アウトライン
1A 施し 1−4
2A 祈り 5−15
1B してはいけない祈り 5−8
2B 命じられている祈り 9−15
3A 断食 16−18
本文
マタイによる福音書6章の前半部分、1-18節を学んでみたいと思います。前回の学びから、私たちはイエス様の火で練り清めるような言葉を学んでいます。主が言われたのは、「律法は守り行なうものだ」というものです。けれども、それは一般に知られていた律法の姿とは異なっていました。主は、「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。(マタイ5:20)」と言われました。私たちは神の律法の意味するところを、自分には守り行えないという思いがどうしても働いて、それを守り行なえるように自分なりに解釈していきます。それを律法学者もパリサイ人も行っていました。
けれども、イエス様は神の意図されたとおり解釈されました。それは、例えば「殺すな」と命じられたときは、私たちの最終的に行なう、外側に出す行為のみを取り扱っているのではなく、殺すことに至るまでの自分のすべてのあり方を戒めているものでありました。だから、兄弟に対して恨みや憎しみを抱くことも「殺してはならない」の戒めの中に含まれるのです。同じように、姦淫の罪、誓いを破ることも内面のことを話していることをイエス様は教えられました。そのことによって、私たちには極限なまでに心に貧しさが与えられます。自分はどうしようもなく罪人なのだ、という悟りが与えられます。それがイエス様の語られた「心を貧しくする」ことであり、御国の福音です。
6章はその続きになります。5章では、神によって「罪」とみなされているものをイエス様は取り扱われましたが、6章はそうではなく「善行」について取り扱われます。善行においてでさえ、その内面がないがしろにされていることをイエス様は教えておられます。これも同じで、私たちは外側で行なっていることによって、心の内面で起こっていることを置き去りにしてしまっていることが多々あります。
1A 施し 1−4
1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
ユダヤ人の間では、善行として三つの具体的な行為が奨励されていました。それは施しをすること、祈ること、そして断食をすることです。2-4節までが施しについて、5-15節までが祈りについて、16-18節までが断食について書いてあります。
これらの善行は、今のキリスト者の間でも奨励されるものです。これらの行為が間違っているということでは決してありません。けれどもイエス様は、「人に見せるために」しようとする心では行なわないようにと注意しておられます。再び、自分の心を貧しくするのではなく、どうしても自分の心を肥やそう、太らせようと私たちは動いてしまうのです。
「天におられるあなたがたの父」とイエス様は呼ばれます。イエス様は5章45節から神を「天の父」と呼び始めておられます。そしてこの6章では、ずっと「天におられる父」と言い続けておられます。旧約聖書には確かに、神がご自身を父であることを明かしているところがあります。出エジプト記4章22節に、「そのとき、あなたはパロに言わなければならない。主はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。』」とあります。けれども、ユダヤ人はそこまで人格的に、親密に神のことを語りませんでした。しかし今は、キリストにあって、御霊によって私たちは、神を父と呼ぶことができるような関係を持っています。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。(ローマ8:15)」
そしてイエス様はここで、「報い」について話しておられます。報いというと、仕事をしてその対価としての報酬、賃金のことを考えてしまいます。もちろん、主のしもべとして仕えることによって、主が喜びの冠を私たちに授けてくださいますが、ここでは父なる方が報いを与えられることについてイエス様は話しておられます。つまり、ここでの報いとは「やりがい」と言い換えることができるかもしれません。父である方が私たちのしていることで、私たちを快く受け入れてくださる、と言ったほうが良いかもしれません。
人間というのは、動機付けがなければ何事もできない生き物です。チャック・スミス牧師が、かなり前にC政府から招聘を受けて、教会で説教の奉仕を頼まれました。もちろん共産党の監視下の中で行っていたのでかなり制限がありましたが、共産党の役人の人たちに次のようなことを話したそうです。「共産主義は、その制度自体、機能不全に陥るものを含んでいます。動機付けがないからです。どんなに働いても、その労働に対する対価を示していません。人間には、二つの動機で労することができます。一つは愛、もう一つは金です。」とのことです。例えば日本においても、学校や病院など数多くのものが宣教師によって創設されました。彼らは愛の動機でそれだけのことをすることができたのです。けれども同じように、お金の動機によっても数多くのことが成し遂げられます。対価あるいは報いは、必ずしもお金だけではなく愛もあるのです。
