黙示録2章 「神の家のさばき」

アウトライン

1A 愛のない教会 1−7
   1B 労苦と忍耐 1−3
   2B 初めの愛 4−7
2A 殉教 8−11
   1B サタンの会衆 8−9
   2B 十日間の苦しみ 10−11
3A 妥協する教会 12−17
   1B サタンの王座 12−13
   2B バラムの教え 14−17
4A 霊的姦淫 18−29
   1B イゼベルという女 18−21
   2B 死病 22−24
   3B イエスのわざを守る者 25−29

本文

 黙示録2章を学びます。ここでのテーマは、「神の家のさばき」です。私たちは前回、栄光の姿で現われたイエスさまの姿を読みました。七つの金の燭台の真中におられて、足までたれた衣を着て、金の帯を締めておられました。その頭と髪の毛は真っ白で、目は燃える炎のようでありました。足は、しんちゅう、あるいは青銅のようなものであり、声は大水の音のようなものでした。これは、天におられるイエスさまのお姿です。イエスさまはヨハネに、「今ある事を書き記しなさい。」と言われましたが、今ある教会のことについて書きなさいと言われています。

 イエスさまが間もなく戻って来られます。黙示録1章には、「時が近づいている」と書かれていましたが、イエスさまが戻ってこられる時は近づいています。その時を間近にして、初めにキリスト教会がさばきを受けます。本当に信仰を持っている人々と、そうでない人々とにふるい分けられます。ペテロは手紙の中で、「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。(1ペテロ4:17)」と言いました。私たちは教会に通っている人々がみな、クリスチャンであり、救いにあずかっていると思ってしまいます。また、そのように思いたいです。けれども、それは誤った教会観です。教会に通っているからクリスチャンなのではなく、ただ自分の救いの希望を、キリストとキリストがなされたわざのみに置いている人が、クリスチャンです。御霊の新生によって、キリストのからだに入れられている人が携挙されますが、名ばかりの人たちは取り残されます。今日は、イエスさまが、一つ一つの教会を見て、そのわざを調べ、評価されているところを読みます。パウロは、「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。(1コリント11:31)」と言いましたが、自分の信仰と行ないを、イエスさまのことばを読みながら、調べていきたいと思います。

1A 愛のない教会 1−7
1B 労苦と忍耐 1−3
 エペソにある教会の御使いに書き送れ。

 イエスさまは、初めにエペソの教会の御使いあるいは監督に、メッセージを送られます。エペソの教会は、みなさんがご存知のように、初めにアポロが、次にパウロがやって来て、爆発的に福音が広がった町の一つです。エペソは、東のアジヤと西のローマを結ぶ貿易中継都市であり、そこにさまざまな人が集まってきました。そこで福音を語ることにより、小アジヤ中にみことばが広がったとあります。けれども、そのような教会の中で、狼がやって来て、その中を荒らすことをパウロは予告しました。その後、エペソの教会はパウロのこの警告のことばを聞き入れて、偽教師や偽使徒たちを追い出すことができたようです。けれども、また別の問題が出てきてしまったようです。その問題をイエスさまは指摘されます。

 右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。

 これは、天におられる栄光のイエスさまの姿の一部です。七つの金の燭台の間を歩くとは、聖霊によって主がご臨在しておられることです。

 わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。

 七つの教会のうち、どの教会にも、「わたしは、あなたの行ないを知っている。」という言葉が出てきます。私たちは、イエスさまから隠せるものは何一つありません。ヘブル人への手紙には、「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。(4:13)」とあります。これは、必ずしも悪いことだけがさらけ出されているのではなく、人目に隠れている、良い行ないもさらけだされているということです。

 そこでイエスさまは、エペソの人たちの「労苦と忍耐」をほめておられます。主のために働けば、そこには労苦がともないます。パウロは何度も、主にあって労することについて語りました(例えば、1コリント15:58)。また「忍耐」も大切な要素です。疲れ果てることなく、忍耐して主の働きを全うすることはとても大切です。

 また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。

 今説明したように、エペソの教会に偽使徒たちが入り込んでいました。また初代教会には、巡回する使徒や預言者がいましたが、しばしば偽りの奉仕者が出没していたのです。それを見分けることができたことも、イエスさまは覚えておられます。終わりの時には、悪霊の教えに心が奪われて、作り話をする教師たちを寄せ集めるとパウロは警告していますが、今ほど、私たちに霊的見分けをしなければいけない時はありません。

