マタイによる福音書6章 「天の父を見る行い」

1A  見せびらかす善行
   1B  施し
   2B  祈り 
      1C  偽善者
      2C  異邦人
      3C  模範
      4C  赦し
   3B  断食
2A  富のむさぼり
   1B  選択
      1C  蓄え
      2C  目
      3C  奴隷
   2B  思いわずらい
      1C  例
         1D  空の鳥
         2D  野のゆり
      2C  結論
         1D  心配の禁止
         2D  神の国と義の追求
         3D  あすへの心配の無用

本文

 今日は、マタイによる福音書6章を学びます。ここでのテーマは、「天の父を見る行い。」です。私たちは先週から山上の垂訓を学んでいますが、それは本質的に天の御国の宣言です。イエスは、天の御国を求めていた弟子たちに教えられています。前回はイエスが、律法学者やパリサイ人の教えを比較対照させることによって、天の御国の義を教えられたのを読みました。今回は、彼らの行いを対照させることによって、天の御国の義を宣べ伝えられています。

1A  見せびらかす善行
 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

 イエスは弟子達に、「気をつけなさい。」と言われました。つまり警告です。この「気をつけなさい、」というギリシャ語は、もともと船舶用語であり、船が正しい方向に前進するようにつかんでいる、という意味です。パリサイ人や律法学者の行いは、人々から正しいものだと認められていたので、弟子たちも、ともすると、彼らのしていることに引き込まれてしまう可能性があります。私達も信仰による歩みをしているときに、ぼっとしていると、いつの間にか主の道から離れてしまう事があるのです。それでイエスは、「気をつけなさい。わたしの道から離れないで、とどまっていなさい。」と言われているのです。

 何に気をつけるのかと言いますと、「人に見せるために人前で善行をしないように」する事です。聖書では、聖徒がしなければならないさまざまな善行がかかれています。けれども大切なことは、もしその動機が誤っていたら、全く無意味であり、何もしない方が良いのです。私がアメリカにいたとき、ある日本人の姉妹が自分の家で人々に伝道とき、よくこのように言いました。「お客さんにお茶を出すという一つの行為にしても、めんどうくさいけれど、しょうがない、と思ってお茶を出すのと、本当にもてなしたいと思ってお茶を出すのでは全然違うでしょ。」したがってパリサイ人と律法学者は、人々に見せるという動機をもって善行をおこなっていたというところに、誤りがありました。

 その結果、「報いがうけられません。」とイエスは言われています。私達は、神の恵みによって、信仰によって救われたのであり、救いは神の賜物です。けれども、私たちの行いに応じて、天の御国において報いを受けます。パウロはコリント人への第二の手紙でこのように言っています。「私達はみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ、悪であれ、各自肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(5:9)」オリンピックの選手が審判員の審判によって賞を受け取りますが、私たちも同じように報酬を受け取ります。そして、私達の動機にしたがって、キリストは私たちを審査されます。

 ただ神は、私たちが天国でいい地位につくために、一生懸命善い行いをしなさい、と言われているのではありません。イエスのことばに注目してください。「天におられるあなたがたの父から」とあります。私たちの神は雇い主ではありません。私たちの神は父であります。父はその愛と恵みををもって私たちを報いられます。例えば、毎日3千部の新聞を配っている人がいるとしましょう。その子どもは、お父さんのお手伝いをしたいというので、お父さんは彼に10部の新聞を手渡して、その子は配りました。父は、「よくがんばったね。助かったよ。千円のおこづかいをあげよう。と言うとします。父は、この子が父を愛する愛に感動して千円を与えたのであって、10部配った仕事の報酬として与えたのではありません。これは、マタイ25章に出てくる、5タラント儲けた者にも、2タラント儲けた者にも、「よくやった。よいしもべだ。」と同じようにほめた主人のたとえにもあらわれています。神は、そのようなおおらかな気前のよい父なのです。こうして、イエスは、人に見せびらかす動機を持って善行をしないように気をつけなさい、と言われました。イエスは、この原則を3つのケース、場合を通して説明されています。つまり施しと、祈りと、断食です。

