御国の姿 2001/09/27

先日、メールである方から、「聖書は、天国についてどう教えているのか。」という質問を受けました。これはとても大切な質問であり、神の国を知ることはクリスチャン信仰の要であります。

聖書には、「天の御国」「神の国」「御国」など、いろいろな呼び名で、神が支配されている国について語られています。まず神の国とは、簡単に、「神が支配し、統治されている状態」であります。これが、この全宇宙であったり、神の御座がある天であったり、また御霊によって支配されているクリスチャンの心であったり、そして、イエスさまが地上に再臨されて、王となられる国であったりします。むろん、同じ神が支配されているのですから、その性質については共通点がたくさんあります。また、それぞれの特徴もあります。その区別をしながら、御国について考えていきたいと思います。

第一に、神が天と地を支配している状態があります。

主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。(歴代誌第一29:11-12)

主は世々限りなく王である。国々は、主の地から滅びうせた。(詩篇10:16)

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。(使徒の働き17:24)

この神の国は、信者であっても不信者であっても、天使であっても悪霊であっても、すべてのものが含まれ、この外にいるものは、何一つありません。神がすべてのものの主であられます。

第二に、神が天において、御座を置かれている状態があります。

たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。
また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。

御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」

また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

・・・小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。(ヨハネの黙示録4:2-5:14)

この箇所は、天にまで引き上げられた教会と、御使いが神を礼拝し、賛美している光景です。「天において、私たちは何をするのか?」という質問に対しては、「主を礼拝し、賛美することです」と答えます。

この支配の中には、もともとルシファーもいたのですが、彼とそれに加担する御使いは、天地が創造される前に、そこから追い出されました。今は、「空中」と呼ばれるところに存在します(エペソ2:2)。ですから、この天の御国には、主にお仕えする御使いのみが存在します。

第三に、神は、ご自分の支配をこの地においてもたらさました。それが、アブラハムを始祖とするイスラエル国です。

今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。(出エジプト記19:5-6)

この統治は、モーセという預言者、またアロンという祭司によって与えられました。これをよく、「神政政治」と呼ばれます。けれども、サウルのときから、それは王をとおして統治される君主制に代わりました。

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。(サムエル記第二7:12)

ところが、この神の支配も、イスラエルのかたくなさと反逆の罪のため、バビロンに捕え移されることによって、ここでイスラエルによる神の統治から、「異邦人の時」が始まりました。世界が、異邦人によって支配されていく時代です。ダニエル書には、その歴史をパノラマ式に見ることができます。

そこで第四に、イスラエルの中から、メシヤに対する待望が出てきました。預言者たちは、メシヤによってイスラエルが回復し、メシヤが王となられて世界を支配するとの啓示を受けました。メシヤによる統治です。

そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイの福音書3:1-2)

ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコの福音書1:14−15)

ところが、このメシヤによる王国は、ユダヤ人によって拒まれました。そこでイエスは、「天の御国の奥義」と呼ばれる、神の国をお語りになりました。これが第五の御国です。

マタイ13章に、その奥義について語られていますが、一つ目のたとえは、四つの種類の土に種が落ちるたとえです。実を結ぶのは唯一、良い土地に落ちるものです。二つ目は、その実を結ぶ土地から、良い麦と悪い麦が出てきます。悪魔は、人々の心からみことばを取り去るだけではなく、良い土地に種をまくようです。三つ目は、からし種のたとえです。これは生長して、大きな木となり、鳥が来て巣を作る、とありますが、13章4節には鳥はサタンのことを表しているので、ここでもサタンのことを表しています。四つ目は、同じくパン種であり、女が粉の中にパン種を入れて、大きくなります。これも悪い意味で使われています。パン種は、罪や悪い教えとして象徴されています(1コリント5:6−8;マタイ16:6)。五つ目は、畑に隠された宝のたとえです。「宝」は、しばしばイスラエルのことを指して使われています(上記の出エジプト記19:5参照)。六つ目は、真珠を探している商人ですが、これは異邦人の中から贖われる者たちが出てくることを表しているでしょう。(海は、しばしば異邦人の世界を表しています。ダニエル7:2−3)七つ目は、網にはいったものを、選り分けるたとえです。これはマタイ25章の、諸国の民が主によってさばかれるところと合致するでしょう。

