘惑に陥らないように」とイエスは言われています。だから、イエスが「目をさましていなさい。」と言われたのは、文字通り目をさましていることだけではなく、差し迫っている状況に準備することだったのです。理由として、「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」とありますがペテロは、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言っていました。確かに、彼らの心は燃えていたのです。
イエスは2度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
イエスは、一度目の祈りよりも、さらに父のみこころにゆだねるような祈りをされています。祈りを深めることによって、私たちの思いは神のみこころに一致してくるのです。
イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
本当に肉体は弱いですね。ペテロや弟子たちは、あれほど元気だったのに、今は睡魔に負けてしまっています。これは、だれにでもある経験ですね。なぜでしようか。彼らの頑張りが足りなかったからなのでしょうか。そうではありません。「わたしは十字架につけられます。」というイエスのみことばを、彼らは受け入れていなかったからです。でも、そのみことばを真剣に受け止めていたなら、彼らが目をさまして祈っているのはたやすいことだったでしょう。だから、彼らの問題は、努力不足ではなく、みことばを心の中で退けていたことです。私たちはどうでしょうか。自分の不完全さに気づくとき、自分の努力が足りないから不完全であると思わないでしょうか。違います。信仰を もってみことばを聞かないからなのです。信仰は聞くことから始まると、ローマ書10章にあります。みことばを全面的に聞き入れるとき、みことばの前にひれ伏して、それが自分を支配するように願うとき、自分がみことばを理解しようとするのではなく、みことばが自分を支配することを望むとき、私たちは肉に打ち勝ちます。この信仰によって、私たちは勝利を得るのです。ヨハネは言いました。「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。(1ヨハネ5:4−5)」
イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して3度目の祈りをされた。
イエスはこの3度目の祈りによって、ご自分を父のみこころに完全にゆだねることができました。イエスのうちに、父のみこころが生き生きと働き始めました。ここからイエスは、何も臆せず、黙々とみこころを行われていきます。
それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。」
これは、「では、ぐっすり休んでいなさい。」と訳すことができます。彼らはこれから、イエスにつまずきます。激しい試練を体験することになります。そんな彼らのために、イエスは祈られました。彼らの眠っている姿を見て、彼らのために祈られたのです。
「見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
イエスは、たちはだかる敵に対して毅然とした態度を取られます。「立ちなさい。さあ、逃げなさい。」と言われないで、「立ちなさい。さあ、行きなさい。」と言われました。そして、「裏切るものが近づきました。」とあります。ここで、イエスは弟子のひとりであるユダとの断絶を経験されます。しかし、それはもはや、イエスにとって痛みではありませんでした。完全に父のみこころにご自分をゆだねたからです。主にゆだねることによって、何という大きなカが与えられるのでしょうか。私たちは状況が変わることを望みますが、主は私たちの心を変えて、勇敢にその状況に立ち向かうようにしてくださいます。
2B 預言の成就 47−56
イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、12弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。
使徒行伝1章16節によると、ユダが手引きをしたとありますから、彼らはユダがいなければイエスを捕らえることはできなかったのでしょう。
イエスを裏切る者は
マタイは、ユダの呼び名を変えていますね「12弟子のひとり」から、「イエスを裏切る者」と呼び名を変えています。
彼らと合図を決めて、「私がロづけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ。」と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で。」と言って□づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われた。
イエスにとっては、弟子は友であります。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。すると、イエスといっしょにいた物のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもベに打ってかかり、その耳を切り落とした。
この人がペテロであることは、他の福音書を見ればわかります。ペテロは、この戦いを肉の戦いだと間違えました。ペテロは、剣によって暗やみの力に対抗しようとしたのです。私たちもとかく、危機的な状況に陥るとき、彼のように肉的な手段に出てしまいます。何か困ったことがあるとき、まず祈ることをせず、自分たちの力や判断で問題を解決しようとするのです。しかし、イエスは言われています。
そのとき、イエスは言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びびます。」
これが現実です。肉的な手段で問題を解決しようとすると、その肉的な手段によって自分を滅ぼしてしまいます。霊の戦いでは、剣は無意味なのです。霊の戦いは、イエスのように祈りによって打ち勝つことができます。祈りは、神の与えられた武器なのです。
