アウトライン
1A 千年王国 1−10
1B 悪魔の幽閉 1−3
2B 第一の復活 4−6
3B 最後の惑わし 7−10
2A 白い大きな御座 11−15
本文
黙示録20章を開いてください。ここでのテーマは「御国の到来」です。イエスさまが地上に戻ってきてくださいました。その後に何が起こるかについて書いてあります。
1A 千年王国 1−10
1B 悪魔の幽閉 1−3
また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
「底知れぬ所」というのは、黙示録では9章に出てきました。天から落ちてきた星が、底知れぬ穴を開くと、そこからさそりのような、得体の知れないいなごが出てきました。神の印を押されていない人々は、それにさされて五ヶ月間、死のうと思っても死ぬことができない激痛の中で苦しまなければいけません。このいなごの正体は悪霊ですが、底知れぬ所は悪霊が幽閉されているところです。第二ペテロ2章4節に、「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」とあります。悪魔が幽閉されます。
彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。
前回19章にて、再臨のイエスさまによって反キリストと偽預言者が火と硫黄の池に投げ込まれるのを読みました。そして今、悪魔が底知れぬ所に投げ込まれます。千年経った後に、同じ火と硫黄の池、ゲヘナに投げ込まれます。そして「千年」という期間がここに二回出てきていますが、これがしばしば「千年王国」と呼ばれる状態です。イエスさまが地上に再臨された後、立てられる神の国です。
サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。
なぜ、解き放されなければいけないのか、と私たちは思うでしょう。第一、なぜ神が全能者であるなら、悪魔をこの世にはびこらせるのをお許しになったのか、と思うでしょう。悪魔さえいなければ、今の世界はこんなにひどくならなかったのです。けれども、悪魔も実は神のプログラムの中にしっかりと組み込まれています。悪魔は神に反抗しながら、実は神に利用されている存在でもあるのです。
そのことを知るのに最適な教材はヨブの話です。彼は裕福で、かつ神を恐れている人でしたが、あるとき、悪魔が神の前で、「ヨブは祝福されているから、あなたを恐れているのですよ。もし祝福が剥奪されたら、たぶんあなたを呪うでしょう。」そこで神は、「よろしい、ではやってみなさい。けれども彼のいのちを奪ってはならない。」と言われました。それで彼は子供たちを失い、財産を失いました。けれども、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(1:21)」と言いました。彼は、財産がなくても主を恐れていることが証明されました。
このように誘惑や試練が置かれることによって、私たちが本当に主を愛しているのかそうでないのかが分かります。エデンの園の中に、なぜ善悪の知識の木が置かれたのか?それは、他に魅力的な選択肢が与えられていなければ、「私は主が言われたことを守ります」という愛による決断ができないからです。
神は人をご自分のかたちに造られました。神は自由意志をお持ちで、自己決定をする方であられます。それゆえ、私たちも自由意志が与えられ、自己決定ができるように造られています。それゆえ、その自由意志を神に背を向けるようにも用いることができ、それゆえ今日まで続く、世界における悲惨が途絶えることはないのです。したがって、悪魔の誘惑によって、私たちは自分が本当に神を愛しているのかそうでないかが試されます。
2B 第一の復活 4−6
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
ここは、死者の復活について書かれています。イエスさまが言われた、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」との約束です。パウロは、死者の復活の順番について話しています。第一コリント15章23節です。「しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。」イエスさまが、信じる者たちに先立ってよみがえられました。それまで、預言者エリヤやエリシャの働きによって生き返った者、イエスさまの地上での働きによって生き返った者はいますが、それはみな蘇生であり、現在の肉体が生き返っただけで再び朽ちてしまいます。けれども、イエスさまは朽ちない体をもってよみがえられました。同じように、朽ちない栄光のからだをもって生き返ることが約束されています。
イエスさまを信じる者たちは、教会時代にイエスさまを信じているならば、携挙の時に生き返ります。(もちろん携挙のときに生きている人は、そのまま復活のからだに変えられて、空中に引き上げられます。)そして、患難時代に死んだ人たちは、主が地上に再臨されるときによみがえります。ダニエル書12章によると、旧約時代の聖徒たちもキリストの再臨の時によみがえることが約束されています。
そして今読んだ箇所には、二つのグループが書かれています。初めに、「私は、多くの座を見た」とありますね。これは教会のことです。イエスさまが、ラオデキヤにある教会に対して、「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。(2:21)」と約束されています。そしてパウロは、コリント第一6章にてこう言っています。「あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。(2−3節)」イエスさまが再臨されて神の国を立てられてから、クリスチャンはイエスさまと同じようにさばく座に着きます。そしてもう一つのグループは、「イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たち」とあり、患難時代に殉教した人々です。
