マタイによる福音書2章 「ユダヤ人の王」
アウトライン
1A 東方の博士の礼拝 1−12
2A ヘロデの虐殺 13−23
本文
前回私たちは、イエス・キリストの系図を読みました。それは、ダビデの世継ぎの子を示すものであり、まさにこの方が約束のメシヤであることを強調するものでした。しかし、その中にも四人の女性がおり、しかも三人は異邦人であり、また三人は性的な罪を犯しています。しかし、あえてそれをマタイが挿入しているところに、キリストが私たちの汚れのど真ん中に来てくださる贖いの業を見ることができます。
そしてヨセフは、マリヤが聖霊によってみごもった話を聞きました。ヨセフはダビデ家の末裔ではありますが、彼からイエスが生まれなかったことをマタイは注意深く記録しています。なぜなら、それはこの方は神の子であられ、神であられるのに人の間に来てくださった方であることを示しているからです。ゆえに、インマヌエル、「神はともにおられる」と呼ばれました。
1A 東方の博士の礼拝 1−12
そして私たちは、イエスが幼子の時の話を読みます。しばしば、ここはイエスが誕生されたばかりのクリスマスの話として出てきますが、正確に言うとそうではありません。なぜなら、「幼子」という言葉がこの章では使われているからです。ルカによる福音書にあるご降誕の話は「乳飲み子」と記されています。そちらは生まれたばかりのイエス様の話があります。ここは、生まれてからしばらくなってからの話です。後でヘロデ大王が、ベツレヘムの男の子二歳以下を全て殺した、とありますが、そこからも生まれたばかりの乳児ではなく、一歳、二歳の幼子になっていたことが分かります。
1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
「ヘロデ王の時代に」とあります。ここで、私たちは新約聖書当時の背景をよく知らないといけません。イスラエルは、ギリシヤの支配の後、ローマの支配の中に入りました。けれども、ギリシヤ時代の時に、ユダヤ人を迫害するギリシヤの王アンティオコス・エピファネスに対抗して、汚された神殿を奪還するための戦ったマカバイ家がいました。彼らが奪還してから、その地域にハスモン朝が始まりました。
けれども、その王朝も少しずつ混乱と内紛が始まりました。ヒルカノスという人が当時、エドム人の末裔であったイドマヤ人を支配して、彼らを強制的にユダヤ教に改宗させましたが、ヒルカノスにはアンティロパトスという武将がいました。彼がヘロデ大王の父です。その関係で、ヘロデはハスモン朝との関係を持ちながら、なおかつ勢力を強めていたローマの中で、上手に権力者に媚を売りながら自らの支配を強めていきました。そして、ついに紀元前38年に、名ばかりになっていたハスモン朝の王を斬首して、エルサレムに入城し、実質的なユダヤ人の王となったのです。新約時代のイスラエルを見るときは、このヘロデが建てた建造物が主なものになります。彼は建築物については天才でした。実にエルサレムに建っていた、弟子たちがなんと見事な神殿なのかと言わしめた神殿は、ヘロデが建てたものです。
そして、イエス様が「ユダのベツレヘムでお生まれになった」とあります。イエス様が、ダビデの子であることを思い出してください。そこはかつて、ボアズとルツが結婚したところであり、その子孫としてダビデが生まれたところであり、ヨセフがローマ皇帝の勅令によって住民登録のためにやってきたところです。けれども、お生まれになってから一度ナザレに戻っていきましたが、この時にはベツレヘムにある家に住んでおられました。
すると、「見よ」という注意喚起の言葉と発した後にマタイは、「東方の博士たちがエルサレムにやって来て」と言っています。東方の博士とありますが「マゴス」というギリシヤ語です。しばし「マギ」と呼ばれます。これは星占いを行なっている者たちの意味合いがありますが、ダニエル書にはそのような人たちは政府の中枢にいる学者であり、知者でした。彼らが、「東方」から、つまりユーフラテスの上流地域あるいは、下流のバビロンの地域、メソポタミヤ地方のほうから来たわけです。そして驚くべきことは、「ユダヤ人の王として拝みに来た」というのです。
なぜ、ここで「東方の博士」なのでしょうか?そして、彼らがなぜ「ユダヤ人の王」をわざわざ拝みに来たのでしょうか?聖書では神の栄光の表れとして「星」が登場します。神がアブラハムに子孫を与えられるときに、「彼の子孫が夜空に見る星のようになる(創世15:5)」という約束を与えられました。そして、星ははるか遠くからも見ることができます。実に、東方からイスラエルの近くまで来た異邦人が、メシヤを星として見た人がいました。呪い師バラムです。民数記24章17節を読みますと「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり…」。つまり、イスラエルの王が異邦人にも迫り、神の栄光の輝きをもって支配する、という預言であったのです。