「それとも、わたしが父にお願いして、12軍団よりも多い御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。」
一つの軍団は6千人の編成なので、12軍団は7万2千人です。それだけの御使いを配下に置いて、イエスは、実に簡単に彼らを滅ぼすことができました。アッシリヤの8万5千人の軍隊は、ひとりの御使いによって打ち滅ぼされました。イエスは、7万2千人以上の御使いを配下につけることができたのです。しかし、イエスは、神の力を見せるためではなく、神の愛を見せる必要があったのです。次を見てください。
だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。
イエスは、父のみこころに完全にゆだねられましたが、具体的には聖書の預言にゆだねられていたのです。旧約聖書に書かれている、キリストについての預言を成就することが父のみこころであることを、ゲッセマネの園において知ったのです。イエスは、聖書の預言、つまり神のみことばを、父のみこころとして受け止めました。
そのとき、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、営ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためなのです。
56節のはじめに、「しかし」とあります。つまり対照です。人間の思惑と、神のみことばとの対照です。イエスを捕らえられるような状況はいくらでもあったのに、彼らは捕らえることはできませんでした。しかし、キリストが十字架につけられる聖書の預言が成就するために、今は捕らえられます。このように、人間がどのように努力しても、神のみことばの前にはむなしくなるのです。
そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。
イエスは、ユダの次に、他の弟子たちとの断絶を味わいました。
2A イエスの告白 57−75
1B 神の御子キリスト 57−68
イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まではいって行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。
ペテロは、イエスのあとを「遠くから」ついて行き、役人たちと「いっしょに」座りました。これは、ペテロの2番目の肉の弱さの現われです。1番目は、剣を取ったことでした。ここでは、イエスから離れて、イエスについて行こうとしたことによって、また、敵陣の中にいっしょにすわっていたことによって、現われています。彼が目をさましていないで、祈っていなかった結果です。ペテロは、イエスにはついて行きたかったのだが、遠くからついて行きました。
私たちにもないでしょうか。クリスチャンとして、祝福された喜びのある生活をしたいと願いながら、みことばや祈りから遠ざからないでしょうか。また、敵陣である役人たちといっしょにいました。私たちも、敵陣であるこの世といっしょにいることがあります。私たちは、この礼拝と自分の家では、どちらに親近感を持っているでしょうか。キリストが満ちておられる教会と、地上の家ではどちらに親しんでいるでしょうか。どちらが、ほっとすることができるでしょうか。私たちがほっとできるのは、唯一神の家である教会なのです。そこでのみ、力を得ることができます。他の場所は、すべて戦いの場所です。ここから私たちは出ていき、ここに私たちは帰ってくるのです。さもなければ、ペテロと同じようになってしまいます。敵陣に自分の身を置いていることになるのです。
さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。
彼らは偽証を求めていました。つまり、これは裁判ではありません。ある牧師は、「リンチ」と呼んでいました。判決はすでに決まっており、それに必要な証拠を偽りでもいいから持ち出しています。
偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。しかし、最後にふたりの者が進み出て、言った。「この人は、「わたしは神の神段をこわして、それを3日のうちに建て直せる。」と言いました。」
この神殿は、むろんイエスのからだのことを表していました。ご自分が復活することを、そのように言い表されたのです。
そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」しかし、イエスは黙っておられた。
イエスは、聖書の預言を心にとめておられました。イザヤ書53章7節には、こう書かれています。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
それで、大祭司はイエスに言った。 「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」イエスは彼に答えて言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
イエスは口を開かれました。それは、ご自分が神の御子キリストであることを言い表すためです。イエスはダニエル書7章13節にあるキリストの預言を引用されましたが、このように、だれにでもわかるように、はっきりとご自分がキリストであることを認められました。
すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる。」と言った。そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、こう言った。「当てて見ろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」
イエスは、キリストであることによって死刑に定められました。もし、イエスが他の理由で十字架につけられるのなら、意味はありませんでした。神のひとり子であるキリストが十字架につけられることに、大きな意味があったのです。そのために、イエスは口を開かれたのです。
2B ペテロの否定 69−75
ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。
イエスがご自分をキリストであると告白したあとに、ペテロが登場しているのは面白いことです。なぜなら、ペテロこそ、以前、イエスが生ける神の御子キリストであると告白した者だからです。
「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」
イエスが「ガリラヤ人」と呼ばれています。イエスの宣教の中心地はガリラヤだったからです。このことばは、ガリラヤの田舎者という、イエスを馬鹿にしたような意味合いを含んでいます。
しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。
ペテロは、無関心を装いました。イエスといっしょにいたことを聞かれたとき、自分は何を言われているのかわからないように振る舞いました。この時点で、ペテロはイエスのことを直接的には否定していません。しかし、イエスは前に、「3度、わたしを知らないと言います。」と言われて、ペテロのこの言葉も、イエスを否定する言葉として数えられています。これは、とても大切なことです。自分がイエスといっしょにいること、つまり、自分がクリスチャンであることを示さなければいけないとき、何も言わなかったり、何も行わなかったりすることは、□で、「私はイエスを否定します。」と言い表しているのと同じなのです。 私たちは、積極的に自分がクリスチャンであることを、言葉でもって、行ないでもって示していくしか選択はないのです。
そして、ペテロが入ロまで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」
ナザレは、小さな町でした。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」とナタニ工ルは言いましたが、ここで、「ナザレ人イエス」と呼んでいるのも、イエスを馬鹿にした言葉なのです。
それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。彼は、今度は直接的にイエスを否定しました。
しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。ガラテヤ地方のなまりです。すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。
ペテロは、誓っただけでなくのろいをかけています。つまり、イエスをのろったのです。私たちは、冗談でもイエスをのろうことばは言えませんね。ペテロも同じでした。自分の愛する主をのろうなんて、冗談でもできないと思っていました。それでもやってしまったのです。
するとすぐに、鶏が鳴いた。そこでペテロは、「鶏が鳴く前に3度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。
彼は自分の弱さを知りました。自分自身知らなかった問題を知りました。イエスをのろうような自分を知りました。彼は、激しく泣きました。みなさんには、このような体験はあるでしょうか。キリストの御名を汚すようなことを、ロにしたり行ったりしたことはないでしようか。私自身にはあります。これは、とても辛い経験です。自分は立ち直れるのだろうか、はたして主は赦してくださるのだろうか、もう自分は失格者だ、と思ってしまいます。しかし、彼の救いが一つあります。この75節に、彼が立ち直る希望が一つ記されています。みなさんはどこだと思いますか。(激しく泣いたところではない。ユダも後悔して、自殺した。)
イエスのみことばを思い出したことです。イエスのみことばを思い出したことによって、彼は悔い改め、立ち直ることができたのです。
ここに、私たちの生活の中で、キリストのみことば、神のみことばを思い出すことの重要性が示されています。ペテロがイエスを否定したのは、単純な理由からでした。十字架のことばを受け入れることをしなかったことです。他のイエスのことばは受け入れましたが、その一部を受け入れなかったことです。そのために、ゲッセマネの園で眠りこけて、大祭司のしもべの耳を剣で切り落とし、中庭で役人たちといっしょにいて、3回イエスを否定しました。しかし、イエスのみことばを思い起こしたので、彼はイエスの復活後に立ち上がり、イエスから、「わたしの羊を牧しなさい。」と命じられ、初代教会の指導者となったのです。彼の救いは、この一言、「鶏が鳴く前に3度、あなたは、わたしを知らないと言います。」ということばを思い起こしたことだったのです。この実に簡単なことが、単純なことが、彼と主との関係を決定的なものにしました。
イエスも、父なる神との関係において同じでした。父のみこころである聖書のことばを、イエスは、その場面に応じて思い出されていました。捕らえられるとき抵抗をせず、偽証に対して□を閉じ、キリストであるかと聞かれたときは□を開きました。その場その場にある、神のみことばをイエスは一つずつ思い出していかれました。私たちも同じです。肉に打ち勝つためには、みことばを聞くことです。そして、みことばを聞くことを学ぶことです。みことばを理解しようとするのではなく、みことばが自分を支配するように聞かなければなりません。自分に語られたみことばとして、受け止めなければいけません。心の中で取捨選択をせずに、全面的に聞かなければいけません。そして、聞いたら、生活の中でみことばを思い出します。自分が直面している生活の場面において、それに適切なみことばを思い出すことです。これは、私たちひとりでは決してすることができないことです。みことばを聞いて、折にかなったみことばを思い出すことは、私たちひとりではできないことです。イエスは言われました。「 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ14:26)」 私たちのうちに住んでくださる聖霊が、私たちとともにそのことをしてくださいます。みことばを聞いて悟り、みことばを思い出すことによって、私たちは聖霊に満たされた生活を送ることができ、聖霊の実である、愛、喜び、平安、親切、寛容などの実を結ばせることができるのです。
「聖書の学び 新約」に戻る
HOME