1A 八福 1−12
1B 自分に対して 1−5
2B 主に対して 6−12
2A 世に対して 13−16
本文
マタイによる福音書5章を開いてください。ついに、私たちはイエス様の御国の福音である、「山上の垂訓」に入ります。前回の学びで、イエス様が「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。(4:17)」と言われたところを読みました。そして弟子たちを呼び出し、それからガリラヤ全土で「御国の福音」を宣べ伝えた、とあります(23節)。天の御国が、神の現実が今や近づいたのです。そのしるしとして、数多くの人々の病と患いが癒されました。大勢の人々が、広範囲からやって来て、イエスについて行きました。
1A 八福 1−12
そして、イエス様はガリラヤ湖畔にある丘に上がられます。ガリラヤ湖の北西にある丘で、カペナウムから西側のどこかであると考えられています。1節に、「この群衆を見て、イエスは山に上り」とあります。そこでしばしば「山上の説教」あるいは「山上の垂訓」と呼ばれます。主はこれから、5章から7章までにおいて御国の良い知らせを宣べ伝えます。天が地上に迫ってきた福音です。神ご自身が来られて、この地上にご自分の国を立てられる良い知らせです。
旧約時代においては、神がイスラエルの民にご自身を現されたのはシナイ山であることを思い出してください。今はガリラヤにある山から語られます。シナイ山においては、恐ろしい姿で、聖なる神が語られましたが、主はこれから「幸いです」という言葉から語られます。
そしてイエス様が「悔い改めなさい」という言葉を宣べておられたことを思い出してください。当時のユダヤ人が、異邦人の支配、具体的にはローマの支配があったのですが、それからの解放を願い、メシヤを待望していました。そこにイエスが現われた訳ですが、この方が語り始められたメシヤの国は、びっくり仰天するものばかりでした。いっさい政治的、軍事的な要素を含んでいなかったのです。敵はローマではなく、むしろ「自分自身」であることから語られました。これはある意味でユダヤ人の過激派よりもさらに過激です。過激派であれば自分自身を変える必要はありません。けれども、自分の心の根っこから変えられなければいけないことだったからです。
これから私たちが読むところは、良い知らせの原点です。救いの教えとしては、私たちはすでにローマ人への手紙を学びましたが、ここではその「心」を言い表しているといって良いでしょう。御霊によって新しく生まれた者がどのような者たちであるかを、イエス様ははっきりと教えられました。
1B 自分に対して 1−5
5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
大勢の群衆が付いてきていました。彼ら全体に聞こえるように語られましたが、けれども、「弟子たち」を近くに引き寄せておられます。群衆と弟子の違いを、福音書ははっきりと分けています。群衆は、イエスに付いてきている人ですが、弟子たちはもっとイエスに近づき、イエスから聞き、それを学び、そして従っている人々です。弟子たちは聞き入っていますが、群衆は聞こえているだけかもしれません。イエス様は弟子たちに最後に、「あらゆる国の人々を弟子としなさい。(マタイ28:19)」と言われました。今、私たちがこのように行っていることが、まさに弟子としていくことです。このような近しい関係の中で、キリストの命令を聞き、学び、そして守り行っていくのです。
「おすわりになると」とありますが、当時はユダヤ教のラビが座り、聞く者たちが立っていました。今のキリスト教会とは反対ですね。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
神の御国の中に、その現実の中に入ることのできる方法は、「心が貧しくなっている」ことです。これはもちろん、物が貧しくなることではありません。貧しい人でも、心は高慢になっていることはいくらでもあります。ここにあるように「心」が貧しくなっていることです。
「貧しい」とは、まったく何も持っていない窮乏状態のことを指します。ある日本人は、ここを「心の乞食は幸いである。」と訳しました。自分の心で大事だと思っているものが全て剥ぎ取られた時、幸いだということです。
先日、最近、水のバプテスマを受けられた方と話す機会がありました。彼は、自分の奥さんが信仰を持っていて、その話を聞くと、日本人が信じている神道や仏教の教え、例えば「親切にしなさい」というような教えと同じではないか、なぜキリストなのか?という疑問が思い浮かんだそうです。けれども、妻がキリストに従っているのだから、私も従う決意をした、と分かち合ってくださいました。私は、「まず十字架を知る必要があるでしょう。十字架はつまずきだと書いてありますが、これまでの自分の頑張りがすべてそこで否定されます。そして、罪を知る必要があります。それは単なる犯罪のことではなく、自分にまとわりつく離れない性質です。」