1B  施し
 まず最初は、施しです。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

 イエスは、彼らを「偽善者」と呼ばれていますが、偽善者のもともとの意味は俳優です。彼らはまさに、人々の前で演じるために施しをしていました。そして、彼らは、「すでに自分の報いを受け取っているのです。」とあります。人々は、彼らの施しを見て、あの人達は何て善人なのだろうか、とほめるかもしれません。あがめるかもしれません。けれども、そのほめ言葉が彼らの報いになり、天の御国には報いは残されていません、という意味なのです。私たちの肉は、人に認められること、ほめられる事が大好きです。けれども、もしそのほめ言葉を自分のものとするなら、天に報いはありません。

 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 隠れた施しが強調されています。その理由は、隠れたところを父が見ておられるからです。私たちが忘れてしまうのは、父が私たちの生活のすべてを見ておられるという事実です。誰もいない時、私たちは肉を働かせる機会を作ってしまいがちです。この前、家に何回か電話がありました。いずれも、私が受話器を取る直前に切れてしまいました。間もなくして、また電話が鳴りました。そうしたら切れたと思って、私は、「何だ、こりゃあ。」とつぶやいたのです。けれども、電話は切れていなくて、相手は私の友人でもある牧師でした。もちろん失礼を謝りましたが、恥ずかしいな、と思いました。けれども主が私に、「もし本当に電話が切れていて、「何だ、こりゃあ。」といっていたら、あなたは恥ずかしくなかったのか。なぜ牧師には恥ずかしくて、わたしには恥ずかしくないのか。」と言われたのです。私は、「主よお赦しください。」としか言えませんでした。神は、私たちの隠れたところを見ておられます。その時の善い行いは、父が報いてくださいます。

2B  祈り 
 施しにつづいて、イエスは祈りについて取り扱われています。

1C  偽善者
 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。

 ユダヤ教徒たちは、毎日定期的に祈っていました。彼らは、午後の祈りの時に、通りに人々が多くなりはじめるときを見計らって祈りに出たのです。彼らがいかに霊的であるかを印象付けたかったのです。けれども、イエスは言われます。

 まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます

 祈りは、私たちの神に対する語りかけです。人々に披露するものではありません。だからと言って、公の場の祈りを禁じているのではありません。公の祈りは、会衆の祈りを代表して神に語る場合や、思いを一つにして祈る時に効果的です。こうして、私たちが隠れて祈る時に、神は報いてくださいます。

2C  異邦人
 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。 だから、彼らのまねをしてはいけません。

 イエスはここで、律法学者やパリサイ人の祈りと比較されているのではなく、異邦人の祈りと比較されています。異邦人の祈りは、同じ言葉をただ繰り返すものであり、言葉数が多ければ聞かれると思う類のものです。私たちも異教的な国にいますからすぐに想像できるでしょう。一万回お経を唱えたら、祈りがかなえられるという教えです。けれどもキリスト教会にも同じような祈りを見ます。「ハレルヤ、ハレルヤ」とか、「イエス、イエス」と何回もくり返して祈りをします。けれども、そうした祈りはいけません、とイエスは言われています。なぜでしょうか。次をみて下さい。

 あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

 私たちの祈りの対象は、父という人格のあるお方です。誰かが私のところに来て、「きよきよ、きよきよ。」と何回も繰り返したら、私はこの人、変だ、と思います。人に対して話す時は、知性や感情を持って話します。同じように、神に対しても、知性と感情を持って祈らなければなりません。また、イエスは、父が私たちの必要を、私たちが願う前にすでに知っておられる、と話されています。ここに、祈りについての根本的な教えがあります。祈りは単に、私たちの願いが実現されるための手段ではありません。神はもうすでに、私たちの必要はご存じなのです。それでは一体なんのために祈るのでしょうか。

3C  模範
 イエスは言われます。だから、こう祈りなさい。

 この主の祈りに、私たちは祈りの目的を発見することが出来ます。

 天にいます私たちの父よ。

 まず、「私たちの父よ。」という呼びかけから始まっています。神を父と呼ぶことのできる、深い信頼関係によって祈りを始めます。この信頼関係がなければ、祈りをしても無意味です。神が愛する父であるという認識を持って、祈ります。

 御名があがめられますように。

 この祈りは、礼拝です。礼拝とは、神の高い位やその偉大さを認めることです。旧約聖書では、「御名」は、神のご性質とほぼ同一に用いられます。したがって、「御名があがめられますように。」というのは、神ご自身をあがめているのと、ほとんど同じであると考えてよいでしょう。

