アウトライン
1A 兄弟ピレモン 1−7
1B 愛する同労者 1−3
2B 聖徒たちへの信仰と愛 4−7
2A オネシモの弁護 8−20
1B 信仰の子 8−12
2B 取り戻された人 13−17
3B 弁償 18−20
3A 同労者たちのあいさつ 21−25
本文
ピレモンへの手紙を読みます。ここでのテーマは、「パウロの執り成し」です。私たちは、テモテへの手紙とテトスへの手紙を読みましたが、どちらも牧会をしている者たちへのパウロの手紙でした。このピレモンへの手紙も同じです。ピレモンは、コロサイにおいて家の教会を持っている人でした。パウロは今、ローマで囚人としてつながれています。第二回目の、死刑に処せられる前ではなく、第一回目の留置のほうです。使徒行伝の最後に、パウロが自費で家を借りて、ローマの看守によって監視されながら、訪れてくる人々に神の国を宣べ伝えていたことが書かれています。この時にパウロは、少なくとも三通の手紙を書きました。エペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、そして、このピレモンへの手紙です。テキコという人に手紙を持たせて、その小アジヤにある教会に送りましたが、そのときに、オネシモという人もコロサイにある教会に送りました。このオネシモは、ピレモンの奴隷でした。オネシモは、ピレモンの家から何かを盗み、ローマへと逃亡生活を続けていました。そこで、主の不思議な巡り合わせによって、囚人パウロに出会い、そこでパウロによって、キリストへの信仰に導かれています。
そこでパウロは、コロサイにある教会に手紙を書いただけではなく、ピレモン個人にもオネシモのことで手紙を出しました。オネシモを受け入れてほしい、兄弟として受け入れてほしいというお願いと、執り成しをしています。これが、この、ピレモンへの手紙の背景です。
1A 兄弟ピレモン 1−7
1B 愛する同労者 1−3
キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンへ。
パウロは、自分のことを「キリスト・イエスの囚人」と呼んでいます。自分がエルサレムに行き、そこでキリスト・イエスを宣べ伝えたために、ローマの千人隊長によって保護され、留置されました。そして嵐によって遭難しそうになった船に乗り、そして、ローマにて、皇帝ネロの前に出るのを待っています。彼がまだエルサレムにいる時に、主が、「あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。(使徒23:11)」と言われました。パウロは、法廷にて被告人としてカエザルの前に立つのですが、それは、イエス・キリストを証しするために立つのです。ですから、パウロは、自分はローマの囚人ではなく、キリスト・イエスの囚人である、と言っています。
このことは大事です。私たちが、イエスさまに自分をささげて、そのために受ける苦しさ、試練、困難があります。社会的な基準では、なぜこんなことをしているのだろうか、と人々から思われるでしょう。けれども、そのときに惨めな思いになるのではなく、主イエス・キリストによってこうなっているのだ、という誇りを持ちます。主がともにいてくださり、主も今の自分の境遇といっしょになってくださっておられるのだ、という慰めを得ます。
そして差出人に「兄弟テモテ」が加えられています。テモテは、ローマにいるパウロとともにいました。パウロが、釈放されたあと、おそらくパウロの一行はエペソに行ったと考えられます。そこで、テモテをその教会にて監督者あるいは牧者として任じ、そしてパウロは他のところに行きました。その時に書いた手紙は、私たちが最近学んだ、テモテへの手紙です。他の手紙でもそうですが、パウロはこのようにして、自分だけではなく、他の人々をも加えて差出人としています。
そして、「愛する同労者ピレモンへ」と言っています。パウロは、単に「同労者」ではなく、「愛する同労者」とピレモンを呼んでいます。彼のピレモンや他の兄弟たちに対する愛情はとても深いです。彼は使徒として大きな権威を持っていましたが、その権威を振りかざすことなく、兄弟として、愛の結びつきによって、人々に接していました。差出人に、自分だけではなく兄弟テモテを含めています。そして、ピレモンに対して、自分の子分などでは決してなく、共に労している者として受け入れています。ここに、パウロのへりくだりと、また、主にある交わりの姿を見ます。
また、姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。
姉妹アピヤは、おそらくピレモンの妻だったかもしれません。そして戦友アルキポは、コロサイ書4章17節に登場します。パウロは、「アルキポに、『主にあって受けた務めを、注意してよく果たすように。』と言ってください。」と書きました。そして、「ならびにあなたの家にある教会へ。」と言っています。初代教会の時代、人々は家に集まって礼拝を守っていました。私たちも家の中で、礼拝を守っていますが、初代教会のときはこれだけでした。もちろん、私たちも建物が別にあってもかまわないし、また、別のところで公の場で礼拝をしたほうが、それぞれが責任をもって参加することができる、という利点はあります。けれども、家にある教会にも利点があります。それは、お互いの結びつきです。互いに自分のことを分かち合い、主にあって互いに励まし、言葉だけではなく実際面で、愛と信仰の行ないをしていくことができます。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