この人のように、自分のさらなる努力で、キリストに従っていこうとする人が数多くいます。けれども、天の御国への入口は、これからさらに何かを付け加えるのではなく、その反対ではぎ取られることです。自分には全く、良きものがない、誇るべきものがない、どうしようもなく救いようがないと知るときに、その人は幸いだとイエス様は言われるのです。
そのような心の貧しさは、聖なる神に出会うことによって訪れます。預言者イザヤは、王座に座しておられる主を見て、「ああ、私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者である。(イザヤ6:5)」と言いました。ダニエルは主にお会いして、「私の尊厳は破壊に向き、力を失った。(ダニエル10:8)」と言いました。イエスの弟子ペテロは、「主よ、私のようなものから離れて下さい。私は罪深い人間ですから。(ルカ5:8)」と言っています。真の神との出会いによって初めて、私たちの高慢は取り除かれます。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
心の貧しさが訪れると、次に来るのは「悲しみ」です。ここの「悲しむ」は、愛する者に先に絶たれて泣くことを意味します。私たちにある自尊心、頼っていたものが取り去られる時に、それらは愛していたものですから深い悲しみがあります。
けれども、それを埋めるように私たちは「慰められ」ます。全てが剥ぎ取られて、親友を失ったかのように泣いている時、慰められます。イザヤ書40章は福音の始まりを告げていますが、1-2節にこう書いてあります。「「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」」
イエス様は、二人の祈りを対比されたことがありますが、パリサイ人のそれと、取税人のそれです。取税人の祈りはこのようなものでした。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』(ルカ18:13)」彼は罪に対して悲しんだのです。そしてイエス様は付け加えて、「この人が、義と認められて家に帰りました。(14節)」と言われました。慰めを受けたのです。
5:5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
「心の貧しくなり」、「悲し」めば、その後に「柔和」さが与えられます。この言葉の反対語は「仕返し」です。自分には善と呼ばれるものが何もないことを知っているので、義や裁きをすべて神に任せます。神のみがすべてを支配しておられることを知ります。
ダビデの生涯を知れば、何が柔和であるかを知ることができます。彼は王サウルから殺害されそうになっていました。彼は逃げていました。エン・ゲディという、死海のほとりにある、洞窟の多いところに隠れていました。するとたまたま、サウルが自分たちの隠れているところに入ってきて、そこで休んでいたのです。部下は彼にこう言ったのです。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われた、その時です。(1サムエル24:4)」自分たちの洞窟にサウルがはいって来たのですから、それこそ神の導きだと誰でも思うでしょう。けれども、ダビデは部下の言葉に影響されて、彼の上着のすそを、こっそり切りました。けれども、それだけで彼の心は痛みました。それだけ自分の手で裁きを与えることに、神の主権に侵害したと思ったのです。
そこで柔和な者の約束は「地を相続する」であります。これは、神の国を相続するということです。神の主権を知っている者こそが、神が与えられる相続を受ける資格があります。詩篇37篇8-11節のことを、主はお考えになっていたことでしょう。「怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。(口語訳)」
2B 主に対して 6−12
ここまでは御国の福音は、自分自身に対する態度の変化がありました。けれども、柔和になった者は今度は神の義を求めるようになります。次をご覧ください。
5:6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
自分の義ではなく、神の義を求めます。すでに自分の義は、神の前では不潔な着物のようなものであることを知っています。それで神の義を求めるのです。主が言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)」「飢え渇いている」とありますから、絶えず願い求めている姿です。具体的には、後に来る神の国を求めています。「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(2ペテロ3:13)」正義は、神の国にのみ属していることを知っているので、私たちの国籍が天にあるという意識に変わります。この地上においては旅人であるという意識が芽生えます。