そして、東方におけるメシヤ預言はそれで終わりませんでした。先ほど話したようにダニエルがバビロンにいました。ダニエルは、御使いガブリエルによってメシヤの誕生と受難を示されました。「それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者(=メシヤ)、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。その六十二週の後、油そそがれた者は絶たれ、彼には何も残らない…」(ダニ9:25,26)。この預言が主イエスによって成就したのです。ダニエルは星占い師らの長になっていました。したがってダニエルに与えられたユダヤ人の王の預言も、東方の星占い師らには知られていたことでしょう。
ここから何が分かるでしょうか?キリストはユダヤ人の王として生まれたのですが、諸国の王たちもこの方にひれ伏す、ということです。先週は、イエス・キリストの血の中に異邦人が含まれていることを見ましたが、ここでは礼拝者の中に異邦人が含まれていることを示しています。メシヤの預言は、諸国の民に及ぶものであることは、ダビデ本人が詩篇の中で何度も歌っています。イザヤは地の果てにまで至る主の支配を預言しています。60章を開いてみてください。
1 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。2 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。60:3 国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。
分かりますか、ここはエルサレムのことです。エルサレムに栄光の主が来られました。そして栄光の主が現れたので、暗闇の中にいる諸国の民がその光を求めてやってくるのです。実に王たちもその光に照らされて歩みます。
4 目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。60:5 そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。6 らくだの大群、ミデヤンとエファの若いらくだが、あなたのところに押し寄せる。これらシェバから来るものはみな、金と乳香を携えて来て、主の奇しいみわざを宣べ伝える。
エルサレムに、国々の王がやってきて、その国にある財宝を携えてきます。その中には金や乳香が入っています。11節をご覧ください、東方のマギがここに黄金と乳香をイエス様に捧げています。明らかにこれは、メシヤがエルサレムに現れて、そこに諸国の王が財宝を携えてきているという姿を表しているのです。このイザヤ預言の箇所は、再臨のキリストによって実現するのですが、メシヤが現れたことによって御国の到来を表していたのです。
ですから私たちは、イエス・キリストの系図によって、私たち異邦人であっても及ぶ神の憐れみを知りました。ここでは、異邦人であっても仕えることのできる支配者であることを教えています。
3それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
先ほど話しましたようにヘロデがユダヤ人の王でした。そこで、このような動揺がヘロデに走っているのです。エルサレムの人々も同様に恐れ惑いました。ルカによる福音書は、ローマ皇帝に対して同じようなことをしています。ローマ皇帝は当時「救い主」と呼ばれていました。また「主」とも呼ばれていました。けれども御使いはこう羊飼いに告げたのです。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(2:11)」そして事実、キリストは私たちの主となられています。王となられています。こんな極東の地域にいる私たちの心をも捉え、今も支配しておられるのです。
ところでヘロデは、非常に賢い人であると同時に、ものすごい猜疑心の強い男であることで知られています。自分の息子と妻が陰謀を企んでいると思い込んで、彼らを殺してしまいました。殺した後で妻の死を悲しみ悼んだと言われていますが、パラノイアです。ですから、東方のマギの表敬は彼にとっては大きな脅威であったのです。
4そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
これは拝むつもりはなく、調査し、ひそかに殺すためでした。その策略を後で彼らは夢で示されます。ところで、ここにいる祭司長たちと学者たちは、ミカの預言を引用しています。ヘロデ王は、ユダヤ人の王が生まれたことを少なくとも非常に真険になって受けとめていることがわかります。その一方、民の祭司長たちと、学者たちが関心を示しているような様子がありません。彼らは聖書を調べ、聖書に精通している立場にいるはずの人たちでしたが、ユダヤ人ではない博士たちやヘロデとは違って、得に興味を示さなかったのです。
これは恐いですね、自分は聖書知識にいつも触れているのに、その預言の成就にこうも鈍感になっています。私たちも気をつけなければいけません、いつもキリストの知識に触れていながら、そこに感動や反応がなくなることが起こらないように。
9彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
