アウトライン
1A 力強い御使い 1−7
1B 来臨 1−4
2B 誓い 5−7
2A 甘く、苦いことば 8−11
本文
黙示録10章を開いてください。ここでのテーマは、「開かれた巻き物」です。私たちは前回、二つのわざわいについて見ました。底知れぬ所から出てきたいなごの災いと、二億人の騎兵の災いです。この二つのわざわいは、それぞれ、第五の御使いが吹き鳴らしたラッパと、第六の御使いが吹き鳴らしたラッパに相応します。そして最後の、第七の御使いのラッパがありますが、そのラッパが吹き鳴らされる前に、他の御使いが10章では現われます。
1A 力強い御使い 1−7
1B 来臨 1−4
また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。
これまで、いろいろな御使いが黙示録の中に登場しましたが、この御使いはきわだっています。彼は雲に包まれており、天から降りて来ており、頭上には虹があって、そして顔は太陽のようであり、足は火の柱です。この描写をじっくり見ると、その一つ一つが、主イエス・キリストご自身に似ています。「雲に包まれている」というのは、黙示録1章7節に、「彼が、雲に乗って来られる」とありました。そして、虹が頭上にありますが、4章3節には、天における神の御座の回りに、虹があると書かれています。そして顔が太陽のようであるというのと、足が火の柱のようであるというのは、栄光のイエス・キリストが使徒ヨハネに現われた時の描写そのものです。「その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。・・・顔は強く照り輝く太陽のようであった。(1:15−16)」
したがって、この御使いは、イエス・キリストご自身であるとも考えられます。旧約聖書においては、受肉される前のイエスが、「主の使い」として現われています。しばしば、「主の使い」が現われるときに、そのすぐ後で、「主」が語られたことになり、その語りを聞いた人は、「私は今、神を見た」という反応をしています。例えば、ギデオンがそうでした(士師6:22)。「御使い」の意味は、ただ「使者」というものですから、主が神の使者として今、現われておられると考えられます。
けれども、そうではないという意見もあります。新約聖書において、イエスが受肉された後に、この方が「使い」と呼ばれることはなく、むしろ、「神の御使いはみな、彼を拝め(ヘブル1:6)」とあり、イエスと御使いは区別されるべきである、という意見です。この意見も妥当です。ここの力ある御使いは、イエスさまではなく、ミカエルやガブリエルなどの大天使である可能性もあります。
しかしながら、いずれにせよ、天からの降りてくる御使いの姿は、まさにイエス・キリストの再臨を表していると言って良いでしょう。
その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、ししがほえるときのように大声で叫んだ。
手に、「開かれた小さな巻き物」をこの御使いは持っています。黙示録5章には、封じられた巻き物が出てきたのを覚えているでしょうか?だれも、その封印を解くことができませんでした。けれども、神の右の座にすわっておられる小羊なるイエスが、封印を解く権利を持っておられました。世界を贖うことができるお方は、ご自分の血を代価として世界を神のもとに買い戻された、イエス・キリストのみです。そしてイエスさまは、封印を一つ一つお解きになりました。第七の封印を解かれて、そして半時間ばかり静けさがあり、そこから七人の御使いが、ひとりずつラッパを吹き鳴らし始めたのです。ですから、巻き物はすでに開かれています。
そして、御使いは、「右足は海の上に、左足は地の上に置」いています。海の上にも地の上にも、すべての権威と支配を持っている姿です。天から降りてきて、このように仁王立ちになられる姿は、まさに、天から地上に再臨されて、この地上をご自分のものとされるイエスさまを表しています。
そして、「ししがほえるときのように大声で叫んだ」とありますが、イエスさまが再臨されるとき、ししのように大きく叫ばれることが旧約聖書に預言されています。まず、イザヤ書42章13節です。「主は勇士のようにいで立ち、戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって威力を現わす。」そして、同じくエレミヤ書25章30節には、「主は高い所から叫び、その聖なる御住まいから声をあげられる。その牧場に向かって大声で叫び、酒ぶねを踏む者のように、地の全住民に向かって叫び声をあげられる。」とあります。そしてホセア11章10節に、「彼らは主のあとについて来る。主は獅子のようにほえる。まことに、主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。」とあります。
彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。
詩篇29篇3節には、主の声が雷鳴のようであると書かれています。「主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。」ですから、今、主が再臨されて、大声をあげ、この世界をご自分のものとし、そして雷鳴を響かせている場面を表しているのです。
七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。
ヨハネがこれまでずっと、自分が見たこと、聞いたことを書きしるしていたことを思い出してください。黙示録の初めで、イエスさまが、「あなたの見た事、今ある事、この後に起こることを書きしるせ。(1:19)」とお命じになりました。ですからずっと書きしるしていたのですが、この七つの雷も書きしるそうとしました。けれども、「封じて、書きしるすな」との命令を、天からの声がしています。なぜなのでしょうか?私にはわかりません。黙示録は、イエス・キリストの啓示であり、この方が明らかにされる書物であるにも関わらず、七つの雷が言っていることは、その書物の目的に適合しないからなのでしょうか?その理由は分かりませんが、書きしるすな、と命じています。
分からないところは、分からないままにしておく、という姿勢も、聖書の学びには必要ですね。「そんなこと言って、ごまかしているんじゃないですか?」と言われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それでも良いです。分からないのは、どこかのファイルにしまっておいて、後で情報が与えられた時に引き出せば良いのです。主が明らかにされたことだけ、解き明かしていくことが大切です。
