黙示録22章 「主イエスよ、来てください」
アウトライン
1A 御座から流れる川 1−7
1B 都の中央通り 1−5
2B 信ずべき、真実なことば 6−7
2A 携えられた報い 8−15
1B 汚れた者と聖なる者 8−11
2B 最終権威者 12−15
3A 最後の招き 16−21
1B 主イエスに来る者 16−17
2B 完全な預言 18−21
本文
黙示録22章を開いてください。とうとう聖書最後のところまで来ました。ここでのテーマは「主イエスよ、来てください」です。イエスさまが、御使いを通してすべての啓示をお与えになったあと、ヨハネと読者たちに、ご自分が来られることを待ち焦がれる渇きを呼び起こしておられます。
1A 御座から流れる川 1−7
1B 都の中央通り 1−5
御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。
私たちは前回21章にて、天から下ってきたエルサレム、神の都の情景を見ました。それは神の栄光があり、門は真珠で造られ、城壁は碧玉、都の大通りは透き通ったガラスのような純金でできていました。土台石は12種類の宝石でできています。
このような光り輝くようなもののなかに、都の真ん中、中央に、「いのちの川」が流れていました。中心は宝石ではなく、いのちの水だったのです。これは、「神と小羊との御座」から出ています。ヨハネによる福音書4章にて、イエスさまがサマリヤの女に、「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(14節)」と言われたことを思い出してください。光り輝く宝石もすばらしいですが、最もすばらしく、最も必要なものは、神とキリストご自身であり、そこから流れる永遠のいのちの水です。
川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。
いのちの水の横には、いのちの木が生えています。創世記2章、3章を思い出してください。いのちの木はエデンの園の中央にあった木であり、善悪の知識の木と並んで生えていました。アダムが善悪の木から実を取って食べた後、アダムとエバはエデンの園から追放されました。ケルビムが、いのちの木から実を取って食べることがないように剣で守っていました。今ここで、いのちの木からの実をようやく食べることができるようになりました。
また、その木の葉は諸国の民をいやした。
ここでのギリシヤ語は、英語のセラピーの語源にもなっているセラペイアンという言葉です。健康を与える、という意味です。そこで次のように書いてあります。
もはや、のろわれるものは何もない。
アダムが罪を犯したとき、死が世界に入り込みました。そしてあらゆるのろいが世界にもたらされました。女は産みの苦しみにあい、男は汗流して働かなければいけなくなり、あらゆる苦しみ、悲しみ、病、叫び、涙が始まりました。千年王国の時、悪魔がしばられ、キリストが王となられているところで、罪はかなり制御されていましたが、それでも完全には除去されていなかった悪が、今ここには一切ありません。すべてがいやされた状態、健康状態になっています。
神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
天国において、私たちは安息を得ることができますが、だからといってテレビを見ながらポテトチップスを食べているような、何もしない状態ではありません。神に仕え、活動しています。もちろんこのときの仕事は汗水流して、労苦することはいっさいなく、むしろ活動の中で究極の安息を得ている状態です。
神の御顔を仰ぎ見る。
歴代の預言者でさえ経験することのなかった、すばらしい霊的至福がここに書かれています。モーセがシナイ山にいたときに、主の御姿を見たいと願いましたが、主はご自分が通り過ぎた後の栄光のみをモーセにお見せになりました。けれども終わりの日には、パウロが第一コリント13章で、「顔と顔を合わせて見ることになる(12節)」と言ったように見ることができるようになります。
私たちは自分の罪によって、神の姿がぼかされてしまいます。不安によってもそうですし、偶像があることによって、神の栄光が見えなくもなっています。けれども、これらすべてが取り除かれており、主の栄光を十分に仰ぎ見ることができているのです。
また、彼らの額には神の名がついている。
贖われた者たちには、その名前がいのちの書物に記されていることが約束されていますが、神のお名前もまた、その人たちの額についています。これは神と一つになっている、神のものになっていることを表しています。なんとすばらしいことでしょうか!