博士たちが見た星が、博士たちを幼子キリストのところまで先導しました。この星が何の星であるかいろいろな意見がありますが、星が超自然的に動いたと考えた方がいいでしょう。あるいは、神の栄光の現れであり、実際の星ではなかったもしれません。いずれにしても、超自然的現象です。そして彼らは、この上もなく喜びましたね。ヘロデが恐れ惑う姿と対象的です。けれども、これがキリストをひれ伏し拝む人々の心の状態です。詩篇100篇にはこう書かれています。「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。」
10 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
先ほど話したように、乳飲み子の時は家畜のいる洞窟でしたが、今は「家」の中にいます。
そして、博士たちの礼拝は、ささげた宝の中に示されています。先ほどのイザヤの預言にあったように、王を王として認める贈り物です。黄金は、王の輝かしい栄光が示されています。乳香は、「乳香樹という木の樹脂が固まったもの」です。「乳汁と果汁をかき混ぜたような不思議な半透明の色をしています。・・・加熱してみると、芳香を含んだ白煙が、ふつふつという微かな音とともにたちのぼります。」と日本人の方で実際に経験した人が言っています。神への祈りにささげられる香りを表していることでしょう。そして没薬も、ミルラと呼ばれる樹脂から取られたものです。死体の防腐剤として使われますが、なぜユダヤ人の王に対してそのような物がささげられたのでしょうか。キリストが罪のために死なれることが預言されています。この方こそ、全人類の罪の供え物となってくださった救い主であり、この方を信頼することによって罪の赦しを得ることが出来ます。
2A ヘロデの虐殺 13−23
12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。13彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
東方のマギに対しても、そしてヨセフにも夢によって、ヘロデの殺意を神は示されました。ヨセフに対しては直接、主の使いが語っています。エジプトへ逃げなさい、という命令ですが、物理的にそれは理にかなったことでした。南に下ればすぐ近いところですし、ヘロデの支配下から離れて、かつローマが支配していますから、ヘロデは変なことはできません。そこには既に、百万人のユダヤ人がいたと言われています。けれども、御使いの指示はそこに意図はありませんでした。
14そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。
これは旧約聖書のホセア書からの引用ですが、そこを開いてみましょう。11章1節です。「イスラエルが幼いころ、私は彼を愛し私の子をエジプトから呼び出した。」2節も読みます。「それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアル太刀にいけにえを捧げ、刻んだ像に香をたいた。」文脈を見れば、これはイスラエルの民族がエジプトから脱出した事実を述べている箇所ですね。それなのになぜマタイが、この箇所をキリストの預言と見るのでしょうか。
これはイスラエルのメシヤであられる方が、イスラエルの苦しみの中に入られているからです。イスラエルがエジプトの苦役から救い出されましたが、同じように神はご自分の子をイスラエルの苦しみの中に入れ、そこから救い出されるということです。イスラエルの脱出が、イスラエルのメシヤであられる方を表す型でありました。イエス様はユダヤ人に対して、このようにしてご自分がその苦しみと一体になっていることを示しておられました。この方は、紫の衣を身にまとった宮殿にはおられないで、人が虐げられているところに常におられました。十字架を待たずして、赤ん坊の時に殺される恐れを持ちながら生きていました。けれどもそれは、「神はともにいられる」、インマヌエルであられるからです。
16その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」
ヘロデはパラノイアです。先ほど話したように息子も妻も殺し、そして自分が死ぬときにはエリコの住民を殺すように命じました。そうすれば、彼が死ぬときに泣き叫ぶ声を聞くことができるだろうと思ったからです。ですから、二歳以下の男の子を殺すことなど彼にとっては何のことはありません。
けれども、ここでもマタイは預言の成就だと言っています。これはエレミヤ書からの引用、31章15節です。そこはバビロン捕囚に連れていかれる若者たちが背景になっています。バビロンはユダヤ人の男たちをラマに集め、そこからバビロンに捕え移します。それで彼らを失って二度と見ることのできない悲しみを、ラマの近くに墓があったラケルの悲しみに例えているのです。ラケルは、ベツレヘムに行く道 ― といっても実際はラマの近くですが、― そこでベニヤミンを産み、そして出産後すぐに死にました。その悲しみに例えてエレミヤは、バビロン捕囚に連れられていく女たちの悲しみを預言しました。けれども、その後で彼らの涙が拭われて、バビロンから帰還することができる預言をエレミヤは行なっています。