 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。

 このように、エペソの教会は、よく働き、よく耐え忍び、偽りの教えを排除して、主のためにしっかりと働いていた教会でした。

2B 初めの愛 4−7
 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

 エペソにある教会の人たちは、しっかりと主のために働いていましたが、いつの間にか「愛」を置き忘れていた教会となっていました。教会としてはきちんと機能して、教理的にも健全としていました。けれども、主に対する愛や、また人々に対する愛がいつの間にかなくなっていたのです。機械的に動いているけれども、心をともなわない教会となってしまいました。非のうちどころのない、間違っていない正しい教会なのですが、愛がないのです。

 パウロは、自分たちが福音宣教の働きをして、奉仕をしているその動機は、「キリストの愛(2コリント5:14)」であると言いました。その他の動機で行なっているのであれば、それはまったく無に等しいことを、コリント人への手紙第一13章で語っています。義務的に、強いられて、あるいは仕事をこなすように奉仕をしているのであれば、それはイエスさまによって叱責を受ける理由となるのです。私たちがもっとも大事にしなければいけないのは、心です。神がキリストにあって自分を愛してくださったことを思い出し、そしてその愛の中にとどまって、神を愛し、人を愛していく、ことが最重要事項となっていなければいけません。

 エペソ人への手紙を思い出してください。パウロは、まさに愛のうちにとどまることを、エペソの教会に教えていました。「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力をもつようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。(3:17−18)」と彼は祈りました。

 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。

 イエスさまは、スミルナにある教会と、フィラデルフィアにある教会以外の、すべての教会に悔い改めを呼びかけておられます。悔い改めとは、自分のあり方を変えることです。熱心に祈りをささげて、みことばによって思いを一新させます。冷たくなってしまった心を、主にあって燃え立たせていただき、御霊の愛に満たされるように祈ります。

 もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

 イエスさまの警告のことばです。燭台が取り外されてしまいます。これはなにを意味するでしょうか?イエスさまのご臨在がなくなってしまうことです。教会に行っても、その礼拝に参加しても、イエスさまに出会うことがない、そういう教会になってしまうということです。

 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。

 「ニコライ派」は、聖書で黙示録2章にしか出てこないので、その中身はよく分かりません。けれども「ニコライ」という意味は、「人々の征服」というものです。人が他の人々を征服する、あるいは支配することを教えた人々のようです。

 前回、1章にてヨハネが、「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、ともに苦難と御国と忍耐とにあずかっている者である。」と言いましたが、そこには教職者と平信徒というような、霊的階級制度はありませんでした。ローマカトリックが、信者を司祭と平信徒に区分けして、司祭が神により近い存在であることにしましたが、これはニコライ派に通じるものがあるかもしれません。けれども、日本のキリスト教会において、「何々先生」と呼ばれる神により近い存在がおり、平信徒がいるという霊的階級制度ができています。信徒が霊的判断をしないで、すべて牧師に任せている姿や、信徒の行動を、細部にまで至るまで支配しようとしている牧師の姿は、まさにニコライ派なのです。

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

 「諸教会」とありますから、このメッセージはエペソにある教会だけではなく、すべての教会に対する聖霊のメッセージです。私たちも聖霊によって、イエスさまのことばを聞きます。

 勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。

 勝利を得る者」とは、だれのことでしょうか?同じヨハネが手紙の中で、勝利者の定義をしています。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に打ち勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(1ヨハネ5:4−5)」イエスを神の御子と信じる信仰が、勝利者です。何か特別なことをする人が勝利するのではなく、キリストを信じて、そのうちにとどまっている人が勝利者です。そして、その人は、「神のパラダイスにあるいのちの木の実」を食べます。エデンの園に、いのちの木が中央にありました。そして、黙示録22章に天のエルサレムの情景が書かれていますが、その都の中央にいのちの川が流れていて、川の両岸に、いのちの木があり、実がなっていると書かれています(2節)。勝利者は、永遠のいのちの実を食べることができます。

