ピリピ人への手紙4章 「私を強くしてくださる方」


アウトライン

1A 平和の神
    1B 同労者が持つ戦い 1−3
    2B 心の持ち方 4−9
2A 満ち足りた生活
   1B 神への供え物 10−20
   2B あいさつ 21−23

本文

 ピリピ人への手紙4章を開いてください。手紙の最後の章になりました。ここでのテーマは、「私を強くしてくださる方」です。

1A 平和の神
1B 同労者が持つ戦い 1−3
 そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。

 恋をしている男の人が、女の人にかける言葉のようですね。愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。そして、「私の愛する人たち」と声をかけています。パウロは、ピリピ書1章において、「私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。(8節)」と言いましたが、パウロの心の中でキリストが、ピリピ人に対し、愛し慕っていることが分かります。つまり、ここでの言葉は、すべてキリストご自身がピリピ人に対して語っている言葉なのです。

 私たち自身にも、このような声を、イエスさまからかけられていることを考えてみましょう。「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。」なんと、すばらしいことではないでしょうか。私たちは、イエスさまから愛されています。また、このような愛のことばが、クリスチャンの間から絶えることがないことを願います。もちろん、私たち日本人は、ここまで表現豊かに語れるものではありませんが、けれども、いろいろな方法で、兄弟愛を言い表わすことができるはずです。手紙を書くとか、電話をしてみるとか、いっしょに祈ってみるとか、いろいろあります。

 ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。

ユウオデヤとスントケは、どちらも女性です。彼女たちは、次の節に書かれてあるとおり、パウロに協力して福音を広めるために戦った同労者です。その二人が今、ちょっとした確執があったかに思われます。そこでパウロは、「主にあって仲直りしてください。」と話しています。

 女性の奉仕者でありますが、聖書の中、とくに新約聖書においては、たくさんの女性の奉仕者が現れます。執事のような物質的な奉仕だけではなく、使徒や預言者、聖書教師などの奉仕者もいました。彼女たちの働きを見ていると、実に麗しいキリストのからだの姿を見ることができます。

 それは、「キリストにあって、男も女も一つである」という真理です。男も女も、自分が女である前に、キリストにある者であるという自覚と認識があるからです。キリスト者であるがゆえに、男とまったく同じところに立っていることを知りながら、なおかつ与えられている主からの属性を、主のみこころに従って用いていくのです。キリストにある自分を持っているので、女であるということから生じる男との壁を持たなくてすむようになります。プリスキラしかり、ローマ16章に登場する女使徒ユニアスしかり、そしてここに出てくるユウオデキヤとスントケしかりです。彼女たちの間には確執がありましたが、けれども次の節に書かれているとおり、真の意味で福音のためにパウロたちとともに戦った同労者でした。

 ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。

 パウロは、ピリピにいる人々に、ユウオデキヤとスントケを助けてあげるように、お願いしています。

2B 心の持ち方 4−9
 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

 パウロは、再び「喜びなさい」という勧めを繰り返しています。3章でも、2章でも、また1章でもパウロは、「喜びなさい」と勧めました。そして、次に、どのように喜んでいけばよいのかを、具体的に次から勧めています。

 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。

 ここでパウロが言いたいのは、「主が戻ってこられる日が近いのだから、細部の違いをことさらに強調するのではなく、寛容でありなさい。」ということです。ユウオデキヤとスントケが、細かい違いに目が移っていっているところで、パウロがその目を主ご自身に向けさせました。

 ピリピ人への手紙には、そして他の手紙にも、また他の使徒たちの手紙にも、このように主が戻って来られるという真理が、至るところに書かれています。それだけ、クリスチャンの歩みにとって、必要不可欠であるからです。