 御国が来ますように。

 これは、この地で神の国が確立されることへの祈りです。私たちの住んでいる地は、以前として悪魔の支配下にあります。イエスの十字架と復活によって、悪魔の敗北が定められましたが、まだ、この地は神のものとなっていません。それゆえ、国も、社会も、法律も、教育も、そしてそれを造り上げた人間たちが、キリストを認めず、神に反抗しています。しかし、キリストが再び来られるときに、これらすべてのものがキリストに従うのです。ダニエル書7章13節には、こう書かれています。「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」ですから、キリストを無視する傾向がますます強まっている世の中に住んでいて、「御国が来ますように。」という祈りは、ますます切実になってきます。

 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

 私たちが最も効果的な祈りをするなら、この祈りがそれでしょう。なぜなら、私たちのお願いではなくて、神のみこころが実現することを祈っているからです。神は、私たちにすばらしい御計画を持っておられます。その計画は「わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのもものだ。」とエレミヤは言っています(29:11)。けれどもまた、「私の思いは、あなたがたの思いと異なる、私の道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・・天が地より高いように、わたしの道はあなたがたの道よりも高く、私の思いは、あなたがたの思いより高い。(イザヤ56:8.9)」と神は言われます。したがって、神の御計画はあまりにすばらしいので、私たちは理解できないのです。ですから、時に、私たちに理解できないことが起こります。「神様、何で!」とききたくなるようなことが起こります。その不条理に思えるようなことをもっとも辛い形で経験された方はイエスなのです。十字架につけられる前に、こう言われました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。(マタイ26:39)」罪のない神の御子が、死刑台につけられるほどむごいことはありませんでしたが、神の御計画は、イエスによってすべての人に救いを提供し、イエスご自身がすべてのものの上に引き上げられる事でした。したがって、「みこころがおこなわれますように」という祈りは、私たちのできる最善の祈りなのです。

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

 ここから、個人の必要のためにお祈りが始まります。私たちはこれを一番先に祈りにもってきますが、主の祈りでは5番目です。ここでは、物質的な必要のために祈っています。ピリピ書によると、神は、「キリスト・イエスにある義ご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(4:19)」と言われました。ですから、なんでも必要があれば、神に祈りましょう。

 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

 物質的な必要だけでなく、霊的な必要もいのらなければなりません。神から罪の赦しを得ることは、私たちの霊的生活のために非常に大切な事です。

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

 これは、私たちが今の悪の世界そのものからすくいだされるように願っている祈りです。ロトは、ソドムとゴモラに住んでいた時、その好色と、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていました。けれども、神は御使いを遣わし、ロトをその誘惑から救い出されて、ソドムとゴモラを滅ぼされたのです。(2ペテロ2:7−)。神は、同じように、この地にご自分の御怒りを下されます。その前に、神はキリストによって正しくされた者たちを救い出されます。パウロは、「やがてくる御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになった(1テサロニケ1:10)」とのべています。

 国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。

 これは、頌栄ですね。主の祈りは、礼拝に始まり頌栄で終わりました。つまり祈りは、神を神として認めることが中心になっています。

4C  赦し
 もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

 イエスは、主の祈りの中の嘆願の一つを強調されています。他人を赦す事が非常に重要であることを、強調されています。イエスは後に、マタイ18章において、私たちが人を赦さなければ、神も私たちを赦さないことをたとえ話を使って説明されています。神が私たちの莫大な額の負債を帳消しにしてくださったのですから、私たちも他人の負債を帳消しにする、つまり赦さなければなりません。

3B  断食
 イエスは、パリサイ人と律法学者の善行についての話に戻られています。次は断食についてです。

 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

 断食は律法に、年に一度、贖いの日に行うように命じられていますが、パリサイ人は週に2度行っていました。これも、自分が人からいかに霊的であるかを見せるためのものだったのです。

 しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。

 原則は同じであり、神を喜ばせる動機を持って断食する時に、報いがあるのです。

2A  富のむさぼり
 こうしてイエスは、律法学者とパリサイ人の偽善的な行いに気をつけるように言われました。次からは、世の富をむさぼることについての警告です。彼らは、物質的な裕福を神の祝福と考えていました。けれども、イエスは、キリストの弟子達が物に対して持つべき態度を教えられています。

