マタイによる福音書5章 「天の御国の宣言」
アウトライン
1A 天の御国の特徴 「悔い改める者」
1B 消極的側面
2B 積極的側面
2A 天の御国の影響
1B 地の塩
2B 世の光
3A 天の御国の王
1B 律法の完成者
2B 律法を行い、教える者
4A 天の御国の義 律法学者との対照
1B 殺人
2B 姦淫
3B 離別
4B 誓い
5B 復讐
6B 敵
本文
今日はマタイによる福音書5章を学びます。
この章のテーマは、「天の御国の宣言」です。私たちは前回まで、王なるキリストの準備を学んでいましたが、5章からは、キリストの実際の活動が書かれています。イエスは、天の御国を宣言することによって、活動を開始されました。「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」と宣言されたのです。5章から9章まではその宣言の部分であり、山上の垂訓と呼ばれる5章から7章は、宣言そのものの内容です。8章から9章までで、その宣言の立証をされています。
したがって、山上の垂訓は、イエスの天の御国の宣言です。主に3つの部分に分かれます。1つめは、天の御国の構成員についてです。天の御国に属するものはいったいどういう人なのかを話されています。2つめは、天の御国の王について、つまりキリストご自身についてです。キリストが何のために地上に来られたのかが告げられています。3つめは、天の御国の義です。天の御国における義の規準を、パリサイ人と律法学者の義と比較対照されて書かれています。今日学ぶ5章は、1つ目と2つ目と、3つ目の一部です。つまり、天の御国の構成員と、天の御国の義についての一部です。
1A 天の御国の特徴 「悔い改める者」
この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
ここに、「弟子達がみもとに来た。」と書かれてあることに注目してください。群衆もこの説教を聞きましたが、イエスは弟子たちを教えるために話されました。4章17節を見ると、イエスは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」という言葉でもって宣教を開始されています。その説教によって、イエスに従う弟子たちが起こったのですから、彼らの関心事は、天の御国に入る事であり、そのために必要な悔い改めについてでした。そこでイエスは、天の御国の構成員の特徴を、「幸いなもの」と読んで、いろいろな定義をされています。
1B 消極的側面
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
天の御国への入り口は、心が貧しくなる事です。わたしたちは、神と出会うことによって心が貧しくなります。預言者イザヤは、王座に座しておられる主を見て、「ああ、私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者である。(イザヤ6:5)」と言いました。ダニエルは主にお会いして、「私の尊厳は破壊に向き、力を失った。(ダニエル10:8)」と言いました。イエスの弟子ペテロは、「主よ、私のようなものから離れて下さい。私は罪深い人間ですから。(ルカ5:8)」と言っています。自分にプライドや高慢があるのは、まだ主を見ていないからです。けれども、主にお会いする時、わたしたちの心に貧しさが訪れるのです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
心が貧しくなったことによる、当然の結果として、悲しみが訪れます。主がご覧になるように自分を見る時、私たちは砕かれるのです。けれども、「その人は慰められる。」とイエスは言われました。神は砕かれた心を慰められます。ダビデは、「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたはそれをさげすまれません。(詩篇51:17)」と言いました。
柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
心が貧しくなり、悲しんだ結果、柔和な者になります。この「柔和な者」は、「へりくだった者」とも訳せますが、柔和とは、高慢やプライドがない状態のことを言います。自分自身に対する正しい味方をしている状態です。柔和な人の約束は、神の、御国における地の相続です。柔和なものは世から見下されますが、天の御国では高められるのです。
義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
自分自身のありのままの姿を見た人は、義に対して飢え乾きます。自分の正しいと思っていた行いは、神の目から見たら汚いぼろきれのようなものです(イザヤ64:6参照)。それを知った人は、神の義を理想とし、神の義を追い求めます。そして約束は、「満ち足りる」ことです。キリストが現れる時、わたしたちはキリストに似たものになる事がわかっている、と使徒ヨハネは言っています(Tヨハネ3:2)。
2B 積極的側面
ここまで読んでおわかりになったと思いますが、天の御国に入る者は、悔い改める者です。心が貧しくなり、悲しみ、へりくだり、義に飢え乾きます。ただ、これらは悔い改めの消極邸な側面だけであり、悔い改めには積極的な側面もあります。バプテスマにおヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい(マタイ3:8:)」と言いました。次から、ヨハネが「実」と呼んだ、積極的な側面が書かれています。
あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
