マタイによる福音書3章 「イスラエルの前に現れた方」
1A バプテスマ・ヨハネの説教 1−12
1B 悔い改めの備え 1−3
2B 説教者の紹介 4
3B 説教の詳細 5−12
1C 罪の告白 5−6
2C 実 7−8
3C さばき 9−10
4C 来るべき方 11−12
2A イエス・キリストの受洗 13−17
1B 正しいことの実行 13−15
2B 御霊と御父の確証 16−17
本文
マタイによる福音書3章を開いてください。私たちは今、イエス・キリストの生涯を学んでいます。1章は、イエスが明らかに旧約聖書で約束されたメシヤであることを系図によって明らかにしました。けれども、その方は「インマヌエル」であられ、人とともにおられる神であることが示されました。そして2章は、ユダヤ人の王としての徴を星の中で見た東方の博士の話から、ユダヤ人のみならず異邦人にも及ぶ支配をメシヤがもたらすことを明らかにしつつ、エジプトに下り、そのためにベツレヘムの男の子の虐殺が起こり、そしてナザレに戻り、そこで質素な生活を送られたことをマタイは書き記していました。これは、イスラエルの辿ってきた道、その苦しみと一つになられるためであられます。共に生きられることによってこそ、この方が真の解放者であることを示しました。人の弱さを身にまとい、それで罪からの救いを与えられる方です。
3章は、イエス様がおよそ三十歳になられて成人してからの話であります。公にイスラエルの前に出てこられる時です。
1A バプテスマ・ヨハネの説教 1−12
1B 悔い改めの備え 1−3
1 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。
「バプテスマのヨハネ」が現れます。ヨハネという名前は非常にありふれていたので、当時の信者たちは「バプテスマのヨハネ」と特定しました。「バプテスマ」は浸すという意味で、ここでは水の中に浸すことを表す意味です。彼は、ルカ伝の記述に従えばイエス様の親類になります。身ごもったマリヤがヨハネの母になるエリサベツのところに三ヶ月ほど暮らします。そこで天使ガブリエル、またエリサベツの口、マリヤ自身の賛歌から、ヨハネは成長してから、イエス様が親類ということ以上にメシヤであるとの認識を持ったことでしょう。そして彼本人は、預言者になることを知っていました。ルカ1章76節に、父ゼカリヤがこう預言しています。「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、(ルカ1:76)」
彼が動いていたのは「ユダヤの荒野」です。死海の西から北に広がる荒野ですが、今でもイスラエルに行けばエルサレムから出て東に向かうと、その荒野を十分に満喫することができます。そこに行けば分かりますが、砂漠にある一種の清らかさがあります。そこにかつてはダビデがサウルから逃げていた時に使っていた要塞があり、そしてヨハネと同じ時代には、エッセネ派と呼ばれるユダヤ教の一派が、メシヤの到来を熱心に求めて、人里離れて、清めに徹して共同生活を送っていました。
そこで彼が宣言あるいは宣告しはじめたのが、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」であります。ここで改めて約四百年ぶりに神の声が聞かれました。マタイによる福音書の前は、旧約聖書のマラキ書です。マラキ書は、バビロンから戻ってきたユダヤ人たちが神殿を再建してからしばらくの時が経っていた時に書かれました。すでに彼らの礼拝の中には疲れが出ていました。いけにえが心のこもっていない形式的なものになっていました。それで主が彼らに悔い改めを迫っておられました。そして、マラキ書4章を読んでみます。
4:1 見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。・・万軍の主は仰せられる。・・4:2 しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。4:3 あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行なう日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。・・万軍の主は仰せられる。・・4:4 あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。4:5 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
主が到来されます。そして神の国を立てられます。けれども、悔い改めない者たちは、メシヤの到来の火によって焼き尽くされます。「義の太陽」というのはメシヤの呼び名です。そしてモーセが律法を与えられたときのシナイ山における恐ろしい光景を思い起こさせています。そして主が来られる前に、死なずに天に上がったエリヤが来ると宣言しています。そのエリヤの宣教によって、家族の中で回復が起こるような悔い改めが生じます。もしそれがなければ、この地は呪いで立ち滅ぼされるという警告です。
