キリスト生涯の追体験  2001/09/10

「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:10)」

ピリピ3章においては、自分の努力や行ないによる功績によって生きる生き方を捨てて、ただキリストとの交わりの中で生きることを望んでいるパウロの姿を読むことができます。

パウロは、上の聖句にあるように、「キリストの苦しみにあずかること」、また、そこから「復活に達したい」と切望していました。事実、使徒の働きに記録されているパウロの生涯を見ると、まるで主イエス・キリスト御自身が歩まれた道を歩んでいるかのような錯覚を受けます。福音を宣べ伝えることによって、数多くのしるしと不思議がともない、多くの者が主を信じたけれども、また多くの反対者が現われ、パウロたちの宣教を妨害します。そして、彼らは自分たちで働いて、多くの労苦を経験しました。さらに、パウロはエルサレムに向かいます。そして、そこで彼はユダヤ人たちに拒まれて、危うく殺されそうにさえなりました。そして、牢の中での生活が続きました。使徒の働きは、牢におけるパウロの姿で終わっています。これと同じように、主は、福音を宣べ伝え、奇蹟を行なわれ、信じる者たちもいたが、この方の働きを妨害する者たちもおり、主の最後は、エルサレムに向かい、ユダヤ人たちに拒まれました。パウロが通った道は、まるで主ご自身が通られた道であるかのようです。

この理由は、パウロ自身がキリストの御霊を受けている、という事実にあります。御霊によって、キリストに結びつけられているので、パウロは、その道を歩むように導かれたのです。

これはパウロだけでなく、旧約時代の聖徒たちも同じでした。イサクをささげるように命じられたアブラハムと、その刀が振り落ちるのを見てなおかつ耐え忍んでいたイサク。主の御使いと格闘したヤコブ。兄たちから拒まれて、殺されそうになり、奴隷の身、囚人の身となったヨセフ、一度イスラエル人に拒まれたモーセ、…などなど、どの聖徒たちを見ても、そこにキリストが通られた道を見ることができます。

それは、キリストの御霊がこの地で生きておられ、とくに、キリストのうちにいる信者たちのうちには、キリストの苦しみと復活の交わりにあずからせるようになさるのです。

私たちがキリストを心に抱いているのであれば、それぞれの生涯において、キリストの生涯を追体験します。苦しみへの道、自分の死への道、そして復活にあやかりたいと切に願う心。この召命から私たちは逃れるわけにはいきません。

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