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
そのほかの死者とは、イエスさまを信じないで死んでいった人たちです。この人たちは千年期が終わってからよみがえります。第一の復活とは、信者のよみがえりです。そして第二の復活もあり、不信者のよみがえりです。不信者の復活については、12節に書いてあるのでそこに来たときに説明します。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。
第一の復活にあずかる者が「幸いな者、聖なる者」であるとありますが、それはキリストに似た者とされているからです。「キリストが現れたら、私たちはキリストに似た者になることがわかっています。(1ヨハネ3:2)」とヨハネが手紙の中で言いました。罪のないからだを持っています。
そして「第二の死は、何の力も持っていない」とありますが、第二の死については14節に書かれていますので、そのとき詳しく説明します。第二の死があるのですから第一の死もあるのですが、それは肉体の死です。
そして「彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」とあります。教会と、患難時代に殉教した人々が祭司となり、また王となります。千年王国の時には、王の王、主の主であられるイエス・キリストが世界を統治して、そして信者たちがイエスさまが委任統治として割り当て地が与えられます。そこで、大患難時代を通り抜けて生き残った人々を、祭司として王として導くのです。
千年王国というのは、アダムが罪を犯して以来、土地がのろわれたものとなってしまったところから、回復した状態になることです。また、神がかつてアブラハムに与えられたイスラエルに対する約束を実現してくださるところです。ペテロは、「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまらなければなりません。(使徒3:21)」と言った、万物が改まる時です。ですから、すばらしい約束が数多く預言されています。
いくつかその預言を挙げてみたいと思います。「正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。(イザヤ11:4)」正しいさばき、正義が満ちています。そして平和も満ち、戦争が起こりません。「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。(イザヤ2:4)」動物の間の弱肉強食もなくなります。「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。(イザヤ11:6−8)」そして、環境はエデンの園のようになります。「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。(イザヤ35:1)」そして長寿が約束されています。「そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。(イザヤ65:20)」
3B 最後の惑わし 7−10
しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。
サタンが千年期の終わりに牢から解き放されました。そのとき、地の四方にある諸国の民がサタンに惑わされ、戦争を行なおうとします。「ゴグとマゴグ」とありますが、これはエゼキエル書でイスラエルに対する北からの攻撃の預言ですが、同じように千年期の終わりに攻め入ります。
今話しましたように、千年王国の状態があんなに良いものであるにも関わらず、神に反抗するというのは、人間がいかに堕落しており、その心は変えられないものであるかを示しています。私たちを変えるのは、唯一、神のあわれみと恵みです。恵みの御霊がその人に触れたとき、人はキリストのところに来ることができます。
先ほど話しましたように、イエスさまを信じる人たちは復活のからだを持っているので、罪を犯すことはもはやありません。けれども、大患難時代を通り抜けて生きてきた人たちは、アダムから受け継いだ肉体を持っています。けれども悪魔は鎖で底知れぬ所で縛られていますから、誘惑がありません。罪を犯すための要素が一つなくなっているのです。これはちょうど、仮に無菌状態でクリスチャンホームの中に育てられた子供のようです。罪を知らない状態が続きます。
けれども、神は、だれがご自分との個人的な関係を持っているのかを試すために、悪魔をひと時の間だけ解き放たれます。そこで神を選び取るか、それとも神に歯向かうかの選択が与えられます。
彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。
愛された都とはエルサレムのことです。そこに地の四方の諸国の民が取り囲みますが、ソドムとゴモラが滅んだように、火によって滅びます。
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
悪魔は火と硫黄の池、つまりゲヘナに投げ込まれます。興味深いのは、ここで獣とにせ預言者が「いる所」と書かれており、いた所と過去形になっていないことです。なぜなら千年後も、獣とにせ預言者は、昼も夜も苦しみを受けていたからです。永遠の苦しみがゲヘナでは与えられます。
2A 白い大きな御座 11−15