このことが、ヨハネの宣教の言葉の裏に隠されています。ヨハネの父ザカリヤに対して天使ガブリエルは、こう予め告げました。「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子供たちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。(ルカ1:17)」エリヤ本人ではないものの、かつてエリヤが北イスラエルがアハブの統治の中で罪の深みに陥っているときに神に立ち返らせたように、ヨハネも御霊によって同じ働きをするということです。神の国が来る、そこで義なる太陽メシヤが来られる、だから悔い改めなければたちまち打ち滅ぼされる、という宣教です。
そしてマタイは、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」というイザヤの預言を引用しています。ここも開いてみましょう、イザヤ40章です。イザヤの預言は1章から39章までが神の懲らしめであり、40章からは神の慰めの言葉が中心に語られています。40章では、バビロンに捕え移されたユダヤ人に対して、メシヤが戻ってこられる、あなたがたもエルサレムに戻ってくることができるという慰めから始まっています。3節から読みます。
3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」
当時の「大路」または幹線道路は、文字通りのハイウェイでした。石や土を積み上げて、少し高くしてそれを平らにして道を作りました。そして今ここで、主の栄光が現されるために、つまりメシヤが来られるために、その道を整えなさいという言葉になっています。当時、王がある地域を通ることが決まっている時に、先駆者が来てそこの道をこのように整えなさいと告げに来た人たちがいました。ここにあるのはそのイメージです。そしてマラキ書にあるように、ここは王が来られる前に、でこぼこになっている心を平らにしなさい、つまり悔い改めなさいという言葉になっているのです。
2B 説教者の紹介 4
4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
預言者エリヤがまさに、このような格好をしていました。エリヤが預言を行なっていた時は、主からの火が降ってくるなど、火による裁きが前面に出ていましたが、ヨハネのこの格好を見てもイスラエルの人は、これから神の国が到来する、心を整えなければいけないという差し迫った危機感を抱いたことでしょう。
3B 説教の詳細 5−12
1C 罪の告白 5−6
5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
「ユダヤ全土」は、エルサレムから南の地域です。ヨルダン川沿いの全地域とありますから、そうとうの広範囲から人々がやってきています。ここでのギリシヤ語はこれら地名が擬人化されて動いているかのように書かれているそうです。つまり、霊的な地震が起こり始めたと言ったらようでしょうか、メシヤ到来の雰囲気が立ち上がっていました。
そしてヨハネはバプテスマを授けましたが、ユダヤ人は水の洗いを始め、全身水に浸る儀式は頻繁に行なっていました。けれどもここでは、ヨハネは特別な意味を持たせています。「罪を悔い改めて、メシヤ到来の備えをする」バプテスマです。ヨハネが宣べ伝えた言葉に自分が心と体をもって応答したことを表明することです。
これと、キリスト者のバプテスマと混同しないようにしてください。ローマ6章には、私たちキリスト者が受けるバプテスマは、キリストが死なれたこと、葬られたこと、そしてよみがえられたことに自分を一体化させるバプテスマです。キリストが死なれたことによって、罪に支配されていた自分が死んだことを認めます。そしてキリストが墓からよみがえられたように、キリストの新しい命の中で生きるようにされたことを表明します。これは、「私はイエス・キリストに付く者になりました。」という表明であります。日本的に言えば、「私はこれまでいろいろな人に、またいろいろな状況に合わせて生きてきましたが、今度は一心に、イエス様に合わせて生きていきます。」という表明です。
2C 実 7−8
7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
ものすごい勢いの言葉ですね。「パリサイ人やサドカイ人」とありますが、この二つのユダヤ教宗派が共に並べられているということは、エルサレムからの指導的立場にいる者たちであることが分かります。その人たちに向かって「まむしのすえたち。」と叫びます。彼らは常に律法を読み、神殿で礼拝を捧げていますから、これと言った罪を見つけることはできません。けれども、ヨハネも、そしてイエス様ご自身も、最も厳しい言葉をかけたのはこの人たちであります。何が問題なのか?「プライド」です。自尊心、あるいは高慢が問題の根っこにあります。
