黙示録7章 「神の守りと救い」

アウトライン

1A 神の印 1−8
   1B 押さえられた害 1−3
   2B イスラエル12部族 4−8
2A 白い衣 9−17
   1B 救いの賛美 9−12
   2B 神の慰め 13−17

本文

 黙示録7章を開いてください。ここでのテーマは、「神の守りと救い」です。私たちは前回学んだ6章から、大患難時代に入っています。父なる神の御前に小羊なるイエスさまが出てこられて、御父から与えられた七つの封印のある巻き物を受け取られました。そしてイエスさまは、その封印を一つ一つ解きました。第一の封印が解かれたときは、白い馬に乗った人が出てきましたが、彼は反キリストです。黙示録19章にて、白い馬にイエスさまが乗ってこられて、地上に再臨されますが、反キリストは、本物のキリストが行なわれることを真似して、偽りのメシヤとしてこの世に現われます。教会がまだ地上にあるときは、その現われは聖霊の働きにより引き止められていましたが、教会が携挙して、天に引き上げられたので、彼は自分の活動を開始します。ダニエル書9章27節によると、イスラエル人の多くの者と契約を結び、中東情勢を安定させ、一時的に世界的な平和をもたらすように見せかけます。そこで人々は、反キリストを、政治的な救世主として尊敬し、受け入れるようになってきます。

 しかし現実は異なります。イエスさまは、第二、第三、第四の封印を解かれていきますが、それは戦争であり、インフレーションであり、飢饉でした。巧みに、世界が平和であるように見せかけながら、反キリストによって、世界に破壊がもたらし始められます。そして第五の封印が解かれると、そこには祭壇の下にいる、イエスのあかしを立てた人々のたましいがありました。信仰のために殉教した人々です。反キリストが現われてから、イエスを信じた人々は、徹底的な迫害を受けます。そして第六の封印が解かれた後に、天変地異が起こります。太陽が黒くなり、月が赤くなり、星が地上に落ち、大地震が起こります。人々は、「山々よ、私たちの上に倒れかかってくれ!神と小羊の怒りの時が来たのだ。」と叫んでいます。

 これが大患難の意味です。大患難は、地上で人々が行なってきた悪や不正に対して、神がご自分の怒りを現わされるときです。ちょうど、ソドムとゴモラがその忌まわしい行ないのゆえに、火と硫黄が天から降って、滅ぼされたように、終わりの時に、地上にさばきが下ります。

1A 神の印 1−8
 そして7章に入ります。

1B 押さえられた害 1−3
 この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。

 今、ヨハネは、御霊によって、タイムマシンに乗っているように、主の日、終わりの時へとワープしています。今、地上に下る神のさばきを見せられた後、御使い、あるいは天使の姿を見せられました。四人の御使いがいます。地の四隅にいて、地の四方の風を堅く押さえています。そのため、地にも海にも木にも、風が吹きつけられないようにしています。

 黙示録は、旧約聖書にある預言がたくさん引用されているということを思い出してください。ここの表現、地の四隅や、地の四方の風というのは、エレミヤ書49章36節、エゼキエル書7章2節などで、神のさばきがその全地域に及ぶときに用いられています。「わたしは天の四隅から、四方の風をエラムに来させ、彼らをこの四方の風で吹き散らし、エラムの散らされた者がはいらない国はないようにする。(エレミヤ書49:36)」「「人の子よ。イスラエルの地について神である主はこう仰せられる。『もう終わりだ。この国の四隅にまで終わりが来た。』(エゼキエル7:2)」今、神のさばきを世界の全地域に及ぼそうとしているけれども、御使いたちによって、それがとどめられている、ということです。

 黙示録8章をご覧ください。8章は次回学びますが、そこには第七の封印が解かれてから、七つのラッパが吹き鳴らされる場面が書かれています。その中に、木の三分の一が焼け、海の三分の一が血となり、地上では川の水が汚染されて、多くの者が死ぬことが書かれています。これから小羊が第七の封印を解かれることによって、地や海、また木々に対して害が加えられますが、それがまだ起きないように天使がとどめている、ということです。