2A 殉教 8−11
1B サタンの会衆 8−9
 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。

 「スミルナ」という町の由来は、「没薬」から来ています。覚えていますか、キリストの誕生を知った東方からの博士が、没薬と黄金と乳香をイエスさまにささげました。没薬は、死体を葬るときに使う香料です。スミルナの町は、キリストの御名のゆえに殺される殉教者たちの町でした。その死がキリストの香りをただよわせています。

 この町には、ヨハネの弟子と言われている、ポリュカルポスという教会の監督がいました。この町にはユダヤ人の居住地があり、この町の政治にも大きな影響力を持っていたようです。ユダヤ人は、他の異邦人を扇動して、彼をローマに訴えることに成功しました。使徒行伝に出てくるほかの町のようにです。そして、90歳代になっていたポリュカルポスを、ローマは十字架上の火刑に処しました。死刑執行者はこう言ったそうです。「老人が死ぬのを見たくない。ただキリストを否んで、自由にされなさい。」けれどもポリュカルポスは言いました。「80年以上、私は主にお仕えしてきました。一度たりとも、主は私を否むことはありませんでした。私もこの方を否みません。」執行者は、「火力を上げよ。」と命じましたが、ポリュカルポスは、「あなたが経験する火よりは、熱くないでしょう。」と言いました。このように指導者をはじめ、激しい迫害を受けました。

 初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。

 初めであり、終わりであるというのは、最初から最後まで主イエス・キリストがすべてを掌握されているということです。そして、死んでよみがえられた方ですが、これから死ななければならない信徒たちに対して、イエスさまは、ご自分がよみがえりであり、あなたがたもよみがえるのだ、という希望を示すために、こう話しておられます。

 わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。・・しかしあなたは実際は富んでいる。

 スミルナの人々が苦しみと貧しさの中にいたのは、もちろん迫害を受けていたからです。財産の没収などもあったでしょう。けれども、主は、彼らが富んでいるとみなしておられます。私たち人間の評価と、主の評価は大きく異なりますね。ヤコブの手紙に、「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者にされたではありませんか。(2:5)」とあります。

 ・・またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

 今、説明したように、不信者のユダヤ人たちがクリスチャンを迫害しました。ユダヤ人であることは、神を信じているからこそユダヤ人であると言うことができます。けれども、パウロがローマ2章で話したように、心の割礼を受けていない者は、肉の割礼を受けていても、無割礼と同じなのです。イエスさまも、「私たちの父はアブラハムです。」と誇ったユダヤ人指導者に対して、「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。(ヨハネ8:44)」と言われました。そこでイエスさまは、スミルナでクリスチャンたちを迫害しているユダヤ人たちはサタンの会衆である、と言っています。

2B 十日間の苦しみ 10−11
 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。

 スミルナの人々が、これから殉教するのですが、イエスさまの言葉は、「恐れてはいけない。」でした。クリスチャンは、特に終わりの時のことを考えるときに知らなければいけないのは、クリスチャンが迫害を受けるということです。イエスさまは、「わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。(マルコ13:13)」と言われました。エペソの教会のように、終わりの時は偽教師たちがたくさん現われる時であり、また、真のクリスチャンが迫害される時です。

 見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。

 彼らへの迫害の背後には、悪魔がいました。悪魔が、教会への迫害の源となっています。イエスさまは、「あなたがたは、世にあっては患難があります。(ヨハネ16:33)」と言われました。

 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。

 「十日」というのは、試みられるときの期間のようです。ダニエル書1章には、ダニエルが王の食べる食事を拒んで、十日間、野菜だけを食べるようにさせてくださいと頼んだ個所があります。

 死に至るまで忠実でありなさい。

 心に留めておきたい言葉です。イエスさまが求めておられることは、「忠実さ」です。他に何か特別なことを願っておられるのではなく、イエス・キリストに対する信仰を告白しつづけて、その名を否まない、その一点に集中されています。

 そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

 これから死ななければいけないクリスチャンにとって、この報いはその死に至るまで耐える力となります。死んで終わりではない、死んだ後に希望があるのだ。いのちの冠を受け取るのだという確信は、その人を喜んで死なせる動機づけとなるでしょう。