したがって、ここでの「天の御国の奥義」とは、いわゆる神が天に御座を置かれているところではなく、また、イエスがメシヤとしてお立てになるところの王国でもなく、「奥義」と言われているように、これまでに啓示されていなかった、新しい形であると言えます。これを一言で表すと、「キリスト教史」と言えるでしょうか。「神」という名前、「キリスト」という名前を使っている組織体の中で、真にみことばの種をまかれて、新たに生まれるキリスト者がいる一方で、形だけ、また偽りの教えも存在するという、混在化した状態です。しかし、この状態は、主が再臨されるときにすべて明らかにされ、さばかれることがここで預言されています。

そして第六の御国は、今言及した、御霊による支配です。イエス・キリストの十字架と復活のみわざを信じて、御霊によって新しく生まれた人々が、キリストに支配されているところの状態も、神の国と呼ばれます。

なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。(ローマ人への手紙14:17)

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。(コロサイ人への手紙1:13-14)

これは後に来る、地上におけるメシヤの王国、また天における至福の前味とも言えるべき状態であり、頭金である聖霊によって、この祝福を楽しむことができます(エペソ1:1−14)。

そして、この霊的な御国であるキリストのからだは、キリストが天から来られるときに引き上げられ、地上から引き抜かれます。第四の御国の奥義において、新生していない者たちは大患難の中に入ります。この究極の姿が黙示録17章に書かれている、「大淫婦バビロン」です。

そして、キリストが地上に再臨されて、諸国の民をさばかれて、メシヤによる王国が千年間続きます。第四の御国が実現し、また、第六の御国も、キリストの国の中で共同統治します。

そして、第七の御国は、このメシヤによる統治の後に来る新天新地であります。

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:1-4)

21章から22章5節まで、この永遠の状態が記されています。


メシヤによる王国の姿

このように神の御国はいろいろな形で描かれていますが、イエスが地上に再臨されるということで、メシヤによる王国について少し掘り下げてみたいと思います。私たちが待ち望んでいる神の国とは、「天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る、その祈りの結果は、どのような姿なのでしょうか?旧約聖書には、この御国について、膨大に預言されています。

主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない。神に捨てられた人を、その目はさげすみ、主を恐れる者を尊ぶ。損になっても、立てた誓いは変えない。金を貸しても利息を取らず、罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。このように行なう人は、決してゆるがされない。(詩篇15:1-5)

不正がなく、真実を語る人ばかりで満ちます。

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。(イザヤ書2:2-4)

メシヤによる王国は、世界中に秩序と平和が満ちていることが特徴です。それは、国々の戦争によってではなく、エルサレムに住まわれる主イエスのみことばによって、もたらされます。ああ、この戦争と混乱が多いこの世において、なんとこの御国は待ち遠しいことでしょうか!

狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(イザヤ書11:6-9)

ここは、平和と秩序が、動物の世界にも広がることが書かれています。文字通り、弱肉強食の世界がなくなり、エデンの園のように、すべて草食になります。

この他、イスラエルの国が回復すること、またイスラエルの民もすべてがメシヤなるイエスを信じること、領土も割り当てられること、異邦人はイスラエルを中心にして、生けるまことの神にお仕えすること、などが含まれます。


まとめ

私たちはますます、この御国の現実に目が開かれ、「神の召しによって与えられる望みがどのようなもんか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか(エペソ1:18)」を知る必要があり、「朽ちることも汚れることも、消えてゆくこともない資産を受け継ぐようにしてくださった(1ペテロ1:4)」を知る必要があります。この希望があるがゆえに、死は私たちを恐れさせません。苦しみは、私たちを押しつぶしません。暗やみは、私たちを絶望の中に陥れません。キリストのいのちが私たちの死ぬべきからだに働き、起き上がりこぶしのように、倒れても起き上がることができるのです!(2コリント4:8−9)


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