アウトライン
1A 新しいエルサレム 1−8
1B ぬぐいさられる涙 1−4
2B 真実のことば 5−8
2A 聖なるエルサレム 9−27
1B 小羊の妻 9−21
1C 門と土台石 9−14
2C 宝石の輝き 15−21
2B 入ることができる者 22−27
本文
黙示録21章を開いてください。ここでのメッセージ題は、「生ける神の都」です。
1A 新しいエルサレム 1−8
1B ぬぐいさられる涙 1−4
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私たちは前回、地上における神の御国、千年王国について見てきました。千年の間、悪魔は底知れぬ所に鎖につながれており、キリストと、キリストを信じる者たちが世界を支配する、神の国が千年間続きます。それから悪魔は牢から解き放たれて、聖なる都を取り囲みますが、天からの火によって滅ぼされます。悪魔は、反キリストと偽預言者がいるところゲヘナで、昼も夜も永遠に苦しみ続けます。
そして20章11節をご覧ください。「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」白い大きな御座が現われたときに、地と天がその御前から逃げ去って、あとかたもなくなったとあります。私たちが今接している、地と天が過ぎ去ったのです。イエスさまが、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。(マタイ24:35)」と言われたとおりです。
そして、海が、その中にある死者を出します。それで白い大きな御座の前で、神がお持ちになっている書物によって、その行ないにしたがってさばかれます。そして、死とハデスが火の池、ゲヘナに投げ込まれるとあります。
その後の出来事が、私たちがこれから読んでいく、「新しい天と新しい地」です。今の地と天が滅び去って、神がまったく新しい創造を行なわれる時がやって来ます。イザヤは、この日について次のように預言しました。「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。(65:17)」イザヤが使っている「創造する」という言葉のヘブル語「バラ」は、聖書の最初の言葉と同じです。「初めに、神は天と地を創造された。」というところと同じです。これは、単に存在するものを集めて造り出すのではなく、存在せしめるという意味があります。無から有を創造することです。ペテロも、今ある万物が滅び去り、まったく新しくされることをこう預言しています。「そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(2ペテロ3:12-13)」
そして、「もはや海もない」とあります。先ほど言及しましたように、海の中に死者がおり、死者がハデスから出されたとありましたが、神を認めない者たちがいるところとして海があります。黙示録17章にて、大淫婦が座っていたのは大水の上であり、それは、もろもろの民族、群集、国民、国語であるとあります(15節)。獣、反キリストも、13章によると、海から出てきていることが分かります。海は、このように不法と不正、罪が葬り去られているところとして描かれています。その海がないのです。古いものとは無縁の世界がいま、造られました。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
「新しいエルサレム」がやって来ました。この「新しい」というのは、単に古いものの代替としての新しさではなく、「聖なる都」とあるように、これまでのものとは違った、新鮮な、さらにすぐれた神の都ということです。
ヘブル人への手紙の中に、旧約の聖徒たちがこの都を待ち望んでいたことが書かれています。アブラハム、またイサクやヤコブが、約束のものを手にせずに死んでいったことについて、ヘブル書の著者はこう書いています。11章13節からです。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(11:13-16)」神が用意されている、神がお造りになった都、自分の故郷よりもさらにすぐれた都というのが、今私たちが読んでいる、新しいエルサレムです。パウロが、「私たちの国籍は天にあります(ピリピ3:20)」と言った、その故郷です。
地上にもエルサレムがあります。けれども、そこは神の都でありながら、神の支配とは程遠い、罪にまみれていました。事実、そこで人類史上最悪の罪、つまり神の御子を殺すという罪を犯したところです。黙示録11章には、エルサレムが「霊的な理解では、ソドムやエジプトと呼ばれる大きな都」と表現されています。けれども新しいエルサレムは違います。
そして、新しいエルサレムは、「夫のために飾られた花嫁のように整えられて」いるとあります。この世にあった大きな都は、獣の上に乗った、地上の王たちと不品行を行なう大淫婦として描かれていたことを思い出してください。花嫁がそのように着飾っているでしょうか?結婚式の花嫁が、売春宿にいる女のような服を着ているでしょうか?いいえ、その衣装は、純粋、純白であり、花婿のために貞潔を守ってきたその姿です。
イザヤ書に、新しい都の姿がこう描かれています。「「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。(54:11-12)」私たちの以前の姿も、罪にまみれ、男どもにもてあそばれた女のようでした。しかし、イエスさまが拾ってくださり、その体を洗い、化粧を施してくださり、美しい衣装で身を飾ってくださってくださったのです。そして最後には、私たち自身だけではなく、都全体が花嫁のように飾られるのです。
そして「天から下って来る」とあります。この都は地に属するものではありません。私たちが、御霊によって生まれるとき、「上から」(ヨハネ3:3)生まれるとイエスさまは言われましたが、神の都も上から与えられるものです。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」
見てください、これが究極の人間の姿です。人間が造られた目的がここに書かれています。それは、神が人とともに住み、彼らがその民となる、ということです。永遠のいのち、というのは、実は、神との結びつきであります。神との交わりです。イエス・キリストが地上に現われてくださったことにより、神との交わりが可能になりました。ヨハネ1章14節の有名な言葉、「ことばは肉となり、私たちの間に住まわれた。」は、「私たちの間に幕屋を張られた」と訳すこともできます。このこと以外の目的に生きても、必ず空回りします。フラストレーションが溜まります。「いや、そんなことはない。」と言い張っても、どんなにすぐれたことを自分が行なっていたとしても、「死」という現実の前で打ちひしがれなければいけません。ですから、永遠のいのちが唯一の解決であり、永遠のいのちとは、神の幕屋の中に住むことなのです。