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。

 「第二の死」というのは、黙示録20章に出てきます。白い大きな御座が現われて、死とハデスが死者をはきだします。復活した不信者たちは、ここでその行ないによって父なる神からさばかれ、そして火と硫黄の池に投げ込まれます。これが第二の死です。肉体の死ではなく、死んだ後に、永遠に神から離れていることを意味します。スミルナの人は死にますが、けれども第二の死を経験しません。イエスさまが弟子たちに言われました。「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。(ルカ12:4−5)

3A 妥協する教会 12−17
1B サタンの王座 12−13
 また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。「鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。」

 ペルガモという町は、スミルナもそうですが、ローマ皇帝の、皇帝崇拝が強い町でした。皇帝を祭る像があり、その他にもゼウスの像などたくさんの偶像がありました。ですから、クリスチャンは、いつも偶像礼拝を行なわされる圧力を感じていました。そのような中でイエスさまは、「両刃の剣を持つ方」として紹介されています。イエスさまは再臨のときに、ご自分の口から出る剣でもって、諸国の軍隊に対して戦われます。イエスさまのみことばによって、戦わなければいけない存在が、この教会にありました。

 わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。

 住んでいるところにサタンの王座というのは、ゼウス神のことでしょう。ちょうど私たちが住んでいる日本にも、大きな仏像を数キロ先からも見ることができるようなものが立っているを見ますが、そのような感じの巨大な像でした。私は、皇居にサタンの王座があるような気もします。その中で、アンテパスという忠実な証人が、殉教しました。仲間が殺されることは、非常に他の信者によって恐れとなりますが、それでもペルガモの信者たちは、信仰を捨てなかったようです。

2B バラムの教え 14−17
 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。

 「バラムの教え」とは何でしょうか?バラムは、民数記に出てくる、異邦人の預言者のことです。イスラエルの民がヨルダン川の東を北上しているとき、モアブの王バラクがイスラエルをのろうように、彼を雇いました。そこでバラムはのろおうと思いましたが、かえってイスラエルを祝福する言葉を語りました。主がバラムの口を通して、お語りになったのです。そこで、イスラエルはのろうことが出来ないとバラムは悟ったのですが、バラムはバラクからお金が欲しかったのです。私たちでイスラエルをのろうことができないならば、イスラエルが神からのろわれるようなことを行なえば良い、と考えました。そこで彼は、モアブ人の娘をイスラエルの宿営に送り込むようにバラクに助言して、イスラエルの男たちは、モアブ人の娘と不品行を行ない、また彼女たちが持ってきたモアブ人の偶像をおがむようになってしまったのです。そこでイスラエルに神罰が下りました。バラクの思惑通りになったのです。

 教会は、外からの攻撃によっては弱くなることはありません。むしろ、さらにきよめられて、強くなり、主のことばはさらに広がっていきます。けれども、内側につまずきが起こると、霊的な力がそこで弱くなってしまい、霊の戦いに負けてしまいます。ペルガモでは、何らかのかたちで、周囲の不品行や偶像礼拝を行なっても良いという教えが、教会の中に入り込んでいたようです。これと同じように、今日の教会にも、信仰の妥協を勧める教えがたくさんあります。偶像礼拝を拒めば、その人にキリスト教についての印象を悪くさせるではないか。いや、妥協しないからこそ、逆にクリスチャンが増え、また迫害の手が弱くなるような事例を、日本の教会史の中にもたくさん見ます。たれかが言った言葉ですが、日本では「出る釘は打たれる」のですが、「出すぎた釘は、そのままにしておく。」というのは、言い得て妙でしょう。

 それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。

 エペソにある教会ではこの教えを拒みましたが、ペルガモでは妥協してしまっていたようです。

 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。

 ペルガモの人々が悔い改めないなら、これらバラムの教えを奉ずる人や、ニコライ派の教えを奉じる人々は、イエスさまが再臨されるときに、さばきの対象となります。

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

 隠れたマナ、とはおそらく、イエスさまのうちにあるいのちのことでしょう。イエスさまは、「わたしはいのちのパンです。」と言われました。そして白い石は、判決を言い渡すとき、有罪ならば黒い石、無罪ならば白い石が使われていました。キリストによって、父なる神にさばかれず、受け入れられることを意味します。

4A 霊的姦淫 18−29
1B イゼベルという女 18−21
 また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。