2B 誓い 5−7
それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、
右手を上げました。右は、聖書の中では権威と力を表しています。右手を上げて・・・
永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。
御使いが誓っています。誓うときは、必ず自分より上位の存在に対して誓います。ヘブル書6章16節には、「確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。」とあります。ですから、アブラハムに神が約束されたとき、神はご自分以上にすぐれた存在がいなかったので、ご自分をさして誓い、「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」と約束されました。今、御使いが永遠に生きておられる創造主に誓っています。今から話すことは、確かに起こることなのです。
ところで、黙示録では神が、しばしば、「永遠に生きている方」として紹介されます。4章で四つの生き物と二十四人の長老が礼拝をささげているとき、「永遠に生きている方に」と何度か出てきます。そして神が、「常にいまし、昔いまし、やがて来られる方」「最初であり、最後である方」「アルファであり、オメガである方」として紹介されています。
永遠というのは、今の時間がずっと続くと考えると間違ってしまいます。時間も被造物であり、主は被造物を超えたところに存在される方です。ですから、主は、今もおられますし、同時に、昔にもおられますし、そして、将来にもおられる方です。ですから、ご自分のことを、「わたしはある」と紹介されました。イエスさまも、父なる神と一体であられる方として、「アブラハムがいた前に、わたしはある。」と言われて、「わたしはいた」とは言われなかったのです。したがって、黙示録でも、主が最後に行なわれることが初めに書かれており、それからその最後に至るまでの経緯を書く方法が取られています。主は再臨されます。再臨されるまで、まだいろいろな事が起こるのですが、今、すでに天から戻ってこられて地上に権威と力と支配を行使するイエスさまの姿を描いているのです。
もはや時が延ばされることはない。
時が延ばされない、と言っているのですから、これまでは時が延ばされていた、ということです。主が戻ってこられるその時が延ばされています。もちろん、父なる神は、その時と日をすでに定めておられると聖書に書かれていますが、と同時に、「(主は、)あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(2ペテロ3:9)」とあります。主の忍耐深さのゆえに、私たちにとって主の来臨が遅いように感じられるときが、しばしばあります。この世はますます不安定になっています。ますます、罪と不法がはびこっています。愛は冷え、自分を愛する者がふえ、人々は自分の都合に合わせて、好き勝手に教師たちを集めています。終わりの時に起こると言われている事柄を、私たちは今、目にしています。ですから、主が今にでも来られるはずなのですが、まだ来られていません。けれども、主は時を遅らせておられるのではありません。
私たちは、主の再臨だけでなく、主の約束が実現するのが遅いと感じて、いらだつようなことはないでしょうか?祈っていることがなかなか、かなえられない。聖書にはこう書いてあるのに、自分の身にはそうなっていない、など、主が時間を延ばしておられるように感じるときがあります。ハバククがそうでした。彼は、イスラエルに不法がはびこっているのに、主がおさばきにならないので叫んでいました。けれども、主はこう答えられています。「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。(ハバクク2:3−4)」ですから、私たちの目には遅いように見えても、主は時を延ばしておられるのではないのです。
第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。
ここで強い御使いが天から現われたのは、第七の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしていたからです。11章15節をご覧ください。「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした」とあります。この時点から主が戻って来られる場面が書かれている19章に至るまで、第七の御使いのラッパの部分となっています。次回以降に学びますが、第七のラッパは、ダニエルの預言にある「七十週」の第七十週の後半部分に当たります。最後の週は前半の三年半と後半の三年半に分かれますが、11章から先は、三年半の中間地点から主が戻ってこられる最後までを描いています。「その日」とありますが、これは複数形”days”となっています。ですから、短い一日ではなく、ある一定の期間です。
そして、その日には、「神の奥義」が成就する、とあります。神の奥義とは何でしょうか?私たちがこの日本語を読んで連想する意味は、「奥深い意味」ということでしょう。英語の”mystery”は、「謎」という意味であり、人にはわからないものという意味合いがあります。けれども、どちらも間違います。ギリシヤ語では、「以前は隠されていたが、明らかにされるもの」という意味です。ですから、奥にあるのでもなく、謎にされているのでもなく、これから明らかにされるもの、露わにされるもの、という意味です。まさに、黙示録の意味は、「明らかにされる」という意味です。
何が明らかにされるのでしょうか?「神がご自身のしもべである預言者たちに告げられた」こととあります。預言者たちが告げたことはたくさんありますが、ここでは特に、11章15節に書かれている事柄であろうと思われます。「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。『この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。』」主は、ご自分の血によって世界を買い取られました。そしてその所有権を行使するために、再び戻ってこられます。ですから、私たちは、すべてのものが、主に服従する姿を、新しく立てられる神の国において見ることになります。