 ここでは、主が戻って来られることが近いことを知ることによって、何がもっとも大切で、何が二義的なことであるかを知ることができる、としています。パウロは、コリント人への手紙第一7章で、「この世の有様は過ぎ去るからです。あなたがたが思い煩わないことを私は望みます。」と言っています。つまり、この世のもの、肉に属することは過ぎ去るのであり、永遠に残るのは御霊に属することであることを知ることができます。そこで、肉に属する事柄に関わることが、端的に言えば、「時間の浪費」であることを見分けることができるのです。これは、たとえば、クリスチャンの間の議論でも言えるでしょう。議論をすることで、これまで見えなかった部分が発見できたりして、互いに徳が高められるという相乗効果をもたらしますが、その反面、互いにエネルギーを使い果たし、傷つけあうような類の議論もあります。これらを見分けるには、ここにパウロが言っている、「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」という勧めに従えばよいのです。本質的なことがさらに深められ、二義的なことは二義的なこととして位置付けることができるのです。

 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 パウロの、「喜びなさい」についての具体的な二つ目の勧めは、「思い煩わずに、神に願い事を知っていただきなさい」であります。今、パウロは、「あなたがたの寛容な心を」と言いましたが、実は主ご自身が寛容な方であるのです。細かいことに目くじらを立てておられない方、気前の良い方なのです。したがって、そのような方に私たちは、安心して何でもお話することができます。それが、パウロがここで話している、「あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」という勧めの背景なのです。

 そして約束は、「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」であります。ここで、「考え」と「神の平安」が分けられていることに注目してください。私たちが感情や知性の中で混乱があったとしても、錨のようにして心の奥深くに沈み込んでいる、キリストの安息を、私たちクリスチャンは手にしています。私たちが、祈りをもって心を主に対して開くときに、私たちは心の奥にある、この安らぎに気づくことができます。そして、私たちは、自分の心と思いを、この安息に従わせることができるようになるのです。

 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。

 私たちが、福音のために戦いの中にいるとき、否定的な要因が私たちの前を駆け巡ります。しかし、パウロはそこで、「主にあって喜びなさい。」と勧めています。主にあって喜ぶことによって見えてくる、真実なこと、誉れあること、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判の良いこと、徳と思われること、称賛に値することがあるのです。それらのものに心を留めなさい、と言っています。ここで、心は悲惨な状態なのに、それでも積極的思考を持ちなさい、というのとは異なりますので、ご注意ください。あくまでも、「主にあって喜」んでいる中で見出す御霊の世界です。

 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

 今、パウロが話した「心に留める」という勧めは、パウロ自身の生活の中に見出せるものでした。彼がローマにて、囚人として牢に入れられている中にあって、福音が宣べ伝えられていることを喜び、自分が死ぬことさえも喜び、ピリピの教会からの支援を喜んでいました。だから、「私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。」と話しています。

 そしてここで、「平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」という約束があります。平和とは何でしょうか。それは、自分と他者との間に隔たりがなく、交わっていることです。神と自分との間に平和があるとは、神に対して遠慮がない、大胆になれる、神との親密な交わりが持てるということです。そして、人と人の間にある平和も、これと同じで、隔てがないことを意味します。神との交わり、人との交わりがあるとき、そこに平和の神が住まわれるのです。

2A 満ち足りた生活 10−23
 このように、神の平和に満たされているときに、私たちは、あらゆる境遇に対して満足を得ることができます。それが10節から書かれてあることです。

1B 神への供え物 10−20
 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。

 パウロは今、ピリピの教会から金銭的サポートを受けたことを、喜んでいます。

 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

 金銭的サポートを受けたことを喜んでいるのは、あなたがたから金銭を要求しているからではないことを強調しています。喜んでいるのは、17節に書かれていますが、ピリピの人たちに与えられている霊的果実のためです。

 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

 ここで、貧しさの中にいるときだけではなく、富んでいるときにも対処する秘訣を心得ているところに注目してください。ここで書かれているのは、貧しさの中でいかに耐久できるかという禁欲的な言葉ではなく、どのような境遇にいても存在する、キリストにある平安なのです。物質によって左右されない世界を、キリストにあって構築しています。貧しければ、貧しいところにある喜びを知っています。富んでいれば、その富を管理するところにある喜びを知っています。