あわれむとは、人を赦し、さばかない態度です。イエスは後で、「さばいてはいけません。さばかれないためです。(7:1)」と言われましたが、私たちは、人の心の中に起こっていること、つまり動機をさばくことはできません。むしろ私たちは、神がわたし達を豊かに赦されたように、私たちも他人を赦すべきなのです。約束は、「あわれみを受ける」ことです。ですから、他人を赦すことは、直接私たちの益につながります。
心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
ここの「心がきよい」とは、神の前できよい、という事です。主はサムエルに、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」と言われました。ですから、神にわたし達の心を取り扱っていただいて、神に助けを求める必要があります。心がきよいことの約束として、神を見ることがあります。私たちと神との間に罪や汚れがないとき、神との深い交わりが可能となり、神はどのような方なのかを知ることができます。
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
パウロは、「あなたがたは、自分の関する限り、すべての人と平和を保ちなさい(ローマ12:18)」と言いました。そして、平和をつくる者が神の子と呼ばれるのは、神が平和の神だからです。パウロはまた、「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。(ローマ16:20)」と言っています。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
「幸いな者」の最後の定義は、「義のために迫害される者」です。面白い事に、私たちが悔い改める事によって、世から迫害を受けます。なぜなら、世は、心の貧しいもの、悲しむもの、柔和な者、義に飢え乾いている者、人をあわれむもの、心の清いもの、平和をつくる者が嫌いです。そういう人たちが自分たちの中にいたら、迫害し始めます。
次にイエスは、さらに、義のために迫害されることを説明されています。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
ここで、「わたしのために」とありますから、自分が何か悪い事をして、人からいやなことを言われたりいじめられたりするのは、ここには当てはまりません。あくまでも、義のために、キリストのために迫害されるものが幸いなのです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。
先ほどは、「天の御国はあなたがたのものだからです。」とあったのに、ここでは、「天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」と変わっています。私たちは心の貧しさによって天の御国に入り、迫害によって報いを受けます。この過程が、幸いなる者、あるいは、悔い改める者の特徴です。
2A 天の御国の影響
このように、天の御国に属するものは、内側で変化が起こり、それが外側に現れ、最後に世に影響を与えます。迫害が起こるのは、クリスチャンが善を求めているのに対して、世が悪に傾いているからです。そこで次に、イエスは、天の御国に属するものが世にどのような影響を与えるかを説明されています。
1B 地の塩
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
塩は当時、食物が腐るのを防ぐ防腐剤の役目を果たしていました。イエスは、あなたがたは地の塩にならなければならない、と言われています。世はどんどん、腐敗しています。けれども、私たちがいることによって、世の腐敗を防ぐ、防腐剤としての影響力を持つべきなのです。もし私たちが世に対し特に影響力を持っていなければ、どうなるのでしょうか。イエスが言われたように、もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。つまり、私たちは世の腐敗を防ぐ影響力を持つか、あるいは、世の腐敗によってつぶされてしまうかのどちらかしかないと言う事です。その例はサムソンです。彼は、イスラエルをペリシテ人の手から救い出す士師として神に選ばれましたが、女への欲望を働かせる機会をつくってしまい、最後は、ペリシテ人の前で戯れるという屈辱を味わいました。影響を与えずしてクリスチャン生活を送ることはできません。そこでイエスは、次のように言われています。
2B 世の光
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
神と私たちの関係は、良い行いという形で現れてきます。それを隠すことは出来ません。むしろ周囲の人々の暗闇のわざを明るいみに出します。自分の行いが悪い事は、良い行いに照らし出されることによって明らかにされるからです。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
私たちが世の光として輝く結果、人々が私たちをほめたたえるのではなく、神をあがめるようにならなければなりません。私たちが何か良い事をすると、人々は必ずといってよいほど、私たちに感謝し、私たちが何とすばらしい人なのかとほめたたえます。けれども、その時に、「私たちではなくて、私たちのうちにおられるキリストがしてくださったのです。」と証ししなければなりません。栄光は、私たちにではなく、神に帰されるべきです。
3A 天の御国の王
こうして、私たちが世に対してどのような影響を与えていくべきかがわかりました。次は、山上の垂訓の中心になる考えが書かれています。
