アウトライン
1A 罪を赦す権威
2A 伝統をこわす権威
1B 罪人との交わり
2B 断食をしない弟子
3A 死者をよみがえらせる権威
4A 暗闇から解放する権威
5A 悪霊追い出しの権威
本文
今日はマタイによる福音書9章を学びます。ここでのテーマは、「信仰か反対か。」です。私たちは、前回から、イエスがご自分の権威を公に示し始められる記事を読んできました。ご自分のことばによって、病人をいやし、風と湖を制せられ、悪霊を追い出されました。ところが、最後の悪霊の追い出しの記事において、その地域の人々がイエスに去っていくように願い出ていることを読みました。イエスがもたらした良い知らせに反対したのです。今から読む9章において、この反対が少しづつ大きくなっているのを読む事ができます。さらに、この章では、逆にイエスの良い知らせ、つまり福音を福音として受け取る人々も増えてきている部分を読みます。イエスの権威に人々がどのように反応しているのかが、この章で注目すべき点です。
1A 罪を赦す権威
イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
イエスは、ご自分が住みはじめたカペナウムの町に戻られました。
すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
中風の人がイエスのみもとに運ばれてきました。中風は、体の付け根の部分に激しい痛みが走り、人を麻痺させる病です。ですから、一人で歩く事は到底できなかったので、彼は床にふせっているしかできなかったのです。イエスは、「彼らの信仰を見て」と言われました。でも、信仰をどのようにして見ることができたのでしょうか。4節には、イエスが、律法学者たちの心の思いを知っておられた、とありますから、イエスには人の心を知ることができました。ただ、それだけでなく、この病人をイエスのところまで運んできたという行いに、彼らの信仰が現れていたのです。ヤコブは、私たちの行いに信仰が示されることを教えています。そしてイエスは、「子よ。しっかりしなさい。」ということばを言われました。
イエスが、「しっかりしなさい。」といわれたということは、この中風の人は恐れていたのでしょう。なぜ恐れていたのでしょうか。イエスは、その後すぐに、「あなたの罪は赦されました。」と言われています。つまり。この中風と彼の犯した罪が関りを持っていたと考えられます。病がその人が犯した罪によるとは決して言う事はできません。というのは、生まれつきの盲人について、「この人が、罪をおかしたのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。(ヨハネ9:3)」と言われたことがあるからです。しかしパウロが、「自分の肉のために巻くものは、肉から滅びを刈り取り」ますといっているように(ガラテヤ6:8)、自分の蒔いたものを刈り取らなければいけないのです。ある人によると、当時の中風は梅毒によってかかったとされています。梅毒はもちろん乱れた性的関係からもたらされるのですが、もしかしたら、床に運ばれてきた中風の男は、自分の犯してしまった罪のために、こんなひどい目にあっていたかもしれません。それで恐れていたのでしょう。ですから、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦されました。」というイエスのお言葉は、彼をほっとさせました。ダビデは、「さいわいなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。(詩篇32:1)」と歌いました。罪を赦された者は、真の幸せを得ることができるのです。
すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。
これが、マタイの福音書では、律法学者による最初の反対の記事です。彼らのイエスへの反対は、「心の中」から始まっています。彼らが心の中で言ったことは、「この人は神をけがしている。」というものでした。これは、イエスがもし神でなければ、全く正しい意見です。まさに、神しか罪を赦す権威はありません。
私たちの言葉に、「水に流す」というのがありますが、真理に照らすとそれは通用しません。罪はいつまでも残るのです。ちょうど、連続殺人者が死刑の判決を言い渡されて、どんなによいことを刑務所の中でおこなったとしても、それで死刑の判決が変わるわけではないことと同じです。それを帳消しにできるのは、裁判官だけです。つまり、さばき主である神のみが、それを帳消しにすることがお出来になります。神のみにしか、人を赦す権威はありません。しかし、律法学者たちは、イエスが神ではないという前提に立っていたところで間違っていました。そうではなく、イエスは、神ご自身なのです。したがって、「あなたの罪は赦されました。」と言う権威を持っておられたのです。
イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
イエスは人の心を知っておられます。人の心を知ることのできるのは神だけであり、ここでもイエスが、神ご自身であることが示されています。
『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
どちらがやさしいでしょうか。「あなたの罪が赦された。」と言う方がやさしいですね。なぜなら、罪が赦されること自体は、目に見ることができないからです。けれども、「起きて歩け」というのは、実際にその人が歩かなければ、そのことばに権威がないことがすぐにばれてしまいます。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
この文の前に、ギリシャ語では、「しかし」がつきます。イエスは、本当は罪を赦す権威を持っていることを証明されたいのですが、目に見えないので人にはできません。したがって、ここにいる中風の者をいやすことによって、ご自分がメシヤであり、神の権威を持っていることを知らせようとされているのです。なお、「人の子」とは、メシヤの称号です。
すると、彼は起きて家に帰った。
起きただけでなく、家に帰りました。偽りなく、彼がいやされたことがここで強調されています。
群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。
「神をあがめた。」とあります。これが、まず、最初に載っている肯定的な反応です。律法学者とは異なり、群集はイエスにある権威を認めました。
2A 伝統をこわす権威
こうして、イエスが罪を赦す権威を持っておられることがはっきりとわかりましたが、それに反対する人々と、肯定的に受け止める人々がいて、反応が二つにわかれているのを見ました。次に、イエスが、人の作り上げた伝統を破る権威を持っておられることが書かれています。
1B 罪人との交わり
イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。
イエスは、取税人のマタイをご自分の弟子として召し出されました。取税人は、ローマ政府に納めるべき税金を人々から徴収していた人々ですが、ローマが定めていた割当て以上の額を人々に課すことも許されていました。ユダヤ人はローマ政府に支配されていること自体がいやであったのに、納税することはもっと嫌いでした。そこでローマに加担して、そこで私服を肥やしている取税人は、ひどく嫌われていたのです。この取税人であったマタイが、キリストの弟子となったのです。
私たちは、自分がイエスにふさわしいものかどうかを考えてしまいますが、イエスはもともとふさわしくないことをよくご存じです。イエスは私たちに、自分の身を清めよ、と言われているのではなく、自分の身を捧げよ、と命じられているのです。ですから、不完全きわまりないマタイは、「立ち上がって、イエスに従」いました。
イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
この家はマタイの家です。
すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
イエスと罪人たちが一緒に食事をすることは、ユダヤ人、特にパリサイ人にとっては、スキャンダルになるようなことでした。なぜなら、罪人や異邦人との食事は絶対にしてはいけない、という伝統があったからです。というのは、当時、食事を一緒にすることによって一つになるという意味がありました。一つのパンを裂いて、一つのスープにそれを浸して食べます。同じパンと同じスープがそれぞれのお腹に入るので、互いにつながっている事を象徴します。つまり罪人と一緒に食事をすることは、罪人と一つになることであり、彼らにとって許されるべき行為ではなかったのです。
それに対するイエスの対応はどうでしょうか。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
イエスは、ご自分を医者にして、罪人達を病人にたとえています。もし、医者が病人と一緒になる事がなければ、診療と治療をする事はできません。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。
イエスは、真の教師として、パリサイ人に宿題を出しました。モーセの律法の中に、いけにえについての命令がありました。しかし、それは、背後にある意味がとても大切なのです。背後にある意味とは、聖い神と汚れた人間が交わるためには、犠牲の捧げ者がなければならない事でした。つまり、神と交わる事、神が聖であられるように、私たちも聖くなる事がいけにえの目的だったのです。それなのに、そうした儀式だけが一人歩きして、大事な誠実とかあわれみとかをおろそかにしていました。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
