マタイによる福音書7章 「権威を持つ者」
アウトライン
1A 最後の戒め
1B 禁止 断罪
2B 命令 責め
1C 方法
2C 注意
2A 最後の呼びかけ
1B 祈り
1C 約束 与えられる
2C 基礎 良い父
3C 結論 他人への善行
2B 狭い門
3B にせ預言者
1C 実による見分け
2C さばき
3A 最後の結論
1B 家のたとえ
2B 反応
本文
今日はマタイによる福音書7章を学びます。この章のテーマは、「権威を持つ者」です。
とうとう山上の垂訓の最後の部分に来ました。イエスは、「悔い改めなさい。天の見国は近づいたから。」と言われて、宣教を開始されました。この説教によってイエスに従う弟子達が現れます。そこで、イエスは山に上られて、弟子たちに教え始められます。それが山上の垂訓と呼ばれるものですが、これは基本的に天の御国の宣言です。「垂訓」というと、「訓示を垂れる」というようなイメージが伴ないますが、そうではなくて、新しく民主主義になった国が、「人権宣言」のようなものを布告するように、イエスは、天の御国の方針や考え方などを外部に表明されたのです。
主に3つの部分から成り立ちます。1つは、5章3節から16節までで、天の御国に属する者の特徴です。「貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」という言葉で始まっています。2つ目は、5章17節から19節までで、天の御国の王であるキリストご自身についてです。「わたしが来たのは律法や預言者を破棄するためだと思ってはなりません。破棄するためにではなく、成就するために来たのです。」と言われました。そして3つ目、天の御国における正しさ、つまり義について話されました。「まことにあなたがたに告げます。もしあなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません。」と言われています。この天の御国についての宣言が5章20節から始まり、ずっと続いて、今日学ぶ7章の1節から6節の部分で締め括られます。
1A 最後の戒め
それでは、天の御国の義に関する、この最後の戒めについて学びましょう。
1B 禁止 断罪
さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
さばくことを禁ずる戒めです。さばきには、いろいろな種類があります。聖書の中に出てくるものとしては、まず、「罪に定める」あるいは「断罪する」という意味のものがあります。人間が罪を犯したため神が死後にさばかれる、と言う時、この意味で使われます。また裁判所の裁定の意味で、「さばく」とも使われます。パウロはコリント人に、教会の中で問題が起こったら、教会の内部でさばきなさい(1コリント6章)と言っていますが、それは裁判しなさいという意味です。また、「さばく」の類義語として、「見分ける」という言葉が出てきます。これはある事柄が正しいかどうか、本物かにせものかを判別する意味に使われます。
御霊の賜物には、「霊を見分ける賜物」が出てきます。そして、「吟味する」というのがあります。これは、ある事をじっくりと観察することです。預言を吟味したり、自分自身を吟味したりします。さらに、「戒める」という言葉があります。これは、人の誤りを示すことです。そして、「責める」という言葉があります。これは、人の誤りを確信をもってはっきりと指摘することです。ですから同じ「さばく」でも、「断罪する」「裁判をする」「見分ける」「吟味する」「戒める」「責める」など様々です。
イエスが、「さばいてはいけません。」と言われたのは、人を罪に定める意味での「さばく」です。言い換えれば、人のあら探しをしたり、必要以上に批判的になる事です。この場合、人の言っていること、行っていることの動機までをさばきます。けれども、はっきりと目に見えるかたちで罪を犯しているのとは違って、人が心の中で犯している罪を私たちはさばくことができません。人の心の態度や隠れて行っていることは、前回勉強しましたように、神のみが知っておられることであり、神のみが正しくさばくことができるのです。したがってイエスは、「さばいてはいけません。」と言われました。その理由として、「さばかれないためです。」とあります。私たちが人のあら探しをしたり、とても批判的になる時、人を誤ってさばくという罪を犯します。この罪に対してさばかれるのです。さばかれる時の内容が、2節に書かれています。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
私たちが他人を裁く時に、さばきの基準をつくっています。そして、その基準にしたがって、私たちはさばかれます。パウロは言いました。「あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。(ローマ2:1)」私たちは他人を裁く時、ほとんどの場合、少し状況を変えて同じ原則を当てはめれば、自分も同じ罪を犯しているのです。
その典型的な例がダビデの生涯にありました。第2サムエル記12章に書かれています。預言者ナタンは一つの話をしました。多くの羊と牛を飼っていた富んだ人が、一匹の雌の子羊しか飼っていない貧しい人からその子羊を奪い取った話です。ダビデは非常に怒り、「そんなことをした男は死刑だ。」と言いました。ナタンはダビデに、「あなたがその男です。」と言って、ダビデがウリヤから彼の妻バテ・シェバを奪い取り、ウリヤを殺した罪を指摘しました。ダビデは罪を告白し、主が彼を赦されたので、死刑になることはありませんでしたが、本来ならば、ダビデがさばいたように、さばかれなければならなかったでしょう。したがって、イエスは、「あなたが量るとおりに、あなたがたも量られます。」と言われました。
2B 命令 責め