 また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。

 また異なる場面をヨハネは見ました。それは、四人の御使いとは異なる、また別の御使いが日の出るほう、東方から上ってきた情景です。彼は、「生ける神の印」を持っているとのことです。黙示録には、生ける神の印の他に、反キリストと偽預言者が与える刻印のことが書かれています。額か右手にその刻印が押されますが、それを持っていない人は、売ることも買うこともできなくなってしまいます。けれども、ここでは「生ける神の印」です。

 「印」というのは、聖書が書かれていた時代、権威や所有権を持っているしるしとして使われていました。例えば、イスラエルの王アハブの場合、彼がナボテのぶどう畑を欲しがっていたので、妻イゼベルが、王の印で封印をして手紙を書いた、と書かれています(1列王21:7)。また、新約時代のとき、世界はローマが中心でしたが、世界の貿易もローマが中心でした。東方からローマへの物流はもちろん、らくだなどの動物による運送と、船による運送でしたが、貿易商人が、積み降ろされた貨物が自分のものであると要求するときに、前もってその指輪の印によって、しるしを付けることによって、貨物を受け取りに来ていました。このように、印はその人が所有していることを示すものです。

 したがって、ここで「生ける神の印」と書かれているのは、生きている神の所有とされている者、神のものにされるということです。実は、私たちクリスチャンは、このような印を神によって押されています。第二コリント1章21節をお開きください。「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。(1:21−22)」キリストにあって、私たちは神に堅く保たれています。私たちが永遠のいのちの約束を受け取るまで、神がキリストにあって、私たちを守ってくださっています。みなさん、自分が本当に救われているのか、と疑問に思ったことはありませんか?けれども、私たちが自分に焦点を当てるのではなく、キリストのうちにいるならば、キリストにあって神は守ってくださいます。そしてここには、その保証として、御霊を与えてくださった、とあります。私たちが御霊によって、主の愛、平安、喜び、また親切などを経験しているなら、それこそ、私たちがキリストのものであり、神が必ず、私たちを引き取りにきてくださることの保証です。どのようなことが起こっても、私たちをキリストにある神の愛から引き離すものは決してありません(ローマ8:35−39)。ですから、もうひとりの御使いが、神の印を持ってやって来ました。

 彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」

 神の印を押す御使いは、地をも海をもそこなうことのできる、地の四隅にいる御使いに、大声で叫びました。神の印を押される人々は、「神のしもべ」です。神のしもべですから、単に神のものとされているだけではなく、神に仕えて、神のために働く人々です。そして彼らに、神の印を押してしまわないうちは、地や木や海に害を加えない、すなわち第七の封印は解かれない、ということです。

2B イスラエル12部族 4−8
 それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。

 印を押された神のしもべたちは、「十四万四千人」おり、彼らは、「イスラエルの子孫のあらゆる部族」であります。みなさん、「十四万四千人」について、多くのことを聞くかと思います。いろいろなキリスト教異端やカルト宗教が、自分たちのグループが十四万四千人であると言っているからです。エホバの証人がその有名なグループの一つです。ここで彼らを反駁しようと、一生懸命、聖書研究書などを使って汗をかかないでください。非常に簡単だからです。「イスラエルの子孫のあらゆる部族」と書いてあるのですから、「イスラエルの子孫のあらゆる部族」なのです。こんな簡単なことはありません。聖書に書かれてあるとおりに、普通に読んでいくと、神は物事を単純にされているのに人がそれを複雑にしているのです(伝道者の書7:29参照)。

 思い出してください、教会に対するイエスさまのメッセージが、2章と3章にありました。そしてその後に起こることが4章と5章に書かれていました。4章と5章には、天における光景が書かれていますが、そこに教会の姿が書かれています。イエスさまが天から下って来られて、私たちが空中にまで引き上げられ、すでに私たちが天にいて、神とキリストをほめたたえているのです。そして神が地上にご自分の怒りを下されるのですが、その時は同時に、イスラエルの救いの初めでもあります。ローマ人への手紙11章によると、異邦人の完成があって、その後でイスラエルが救われると書かれています(ローマ11:25−26)。エレミヤ書には、大患難のことを「ヤコブの苦難の時(30:7)」と書かれています。神が、再びイスラエルを取り扱われて、大患難時代に彼らが苦しみを受けて、その後に彼らを救われるという計画を持っておられます。今、神の印を押されている14万4千人は、救われるはずのユダヤ人の初穂であるのです。

 ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。

 12部族の各部族が、それぞれ一万二千人います。ここで面白いのは、一部族が抜けてしまっていることです。ダン部族がいません。実は、このことは今に始まったことではなく、イスラエル12部族が始まって以来起こっていることなのです。ヤコブに12人の息子が生まれました。その中の一人がヨセフですが、彼は兄たちによってエジプトに売られてしまいました。けれども主が彼とともにおられ、ヨセフはパロの次に権力を持つ支配者となりました。そこで彼は二人の息子を生みました。マナセとエフライムです。後に、ヤコブはカナン人の地からエジプトに移動します。飢饉があったからです。そしてヨセフの近くで、食糧に困ることなく余生を過ごしました。ヤコブが年取って、もう死ぬかもしれないという時に、彼はヨセフの息子を二人呼んでくるように言いました。そして二人に手を置いて、祝福しました。これは、ヨセフの息子がそのままヤコブの息子としての相続を受けるという意味です。ですから、ヨセフから二部族が出てきました。マナセ族とエフライム族です。ですから、合計すると13部族なのです。

 けれども面白いことに、イスラエルの部族がすべて列挙されているときは、必ず12部族だけが列挙されます。そこでどこかの部族が、ここ黙示録7章にあるように省略されているのです。これは、新約聖書の使徒行伝においても同じことが言えます。イスカリオテのユダが自殺した後、ペテロが、くじを引かせて、マッテヤを加えたので使徒が12人になりました。ところが、後にパウロが復活にイエスに会い、それで13人になっています。けれども、十二使徒なのです。

 このことはおそらく、十二という数字が何らかの意味を持っているからであろうと考えられます。おそらく、この数字は「統治」を表しており、神の統治を象徴しているのではないかと思われます。ですから、各部族の人数も、ここでは12,000人と、12の数字が使われており、12,000人が12部族あるということで、神が支配されているしもべたちを強調しているように思われます。もちろん、実際にも、14万4千人の神のしもべが、大患難時代が始まった時に現われるでしょう。

2A 白い衣 9−17
1B 救いの賛美 9−11
 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

 ヨハネは再び、「私は見た」と言っています。一回目は、地の四隅にいる四人の御使いであり、二回目は、神の印を持っているもうひとりの御使いであり、そして三回目に、これら大ぜいの群衆を見ました。

 彼らは、「あらゆる国民」であり、あらゆる部族であり、民族であり、国語からの人々を形成しています。覚えていますか、バベルの塔において、一つの民で一つの言語であった人間は、ばらばらにされて地に散らばっていき、民族や国々を形成しはじめました。そこで主はアブラハムに対して、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福を受ける。(創世記12:3)」と約束されました。すべての国民、すべての民族、すべての国語の人々が祝福を受けます。そしてイエスさまは、弟子たちに、「あらゆる国の人々を弟子としなさい。(マタイ28:19)」と命じておられます。

 そして彼らは、「白い衣を着」て、「しゅろの枝」を手に持っています。白い衣については、後でその意味の説明があります。そしてしゅろの枝は、イエスさまが、ろばの子に乗られて、エルサレムに入ってこられたときに、群集が「ホサナ」と言って出迎えたときに、用いられたものです。彼らは、「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。(ヨハネ12:13)」と言いました。これはメシヤが来られて、自分たちを救ってくださったことを喜びお祝いしているのです。そして、彼らは今、「御座と小羊との前」つまり天国にいます。つまり、彼らは自分たちを救ってくださり、天国に入れさせてくださった神とイエス・キリストをほめたたえているのです。

 救われた者たちに約束されているのは、「御座と小羊との前」に立つことができることです。モーセの時代の時のことを思い出してください。主がシナイ山に降りて来られたとき、黒い雲と、雷と稲妻、そして耳をつんざくような角笛の音がありました。山のふもとに杭が打たれて、その中に入れば、動物も人間もたちどころに殺される、と主は言われました。主は聖い方なので、不完全な罪ある私たちは、決して近づくことができないのです。けれども、キリスト・イエスが流してくださった血によって、私たちは神に近づくことができるようになり、大胆に神の前に来ることができるようになりました。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とヘブル書4章16節に書かれています。私たちは、自分が足りない者だと思って、神に近づくことを遠慮することはあります。そこで祈りが直接的なものではなく、表面的に良いことしか話さないことがあります。しかし、キリストが十字架につけられたことによって、神と私たちとの間にある隔ての壁は取り壊されました。今は、大胆に近づけます。そして天においては、御座の前にいることができるようになるのです。

 彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

 救いは、私たちの努力や行ないではなく、完全に父なる神と子なるキリストに拠ります。私たちは、もともと自分が生きていくために、何とかして自分を救おうとします。一生懸命良い行ないをすることによって、一生懸命、宗教活動をすることによって、時に教会活動でさえ、自分を救うための活動であると考えてしまいます。けれども、救われるために必要なことはすべて、神がキリストにあって成し遂げてくださったのです。だから私たちは、その事実に立ち、神をほめたたえ、キリストをほめたたえれば良いのです。

 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」

 黙示録4章から天国の光景が描かれていますが、天国とは神の御座そのものであり、その回りに天使たちがおり、24人の長老と四つの生き物がいて、さらにケルビムという天使もすぐそばにいます。もちろん父なる神の右には小羊イエス・キリストがおられます。そしてその周囲に、救われた者たちが集っているようになっています。

 今、御使いたちが回りにいて、救われた者たちの賛美に呼応して、礼拝をささげています。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」と言っています。そうですね私たちの賛美は、人に向けられるものではなく、神に向けられます。栄光は人ではなく神に帰されます。知恵も神のものです。感謝も神に対して行ない、力も神に属し、勢いも神にあります。私たちは今、地上で礼拝をささげ、賛美をしていますが、天に入れば、この奉仕を永遠に行なうようになります。けれども、あきることはないし、決して疲れることはありません。神がそのように偉大な方であり、永遠に礼拝を受けても、それで十分ということは決してないのです。

2B 神の慰め 13−17
 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか。」と言った。

 24人の長老たちの一人が、ヨハネに質問しています。白い衣を着ている人はだれか、という質問です。けれどもこれは、本当は質問ではありません。次の節で、質問しておきながら自分で答えています。ヨハネに、この白い衣を来た、あらゆる国からの、かぞえきれない群集がだれかを知ってもらいたかったのです。

 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」

 はい見てください、ここで「大きな患難」とあります。ギリシヤ語では、ちょうど英語のtheが、「大きな患難」の前に付いています。「ザ・大患難から抜け出た者」ということです。彼らは、大患難時代が始まってからイエスを主として信じた人々です。教会はすでに携挙しています。けれども、主の救いは、大患難時代に入ってからも続けられます。

 五旬節、ペンテコステの時に、祈っていた弟子たちに聖霊が臨みました。そして、それぞれが外国語を話しました。ペテロは、世界中から集まってきたユダヤ人たちに、これはヨエルの預言が成就しているからであると、説明しました。こう言いました。「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』(使徒2:16−18)」続けて、ヨエルの預言にはこう書いてあります。「また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。(2:19−21)」太陽がやみとなり、月は血に変わる、というのは、ちょうど黙示録6章に出てきました。第六の封印が解かれた時です。そして、主の大いなる輝かしい日というのは、もちろん主が地上に再臨されるときです。この情景はまぎれもなく、大患難でありますが、大患難においても、主の名を呼び求める人たちがおり、彼らも救われる、とあります。

 
さらにイエスさまが、オリーブ山で、世の終わりについて語られているとき、こう言われました。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。(マタイ24:14)」福音宣教は、教会が携挙されてからも続き、大患難時代の中でも続きます。黙示録14章を見ると、人ではなく、御使い自身が永遠の福音を携えて、あらゆる国民のところに行く、とあります(6節)。神は、ご自分の福音を人々に伝えるために、人間がいなければできないのではないのです。今の時代、主は、恵みによって救われたクリスチャンたちを通して、人々をご自分に引き寄せられていますが、私たちがいなければ福音を伝えられないということではありません。

 数えきれないほどの、この群集は、おそらくは、14万4千人の、神の印を押されたイスラエル人たちによって救われたのでしょう。ちょうど、教会が誕生するときに、世界中から来たユダヤ人たちが救われて、それから異邦人に福音が宣べ伝えられたように、終わりの時も、主は初めにイスラエル人たちを召し、それからあらゆる国民に福音を知るようにされているのかもしれません。