ギリシャ語では「罪人を悔い改めに招くために来たのです。」となっています。罪人が悔い改めるには、どうしたらよいでしょうか。イエスは、前の節で、「あわれみ」だと言っておられます。私たちは自分達が正しいことをして、そうしていない人と、自分を比べておごり高ぶるパリサイ人のようであってはなりません。むしろ、正しいことをしていない人々をかわいそうに思い、あわれむことが私たちの役目です。そして、それがその人を悔い改めに導く最短の道なのです。パウロは、ローマ人への手紙1章4節で「神の慈愛があなたを悔い改めにみちびく」と言いました。このように、このあわれみの心が、私たち罪人に手をのばし、彼らと一緒にいるように促します。こうしてイエスは、伝統にたいして権威を持っておられることを示されました。パリサイ人はそれに反対して、罪人達はそれを喜びました。ここで、彼らが弟子たちに反対を述べていることに注目してください。先ほどは、心の中だけでしたが、今は口に出して言っています。
2B 断食をしない弟子
するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
イエスに対する反対が、なんと、バプテスマのヨハネの弟子たちから出ています。パリサイ人たちは、罪人と一緒にいることに反対しましたが、彼らは食事をしていることに焦点を当てて反対しています。「私たちとパリサイ人は」と言っていることに注目してください。彼らは、パリサイ人たちと同じように定期的に断食をおこなっていました。つまり、パリサイ人たちの伝統をそのまま守り、行っていたのです。そのため、特に定期的に断食するように教えていなかったイエスに、疑問と反対の声をかけたのです。
これに対するイエスの回答を見ましょう。イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。そのときには断食します。
当時は、花婿と花嫁が結婚した後に、自分達の家を解放して、その友人達が家に訪れました。そこで、食べ物などを置いていったりしたのです。これは祝いのときです。イエスが指摘された彼らの過ちは、「時が違う」と言う事でした。バプテスマのヨハネがメシヤ到来の予告をして、彼は悔い改めの説教をしました。その時に、自分の罪のために嘆き悲しむ現れとしての断食はふさわしいものでした。しかし、今や、神の御国の王であるメシヤがすでに来られたのです。嘆きの時ではなく、お祝いの時です。確かに、聖書では、神の国が宴会にたとえられています(イザヤ25:6)。ヨハネはすでに幽閉されていました。イエスが宣教をすでに開始されています。したがって、今は、断食をする時ではないのです。ただ、「花婿が取り去られる時」つまり、イエスが十字架につけられる時が来たら、その時に彼らは嘆き悲しみます、と言っています。
だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。
また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」
まず最初のたとえですが、着物は洗うと縮みますね。もし真新しい布切れで古い着物を継ぐと、洗ったときにその新しい継ぎが縮んで、もう縮まなくなった古い着物を引き裂いてしまいます。2番目のたとえですが、古い皮袋は硬くなって、ごわごわになっています。新しいぶどう酒を入れると、気体がでてくるので伸縮性のない古い皮袋ははちきれてしまいます。したがって、新しいぶどう酒は伸縮する新しい皮袋に入れるのです。
ここでは、イエスはすでに宣教されている後の、ヨハネの宣教の継続の間違いを指摘されています。ヨハネの悔い改めの説教は、あくまでもメシヤ到来の道備えであって、メシヤが来られたのであれば私たちの役目はこの方を信じる事です。ちょうど王が来られるのであればその通りをきれいにしなければなりませんが、もう来たのであれば、その方に敬礼する必要があるのと同じです。けれども、ヨハネの弟子たちは、ユダヤ教を改革しようとしていました。しかし、イエスはユダヤ教という古い皮袋にご自分の新しいぶどう酒を入れるのではなく、新しい働きを行われていたのです。
3A 死者をよみがえらせる権威
こうして、イエスが伝統に対して権威を持っておられることがわかりました。次はイエスの権威がもっとも大きく現れている部分です。つまり、人を生き返らせる権威があったのです。
イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。
イエスが話しておられる時に、この管理者が来ました。イエスに対する要求がどんどん増していきます。
「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」