パウロのいつものあいさつです。「恵みと平安」と言っていますが、「恵み」はギリシヤ語では「カリス」であり、ギリシヤ人はこのことばで互いにあいさつを交わしていました。「平安」はシャロームであり、ユダヤ人は今でもこのことばで、あいさつを交わしています。そして、「恵みと平安」の順番が大切です。神の恵みを知って、初めて神の平安を持つことができます。私たちが何かを行なったから、神が怒られるような不安定な関係であれは、私たちはいつも、心を不安にしなければいけません。けれども、神が、私たちがどのような状態であっても、神が愛だから愛してくださっていることを知っているとき、私たちに平安が与えられ、安定した信仰生活を営むことができます。
2B 聖徒たちへの信仰と愛 4−7
私は、祈りのうちにあなたのことを覚え、いつも私の神に感謝しています。
パウロの手紙には、いつも、神に感謝していると言って、その手紙の受取人のために祈っていたことがわかります。今のように忙しくないときだから、いや、忙しいからこそ、パウロは祈っていたかもしれません。主ご自身も、父なる神に祈って、夜を明かしておられました。祈る人が、神に用いられます。
それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているからです。
この個所は、「主イエスに対して、また、すべての聖徒に対するあなたの信仰と愛」と訳したほうが良いでしょう。信仰が主イエスに対して、愛が聖徒たちに対して、ではなく、信仰も愛も、主イエスとすべての聖徒に対して、となります。ピレモンは、聖徒たちに対して、信仰と愛をもって接していました。そのことが良い評判となるほどに、彼は具体的に信仰と愛を示していました。もちろん信仰と愛は主イエスに対するものですが、イエスを愛し、信じていることは、兄弟や姉妹に対する具体的な愛によって現われます。神への愛は、必ず他の人への愛へとなります。そうでなければ、その人は神の愛を知っていることにはなりません。神の愛にとどまっているならば、その愛を他の人々に分かち合うように導かれます。
私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。
ここの個所は、下の引照部分にも書かれているように、「私たちの間で」のところが、「あなたがたの間で」と訳すことのできる異本があります。英語の欽定訳などの翻訳では、この個所は、「キリストの中にあり、あなたの中にある、すべての良いものをよく知ることによって、あなたの信仰の分かち合いが、生きて働くものとなりますように。」となっています。つまり、キリストのうちに、すべての良いものがあり、そのキリストがあなたのうちにおられます。あなたが、このことをよく知ることによって、あなたの信仰が生きて働くようになります、ということです。
これは、エペソ人への手紙に出てくる、パウロの祈りと同じものです。彼は、父なる神は、キリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって祝福してくださいました、と言いました(1:3)。そして、父なる神、御子キリスト、聖霊がお与えになった祝福を列挙して、こう祈っています。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。(エペソ1:17)」キリストにある神の祝福を御霊が啓示してくださいますように、ということです。私たちが霊的生活において問題になるのは、私たちの頑張りが足りないからではなく、キリストにある神の祝福がいかにすぐれたものであるか、その力がいかに大きいかを知らないことにあります。ただ知りさえすれば、それを用いることができます。パウロは、ピレモンが、このことをよく知って、さらに信仰が生きて働くように、という願いを話しています。
私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。
パウロは、ピレモンの愛によって多くの喜びと慰めを受けていますが、その理由は、聖徒たちの心が、彼によって力づけられて、元気づけられているからです。自分が力づけられ、元気づけられているから、喜びと慰めを感じているのではなく、ピレモンが良きキリスト・イエスの働き人になっているから、喜びと慰めを感じています。実は、19節を読むと、ピレモンは、パウロによってキリストへの信仰に導かれているのが分かります。パウロは、テモテに対してもテトスに対しても同じ思いを持っていたでしょうが、自分をとおして救いに導かれた人が、愛と信仰によって他の人々を励ましているのを見ることができているのです。これほど、励まされることはありません。
2A オネシモの弁護 8−20
1B 信仰の子 8−12
パウロは7節で、ピレモンのことを「兄弟よ」と呼びかけています。上下関係ではなく、兄弟愛によって、同労者として今、パウロはピレモンに語りかけています。このような、へりくだった状態で、パウロはこれから、オネシモの執り成しをします。
私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、こういうわけですから、むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。
パウロはイエス・キリストの使徒ですから、多大な権威を持っています。使徒たちのことばとその行ないは、イエス・キリストを代表したものであり、そのことばが主ご自身のことばであり、またその行ないが主ご自身のみわざであることがしばしばでした。ですから、パウロは使徒として、オネシモを受け入れるように命じることができました。けれども、愛によって、ピレモンの愛に訴えて、お願いをしています。
年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。
パウロは、法廷の中にいる弁護人のように、非常に説得力のあることばで、オネシモのことをピレモンの前で弁護します。初めに、自分が年老いた、キリスト・イエスの囚人であると言っています。このような人物からお願いされては、やはり、聞かざるを得ませんね。そして、オネシモのことを「獄中で生んだわが子」と呼んでいます。パウロが、オネシモをキリストへの導いたのです。テモテのことも、テトスのことも、パウロはそのように呼びました。自分にとって、特別な存在です。
彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。
「オネシモ」という名前のもともとの意味は、「役に立つ」です。ですからパウロはここで、言葉の掛け合いをしています。前はオネシモではなかったが、今は、あなたにとっても私にとってもオネシモなのです、というような言い方をしています。「前には役に立たない」というのは、主人から物を盗んで逃亡した奴隷であった、ということです。けれども今は、主の働き人にまでなっています。そこで「役に立つ者」と呼んでいます。
そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。
オネシモが、自分の心そのものである、とパウロは言っています。自分と彼を一つにしています。英語ですとこれを、identifyと言い、日本語では「同一化」と呼んだらよいでしょうか。相手のことをまるで自分自身のようにみなすことですね。愛する息子のことを、「私の心」と言ったら、この同一化を行なっているのです。パウロは、オネシモが自分の心そのものだから、ピレモンよ、どうか彼を受け入れてください、とお願いしています。
2B 取り戻された人 13−17
私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えましたが、
パウロは獄中にいるので、自由が利かなく、いろいろな人に頼まなければいけないことがありました。そこでオネシモも、そのように仕えてもらいたかった、と言っています。
あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。
ピレモンがオネシモを赦して、受け入れることは、強制ではなく、自発的なものでなければいけない、とパウロは言っています。ところで、当時のローマの奴隷制度において、奴隷が主人から逃げたとき、捕まえたら主人は奴隷を死刑にすることができました。奴隷は当時6千万人いたとされ、自由人よりもはるかに多かったので、奴隷の反乱を押さえるためにも、逃亡には厳しい処置が取られていました。ですから、当時の常識からすると、ピレモンがオネシモをそのまま受け入れることは、とんでもないことだったのです。けれども、パウロは今、ピレモンが奴隷を持つ主人である前に、キリストにある兄弟であり、同労者であり、キリストの愛を持っている人であることをまず初めに語って、オネシモを赦してくれることを嘆願しているのです。
そしてパウロは、これが強制されてではなく、自発的なものでなければいけないと言っていますが、これはとても大切なことです。牧者が信徒に対して、「これをしなさい」「あれをしなさい」という命令を出すことはできます。しかし、それによって何かを行なったとしても、主の目からは無意味なものです。聖書には、自ら進んでささげるささげ物について何度も繰り返し、強調しており、強いられてではなく、喜んでささげる者を愛される、と言っています。したがって、ピレモンがオネシモを赦すことも、自発的でなければいけなかったのです。
彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。
オネシモはピレモンのところから離れて行きました。これは悪いことであり、オネシモはやってはいけないことでした。しかし、神はこのようなことをも用いられて、ご自分の栄光のための出来事としてくださいます。オネシモがピレモンのところから離れたことにより、彼がローマにまでやって来て、そしてローマでパウロと出会い、永遠のいのちを得ることができたのです。ピレモンからオネシモが離れてしまいましたが、もうこれからは、永久に離れることはありません。キリストにあって一つのからだに属しています。
旧約では、ヨセフが兄たちに同じことを話しました。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。(創世50:20)」兄たちがヨセフを売ったため、ヨセフはエジプトの奴隷となりました。この悪いことを神は用いられて、ヨセフをエジプトで第二に力ある者とし、世界のききんのときにヨセフの計らいによって、ヤコブの家族を飢えから救うようにされたのです。新約では、有名な聖句ローマ8章28節があります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」
もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。
ここには、すばらしい福音と真理が述べられています。つまり、ピレモンとオネシモは、主人と奴隷のような関係ではなく、今や、キリストにあって一つにされているという事実です。「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ3:28)」主は、神の恵みによって、私たちを同じレベルに置いてくださいました。私たちは、経済的なもの、社会的なもの、人種、学歴など、いろいろな壁を設けて、上下関係を作っていますが、しかし、神の前では、だれもが同じ存在なのです。教会の中においても、私たちは階級を作ってしまいます。牧師が上で、信徒が下についているという階級。ある人がより霊的で、他の人が霊的ではないという比較。これらのものは、百害あって一利なしです。神の恵みによって、キリストにあって、私たちはみな、平等に、同じところにいます。だから、兄弟として姉妹として接し、愛し合っていくことができるのです。
ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。
愛する兄弟として受け入れてください、ということです。
3B 弁償 18−20