また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。
究極の慰めが、新しいエルサレムにおいて与えられます。私たちがこの地上に生まれてくるときから持っている矛盾、つまり生まれてきたのに、死ななければいけないという矛盾の中で、私たちは悲しみ、叫び、苦しみます。イエスさまが、ラザロの死を悼むマリヤの姿を見て、涙を流され、憤られましたが、それは死が人類に対して、どうすることもできない叫びと悲しみをもたらすからです。けれども、イエスさまが死に打ち勝たれて、打ち勝たれただけではなく、最後にはこのように死そのものが滅び去るのです(1コリント15:26)。
2B 真実のことば 5−8
すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
御座におられる父なる神が、「わたしは、すべてを新しくする」と宣言されています。パウロは、コリント第二5章17節にて、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と言いましたが、パウロが言ったのは、御霊による新生だけでなく、今ここで神が言われている、すべてが新しくされることを見据えて言っていたのかもしれません。私たちがクリスチャンになったときに、この新しい世界の中に入る約束が与えられているのです!
ですから、あまりにもおいしい話です。良すぎて、おいしすぎて、信じられないかもしれません。ですから神はヨハネに、「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」と言われて、太鼓判を押しておられるのです。
また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」
神は、すべてのことが完成したことを宣言しておられます。そして黙示録の最初にあったように、ご自分がアルファであるオメガであること、つまりすべてを掌握されている方であること、そして初めからいて、終わりまでいる永遠なる方であることを宣言されています。
そして、もっとも単純な形での福音を宣言されています。「わたしは、渇く者から、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」という部分です。人間は渇いています。神はいらないと言っている者も、生ける神を慕い求めて、あえいでいます。空白を埋めるために、いろいろなことをします。それは、「いのちの水」を求めているのであって、キリストにある神との関係が、その水なのです。私たちは、それを自分で努力して、一生懸命考えて、たくさんの献金をして得るのではなく、なんと、まったく“ただ”で、価なしで飲むことができるのです。
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
ここの「勝利を得る者」とは、イエスがキリストであり、神の御子であると信じる者たちのことです。ヨハネは手紙の中で、「世に打ち勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(1ヨハネ5:5)」と言っています。勝利者は、この新しい世界を自分たちのものにすることができて、そして私たちは事実、神の子どもになります。今も、信じる者は神の子どもです。けれども、目に見えないかたちではなく、かの日には目に見えるかたちで子どもになることができます。
しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。
厳粛な警告を思い起こさせています。いのちの水は価なしに与えられますが、それを拒む者は、自分の行ないにしたがってさばかれます。救い主を受け入れて救われるか、拒んで滅びるかの二つに一つです。
2A 聖なるエルサレム 9−27
1B 小羊の妻 9−21
1C 門と土台石 9−14
また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」
覚えていますか、最後の七つの災い、七つの鉢が地上にぶちまけられたことによって、神のさばきが完了しました。そのときの御使いの一人が彼のところにやって来ていますが、そのセリフは前にも聞いたことがあるような言葉です。「ここに来なさい。私はあなたに、大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。」という17章1節の言葉です。この言葉も、同じ七つの鉢を持っている御使いの一人によって語られました。
まことの神との関係は、妻と夫の関係、夫婦の関係です。19章で学びましたように、教会は花婿であるイエスさまの花嫁です。そして、それ以外に、この関係の摩り替えである、イエスを必要としない理由を持っていて、それに安住しているなら、それは大淫婦と不品行を行なっている関係の中にいるのです。この世に属しているのか、それとも神に属しているのかの違いです。
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。
小羊の妻を見せましょうと御使いが言ったのに、ここに出てくるのは、先ほどと同じ聖なる都エルサレムです。けれども、これで正しいのです。イエスを信じる人々が、みな神の中におり、神の中に住み、神と一つにされている状態だからです。小羊の妻が神の都の中にいます。
都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。
ヨハネが見たときの初めの観察は、「神の栄光」でした。神のご性質が鮮やかに現われている姿です。そして、輝きが高価な宝石、透き通った碧玉のようであるとありますが、覚えていますか、黙示録4章にて、神は碧玉や赤めのうのように見えていました(3節)。
都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
聖なるエルサレムには、教会時代の教会の人たちだけがいるのではありません。イスラエル12部族がその名を門に書かれています。旧約時代に、信仰をもって生きたイスラエル人たちがいます。彼らをとおして、神が証しされ、神の栄光が現われていました。彼らも、小羊の妻とされているのです。