ここでも強調されているのは、信仰による回復です。彼は、イエスが娘を生き返らせる権威がおありなのを信じました。ところで、「会堂管理者」とは、ユダヤ教の会堂、つまりシナゴーグの指導者です。会堂管理者は、モーセの律法を保持する責任がありました。他の律法学者、パリサイ人とおなじように、伝統を破るイエスに反対していたにちがいありません。しかし、娘が死んだというどうしようもない状況のなかで、彼は伝統を破ってイエスに願い出てました。別の言い方をしますと、伝統をやぶることのできたのは、こうした絶望的な状況があったからです。神は、時に、人々に信仰を持たせるために、どうしようもない状況を許されます。
イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。
イエスが、娘を生き返らせる場面を、弟子たちはこれから目撃します。前回ではイエスが嵐を制する権威を弟子たちは見ました。イエスについていくことの特権は、イエスの働きをもっと深く見ることができることです。
すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。
この女は、生理の期間でもないのに出血が長く続いていました。それだけでも大変な状況の中にいましたが、レビ気15章に書かれている律法を見ますと、女は汚れており、どんな人とも接触する事ができないとされていました。その状態が12年間続いたのです。彼女が群集の中にいることが知られたら、大変なことになっていただろうと思われます。それで彼女は、イエスの後ろにきて、そっと触ろうとしました。
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。
イエスは色々なかたちで人々をいやされました、あるときは手を置いて、あるときは遠くからいやしを宣言されました。なぜいろいろなかたちがあったかといいますと、人々の信仰の持ち方が色々だったからです。女は、着物にさわれば治ると信じたのでイエスはそのようにされました。このように、イエスは、私たちが信仰を働かせると、それに応じて働かれます。
私がまだ、アメリカに行く前に、トニーという友人が家に泊まっていました。私は仕事からの帰りで、労働組合について不満を述べました。組合員に強制的にならされて、組合費を払わされて、組合の会合があると無理やり会社に居残りさせられて、しかも、無給です。労働権という人権を守はずの労働組合が、人権をこんなにも蹂躙してよいものか、と憤慨していました。すると、トニーはこう言いました。「完全な統治が行われる時が来る。神の国は、正義と平和によって支配される完全な政府だ。」私は、キリストの再臨について知っていましたし、信じていましたが、単なる教理にしかすぎませんでした。ところが、彼は、私に変わって、キリストへの再臨への信仰を働かしてくれたのです。そのときから、神の国の到来がどんなに素晴らしいものかと胸をはずませていますが、私たちは、神が与えてくださっている信仰を積極的に働かせないといけません。自分の生活のすべての分野において信仰を働かせる必要があります。この女は、イエスがいやすことができるという信仰を、イエスの着物にさわることによっていやされると考えることによって、自分の信仰を働かせたのです。
イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。
ここでの「しっかりしなさい」も、大きなことばです。12年間の苦しみから完全に解放されました。
イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、言われた。
この笛吹くものと、騒ぐ群集は、雇われているのです。人が死んだ時、葬儀にあらわれて笛を吹いてやかましくさせるのが目的でした。さらに嘆く者も雇いました。「嘆き屋」とでも言いましょうか。嘆くことが彼らの仕事でした。
「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」
イエスは、この娘が死んだ事実を否定されているのではありません。異端の人につけ込まれたら、ヨハネの11章11節以降を見せてやりましょう。ラザロは眠っているとイエスは言われましたが、弟子たちが文字通り眠っていると思ったので、「ラザロは死んだのです。」と言い換えられました。イエスは死んでも生き返ることを、「眠っている」と表現されています。使徒パウロも、復活のことを話す時に、「イエスにあって眠った人々」と呼んでいます(1テサロニケ4:14)
すると、彼らはイエスをあざ笑った。
イエスの権威に対する反対が大きくなっている事に気付いてください。パリサイ人、ヨハネの弟子だけでなく、群衆が反対しはじめました。
イエスは群衆を外に出してから、うちにおはいりになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。このうわさはその地方全体に広まった。