イエス様がここで語られているのは父子にある人格的関係にある報いです。ですから大事なのは「心の動機」です。主が私たちに終わりの日に称賛を与えてくださる時、その心のはかりごとに従って与えてくださいます。「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(1コリント4:5)」パウロは、コリント第二5章14節においては、「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」と言っています。愛が神への奉仕の動機付けとなります。
日本においては、しばしば、「クリスチャン人口1%の壁を打ち破るためにはどうすればよいのか。」という議論を聞きます。私はその言葉を聞くたびに違和感を抱きます。なぜならば、私たちが日本の人々の救いのために祈り、伝道するのは、数値を上げるためなのでしょうか?もしそうすれば、祈ることや伝道することが、営業の業績を上げるためのノルマになってしまいます。そうではありません、私たちが祈るのは、あくまでもその人々を愛しているからです。キリストがその人々のために死んでくださるほど、愛してくださったことを知っているからです。そして伝道するのも、その人が福音の力によって救われ、変えられることを願うからです。
2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
人にほめられようとして施しをしている人々をイエス様は、「偽善者」と呼ばれています。ギリシヤ語では、舞台に立つ役者のことを指しています。仮面をかむって演じる役者のことです。つまり、実際の自分よりも良く見せて、人を相手に行動することを意味しています。「人の評価」を気にしている姿です。
これが奉仕について、私たちがしばしば陥る罠です。主に対して奉仕をするのではなく、人を相手にして奉仕をしていることがしばしばあります。天におられる父と、親密で、個人的な関係において、この方に喜んで、愛をもって仕えているところが、なぜか周りの人々を喜ばせることのほうに神経を使ってしまいます。そうすると、心が渇いてきます。外側の奉仕はしっかり果たしているのに、内面が満たされていません。いつか疲れ果ててしまいます。そして外で行なっている奉仕が終わると、まるで仕事を終えたようにまるで違った個人生活を送ります。「えっ、教会ではこんなに霊的に見えるのに!」と思われる人が、家ではまったく別のことをしています。すべては、天の父からの愛ではなく、人を相手にして行動しているからです。
「彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」とイエス様は言われましたが、いかがでしょうか、私が説教をして誰かにほめられます。「明石先生のメッセージはすばらしいですね!」私が、「うーん、気持ちがいい!」とその褒め言葉を神に栄光を帰さないでそのまま受け入れます。そうしたら、その「メッセージはすばらしいですね!」と言っている言葉が報いとなってしまい、天には残されていないのです。なんと空しいことでしょうか!人の称賛は空しいです。称賛していた人は、数週間後にはその人の存在さえ忘れていることがあります。あるいは、すぐさま非難にさえ変わりえます。テレビの中で有名になっている人が、裏ではどれだけ空しい思いをしているかは想像に難くありません。
3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
イエス様はこれから何度も、「隠れたところで行ないなさい」と命じておられます。これは、あえて善い行ないを隠しなさいということを意味していません。イエス様は、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(5:16)」と言われましたね。ですから、人々の前で行なう良い行ないがあるのです。ここでイエス様が言われているのは、「隠れたところだと、如実に自分の本当の姿が表れる。」ということです。英語ですと"character"という言葉があります。「品位」と訳したらよいでしょうか、「真実の姿」と言えばよいでしょうか、誰も見ていないところで自分が何をしているかによって、それが本当の自分を表している、というものです。
2A 祈り 5−15
1B してはいけない祈り 5−8
5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
祈りについての教えですが、施しについての教えと同じです。公で祈ることができても、独りになったときにどれだけ親しい父なる神との交わりを持っているかが問われます。私たちはこのように、共に集まって祈ることはとても大切です。けれども、もしたった独りで祈ることがなければ、自分と神との間の関係がどうなっているのか、一度点検して見る必要があります。
7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