だから、その高慢を粉々に打ち砕くために、火を噴くような言葉を出しているのです。「まむしのすえたち」と言っていますが、焚き火をするために枝をかき集めて火をつけたら、その中にまぎれていたまむしが出てきたような光景です。それで次は、「だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」であります。言い換えれば、彼らは、自分たちは御怒りを免れることができると心の中で思っていました。けれどもヨハネは大切なことを話します。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」悔い改めは、他の人々もその変化が認めることができるような実が結ばれていなければ、真実の悔い改めではありません。
3C さばき 9−10
9 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
「われわれの先祖はアブラハムだ。」という言葉には、アブラハムへの契約が背景にあります。アブラハムの子孫には、割礼が命じられています。それによって男子は契約の民の中に入ったことを示していますが、彼らの中には割礼を受けているから、そしてイスラエルの子孫から自動的に神の国の中に入れる、救われる、という意識がありました。そこでヨハネは、その民族的自尊心を粉砕するために、「この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことができる」と言いました。彼らを石ころと同類にしたのです!けれども事実、異邦人に対して神は救いの手を伸ばして、異邦人をも信仰によるアブラハムの子孫としてくださいます。
10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
「主がいつか来られるだろう」ではなく、「あなたの根元に斧が置いていますよ」とヨハネは言っています。これは先ほど読んだマラキ書4章1節からの言葉です。「見よ。その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行なう者は、わらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。・・万軍の主は仰せられる。」
「実を結ぶ」ということは、神を信じている、キリストを信じているということが、実質となって現れている時にも、イエス様は用いられました。もしこれがなければ、同じように火の中に投げ込まれることを話されました。これは行ないによって救われることではなく、信仰の従順によって自分の人生の主導権をイエス様に明け渡すことです。そして聖霊が実を結ばせてくださいます。
4C 来るべき方 11−12
11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
悔い改めに導いているのは、あくまでも先駆者の働きであり、実体であられるメシヤは、私よりもはるかに力強い、ということです。そしてヨハネは、この方の前にあっては自分が無いに等しいことを、「はきものを脱がせてあげる値うちもない」という言葉で言い表しています。当時ははきものを脱がせるとか、足を洗うとかいう行為は、しもべが主人に対して行ったことでした。
そして、「あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と言っています。聖霊のバプテスマについては、水による清めに続いて御霊ご自身の降り注ぎがあることを、エゼキエルが預言していました(36:25‐26)。ですから、聞いていた人々はそう真新しいことではなかったはずです。
そして、このことが使徒の働きにおいて実現していきました。イエス様が弟子たちにこう命じられました、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。(使徒1:4-5)」そして彼らは聖霊の満たしを五旬節の時に受けましたが、天から激しい風が吹いてくるような響きがあり、炎のような分かれた舌が現れた、とあります。聖霊と火によるバプテスマです。私たちキリスト者の道は、次のとおりです。水のバプテスマに表れている、イエス・キリストにつく生活を歩みます。そして聖霊のバプテスマそのものを受けて、力強くイエス・キリストの証言をします。
12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。
ここでヨハネは、聖霊のバプテスマの「火」を、神の裁きの火として話しています。脱穀をするときは、殻は打ち場で掻き揚げて風に飛んでいくようにさせます。そして麦は倉に納めますが、脱穀場はそれゆえ、殻で散らばっています。そこをきれいにするのは火で焼くことです。これを消えることのない火、つまり地獄の火で焼き尽くすと宣言しているのです。
2A イエス・キリストの受洗 13−17
このようにして、力強い主の到来を告げたヨハネですが、実際のメシヤの現れは、ヨハネ自身あまりにも意表をついたものでした。
1B 正しいことの実行 13−15
13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