少女が息を吹き返した噂が、地方全体に広まりました。反対だけでなく、イエスをメシヤと認める働きもしだいに大きくなっていったのです。
4A 暗闇から解放する権威
次は、イエスが暗闇から、解放する権威が示されています。イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。
この盲人達は、イエスを、「ダビデの子」と呼びました。私たちがマタイの福音書1章1節で学んだように、それはメシヤがダビデの王座を受け継ぐことを示し、メシヤの称号になっています。盲人たちは、イエスが来るべきメシヤであることをはっきり認識していたのです。
家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。
盲人たちは、このメシヤが自分達のためにも来たことを信じていました。私たちの学んだメシヤの預言には、次のようなものがありました。マタイ4章16節です。「暗闇の中に座っていた民は偉大な光を見、死の池と死の陰に座っていた人々に、光が上がった。」メシヤは人を照らす光であり、罪によって暗闇の中にすんでいる人々に解放と希望をお与えになります。申命記28章28節によりますと、盲目は神のさばきのしるしでしたが、彼らは、メシヤに救いの望みをかけたのです。
そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。 すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい。」と言われた。
前回も話しましたように、イエスがメシヤであると公に認められるのは、エルサレムに入られる「しゅろの聖日」のときでした。したがって、まだその時が満ちていなかったのです。
ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。
彼らは言ってしまいました。イエスをメシヤと認める動きがどんどん拡がっていきます。
5A 悪霊追い出しの権威
次は、前回に続き、悪霊に対して示された権威が書かれています。
この人たちが出て行くと、見よ、悪霊につかれたおしが、みもとに連れて来られた。
悪霊が追い出されると、そのおしはものを言った。群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。」と言った。しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言った。
群衆の反応は、非常に大きなものになりました。これと対照的に反対も大きなものとなりました。「悪霊どものかしらを使って、追い出しているのだ。」と広言しました。彼らは、最初に心の中で思い、次に弟子たちに反対し、そしてついには公に反対しました。こうしてイエスは、さまざまな分野においてご自分の権威を示されました。その権威に対して、神をあがめるものと反対するものに分かれました。私たちの住んでいる世も同じです。イエスの味方になっているものと、イエスに反対するものとの2つのグループしかありません。中間は存在しないのです。そして、どちらのグループに入るかは、各々が決断しなけばいけません。
結論 ― 継続するイエスの働き
それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
この記述はイエスの宣教の開始の時のマタイ4章23節に出てきました。つまりここはまとめを行っています。イエスが外部に対して積極的に働かれた天の御国の宣言の部分は、ここで終わります。
また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
羊飼いがいない羊とは何でしょうか。まず狼という敵が存在するので恐れています。また、食べる草まで連れて行ってくれる人がいないので、飢えています。さらに、統率する指導者がいないので、秩序がなく混乱しています。同じように、人間は、敵のサタンが死の力を持ち、死という恐怖に縛られています。神のみことばが教えられていないので、霊的に飢えています。さらに、愛によって支配するものがいないので、混乱しています。それによって、弱り果てて倒れているのです。
そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
この収穫は、人の魂の収穫です。彼らが天の御国に入れるようになっていますが、働き手が少ないので彼らは弱まっています。そこで、イエスは、働き手を送ってくださるように祈りなさい、と命じられているのです。おもしろいことに、すぐ次の節で、この祈りが聞かれています。弟子たちのうち12人が選ばれて、イエスの権威を授けられて宣教に送り出されます。私たちもこの祈りが必要ですね。この地域に働き手をもっと送って下さるように祈りましょう。
「聖書の学び 新約」に戻る
HOME