 テアテラの町は、使徒行伝の16章に出てきます。パウロたちの初めてのヨーロッパ宣教旅行のときに、ピリピの町で、祈り場にいた人の一人が、テアテラの町から来た紫布の商人でした。ルデヤという女の人でした。テアテラの町は、そのように布の同業組合、またはギルドが盛んだったようです。そして、同業組合の一員になるには、異教の祭りやいかがわしいことを行なわなければいけなかったようです。

 燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。

 燃える炎の目、そしてしゅんちゅうの足は、神のさばきを表しています。しんちゅう、または青銅は、神のさばきを表しているからです。

 わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。

 この教会は、エペソの教会になかったものを持っていたようです。愛と信仰と、それにともなう奉仕と忍耐を持っていました。初めの行ないよりも、今の行ないのほうがまさっています。

 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

 イゼベルという女は、同じ名前の女が旧約聖書に出てきましたね。北イスラエルの王アハブがシドンの王の娘イゼベルを妻に取りました。彼女は、王アハブを通して、バアル神をイスラエルの中に導入して、イスラエルを深い偶像礼拝の中に陥れました。この時に、あの有名な預言者エリヤが出てきて、バアル神と対決しました。同じ名前のイザベルも、テアテラの教会で同じことを行なっていたようです。人々を、誤りに導き、不品行を行なわせて、偶像礼拝に導いたようです。

 愛と信仰、奉仕と忍耐を持っていながら、このような恐ろしい偶像礼拝と不品行がはびこっていたとは信じられないのですが、けれども、ローマカトリック教会を見ると、容易に想像できます。その働きには、驚くような愛と信仰の奉仕を見ることができます。また、忍耐もあり、日本の過去の殉教者はキリシタン、すなわちカトリック教徒です。しかしながら、その教会は、マリヤ信仰や聖人信仰を取り入れています。メキシコに行ったときに、あるカトリック教会の中に入りましたが、驚きました、ほとんど日本の仏教寺院とそっくりだったのです。

 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

 イエスさまは、どのような人に対しても、悔い改めの機会を与えてくださいます。あの裏切り者ユダにも、悔い改めの機会を与えられました。けれども、イゼベルは不品行を悔い改めることはしませんでした。

2B 死病 22−24
 その結果、神のさばきが下ります。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

 イゼベルという女本人は、性病なのでしょうか、病気になります。また、女と姦淫を行なう者たちは、大患難の中に投げ込まれます。ここに、教会でも大患難に入ることが預言されています。けれども、この教会は、霊的不品行を犯して、悔い改めない教会であり、本当にキリストのからだではありません。真のキリスト者は、後に来る神の怒りから免れることができます。

 また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。

 大患難の中に入る教会がさばかれるのを見て、全教会は、イエスさまが人の思いと心を探られる方であることを知ります。表向き、教会に通う人として振舞っても、その心は神から遠く離れているのであれば、その人はさばかれるのです。

 しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。

 また後で「サタンの深いところ」と出てくるので、この女はオカルトにも導いたようです。

3B イエスのわざを守る者 25−29
 ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。

 ただ持っているものを、しっかりと持っているというのは、簡単なようで難しいことです。神の真理を持っていること、これが私たちの務めです。ほかに何か新しいことをするのではなく、イエス・キリストの福音をしっかりと持ちます。

 勝利を得る者、また最後まで私のわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

 この約束は、詩篇2篇において、神の御子であるキリストが、諸国の民を鉄の杖で治められるところから来ています。黙示録にも、この統治が千年間つづき、復活した者たちがキリストとともに王となることが約束されています。千年王国における統治です。

 また、彼に明けの明星を与えよう。

 ダニエル書12章にて、多くの者を義とした者が、世々限りなく星のようになると約束されていますが、同じように輝かしい栄光が、信仰を守る者たちに約束されています。

 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

 ここでの「諸教会」に対するメッセージでした。ですから、すべての教会に対して、そして、イエスさまが戻って来られる直前の、終わりの時の教会に対して語られているメッセージです。ここに書かれているイエスさまのことばが、すべて私たちに当てはまります。エペソの教会のように、初めの愛を忘れていないか。スミルナの教会のように、殉教の準備はできているのか?ペルガモのように、信仰的妥協をしていないか?そしてテアテラのように、おそろしい不品行と偶像礼拝の中に教会があるかもしれません。


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