1B 律法の完成者
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
イエスは、「あなたがたは」から、「私は」と主語を変えられています。つまり、天の御国に属する人々から、天の御国の王であるキリストご自身へと話が移っています。「律法や預言者」とありますが、これは旧約聖書全体を指しています。イエスは、旧約の律法に書かれている事や、預言書に預言されている事をすべて完成させるために、世に来られたのです。イエスは、ユダヤ人の指導者達にこう言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書がわたしについて証言しているのです。(ヨハネ5:39)」
私たちはここまでマタイによる福音書を読んできましたが、旧約聖書からの預言の引用が至るところにあったのを見てきました。したがって、語られた律法と預言の完成した姿がキリストなのです。そこでイエスはこう言われています。
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
ヘブル語の文字は、一点一角が少しでも違うと、まるで意味が異なってしまいます。したがって、一点一角がすたれないというのは、その意味を保つために必要不可欠なのです。
2B 律法を行い、教える者
だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
イエスは、律法の完成者だけではなく、律法を守り、それを教える方です。これは、律法の行いによって救われるという事ではありません。けれども、ローマ7章によると、律法は聖なるものであり、正しく良いものです(7:12)。神の聖さや義を律法が明らかにしています。ですから、神の聖さを追い求め、神の義を願うように教える者が、本当の教師なのです。そしてイエスご自身が、真の教師であります。
4A 天の御国の義 律法学者との対照
ところが、私たちは「律法」という言葉を聞くと、否定的なイメージを思い浮かべます。それは、律法を思い浮かべているのではなく、律法主義を考えているからです。それは、神の戒めを誤って解釈する牧師や教師がたくさんいるからです。当時も同じでした。律法を教えていたのは律法学者とパリサイ人でしたが、彼らの解釈が、律法の本当に意味するところから離れてしまっていたのです。イエスは、そこで、次のように言われています。
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。
律法学者とパリサイ人たちの問題は、外面的な行いをしていれば律法を守っている、と考えていた事です。心の態度は問題にしませんでした。イエスはこれから、律法学者やパリサイ人の律法の解釈と、律法の本当に意味するところを6つの点において、比較対照させています。それによって、天の御国における義を告げられています。
1B 殺人
昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって{理由なくして}腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
まず最初は、殺人に関しての比較です。パリサイ人によれば、たとえ人を憎んでも、実際にその人に手を出さなかったら、律法を守り行った、という解釈になりますが、イエスは、怒りや憎しみや苦味を持っていたら、その時点で殺人の罪を犯しています、と解釈されています。なぜなら、そうした感情によって実際の殺人を犯すからです。
だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
ここでは、和解の重要性が説かれています。私たちは、礼拝に出席したり、伝道したりしていれば、自分が霊的なように感じてしまいますが、イエスは、和解を優先することが神を喜ばせることを説かれています。
あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。
まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。
ここでイエスは、和解を優先させるだけでなく、早く和解すべきことを話されています。
2B 姦淫
『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
2番目の比較対照は、姦淫についてです。肉体に触れなくても、結婚以外の性的関係を想像すれば、その時点で姦淫の罪を犯しています。この罪は、どのくらい深刻なのでしょうか。
もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
これほど深刻なのですが、文字通り受けとめるべきではありません。なぜなら、右の目をえぐりだしても、左の目で見ることができるからです。ここでの意味は、もし誘惑に負けてしまうのであれば、どんな犠牲を払ってでも、不倫関係を断ち切るとか、誘惑を強く受けないような状況に自分をおくべきだ、という事です。ヤコブの子ヨセフを思い出して下さい。自分の仕えていた主人の妻に、一緒に寝ておくれと言い寄られ、ヨセフはつかまれた上着を脱ぎ捨てて逃げました。その結果、少なくても2年以上牢獄に入る事になりました。このように、右の目をえぐりだしてでも、また、右の足を切り取ってでも、姦淫の罪から離れなさい、とイエスは言われました。
3B 離別
次は姦淫に関連して、イエスは離婚についての律法の解釈をされています。
また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。