そして約束は「満ち足りる」ということです。パウロは、これは復活によって与えられることを教えています。「キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:9-11)」今、生きている時に復活の力で満たされることができるし、また将来、復活の体を神が与えられることによって、その飢え渇きは完全に満たされます。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
神の義を求める者は、憐れみ深くなります。自分の義ではなく、神の義を求めるからです。イエス様は後で、「裁いてはいけない」ことを教えられます。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(マタイ7:1-2)」裁きというのが神の領域にあることを知るようになります。命を与えるのも取るのも神のみが行ないますが、もしそれを人が行なったら殺人です。それは神の領域に侵害したことに他なりません。同じように、裁きや復讐も神に属しています。これに手を触れることは神の領域に同じように侵害しているのです。
それで、私たちが憐れむのは神への健全な恐れによって、憐れみます。「その人はあわれみを受けるからです。」とあります。人に憐れみを示すことが、自分自身が神の憐れみを受けることにつながっていることを知ります。チャック・スミス牧師はこのように言いました。「私は間違いを犯すなら、憐れみのほうで過ちを犯したい。人を誤って裁くのではなく、人を誤って赦すことを選びたい。」誰かが罪を犯して悔い改めた時に、その悔い改めか真実なものかどうか完全に分からなくても、憐れみを示すことを選ぶ、ということです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
主を恐れることによって憐れみ深くなることは、心の清さが求められます。不純な動機のままでは憐れむことはできません。そこで主は「心のきよい者は幸いです」と言われます。そして約束が「神を見る」でありますが、これは神を知ると言い換えてもよいでしょう。心がきよくなければ、神を知ることができません。自分の思いの中で罪を楽しんでいると、それができません。「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。(詩篇66:18)」
私たちは以前、ヨハネ第一を学びました。そこで、光の中にいることの必要性を学びました。「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1:6-7)」私たちが聖めの中を歩んでいる時に、御子イエスの血が私たちに神との交わりを持つことのできる力を与えてくれます。罪を悔い改めて、その罪によってキリストが血を流されたことを信じる時に、良心が清められて、神を見る、あるいは知ることができます。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
神の義を知り、次に神の聖さを知り、その次に神の平和を知ることができます。イザヤ書には、神の御国の福音が、平和の福音であることを教えています。「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。」私たちは信仰によって、神から義と認められます。そして、神との平和を持つことができます(ローマ5:1)。神が私たちの罪によって私たちに敵対することがなくなったからです。
そして、神との平和は神の平和につながります。私たちの心が、自分の理解を超えたところの神の平和で守られるのです。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)」
それから、人との平和につながるのです。「あなたがたは、自分の関する限り、すべての人と平和を保ちなさい(ローマ12:18)」多くの人が、初めに人と人との平和を求めます。世界はなんと平和を好むことでしょうか。けれども、ここに「その人は神の子と呼ばれます」という約束があります。人と人との平和は成り立ちません。初めは神との平和、そして神の平和が自分を満たし、それで自分に周りに平和を造ることができるのです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