門が東西南北の方角に、それぞれの方角に三つずつありますが、民数記のイスラエルの宿営の配置を思い出させます。幕屋を中心にして、東にはユダ、ゼブルン、イッサカル族が、西にはエフライム、マナセ、ベニヤミン族が宿営し、南はルベン、ガド、シメオン、そして北はダン、アシェル、ナフタリでした。神の幕屋の周りに彼らはいましたが、今は神の幕屋である都の一部とされ、門になっています。
また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
土台石は、イエスさまの12使徒たちの名が書かれています。なぜなら使徒たちは、旧約の聖徒たちが証ししたメシヤがイエスであると宣言し、イエス・キリストを土台とする教会を建てたからです。すべてはイエス・キリストであり、これを土台として神の都は構成されています。
2C 宝石の輝き 15−21
また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざおを持っていた。
神殿は測りざおによって測られますが、天のエルサレムにふさわしく金の測りざおです。
都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。
都は立方体をしています。覚えていますか、地上の幕屋において、神がおられる至聖所は立方体をしていました。昔は至聖所が垂れ幕で、聖所と仕切られており、さらに幕によって外庭と区切られ、外庭は掛け幕で外界と区別されていましたが、今は至聖所のみ、つまり神ご自身がすべてを覆っておられるのです。
1万2千スタディオンは、1スタディオンが185メートルで計算すると2220キロメートルになります。この体積分は、ちょうど月と同じぐらいです。ものすごい大きな都が天から新しい地上に降りてきたものです。
また、彼がその城壁を測ると、人間の尺度で百四十四ペーキュスあった。これが御使いの尺度でもあった。
1キューペスは45センチで計算すると、144キューペスは約65メートルです。城壁の厚さがそれだけあります。
その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。
ヨハネが先に都の姿を見たとき、城壁は碧玉であったので碧玉に見えたのでしょう。その碧玉は透き通っている、とヨハネは言いましたが、ここでは、都そのものがガラスのように透き通った純金でできていると、ヨハネは証言しています。これはどういうことでしょうか?不純物がまったくなく、透き通るほどの純化された金であり、碧玉であるということでしょう。ここは、“聖なる”エルサレムです。
都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
あらゆる宝石が使われています。思い出せば、出エジプト記の中に、祭司の装束の中に、このような12種類の宝石が埋め込まれていた胸当てがありました。祭司は神の栄光の輝きを代表していたのですが、それは神の都がこのように12種類の宝石で輝いているからです。
また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。
ものすごいですね、門が真珠で、しかもたった一つの真珠からなる門でした。現存の真珠では到底考えられない大きさです。
2B 入ることができる者 22−27
私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。
これはものすごいことです。神が人と一つになっておられる状態です。人が神の中にいる、と言うことができます。旧約ではもちろん、幕屋や神殿があり、新約時代も、私たちからだが神の神殿でした。けれども、ここでは私たち自身が、神の神殿の中に入っています。
都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
これもすごいことです。太陽や月は、光を反映し、熱を発散させるものとして神に造られ、用いられたのですが、今はその光が神ご自身から出ています。
この神殿と栄光を見ていると、今生きている私たち、とくに旧約時代にいた人々は、神のことを知るのに、いろいろなものを通してでないと知ることができないことが分かります。私たちも、このような聖書の学びを通して、預言や異言、知識の言葉など賜物を用いることによって、目に見えないけれども、霊によって知っている主をあがめることができています。
けれども、完全なものが来るときにはそのようなものは廃れる、と第一コリント13章に書かれています。これらのものは、あくまで神を知るための手段に他ならず、このような手段を中心的な事柄にしてはならない、ということです。私たちは、どのようなプログラムにすべきか、どのような教会堂が良いのか、賛美のレパートリーは、説教スタイルは・・・などなど、方法論に陥ってしまいがちですが、すべてはキリストを知るためであり、最後はこのことしか残っていないのです。
諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。
不思議なことに、諸国の民が天のエルサレムにおいても存在します。おそらくは、千年王国の終わりの時に、悪魔の反逆に加担しなかった人々であると考えられます。彼らが栄光を携えて都にやって来ます。
都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。
すばらしいですね、もはや夜がありません。イエスさまは、「わたしは世の光です。」と言われましたが、イエスさまがすべてを支配されている今、夜がないのです。
こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。
再び、厳粛な言葉になっています。汚れた者、憎むべきこと、偽りを行なう者は都に入れません。その反面、いのちの書に名が書かれている人たちはみな入ることができます。イエスさまは、「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。(ヨハネ3:3)」と言われましたが、すべての人に、この中に入るよう招きをされています。このすばらしい、私たち自身が神と一つにされた都の中に入ることは、ただイエスさまという生ける水を飲むか、しかも価なしに受け取り飲むかにかかっているのです。
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