この神の国について、預言者たちは数多くのことを預言しました。戦争がなくなること。世界に平和と正義が広がること。世界中の人が、エルサレムにおられる主を礼拝しに来ること。ライオンが羊とともに草をはむこと。農作物はつねに豊作であり、ききんがないこと。他にもきりがありません。イザヤをはじめ、エレミヤ、エゼキエル、ホセア、ヨエル、アモス、預言書の預言者たちはみな、神の国を預言しました。これらがみな、実現するときがやって来ます。今は、明らかにされていませんが、後に明らかにされます。だから、「神の奥義」なのです。
私たちにも、それぞれの生活で「神の奥義」があります。今は明らかにされていないけれども、神のみことばに約束されている事柄です。今、自分の身に起こっていることは、あまりにも大変で、苦しく、一体何なのか、と悩んでしまうときがあります。けれども、主は、私たちを忘れられたのではなく、みわざを、ご自分の計画にしたがって、粛々と行なわれているのです。
再び預言者ハバククに触れますが、彼は、イスラエルの国が悲惨な状態にあったのにも関わらず、主が究極的に成し遂げられることを知ってから、次のように述懐しています。「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。(ハバクク3:17)」イスラエルがききんにあったのに、彼は興奮して、主にあって喜び勇んでいます。旗から見たら、気が狂っているようにしか見えないでしょう。けれども、彼は主が最後に成し遂げてくださることを知って、そして今、主がそのことを行なわれる過程にあることを知って、それで喜んでいるのです。神の奥義が、私たちの生活にもあります。今はわかりませんが、後にすべて明らかにされます。
2A 甘く、苦いことば 8−11
それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。
この声は、七つの雷が言ったことばについて、「書きしるすな」と命じた声です。
さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。
開かれた巻き物を、御使いのところから受け取りに行きます。
それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい。」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。」
受け取るだけでなく、食べなければいけません。なぜなら、この巻き物は、神のことばが書かれているからです。聖書には、神のことばを食べることがたくさん書かれています。有名なのは、イエスさまが、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と引用された申命記のことばなどです。私たちは、みことばを知識的に知っているだけでは不十分ですね。悪魔でさえ、みことばを知っています。けれども、みことばを自分のうちにとどまらせる、住まわせることによってはじめて、みことばによって生きることができます。食べるというのは、そういうことです。
それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。
なんと、巻き物には味がありました。口には甘いのですが、腹には苦いとあります。同じようなに、預言者エゼキエルも、主から受け取った巻き物を口にして、それは甘かったと、あります(エゼキエル3:1−3)。
甘いのは、主がこの地上で王となられるという輝かしい将来についてのことばのことでしょう。これは本当にすばらしく、私たちの口に慕わしいものばかりです。けれども、その栄光に至るまでの過程は、神のさらなるさばきがあります。腹には苦いのです。続けて読んでみましょう。
そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」
ヨハネの腹が苦くなったのは、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて、神のさばきの預言をしなければいけなかったからです。11章以降に、さらなるひどい災いが書かれています。ヨハネは、これらを語るのはあまりにも辛いことですが、けれども、御国が来るまでに起こらなければいけない預言は、旧約聖書の中にまだまだたくさんあります。
イエスさまが、十字架につけられるとき、「聖書について書かれてあることが、実現しなければならないのです」と言われたことを思い出してください。福音書は、時系列的に見ると、非常にアンバランスになっています。初めの三年間のことは大雑把に書かれていて、最後の数ヶ月、そして最後の数週間、最後の数日間、そして十字架につけられる前の夜と、次の朝と夕方に至るまでの記述は、かなりの紙面を割いています。なぜなら、そこで起こっている一つ一つの細かい出来事は、すべて前もって旧約聖書で預言されていたからです。そして、人類の贖いという一大イベントが近づくにしたがって、語られるべきことがなおたくさん増えてきたのです。
それと再臨は同じです。主が再臨されるにあたって、その前に起こらなければいけないことは、再臨が近づけは近づくほどたくさんになっています。とくに、ダニエルの預言の第七十週の半週について、旧約も新約もたくさんのことを書いています。ヨハネは、第七のラッパが吹き鳴らされるkら、これで終わりだと思ったかもしれませんが、いやどっこい、これからが本当におそろしい災いなのです。
私たちも、ある意味で、ヨハネのようです。神のみことばを語ることは、いつも甘いわけではありません。良薬口に苦しではありませんが、人の腹に苦くなることも語らなければいけません。人はキリストによって救われるのですが、その前に人は罪人であることを知らなければいけません。人は永遠のいのちを持つのですが、その前に死んでいることを知らなければいけません。そして、神の祝福は無尽蔵にありますが、神ののろいと怒りは激しいことを伝えなければいけません。甘いことばだけでなく、苦いことばも語ります。
ですから、「開かれた巻き物」です。すでに主は輝かしい将来を約束されています。けれども今は、そのようには見えません。けれども主は、ご計画を粛々と進めておられます。
「聖書の学び 新約」に戻る
HOME