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
千年経った後に、この地球、いや宇宙全体が焼けて崩れ落ちます。ペテロ第二3章12節には、「その日が来れば、そのために、天の万象は焼け溶けてしまいます。」とあります。おそらく現在の物質世界、原子からすべてが崩壊してしまうものだと考えられます。
そしてそのときに現れるのは、父なる神がおられる「大きな白い御座」です。きよい、聖なる方が座っておられます。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。
これは先ほど言及しました「第二の復活」です。信者の復活は千年期の前に起こりますが、不信者は千年期後、白い大きなさばきの御座の前に立つために復活します。「大きい者も、小さい者も」とありますが、神はえこひいきされるような方ではないことが分かります。公正にさばかれます。その人がどのような地位に生前いたとしても、それは数えられません。
そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
神のところには書物があることが聖書には、いくつか記録されています。たとえばモーセは、イスラエルが金の子牛を拝んで罪を犯したとき、こういって主に執り成しを行ないました。「しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。(出エジプト32:32)」神がお書きになっている書物があり、そこに名が記されていることによって、私たちは神のものにされていることが示されています。
その中に「いのちの書」というのがあります。これはもちろん、永遠のいのちに入る人たちのための書物です。イエスさまはサルデスにある教会に対して、「わたしは、彼(勝利を得る者)の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。(黙示3:5)」と言われました。そこに名が記されていなければ、ほかの書物に書かれてあることにしたがって、自分の行ないに応じて、さばかれます。
ヘブル書には、「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(4:13)」とあります。私たちが行なったこと、口から出したこと、また心の中で思ったことはみな、神の前で裸にされており、覚えられています。日本語では「水に流す」という言葉がありますが、聖書にはそのような概念はありません。罪を犯せば報酬として死があり、死後にさばきがあります(ヘブル9:27)。それを赦していただくには、血が流されなければいけません。神の御子キリストが血を流されたことにより、行ないではなく、キリストを信じる信仰によって罪が赦され、義と認められる救いの道が開かれました。
ですから、白い大きなさばきの御座において、神から聞かれる質問で決定的なのは次のことです。「あなたは、わたしの愛する子を受け入れましたか?」です。イエスさまは、「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。(マタイ10:32)」と言われました。また助け主が与えられる約束をされましたが、「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。(ヨハネ16:8−9)」とあります。何かを行なったその罪を咎められるのではなく、世の救い主として、罪を赦す贖い主として来られたイエス・キリストを信じないことが罪だとされます。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
「海」は、聖書の中でしばしば罪を葬りさられる場所(ミカ書参照)、またさばかれた後に行く先、また陰府(よみ)として描かれています。「ハデス」はまさにそのような場であり、死んだ者が最終的なさばきを受けるまで待っているところです。ラザロの話を思い出してください、金持ちがいたところがあのハデスです。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
「第二の死」です。第二の死とは、死後にさばきを受けた後、永遠に神から引き離された状態にいる、ということです。先ほど信者は、一度死ぬが、二度生まれる、と言いました。肉体の死はあるが、肉体の誕生と霊の誕生のどちらもを体験しています。けれども不信者は、一度生まれるが、二度死にます。肉体の誕生がありますが、肉体の死を体験して、それから永遠の死を体験します。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
ここから私たちは何を学び取らなければいけないでしょうか?永遠のいのちを持つこと、また永遠の死から救われることが最優先事項だということです。イエスがゲヘナについてお語りになった一つを紹介したいと思います。マタイ5章28節からです。「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(28−30節)」情欲を抱いて、全身地獄に投げ込まれるぐらいなら、つまずかせている目をえぐりだしなさい。右手を切り取ってしまいなさい、と言われています。これはもちろん、まったく完全に情欲を抱かなければ地獄に投げ込まれる、ということではありません。罪の生活を続けるよりも、イエス・キリストを救い主として受け入れるかという優先順位の話です。それだけ重要なことだよ、と聖書は何度も何度も、救いの必要性を説いています。「今は恵みの時、今は救いの日(2コリント6:2)」です。
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