当時は離婚状についてのモーセの律法を土台にして、離婚が簡単に行われていました。ある学派は、妻の作った朝食がまずかったら離婚してもいい、と解釈していたほどです。けれども、それは離婚の手続きという法律に関わるもので、離婚そのものを赦していたわけではありません。イエスはこのことを19章で詳しく話されていますので、離婚についてはその時に詳しく観察しましょう。
4B 誓い
さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。
だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
4つ目の比較対照は、誓いについてです。法廷において私たちが証人に立つとき、誓いを立てますが、それが偽りのないものでなければならない、という意味においてこの律法は適用されます。しかし、この律法を乱用して、「神の名によって、誓います。」というセリフを正当化するようになっていました。私たちも、「本当に○○をやるの?」と聞かれた時、「うん。絶対にする!」と言いがちですが、もし本当にするのなら、「はい、します。」とだけで十分なのです。つまり誓いを立てるのは、自分の言ったことを実行しないからです。イエスは、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい、と言われました。つまり、本当の意味で、自分の言ったことを守る人になりなさい、という事です。
5B 復讐
『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
ここで、取り扱われている問題は、復讐についてです。「目には目で、歯には、歯で。」という神の戒めは、ノアに与えられ、またモーセにも与えられました。この律法もまた、被害者の権利を守るための公平な裁判を遂行するためのものです。死刑制度を反対する人たちは、つねに加害者の権利を主張しますが、それは公平とは言えません。被害者の権利は、加害者自身が同じ種類の害を受けることによって、保護されるのです。したがって、「目にはいのちを。」と言うのではなくて、「目には目を。」とあるところに、公正な判断がなされているのです。ところが律法学者たちは、復習しなければなりませんと教えていました。私たちは何か悪い事をされると仕返しをしたくなりますが、その肉の思いを助長するようなことを彼らは教えていたのです。
イエスは言われました。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。
ここでのイエスの意図は、自分の権利や所有物に固執するな、という事です。ここの「1ミリオン行け、と強いる者には」とありますが、当時、兵士がその荷物を持って歩けと言ったら、歩かなくてはならないローマの法律がありました。だからシモンは、兵士に強いられてイエスさまの十字架を担いだのです。けれども、1ミリオンだけでよかったのです。けれども、もう1ミリオン歩けば、私たちは証しをする機会が増えますね。このように、私たちは権利や所有物に固執せずに、キリストのためならすすんで捨てる態度が必要です。
6B 敵
復讐に関連して、イエスは敵について述べられています。これが最後の比較対照です。『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
これは、律法にはありません。申命記には、「神を愛し、隣人を愛しなさい。」と命じているだけです。つまり、彼らの言い伝えでした。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
神は罪人をも愛されています。ですから、神の愛されている人々を、私たちも愛さなければなりません。
自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
イエスは先ほど、「あなたがたは、世の光です。」と言われましたが、もし世の人と同じことをしていれば、光になりません。世の中は、自分に味方してくれるものだけを愛しますが、神はご自分に敵対している者たちを愛されました。そこでイエスは、こう言われます。
だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
イエスは律法の意味するところを説かれましたが、これが結論です。神のように完全でなければ、天の御国に入る事は出来ません。この中で、「私は神のように完全です。」と言える人がいますか。イエスの解釈された律法を読んで、「ああ、自分はだめだ。」と思われたのではないでしょうか。思い出して下さい、「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」とイエスは言われました。律法はまさに、このような状態に人々を導くために与えられているのです。つまり、自分が正しいことを証明するのではなくて、自分のいたらなさを認めて悔い改めるように促しているのです。
天の御国とは、悔い改めの過程、プロセスと言っても良いでしょう。完全に向けて走る人が、天の御国の構成員です。そして、天の御国は、「わたしは、律法を成就するために来たのです。」ということばに集約されています。律法を完全に守られた方イエス様のみが、天の見国の完全な義の基準を満たされています。このキリストに信頼し、望みをかける人々が、天の御国に入る事が出来るのです。つまり、信仰によって正しい者と認められます。
こうして、イエスの天の御国の宣言の部分を学びました。6章も同じテーマですが、今度は、イエスが律法学者の行いと比較対照させて、天の御国の義を教えられている部分を読みます。
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