隠れたところで祈りなさい、という命令に加えて、主は祈りについてさらに教えられます。まず、「異邦人のように祈るな」と言われます。異邦人の祈りとは、その祈りの対象がまことの神ではない神々、偶像であるわけです。したがって、「玉をたくさん打って当てry」というような、非常に不安定で、無力な神のことを表しています。預言者エリヤとバアルの預言者の対決を思い出してください。バアルの預言者は一日中祈り叫んでいました。踊り、また身を傷つけていました。けれども答えはありません。エリヤの祈りは端的で短いものでした。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。(1列王18:36-37)」それで、天から火が降って、いけにえが焼き尽くされたのです。
まことの神は、「父」と呼ばれるとおり人格のある方です。祈りは、人格のある存在への対話であります。私たちは、誰かに対して、意味もなく名前を呼ぶでしょうか?いいえ、違いますね。イエス様は、「あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」と言われています。神が知識不足、情報部族だから私たちは祈りでそれを知っていただくのではありません。あなたがお父さんであることを考えてください。小さな息子が何をしているか、実は知っています。けれども、それを自分に明かしてくれることを願っています。神はそのような方です。私たちが自分の心を明かしてくれることを願ってやまないのです。
2B 命じられている祈り 9−15
9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
しばしばここの箇所は、「主の祈り」と呼ばれています。けれども主ご自身がそのように祈られたのではなく、主が私たち自身にこのように祈るように命じられたものです。ですから多くの教会で、文語訳でこう祈っています。
天にまします我らの父よ、願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来らせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン
初めに、祈りは呼び求めるところから始まります。「天にいます私たちの父よ」とありますが、祈っている対象がどのような方なのかを明確にすることはとても大切です。ここは神を父として敬うことを考えている内容の祈りになっていますが、苦境から救い出す力を求めていた初代教会の信徒たちは、「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。(使徒4:24)」と祈り始めました。
そして次に願いを申し上げています。「御名があがめられますように」です。名前は聖書の中では、その人の核の部分、人格また本質を表しています。つまり、私たちの初めの願いは、神ご自身があがめられますように、という祈りであります。私たちの必要が満たされることよりも、神ご自身の栄光が現れることを願う祈りを捧げます。この祈りを捧げるためには、私たちは神ご自身を知らないといけません。そのためには、神の御言葉を学んで神を知ります。また神に献身することによって、神を人格的に深く知ります。
次に、「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」であります。私たちの願いではなく、神の願いが果たされるように、という祈りです。これが最もすばらしい祈りです。最善の祈りとは、私たちの意志ではなく、神の意志が成ることであります。ある牧師はこう言いました。「願いが聞かれなかった多くの祈りについて、私は今、神に感謝しています。」振りかえってみると、もし自分の願いが聞かれていたらとんでもないことになっていたことに気づくそうです。神の最善が成ることが自分にとっても最善なのです。
そして「御国が来る」あるいは「天における神の意志が地上にまで落とされるように」という祈りであります。これは、「天の御国が近づいた。」とバプテスマのヨハネ、主ご自身が言われたように、今、山上の垂訓に表れている御国の福音、例えば敵を愛することが私たちのうちに実現してほしいという願いであります。それと同時に、今は主の再臨を待たなければいけません。初代教会の時から、神の国が、キリストの再臨によって到来することを切に待ち望んでいました。
次に、「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」とあります。ここで初めて自分の必要のために祈ります。祈りは神から始まり、それから自分あるいは他者の事柄に向かいます。
そして「天」というとずいぶん遠大な祈りに聞こえますが、私たちは天を思うと同時に地上の日常生活の現実に目を向けなければいけません。天における御心が、明日の飯のことにも反映することを願うのです。
私たちが生きている日本のように、冷蔵庫を開ければ食べ物が、いや数分歩けばコンビニがあるような生活ですと、この祈りが無縁に聞こえるかもしれません。いいえ、私たちは与えられているものを当然のようにみなすところにある危険を知るべきです。今、自分が与えられている仕事、住んでいる所、食べているものも、神の許しと守りがなければ、たちまちなくなってしまうものです。だからこそ、私たちは全ての事柄について祈り、その祈りが聞かれたことを感謝し、主の憐れみを見上げなければいけません。