けれども、説明しましたように、さばきにもいろいろな種類があって、「罪に定める」という意味のさばき以外は、むしろさばきを行うよう聖書に命令されています。3節からは、教会の人であきらかに罪をおかしていることが発覚したとき、その兄弟を戒めたり、責めたりするときの方法が書かれています。イエスは、マタイ18章でこう言われました。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」けれども、気をつけなければいけないことがあります。
1C 方法
3節をご覧下さい。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
兄弟の目の中のちりを取り除こうとするのに、自分の目に梁が、つまり材木がはいっているということがよく起こります。随分こっけいな光景ですが、私たちがよく犯しやすい過ちです。相手の欠点は良く見えるので、その人を直してあげようと思います。けれども、実は、ほとんどの場合、自分が重大な問題をかかえているのです。そこでイエスは言われました。
偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
兄弟を責めるためには、まず、自分の梁を取り除かなければなりません。つまり、自分を吟味しなければなりません。パウロは「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれる事はありません。(1コリント11:312)」と言いました。自分自身に対する正しい評価ができると、私たちは、ここで書かれているとおり、物事をはっきり把握できるようになります。それでようやく、兄弟を正して上げて、罪から立ち上がれるように助けることができるのです。
2C 注意
ただ6節に注意書きがあります。聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
イエスは、「兄弟」ではなく、「犬」「豚」と呼ばれています。聖書では、「犬」も「豚」もいい意味で使われていません。ここでの意味は、たとえ戒めたり、責めたりしても、決して悔い改めることのない、かたくなな人たちを避けなさい。ということです。箴言9章7節には、こう書かれています。「あざけるものを戒めるものは、自分が恥を受け、悪者を責めるものは、自分が傷を受ける。あざけるものを責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう、知恵あるものを責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。」ですから、聖なるものを、そういう人たちに与えてはなりません。
2A 最後の呼びかけ
これで、天の御国の義についてのイエスの戒めが終わりました。次からは、今までのイエスの言われたことに応答するよう、最後の呼びかけをされています。伝道集会でいうなら、伝道者が最後の招きを始めている部分です。主に3つの種類の呼びかけをされていますが、「求めなさい。」と、「狭い門から入りなさい。」と、「にせ預言者に気をつけなさい。」の3つです。
1B 祈り
1C 約束 与えられる
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
このみことばはよく、物質的な必要についての祈りだと解釈されてますが、私は必ずしもそうではないと思います。なぜなら、イエスは物質的な必要について、「天の父が養って下さる。」と約束してくださり、逆に、「神の国と神の義をまず第一に求めなさい。(5:33)。」と命令されているからです。ここで、「求めなさい。」といわれているのは、今まで話したことをまもり行う事ができるように、求めて、探して、たたきなさい、と呼びかけておられるのです。
私たちは今まで、イエスが天の御国に入るための義について説かれている部分を読んできました。「見せかけの善行をしてはいけない。」「心配してはいけない。」「さばいてはいけない。」などの戒めを呼んで、どう思われたでしょうか。私はこのメッセージの準備をしていて、「ああ、俺はもうだめだ。」と心のなかでためいきをついていました。けれどもイエスは、私たちが自分でそれらを行う事を期待されていません。むしろ、それらを行うことのできる力と知恵を神からいただけるように、求め、探し、たたきなさいと命令されているのです。面白い事に、ギリシャ語は、「求め続けなさい。探しつづけなさい。たたき続けなさい。」となっており、しつこく願い続けることを勧めています。ですから、「ああ、俺だめだ。」とため息をつきつづけるのではなくて、求め続ける必要があります。自分が天の御国の義の基準を満たしていないことを悟るたび、「神さま。僕にはこんなことはできません。でも、どうかあなたの助けによって、行うことができるようにしてください。」と、しつこくあきらめずに求め続けるのです。その結果が、「与えられ、見つけ出し、開かれる。」のです。イエスは、「だれでも」と言われているように、クリスチャンならだれにでも与えられている約束です。
2C 基礎 良い父
この約束の基盤になっている真理が次に書かれています。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
ここに再び、神が、「あなたがたの父」として紹介されています。もう一度思い出していただきたいのは、私たちは宗教をしているのではないということです。私たちの良い行ないを積み上げて、神の御前に正しい者と認められるようにするのではありません。そうではなく、天と地とを造られた神を「父」と呼んで深い信頼を寄せること、つまり信仰による歩みをしているのです。イエスは私たちに善を行う力が全然ないことを、私たち以上によく知っておられます。ですから、自分の力で生きるのではなく、神にしっかりと結びついて、心を尽くしてより頼み、神の力によって歩みなさいと命令されているのです。この神との信頼関係が、キリスト教の真髄であります。