非常に興味深いです。心の貧しさから始まりました。天の御国は、心の貧しい者のものでした。最後は義のために迫害される者ですが、天の御国で終わります。つまり、この八つの「幸い」はこの地上における天の御国の到来を表しているのです。そして主イエスが来られて、天の御国が地上に迫り、その中に入ってくる人たちがこのようにいます。コロサイ書では、この移行をパウロがこう話しています。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。(コロサイ1:13)」そうすることによって、この地上の人々との摩擦が生じます。新しい国が既存の国に入りこんできたのです。そこでの地に属する人々の反応が「迫害」です。
そしてもう一つ興味深いのは、平和を造る者は幸いであると主は言われながら、義のための迫害される、ということは大きな対立があるのではないか、ということです。なんとイエス様はマタイ10章でこう言われています。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。(マタイ10:34)」この後にイエス様は、家族があなたがたの敵になるという言葉を残されています。
ここで考えなければいけないのは、再び「真の平和とは何か」ということです。それは、第一義的に神との平和です。一人ひとりが、罪の赦しの必要があります。家族の一人ひとりにも罪の赦しの必要があります。その心の一新があってこそ、真の平和が訪れます。私の父は、いろいろ私に懐柔策を持ってきました。清正がキリストへの信仰を捨てないのは分かった。そして先祖の墓の前に手を合わせられないのもわかった。でも、私が死んだ時には葬式をやってほしい。キリスト教式でよいから、きちんと弔ってほしい、と。私は同意しませんでした。口には出しませんでしたが、心でこう言いました。「お父さんが生きているうちにイエス様を信じなければ、キリスト教式に葬儀をしたところで、私は気が狂いそうになる。生きているうちに信じてください。」
妥協しなかったので摩擦がありました。けれども、妥協しなかったので今、父そして母の心には神の平和があります。そして、私との間にも御霊の一致があります。それは家族の一致よりも、もっともっと強い絆です。平和を造るのは神の子どもとなることであり、そしてそのためには迫害される、反対されるという過程を踏むことになります。
そして迫害されるのは「義」のためです。そしてイエス様はそれが、11節で「わたしのため」と言われています。イエス・キリストの十字架を受け入れるということは、まさに神の義を受け入れることです。十字架を受け入れるということは、「あなたがどうしようもなく、救いようもなく、何ら自分のうちには善いものがない、霊的な乞食だ。」ということを認めることです。けれども、地に属する人々はそれを嫌います。表面的に行ないを改めることは良しとしても、このような革命的な、過激な心の変革は望みません。そのために迫害します。
5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。
ここで興味深いのは、主語が変わっていることです。10節から変わっていましたが、それまでは、「心の貧しい者」など、そこは三人称複数形になっていました。英語で言えばtheyです。けれどもここから二人称に変わります。「あなたがたは」になっています。つまり、これまでは群集を含めた多くの人々に語られていましたが、手前にいる弟子たちに目を向けてそれで語っておられます。弟子たちは、これらの迫害を受けるのです。
イエス様が注目しておられるのは、「罵り」「悪口雑言」です。つまり口による中傷です。ダビデも詩篇の中で主に叫び求めているその多くが、口による攻撃です。口には大きな力があります。「同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。(ヤコブ3:5)」いろいろな言葉があります。キリスト者としての弁明をすると、「クリスチャンのくせに、あなたはお墓の前に手を合わすこともできないの!」であるとか、「クリスチャンのくせに」という言葉がグサッときますね。
けれどもイエス様は、「喜びなさい。喜びおどりなさい。」と言われました。ヤコブも、「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。(1:2)」と言いました。できます。神の国のことを思えばできます。反対している人がいるということは、確かに天の御国が地上にせめぎ合いのように入り込んでいることの徴であります。そして、イエス様のことを考えれば喜べます。この方を主と仰いでいるのですが、主人と同じように自分もなっていること自体、名誉あることです。「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。(使徒5:41)」