そして次の祈りは、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」です。「罪の赦し」というのが、私たちの祈りの生活の中心部分に来ていなければいけないものであることを主は教えておられます。「負いめ」ということですが、罪は借金をしているようなものです。神の御国においては、負債フリーの世界です。重荷が取れて、解放されて、安心している世界です。このことを誰よりも神が願われています。そして、それは他の人間にも分かち合わなければいけないことであることを主は教えられています。負い目のある人たちを赦す、というところに、神の赦しの実体を自分自身が経験することができます。
そして、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」という祈りがあります。御国の中に入らない限り、この世の神であるサタンが私たちに悪を行なわせようと誘惑します。そこから救い出してくださるように、という祈りを捧げる必要があります。試練あるいは誘惑に対する神の救いの約束がありますね。「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。 (1コリント10:13)」
そして最後に頌栄があります。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」行き着くところは、私たちの栄光ではありません。すべては御国にある神の栄光です。その力と栄えがすべて神に帰されることです。
14 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
イエス様は、罪を赦すという祈りに言及されたので、このことについてさらに教えておられます。人の罪を赦すことがいかに重要性を思います。主がこの地上に来られたのは、罪の贖いとなるためです。罪の赦しがその使命でありました。そしてキリストは私たちをご自身の特使として用いようとされています。
そしてこれは、人の罪を赦したからという救いの条件を教えているのではありません。「もし人を赦さなかったら、あなた自身が神の赦しが分からなくなる。」という意味です。「赦す」というのは難儀なことです。私たちの性質に反することです。罪を犯したのであれば、その対価が必要です。対価なしに、報酬なしに、罪がそのままであることを私たちは何としてでも認めたくなりません。
しかし主がそれをしてくださいました。神のご性質の中には、怒るに遅く、情け深いというものがあります。そして神は究極の形で、キリストに罰を負わせることによって罪の責めを私たちに負わせない方法を取られたのです。もし、私たちがこの赦しと和解を受け入れるのであれば、私たちが他の人々とも赦しを与えない限り、私たち自身にある神の赦しが分からなくなってきます。マタイ18章にある、借金を帳消しにした王の例えのところで、このことについてさらに学びます。
3A 断食 16−18
16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。17 しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。18 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。
断食は、旧約聖書で贖いの日、身を戒める中で行うことです。罪の悔い改め、嘆きや悲しみを表す時などに行なっています。パリサイ人は、それ以上に行なっていました。週に二度は行なっていたと他の箇所に書いてあります(ルカ18:12)。キリスト者でも行なう人が多いです。私は若い頃これを行なったところ、ここに出てくる「やつれた顔」になってしまいました。それでやっていませんが、行なってみたい方がぜひ行なってみてください。私たちは肉体は注意を払って養っていますが、霊のほうはおろそかになりがちです。これを逆にするのに、霊のほうに注意を払って養うのですが、肉体を養うことの思い煩いから一時期離れます。
けれども、このことさえ先ほどの施しと祈りと同じように、人に見られるために行なうのであれば天における報いは残されていません。
いかがでしょうか、私たちはここの戒めから、いかに自分自身が人に対して奉仕していたのであろうかと思います。献金にしてもそうでしょう。神に対してしているでしょうか?「ここの教会は財政はしっかりしているようだから、多額を出さなくてもいいだろう。」という打算はないでしょうか?「他の人が奉仕してくれているから、私はただ参加しているだけでよい。」とか、あるいは、「奉仕しなければいけないから、礼拝もきちんと出席しなければいけない。」とか、私たちの中で行っているあらゆる打算的な思いは、すべてここのパリサイ派と律法学者が行なっていることに通じています。天におられる父との親密な交わり、そこにある愛から離れてしまっているからです。その内実なしで、外側の行ないをしているからそれに頼っている状態です。内側が渇いてきます。たとえ人が見ている前での奉仕がなくても、それでも主を礼拝したいという渇望、主を愛しているという理由だけで祈り、伝道し、奉仕をしているか。人を相手にするのではなく、神を相手にした奉仕へと変えていきましょう。