この神が、私たちの願いに答えて下さることは確証できます。なぜなら、悪い者であっても、子どもに願ったものを与えるのですから、ましてや天におられる父は、私たちを裏切ることは決してなさいません。ルカによる福音書における同じ記述には、こう書かれています。「とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう。(11:13)」イエスは復活後こう言われました。「聖霊があなたがたに臨まれる時、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒1:8)」 イエスは、私たちが肉の弱さのためにできなくなっていることを、もう一人の助け主である聖霊を私たちに遣わされることによって、私たちがイエスように生きることができるようにしてくださいました。パウロは、「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません。(ガラテヤ5:16)」と言いました。みなさんは、天の父に聖霊を与えてくださるように求めたことがあるでしょうか。もしなかったら、今から求めてください。皆さんの祈りを、神は必ず聞いてくださいます。
3C 結論 他人への善行
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。
今、天の父が、私たちに良いものをくださる方として紹介されました。神は私たちによくしてくださっているように、私たちも他人によくしてあげることが神の戒めのすべてです。他の箇所でイエスは、律法全体と預言者が、神を愛し、自分のように隣人を愛する律法にかかっていると説明されました。「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」というのは、他人を愛することの別の言い方です。パウロも、「愛は、隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(ローマ13:10)」と言いました。日本人が「愛」という言葉を聞くと、ロマンスをイメージしてしまいますが、「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」というのであれば理解しやすいのではないでしょうか。イエスは神の戒めの根本を、このように一言でまとめられました。
2B 狭い門
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
これが、2つ目の呼びかけです。イエスがここまで教えられた天の御国の義への道は、「狭い門」です。当時、天国に行ける道として広く認められていたのが、パリサイ人と律法学者の教えと行ないでした。しかし、彼らの行いは外面だけのものであり、心がともなっていないことに誤りがありました。この一般的に認められている道は「広い門」であり、多くの人々はその門から入っていったのです。
私たち日本人に広く認められている正しい道とは何でしょうか。「人生いろいろな道がある。」と多くの人は言いますが、一定のものさしを持っています。若い時にしっかり勉強して、いい会社に入り、そして家の伝統を守って冠婚葬祭に出席していなければならない、というものです。その線をはずしていなければ、特に文句は言われません。だから、夫が仕事以外のことは考えず妻子を顧みなくても人々からは認められます。学生が成績のことばかり考えて、人生のことや、生きる意味や目的を考えなくても、社会的には認められます。内面では、心の葛藤や不安、また孤独感、空しさなど、あらゆる種類の心の傷を負っていますが、それでも、外面的にはまともな人として認められるのです。けれども、それは「広い門」です。多くの人はそこに入っています。
けれども、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じ、この方に従っていく道は、狭い門です。敵を愛して、隠れたところで善行をし、富に仕えず、人をさばかない道は、決して容易いことではありません。けれども、これが天の御国に到達するまでの道なのです。また、人間には2つの門しかありません。「滅びへの門」か、「いのちへの門」かのどちらかであって、中間は存在しないのです。狭い門から入って天の御国に入るか、広い門から入って、悪魔とともに地獄に投げ込まれるかのどちらかしかありません。
3B にせ預言者
それでは次に、3つ目の呼びかけを読みましょう。にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
にせ預言者についての呼びかけです。これは、キリストの弟子たちをつまづかせる、もっとも邪悪な存在の一つです。にせ預言者の特徴は、本性は狼なのに羊のなりをしてやって来ることです。弟子たちは、イエスの説教をずっと聞いていましたが、それに実に似たことを、にせ預言者は教えます。見かけはクリスチャンと何ら変わらないのですが、実際はキリストの教えと正反対のことを行っています。
1C 実による見分け
そこで、にせ預言者をどのように見分ける事ができるのか、次に教えられています。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。
良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
イエスは実によって見分けることができる、と言われています。この「実」とは、教えと行いのどちらも含みます。私がアメリカにいる時、多くのエホバの証人の人たちが家を訪れました。私は、その人たちに、さまざまな質問をぶつけてみました。「あなたはイエスを神の御子と信じますか。」「あなたは信仰によって救われると信じますか。」など質問しましたが、答えは「はい。」です。そして彼らの話を聞いていると、部分的には私が教会で聞いている話とそっくりなのです。