そしてパウロは、ピレモンに実際的な執り成しをします。もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。
オネシモは、ピレモンのところから物を盗んでいたのでしょう。これによって損害がもたらされていたのなら、請求を私にしてください、と言っています。簡単に言えば、弁償は私がします、ということです。ここに、究極の執り成しの姿があります。だれかが他のだれかに危害を与えて、その人を赦してもらうように執り成すときに、完全な解決を与えるのは、その損害に対する代償を支払うことです。赦しを得るのは、犠牲がともないます。
これを行なってくださったのは、私たちの主イエス・キリストです。ヨハネの手紙第一2章1節にはこう書いてあります。「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。」イエスさまが、父なる神の前で私たちの弁護人となってくださっています。そして、この方は私たちが神に対して犯した罪を完全に弁護するために、ご自身がその罪のなだめの供え物となられました。
パウロが、自分の使徒の権威を主張しないで、愛する兄弟となっていること。また、オネシモに代わって自分がその損害を支払う者になっているのは、まさにイエス・キリストが私たちのために、父なる神の御前でとりなしをされている姿でもあります。
この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います。・・あなたが今のようになれたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません。・・
パウロはこの手紙をもって、損害賠償の手続きをしようとしています。自筆で書いている、とのことです。そして、パウロは、あなたが今のようになれたのも、私による、と言っていますが、ピレモンもまた、クリスチャンになれたのは、パウロの伝道によるものでした。
そうです。兄弟よ。私は、主にあって、あなたから益を受けたいのです。私の心をキリストにあって、元気づけてください。
他の聖徒たちがピレモンによって元気づけられているように、私も元気づけてください、と言っています。オネシモを受け入れることは、パウロの心を力づけます。
3A 同労者たちのあいさつ 21−25
こうしたオネシモを受け入れるようにお願いしたあと、具体的なお願いと、また最後のあいさつをしています。私はあなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました。私の言う以上のことをしてくださるあなたであると、知っているからです。それにまた、私の宿の用意もしておいてください。あなたがたの祈りによって、私もあなたがたのところに行けることと思っています。
パウロは今、牢の中にいますが、そこから出ることができると確信していました。けれども、「あなたがたの祈りによって」ともパウロは加えています。主がすべてのことを行なわれ、私たちの助けなしに、主は何でもすることがおできになります。けれども、祈りは、神のご計画が自分たちにも、みわざとなって見えるようにさせるための、手段であります。祈りによって、主が一つ一つの門を開いていくださるのを見ることができます。
キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。
エパフラスは、コロサイにおいて、牧会的な働きをしていた人でした。彼もまた、パウロと同じように、キリストのあかしのゆえに捕らえられ、囚人になっています。
私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。
同労者を列挙しています。マルコは、あのマルコの福音書を書いたマルコです。彼はバルナバのいとこでした。第一回目の宣教旅行のとき、バルナバとパウロを捨てて、エルサレムに戻ってしまいました。そのため、再び宣教旅行に行くときに、パウロはマルコを連れていきたくないと言って、バルナバと対立し、二人は別行動を取るようになります。パウロにとってはそんなマルコでしたが、けれども後でパウロはマルコを赦し、今ともに働いています。今、ピレモンがオネシモに対してしようとしていることを、パウロは過去に行なっていたのです。そして、アリスタルコですが、彼は、テサロニケから来た人です。彼は、パウロと苦しみをともにしており、エペソにおいて騒動が起こったとき、彼が前に連れ出されて、つるし上げにされそうになりました。また、パウロとともに囚人として、ローマへの船にともに乗っていました。それからデマスですが、彼は後に、今の世を愛して、パウロから離れていった人です。残念なケースです。そして、ルカですが、彼はルカによる福音書と使徒行伝を書いた医者です。このように、同労者とともにパウロはおり、互いに愛によって結び合わされていました。
主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。
パウロのいつものしめくくりのことばですね。「主イエス・キリストの恵み」が私たちのすべてを動かしてくれます。
こうして、パウロのピレモンへの執り成しを読みましたが、まさにパウロは、心の中にキリストを宿していました。キリストが私たちのために執り成しをされたように、パウロはオネシモのために執り成しました。彼は使徒ではなく、兄弟となり、オネシモと自分を同一化させ、自分でオネシモの代償を払いました。主も同じです。主は私たちに代わって、ご自分が罪人と数えられるようにし、そしてご自分が弟子たちにとって、「友」と呼ばれることを恥とされませんでした。私たちも、キリストにならって、パウロにならうことができます。私たちは祈りによって、また実際の行動の中で、人のために執り成すことができます。
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