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。
21章で学びましたが、主は世の光であられるので、主がおられる今、夜がありません。そしてそこの構成員は、永遠の王であるとあります。だれを支配するのかは、あまり分かりません。おそらく、千年王国の終わりに悪魔に惑わされずに、神を選んだ諸国の王と民であると考えられますが(21:24、26;22:2)。いずれにしても、神が人を造られたとき、ご自分のかたちに造られて、地を支配するように命じられましたが、今、その造られた目的の状態へと回復しています。
2B 信ずべき、真実なことば 6−7
御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。
あまりにもすばらしい光景なので、信じられないと思ってしまいます。そこで御使いが、これは真実なことばです、と太鼓判を押しているのです。
預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。
神はご自分のことを人に示されるときに、預言者を通してお語りになります。預言者のたましいを通して語られます。使徒ペテロは、「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(2ペテロ1:21)」と言いました。そして預言者はしばしば、御使いを通して神からの幻やことばを受け取ります(ガラテヤ3:19参照)。ヨハネも黙示録の啓示を、御使いを通して受け取っています。
そしてこれは「すぐに起こるべき事」です。次をご覧ください。「見よ。わたしはすぐに来る。」
主ご自身が今、すぐに来られることを確証しておられます。ここの「すぐ」という言葉は「突然」と訳すこともできます。いつ来られても、今すぐ来られてもおかしくない、ということです。このことについて、クリスチャンの間でも大きな誤解があります。それは、神には定められた時があるので、主が来られるのは何十年、年百年後、ずっと後かもしれない、という考えです。けれども、終わりの時はヘブル書1章2節によると御子がこの世に来られた時からすでに始まっており、使徒の働き2章によると、聖霊が弟子たちに注がれてからすでに始まっていました。いつの時代、どの時代においても、主がすぐにでも来られる切迫した状態にいるのであり、ずっと後かもしれないという考えではないのです。マウンス(Mounce)という聖書教師が次のようなことを言いました。「私たちは万物の完成に向かって、遠くにある崖っぷちに向かっているのではなくて、その崖っぷちのすぐそばを、使徒時代からずっと平行して走っているのである。」
ですから、主が戻ってこられて、すばらしい神の都に入るときも遠くないことをイエスさまは示唆しておられます。
見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。
黙示録や終末についての預言は、私たちの知的好奇心を駆り立たせる対象では決してありません。「預言のことばを堅く守る」とあるように、自分たちの生き方に影響を与えるようなものです。イエスさまは、目をさましなさい、用意していなさい、と言われたときに、思慮深いしもべのたとえを話されたり、タラントの話、油を用意していて乙女の話をされたりしました(マタイ24−25章参照)。ペテロも手紙の中で、主を畏れかしこむ生活(1ペテロ1:17)、ヨハネも清めへと導かれると書いています(1ヨハネ3:3)。預言のことばによって、私たちの生活が変わります。
2A 携えられた報い 8−15
1B 汚れた者と聖なる者 8−11
これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」
ヨハネは小羊の花嫁の光景を見たとき御使いを拝もうとしましたが、同じことをしようとしています。けれども御使いは、「私もあなた方と同じしもべです」と言っています。メッセージの主である神ではなく、そのメッセージの伝達者をあがめてしまう過ちです。
また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。」
黙示録は閉じられた書物ではなく、開かれた書物です。ダニエルが神から終わりの日について幻を受けたとき、御使いが彼にこう言いました。「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。(ダニエル12:4)」イエスさまが地上に来られて、弟子たちに聖霊が臨まれた今、すでに多くの者の知識が増し加えられ、この書は開かれています。黙示録によってダニエル書によって書かれたことも、開かれているのです。
多くの人が黙示録は象徴的、比喩的表現に満ちているから何が書かれているのか分からない。またそのように、人に分からないようにあえてぼかした表現をしている書物なのだ、という人たちがいますが、黙示録自体がそれを否定しています。この書物は私たちが読み、理解し、そして守り行なうために与えられたものであり、ここまで読んできた私たちは、その命じられていることを守ってきたということになります。
不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。
私たちがこれまで黙示録を読んできた中で、神がいろいろな警告や災いを地上に下されても、一向に悔い改めることなく、むしろ神をののしっている人々の姿がありました。その一方、イエスさまの名前を否むことなく、殉教する人たち、血を流した人たちの姿も描かれています。不正や汚れの道に進むか、正義と聖の道を選ぶか、二つに一つの選択しかないことがここでの意味です。私たちが神を選ばなければ、悪魔の惑わしによって、その偽りを信じるようにされています。けれども、神を選べば、多くの困難や患難にも関わらず、それに耐えることができる力も与えられ、さらに聖なるものとされていきます。
2B 最終権威者 12−15
見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
これで二回目の「見よ。わたしはすぐに来る」という宣言です。そして主が来られることによって、それぞれのしわざに応じて報いが与えられます。これは、行ないによる救いを教えているのではありません。主が戻ってこられるとき、つまり教会が携挙されるとき、私たちは初めに「キリストのさばきの御座(ローマ14:10.英語の欽定訳参照)。」のところに立ちます。そこでは今まで犯した罪がさばかれるのではなく、― それは、キリストの十字架においてさばかれました ― キリストの愛によって、信仰によって行なった行ないに対する、主からの褒美としてのさばきです。主が、「良くやった、良い忠実なしもべだ。あなたはわずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:23)」と言われたこと、またパウロが、「神から各人に対する称賛が届くのです。(1コリント4:5)」と言ったことになります。新約聖書には、いのちの冠、義の冠など、競技者が優勝して受ける冠を受けることが約束されていますが、主が戻ってこられるときに、その報いが与えられます。
わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。
イエスさまはここで、「わたしがすべてである」ということを言われています。アルファからオメガまでその中にあるものすべてであり、最初から終わりまでのすべてである。わたしが最終権威者である、ということです。
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。
イエスさまは、ご自分の権威にしたがって、それぞれに永遠の報いを与えられます。都に入れるものとそうでない者を選り分けられます。
3A 最後の招き 16−21
1B 主イエスに来る者 16−17
「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
イエスさまご自身が、ヨハネが書いた黙示録の著者はわたし本人であることをあかしされています。わたしが御使いを遣わして、これらのことを読者たちに伝えている、と言われています。
そして、主はご自分が約束のメシヤであること、キリストであることを預言のことばを使って宣言されています。「ダビデの根、また子孫」というのは、メシヤがダビデの家系の源であり、かつダビデから出てきた子孫であるということです。ややっこしいですが、イエスさまが神殿にいるパリサイ人らに対してこの質問を投げかけておられます。「「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」(マタイ22:42-45)」キリストはすべての創造主であられ、ダビデ家の主であられながら、ダビデの子としてお生まれになりました。
また、「明けの明星」であると言われていますが、民数記24章17節によると、「ヤコブから一つの星が上り」とバラムが預言しています。
御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。
私は今まで、御霊と花嫁(つまり教会)が「来てください」と言っているのは、イエスさまに対する言葉だと理解していました。そうとも受け止められますが、この節全体を読むと、むしろ、渇いている人に対して、「来なさい」と呼びかけていると受け取れます。
イエスさまが、今、ご自分がメシヤであることを宣言されましたが、御霊が教会をとおしして、「誰でも良いから来なさい、そうすれば、いのちの水がただで受け取れるよ、と呼びかけています。黙示録の最後は、この招きのことば、イエスさまのもとに来るよう呼びかけていることばで終わっているのです。
「いのちの水がほしい者は、ただで受けなさい」という言葉ほど、福音について、救いについて、永遠のいのちについて端的に言い表している言葉はありません。英語では、whosoeverつまり、「だれでも」という言葉があります。永遠の救いへの門は、一部のエリートクリスチャンのものではなく、全ての人にどんな状態に人にも大きく開かれているのです。「私はずっと教会に言っているが、きちんとクリスチャン生活がやっていけるかわからない」と思っていても、「いいから来てみなさい。」と招いています。「自分の悪いところが十分に悔い改めできるかどうか、わからない。」と思っておられても、「いいから来てみなさい。いのちの水を飲みなさい。」と招いています。渇いている者は、だれでもただで飲むことができるのです。
2B 完全な預言 18−21
私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。
この言葉は、むろん黙示録の書物のことです。けれども黙示録は、これまでの聖書の書物の完成書としてありますから、聖書全体にも当てはめることができます。この書物で完全にされたのだから、差し引いても、付け加えてもいけないという戒めです。そのまま受け入れ、すべてを受け入れなければいけない、という権威がこの啓示にはあります。
ずっと私たちも黙示録を学んできましたが、一部、どうしても避けたい部分があったりしました。地上に災いが下ったり、あまりにもひどい惨状は見るに耐えないというか、読むに耐えないものでした。けれども、それゆえに、イエスさまのところに来てください、神の怒りから救われてください、という呼びかけが重要度を増します。神さまにとって、罪と死、地獄からの救いは最優先事項であることを思わされます。これは、黙示録、また聖書全体をすべて受け入れることによって可能なのです。神の意図を曲げてはならない、ということです。
これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。
これで22章にて、三度目の宣言です。しかり、わたしはすぐに来る、そのとおり、わたしは確かに戻ってくる、という約束です。これだけはっきりと何度も話されており、そのことで、私たちは天のエルサレムに入ることができ、主からの報いを受け、いのちの水を飲み、いのちの木から実を取って食べることが許されているのですから、だから私たちも主が戻ってこられることを願わずにはいられません。「アーメン。主イエスよ、来てください」です。私たちの願いは、すべての啓示が完成した今、ただ主が戻ってこられるのを待ち望みつつ、地上で残された日々を生きていくことです。
主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。
これが黙示録最後だけでなく、聖書全体の最後の言葉です。主イエスさまの恵みがともにあることです。聖書は、神の恵みを描いています。私たちが何かを神のためにするよりも、神がキリストによって私たちのためにしてくださったことを描いています。そして、イエスさまが戻ってきてくださることも、私たちの行ないではなく、一方的な主の恵みです。最後に、主の恵みと再臨が一緒に語られている部分を開いて終わりにしたいと思います。テトスへの手紙2章11節からです。
「というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。(2:11−13)」主の再臨は、祝福された望みです。お祈りしましょう。
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