イエス様がガリラヤのナザレからヨルダンに来られたのは、なんとヨハネによるバプテスマを受けるためでした!ヨハネのバプテスマは、罪の悔い改めにつくバプテスマです。なぜ、メシヤご自身であられる方が、そのバプテスマを受ける必要があるのか?いや、決してそんなことがあってはならない、私自身があなたの前で悔い改めなければいけないのに、という訴えをしています。けれどもイエス様は言われました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」
この言葉でヨハネは承知しましたが、これは一体どういう意味合いがあったのでしょうか?先ほど読んだマラキ書4章には、メシヤが「義の太陽」と呼ばれていました。この方ご自身が義なるお方です。今イエス様は、「正しいことを実行する」と言われました。つまり、ヨハネ自身は理解できないけれども、この方が行なわれることは正しいのだからということで承知したのです。つまり、信仰でこの方のなされることを受け入れたのです。
そして次に、イエス様はヨハネの宣教に同化されました。主がガリラヤで宣教を行なわれた時も、4章17節ですが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」という言葉で始められました。ヨハネは悔い改めを説きましたが、イエス様が説かれた悔い改めは5章に表れる山上の垂訓の「八つの幸い」の中に出て来ます。
そして何よりも、イスラエルの民、ことに罪を悔い改めメシヤを受け入れる残りの民と一体化するためにバプテスマを受けられました。これがマタイ1章から続いているテーマであります。インマヌエルなる方、「神が私たちとともにおられる」という方です。私たちはこの方に仕え、この方に従う前に、この方が私たちに仕えて、終わりにはご自分の命を贖い金とされたのです。
そして主ご自身が、後にこの方にしたがうための模範となられました。キリスト者として生きていくならば、キリストご自身が人の前でご自身を明らかにしたように、人の前で水のバプテスマを受けて自分のことを明らかにする必要があることの模範を示されたのです。
2B 御霊と御父の確証 16−17
16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
三位一体の、他の二格、つまりご聖霊と父なる神が、イエス様のバプテスマをメシヤの公生涯の始まりとして認証しておられます。イエス様は、「すぐに水から上がられ」ましたが、多くの人が全身水に浸かるバプテスマに水に沈め込められるのかという恐れを抱きますが、ご安心ください、すぐに水から出てきます。
そして神の御霊は「鳩のように」下ってこられた、とあります。ヨハネは、「聖霊と火のバプテスマ」と聖霊の働きを火といっしょにして話しましたが、ここでは聖霊が鳩の形をして降りてこられました。鳩といえば、ノアの箱舟から放たれた鳥です。洪水の裁きの後、土地が乾いたことを示す、安息と平安を象徴する動物です。私たちは、先ほどのヨハネの説教のように、パリサイ人とサドカイ人の自尊心をことごとく焼き尽くす聖霊の働きも必要ですが、へりくだられたキリストの中にある真の平安をもたらす御霊の働きも必要です。
そしてメシヤが来られる時には御霊によって油注がれていることが預言の中にあります。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、 (イザヤ61:1)」聖霊が臨まれたのは、メシヤ活動としての始まりです。
そして天から声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」この方が神の御子ご自身であることを神は認証されました。詩篇二篇に、メシヤに対して神が、「これは、わたしの子」と宣言しておられます。メシヤは神ご自身の子、神ご自身であられる方です。イエス様は他に二回、父なる神からの認証を受けられます。高い山に上がられて変貌されたときと、十字架につけられる直前に、天からの声がしました(ヨハネ12:28)。
このようなへりくだりから出発されたイエス様ですが、それは次の章も続きます。私たちにつきものの「悪魔の誘惑」を、主ご自身も受けられるのです。
イエス様が受けられたバプテスマを改めて考えますと、ヨハネが宣べ伝えた火による神の御国の到来を決して否定することなく、その延長としてご自身の宣教を始められましたが、同時に柔和とへりくだりの中に人々を導く新しい宣教であることが分かります。私たちは、ヨハネの宣教はキリストがやがて来られる神の国の到来を表していることを知っています。再臨のキリストによって実現します。神は激しい怒りをもって、この日本を、そして周りの人々を裁かれます。そして悔い改めない教会に対しても裁きを行なわれます。パリサイ人やサドカイ人のように自分は免れると思っているその高慢に対して、火をもって臨まれました。しかし、人を悔い改めに導くのはキリストの示された柔和さと謙遜によるものであります。この二つを兼ね備えたものが御国の宣教であることを、イエス様があえてヨハネのバプテスマを受けられたのだと思います。