1B  選択
 まず、私たちの生活における選択において、どうするべきかがかかれています。

1C  蓄え
 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

 私たちは日々の蓄えをどこに置くべきか選ばなければなりません。給料が毎月、銀行の預金口座に振り込まれてきますが、地に蓄えるか、天に蓄えるかを決めなければいけません。古代では、財産は地下に埋められました。もし地下に蓄えたら、その金は虫いとさびで、みずものにきずものになり、また盗人が穴をあけて盗みます。つまり、地上に蓄えても、それはずっと残る事はない、という事です。しかし、天に蓄えると、それは永遠に残ります。したがって、私たちが得た収入は、すべて神のものであることを認めて、どのようにすれば天の御国のために用いられていくかを考えなければいけません。

 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

 私たちが物を持つこと自体に何も悪いことはありません。ところが、私たちの思いや考えは、ここに書かれているとおり、自分の持っているものによって大きく左右されます。したがって、財産を地上に残す事よりも、神の御国のために用いることを考える時、私たちのこころは自ずと神にむかうことができるのです。

2C  目
 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。

 ここでは、財産が、私たちの思いや考えに影響を与えるだけでなく、生活全般、全生涯にも影響を与えることを書いています。私たちが自分の財産に焦点を当てると、「誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れて、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。」とパウロは言っています(1テモテ6:9)ですから、ただ財産に目をむけるだけのことが、広範囲に害を及ぼします。

3C  奴隷
 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

 私たちはクリスチャンになるにあたって、神の奴隷になるか、お金の奴隷になるかの決断をしなければなりません。「お金もたくさんためて、それでクリスチャンとして生きれば、なんと素晴らしい人生が送れるのだろうか。」というのは不可能なのです。自分は主のしもべであることのはっきりとした決断をして、自分に与えられている財産はすべて神のものであるという認識に立ち、いかにしてこれを神を愛するために用いていくことができるのかを考えるべきです。

2B  思いわずらい
 イエスは、神に仕えるか富に使えるかも選択の問題から、心配の問題に話を移されています。私たちが富に仕えず、神に仕える決断をする時、富が私たちから離れていき、私たちは貧乏のどん底に陥るのではないかという不安が生じます。そこでイエスは、こういわれています。

 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

 イエスは再び、自分の思いを食べ物や着る物で一杯にしてはいけません。と言われています。なぜなら、いのちや、身体の方が大切なのに、食べ物や着る物に思いを注ぐ事は、バランスの欠けた生活だからです。

1C  例
 イエスは、このことを2つの生きものによって説明されています。

1D  空の鳥
 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

 この「もっとすぐれたものではありませんか。」というのは、聖書の中に頻繁に出てくる論法です。より劣ったものにさえ適用されているなら、よりすぐれたものには、なおさら適用されるという論理です。ここでは、私たちより劣る鳥が天の父から養われているのだから、より優れた私たち人間は、天の父から養われるのはなおさらのことである、ということです。

2D  野のゆり
 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

 イスラエルに咲いている花は、今も非常に美しいと言われています。ここで、野の花が「働きもせず、紡ぎもしません。」とありますが、私たちが何も働かないで、貯金もしなくてよい、ということではありません。イエスが用いられている論法は、類似でなく対象なのです。つまり、働きもしない野の花がここまで着飾っているのだから、働いているあなたがたは、なおさら着る物が与えられるでしょう、という事なのです。

2C  結論
 この2つの生きものの例によって、イエスは結論を述べられています。

1D  心配の禁止
 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

 イエスは戒めを与えられていますが、まずは、心配をしてはいけない、という事です。「こういうものはみな、異邦人が節に求めているものです。」とありますが、日本は地上での生活以上に大事な価値観がありませんから、社会全体が、食べるもの、着る物、住む所を心配するような構造になっています。日本の総人口が物がなくなるという不安の病にかかっているといても過言ではありません。その解決は、「天の父が養って下さる」という真理です。神の子どもは、物質の必要に関して神にゆだねる特権があり、義務があります。

2D  神の国と義の追求
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます

 これが、19節からここまでの結論とも言えるでしょう。天に宝を蓄えて、神のことに焦点を当てて、富に仕えず神に仕えるなら、神は必ず、私たちを養ってくださいます。神を第一として生きる時、はじめてバランスの取れた生活をすることができるのです。

3D  あすへの心配の無用
 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

 私たちが思いわずらわずに考えられる範囲は、今日ということをイエスはよく知っておられます。あす、来月、来年のことを考えすぎると、思い煩うのです。ですから、一日、一日、神から与えられたものに、感謝することが大事なのです。ソロモンは言いました。伝道者の書章19節です。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」


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