したがって、イエス様がエジプトに行かれてそこから戻ってくることは、イスラエルがエジプトから出てきたことと一つになるためですが、ここでは同じように捕虜として連れ去られた人々の悲しみと一つとなられています。エジプトの苦しみだけでなく、ユダヤ人にとってはバビロンの捕囚は大きな悲しみです。そこに主は一体となられたのです。
19ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現われて、言った。「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地にはいった。しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。
ヨセフとマリヤと幼子イエスは、イスラエルの地に戻りました。ただ、ベツレヘムのあったユダヤの地域ではなく、ガリラヤ地方に立ちのきました。その理由として、アケラオがユダヤを治めていたからだとあります。アケラオは、父ヘロデにさらに輪をかけて悪者でした。あまりにも悪いので、ローマ帝国は彼を王座から取り除き、そこにローマの総督を置きました。その反面、イスラエルの北部に当たるガラテヤ地方は、父ヘロデの子アンテパスの統治下にありました。彼は比較的寛容な政策をとったため、ヨセフの家族はそこに住むことが出来たのです。
ガリラヤ地方に立ちのいた話に戻りますが、ヨセフはアケラオを恐れた結果の決断であると同時に、マタイによる福音書4章以降を見ると、ガラテヤがイエスの宣教の中心地になっていることがわかります。また聖書の預言にも、ガラテヤの地方に光が上がったというものがあり、その預言が成就した形にもなったのです。ヨセフの頭の中には、そんなことまで考える余裕もなく、ただ幼子イエスを守るために、アケラオを恐れただけにすぎません。けれども、そうしたすべての状況を用いて、神は、ご自分の計画を果たされます。
23そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。
イエスはナザレという町で育ちました。マタイは再びこれを預言の成就だと言っていますが、旧約聖書のどこを見ても、これが直接に引用されたようには見受けられません。マタイは確かに「預言者」と言わないで「預言者たち」と言っていますから、直接の引用でないことは確かです。ヘブル語の中でネツェルという単語があり、それは「若枝」という意味です。「若枝」であれば、メシヤの呼び名として多く出て来ます。
イザヤ書11章をお開き下さい。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。・・」これはまさにメシヤの預言です。そこに1節の。「若枝」と言葉が使われており、ネツェルという発音をします。そこでここのナザレとは、このヘブル語の単語で言葉遊びをしているのです。
この預言は何でもないところから若枝が出てきたことを表しています。イザヤ53章にも、「砂漠の地から出る根のように育った(2節)」とあります。ダビデの父エッサイは貧しい家庭でした。その中でダビデは末の子で、羊飼いでした。卑しいところから出てきて、それでイスラエルの王となったのです。主も同じように貧しい家庭から生まれました。彼らが捧げたいけにえが、鳩であったことからそれがうかがえます。けれども、エジプトに下った時は東方のマギの贈り物、黄金、乳香、没薬が生活の足しになったかもしれません。このようにして、貧しいところから出てこられました。
このようにマタイは、注意深くイエス様が幼い時に辿られた道が、イスラエルの王として、イスラエルの苦しみと貧しさと一体となられたことを、預言を引用しながら語りました。いかがでしょうか、ユダヤ人が、イエスがメシヤであるかどうかを見るときに、「イエスという人は、我々の歴史を同じように辿っているではないか。我々と同じようにエジプトの暮らしもされた。我々と同じように、バビロン捕囚の母親の叫びも知っておられる。そして我々のダビデが貧しい境遇であったように、この方も貧しかった。」共感し、この方に惹かれていくのではないでしょうか。主が行なわれたかったのは、このことです。「神は共におられる」ことを知らせたかったのです。
けれども、元々、すべてのところに主はおられました。エジプトでイスラエルが苦しんで、泣き叫んでいたときに、実はそこにおられました。バビロン捕囚で母親が叫んでいた時にそこにおられました。そして、ダビデが貧しい家庭の末っ子であったときに、ダビデが独りで立琴で主に歌をうたっていたときに、その対象はこの方イエスだったのです。この方が肉を取って現れたに過ぎません。
そして、イスラエルと同じところに立って、その悲しみを担われて、そこでなおかつ解放を与えられるのです。ゆえに、私たちはこの方に従っていくことができます。この方を王として仰ぐことができます。この方に捕えられて生きることができます。異邦人の王は虐げますが、イスラエルのまことの王は、愛によって支配されます。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。(コロサイ1:13)」