そして、「天における報いが大きい」とイエス様は言われます。天の御国に入るだけでなく、そこに入った後の報いが大きくなります。
2A 世に対して 13−16
ここまで御国が到来したときの良い知らせを見ました。まず自分の心から始まり、それから神に対する思いへと移りました。そして人に対する態度に変わり、最後はこの世における迫害で終わりました。自分、そして神、そして他者、それからこの世という進展です。そして13節から16節は、さらにこの世に対して働きかける、キリストの弟子の姿を見る事ができます。私たちの信仰が内面に終わるだけでなく、この世に対しての強い影響力を持ちます。
5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
イエス様は、弟子たちを「地の塩」そして次に「世界の光」と定義づけました。まず地の塩からですが、塩には二つの効果があります。一つは、渇きを引き起こすことです。ポテトチップスにはたくさんの塩が付いていますが、それはわざと他のジュースを買ってほしいためだと聞いたことがあります。キリスト者がこの地上にいることによって、周りの人たちはまったく違う国がそこに存在しているのではないか、と思うのです。突っ切っている、と言ったらよいでしょうか、自分たちが地に属している者であることを感じ取ります。何かが違う、それは何なのだろうと思い、もしかしたら本人もキリストを探ってみようか、と願うようになります。
次の塩の効果は「防腐剤」です。塩をまぶすことによって、肉など腐敗の進度を遅らせることができます。地に属する人々が、キリスト者を見て渇きを抱くだけでなく、自分の願っている悪を完全な形で行なうことのできない力を受けます。神の憐れみによって、この世が完全な形で悪に陥ることがないように作用します。テサロニケ人への手紙第二2章で、「不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。(7節)」とあります。反キリストが、地上にある教会の存在によって、聖霊によって、その現われが引き止められているのです。
そして興味深いのは、「塩気をなくしたら、役に立たない」ということです。イエス様は同じ事を異なる喩えで話されましたが、ぶどうの枝はぶどうの幹についていなければ、火で焼かれる燃料にしかならない、ということを言われました。私たちはしばしば、「もう少し、この世的になったほうがよいのではないか。」と感じることがあります。この世にあるものを取り寄せることによって、それでこの世の人が教会にも来てくれるのではないか、と思います。いいえ、この世ははるか先を進んでいます。自分が最新のこの世の情報を得ていると思っても、すでに十年、二十年は時代遅れなのです。ですから、この世から捨てられるのです。
どんなに愚直に思えても、時代遅れに思えても、この地上にはないものが教会にあるのです。だから、どのようにださく見えても、やはり人は教会に来るのです。
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
旧約聖書の中には、イスラエルが世界の光であることが宣言されています。そこでキリストにしたがう弟子たちこそが、そのイスラエルの使命を果たせることを教えておられます。もちろん異邦人クリスチャンも、その使命を受けています。
地の塩が、この世にあるものを取り寄せることによって塩気をなくしてはいけないという消極面を話している一方で、世の光は、この世に出て行かず内にこもっていることによって、その役割を果たしていない積極面を話しています。例えが、一つは「山の上にある町」です。日本では木が生い茂っていて、想像ができないかもしれませんが、イスラエルは岩山が多く、木も背が高くなく、まばらなのではっきりと遠くから認めることができます。もう一つの例えは「燭台の上に置くあかり」です。もちろん、それは外に光らせるためです。
ですから私たちが、自分の信仰、神に対する希望をただ心の中に留めていくことだけでは不十分だということです。信仰とは公にするものです。口で告白するものです。そして教会のみならず、世の人に対しても明らかにすることです。これには危険が伴います。なぜなら、自分がキリストにそぐなわないことを行なえば、すぐに周りの人はそれを認め、「だからクリスチャンは・・・」と言って、キリストの名が侮られる可能性があります。けれども、私たちはキリストの使節です。出て行き、キリストの権能を携えて、その力を行使する者たちです。
これが御国の福音です。イエス様は、しもべの姿を取られました。そしてイスラエル人たちの弱さの中に入られました。それによって、内から外へと影響を与えられました。御国の福音は、私たちの弱さから始まります。けれども、それは外からの変革よりもより強力です。内から少しずつ、しだいに外へと向かいます。そして世に対して、神の名があがめられるのです。