ところが、ある人は私にこう言いました。「あなたはクリスチャンなようですが、私もクリスチャンでした。私の親は熱心なクリスチャンで、私自身は毎週、監督派の教会に通っていました。」それで私は反論しました。「あなたがどんなに教会に通っても、両親がクリスチャンでも、そのことがあなたをクリスチャンにするのではありません。あなたはクリスチャンではなかったし、今もクリスチャンではありません。罪を悔い改めて、イエスを救い主として信じなければ救われないのです。」そうしたら、その人は怒って帰ってしまいました。私と聖書のことを話している時は、ほとんどクリスチャンと変わらない口の聞き方をしますが、実のところは、聖書について何もわかっていないのです。その人は、教会に通う事が救いにつながると思っていたように、エホバの証人の一員として活動することが救いにつながると信じているのです。
だからイエスは、「実によって見分けることができます。」と言われました。パウロもそういう人たちのことを、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。(2テモテ3:5)」と言いました。また使徒ヨハネは、こう言っています。「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人たちにあいさつの言葉をかけてもいけません。(2ヨハネ10)」イエスは、「にせ預言者たちに気をつけなさい。」と言われたのです。
2C さばき
次に、にせ預言者たちに対するさばきが書かれています。わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
単なる口の告白は、人を天国に入れません。「イエスは主です。」と言っても、イエスが主であることが生活の中で見えなければ、完全に矛盾しているのです。心から「イエスは主です。」と告白しているなら、自分の生活における主導権をイエスに明け渡し、イエスを第一として生きることを求めるはずです。その結果、その人は父のみこころを行っています。私たちと神との関係は、私たちが父の願われていることを行うところに現れ出ます。行いによって救われるのではなく、信仰のみによって救われるのですが、信仰は行いによって現れるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
イエスの名によって超自然的な働きをしたとしても、それによって天の御国に入れません。イエスは彼らに、「わたしはあなたがたを全然知らない。」と言われています。これは、まったく知識の上で知らないということでなく、あなたとは何の関係も持っていない、ということです。イエスが主であり私たちが弟子であり、イエスに愛されてイエスを愛するという関係が存在していないのです。ですから、イエスという名を使っていても、イエスと人格的な関係を持たないことがあります。そこでイエスは、「不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」と言われました。
3A 最後の結論
これで、イエスの呼びかけは終わりました。最後にイエスは、5章3節からの説教の結論を話されています。
1B 家のたとえ
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
これは逆境に直面した私たちの姿を描いています。土台を何にしているかによって結果が変わります。イエスはまず、「わたしのこれらのことばを聞いて」と言われました。みことばに根ざした信仰が大切です。私たちの生活は、いつも順調だとは限りません。もし、自分の感情や気持ちを信仰の土台にしていれば、何か逆境的なことが起こったとき倒れてしまいます。キリストのみことばに根ざす信仰生活を送ることが、逆境の中に耐えることのできる方法です。
そしてイエスは、「わたしのことばを聞いて行う者は」と言われました。聞くだけではなく、自分の生活に適用させていくことが大切です。私たちはこのようにして聖書を学んでいますが、ここは知識の蓄積の場ではありません。聖霊の導きによって、学んだことを生活の中で具体的に実行しなければなりません。それによって、逆境が来た時に動じることのない信仰が生まれるのです・
2B 反応
聞いていた人たちの反応は次のようなものでした。イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
イエスはずっと、「わたしはあなたに言います。」というように、権威をもって語られました。律法学者は、「あのラビは、この律法について、こうこう解釈しています。」というふうに、他人の意見ばかりを引用していました。ちょうど大学の研究生が、自分の研究の成果を発表するように語ったのです。自分の生活には特に関わりを持っていません。しかしイエスは、判決を下す裁判官のように、その教えは確信に満ち、その命令は絶対でした。
なぜなら、イエスご自身が最終的な権威だからです。仏陀も、モハメットも、「ここに道がある。」と教えましたが、イエスは、「わたしが道です。」と言われました。イエスは律法学者のひとりでもなければ、他の預言者の一人でもありません。むしろ、イエスご自身が律法の目的であり、イエスご自身が、預言者たちが預言していた対象だったのです。
ただ、本当に権威をもっているかは、そのことばに従う者が出てくることによって確かめられます。そこで8章と9章には、イエスの話されることばによって、さまざまな人の病気が治り、死人までが命を吹き返す記述を読みます。イエスは、ご自分が天の御国の王であることを宣言されただけでなく、そのことを立証されたのです。それは次回学びましょう。
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