 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 どんなことでもできるのです、とのことですが、これはあらゆる境遇に対処することができる、という意味で、どんなことでもできる、ということです。自分の欲しい高級車を、祈って自分のものにするという「できる」ではなく、買うお金がなく今ある中古車によっても満足することができる、という「できる」であります。

 これが、私たちに与えられた霊的財産です。「主にあって喜ぶ」ところには、どんな境遇の中でも決して揺るがされることのない、神の平安を持つことができます。また、貧しくても富んでいても、満ち足りることのできる秘訣を知っています。ネヘミヤは、「主を喜ぶことは、あなたがたの力である」と言いましたが、どんな状況の中でも、それでも打ちひしがれず、希望をもち、平安でいることについての力なのです。
 
 それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。

 「それにしても」とありますが、「しかしながら」と言い換えることができます。パウロは、「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ている」と言っても、それは困難を感じていなかった、ということではありません。お腹が空いているときは、やはりお腹が空いているのです。病気にかかって苦しいときは、やはり苦しいのです。これは信者と未信者の間に、なんら差別はありません。異なるのは、「人の考えにまさる神の平安」なのです。感情的には乱れていても、霊においては安息を保つことができます。

 ですから、パウロは困難を感じていました。それを、ピリピの人たちが分け合ってくれた、と言って感謝しています。

 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。

 パウロはピリピの町から離れて、マケドニヤ地方に宣教旅行を続けました。そして、旅中に、何度となくピリピの人たちはパウロに物質的サポートを送りました。

 私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。

 ここにある「霊的祝福」は、「果実」というのが直訳です。パウロが本当に喜んでいたのは、自分に贈り物が届けられたことではなく、このような贈り物を届けるほどの聖霊の実を結ばせている、ということです。使徒ヨハネは、「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(Tヨハネ3:18)」と言いました。口先だけの愛がありますが、それは聖霊の実ではありません。行ないと真実があるところに、御霊の実を見ることができるわけです。パウロは今、この実をピリピの人たちから見ることができ、それで喜んでいます。

 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。

 旧約聖書において、とくにレビ記において、「なだめのかおり」という言葉を読むことができます。牛や羊などを祭壇にてささげ、そのときに出てくる煙を主がかぐわしいものとして受け取られる、というものです。同じように、エパフロデトから受け取ったピリピの人たちの贈り物は、神が喜んで受けてくださるところの供え物であります。

 私たちは、宣教活動というものを、実際に奉仕をする人たちの働きと考えてはいけません。ここでパウロが言っているように、宣教師を支えている人たちもともに、この働きを行なっています。したがって、このささげものは、神の御前に届けられて、実際に奉仕をしている人たちとともに主からの報いを受けることになるのです。むしろ、このような陰の働きは、人からの称賛を受けないので、主にあって大いなる富となって積み上げられていることでしょう。

 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

 すばらしい約束ですね。もう何も注釈を付け加える必要はありません。そのまま受け取るに値するみことばです。

 どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。

 こうして、パウロの最後の勧めが終わりました。

2B あいさつ 21−23
 キリスト・イエスにある聖徒のひとりひとりに、よろしく伝えてください。私といっしょにいる兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖徒たち全員が、そして特に、カイザルの家に属する人々が、よろしくと言っています。

 最後のあいさつです。ここでは「カイザルの家に属する人々」と書いてあるのが特徴的です。今、パウロの周りにいるのは、回心したカイザルの家にいる人々であります。

 こうして、主にあって喜ぶことにおける、私たちに与えられる力について学ぶことができました。考えにまさるところの神の平安が、そのキーワードです。これをどこまで深め、掘り起こし、下に沈めるかが、クリスチャン生活の要となります。


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