 彼らは、大患難から抜け出た者たちですから、大患難が始まってから死んでしまったり、その信仰のゆえに殺されてしまったりしたたましいであると考えられます。第五の封印にて、祭壇の下にいたたましいと、ここの人々は同じであると考えられます。つまり、黙示録7章は6章で始まった患難時代にて、福音がどのように広まっていったかを知らせる、挿入的な出来事であると考えられます。

 そしてこの節には、「その衣を、小羊の血で洗って、白くしたのです。」とあります。先ほどの白い衣の意味がここに書かれています。白い衣は、キリストの血による罪の赦しであり、罪のきよめです。イザヤはこう預言しました。「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』(イザヤ1:18)

 キリストの血は、強調してもしすぎることはありません。まず、血が流されることの意義を考えてみたいと思います。ヘブル書9章22節には、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とあります。私たちが何か過ちを犯したときに、その過ち、あるいは罪を償おうとするのですが、行ないによって償おうとします。例えば、自分の妻に辛くあたったときに、良心の呵責を感じて、花束を買って家に帰ったりします。これは自分の心の罪意識を、なんとか償いたい、贖いたい、そして払拭したいと思うからです。けれどもそれでは、決して拭い去ることはできません。私たちがいかに良い行ないをしても、罪を犯したという事実は厳然と残っています。この罪意識のために、現代は多くの人が精神的にいろいろな支障をきたしています。心理的アプローチによるセラピーが試みられたりしますが、それでも決していやされません。

 罪意識を拭い去るのは、血が流される必要があるのです。行ないではなく、その罪の代償としての命が注ぎ出されなければいけないのです。そして、主イエス・キリストの血であれば、完全に私たちの心をきよめることができます。「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(ヘブル9:14)」ですから、彼らは小羊の血によって、白くされました。

 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。

 彼らは天国にて、ただぼっとしているのではなく、昼も夜も、神に仕えています。「仕える」というと、何か仕事をしているかのような印象を受けます。けれども、天においては、地上とは異なるエネルギーの法則があります。私たちはこの地上で働けば、それは苦労するものであり、ストレスがたまるようなものであり、決して安らかにさせることはありませんが、天国においては、無尽蔵のいのちのエネルギーがあるので、動いていても決して疲れることはありません。しかも、彼らは、聖所で仕えています。礼拝を行なっているので、それは苦にならないのです。

 そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。

 主が彼らとともに住んでおられます。「幕屋を張る」というのは、主がともに住まわれる、ということです。これこそ、人間が神によって造られた目的とも言えるでしょう。人間は、神とともに住むため、神とともに時間を過ごすために造られました。神とともに交わるために造られました。イエスさまがお生まれになったのも、「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1:14)」とあります。私たちにとって、イエスがすべてなのです。イエスが私たちの道であり、真理であり、いのちなのです。私たちに必要なのは、イエスのみなのです。私たちは時に、自分がどう生きていくべきか、その方向性について悩みます。生活のいろいろな領域について、具体的なことをどう解決したらよいかと迷います。そして、「主よ、これからの方向性をお示しください。」と祈ります。けれども、往々にして主はこう答えられます。「わたしが、道だよ。わたしが道だ。」自分の生活について、さまざまなハイツーやテクニックを求める私たちは、もっとイエスご自身を求め、イエスご自身の栄光を見ることに集中すべきでしょう。

 
彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。

 天においては、すべての災いから守られています。彼らは大患難において、地上での生活は飢え、渇き、そして太陽の炎熱だったのでしょう。けれども、今はそんなことはありません。すべてから守られています。詩篇121篇には、「主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。(5−6節)」主が私たちを守ってくださいます。そして天においては、完全に守ってくださいます。

 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。

 詩篇23篇には、「主は私の羊飼い。(1節)」とあります。そしてイエスさまは、「わたしは、良い牧者です。(ヨハネ10:11)」と言われました。主イエスが牧者となっておられるので、私たちは悪い者から守られ、また健康に養われます。「いのちの水の泉に導いてくださる」とありますが、主はサマリヤの女に、「わたしが与える水は、その人のうちに泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:14)」と言われました。また、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の腹から、生ける水が流れ出るようになる。(ヨハネ7:38)」と言われました。いのちで満ちあふれます。

 また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。

 地上で受けていた苦労、涙は、すべて拭い取られます。もう二度と、そのような苦労や悲しみを経験することはありません。


 彼らは大患難時代に救われる人々ですが、もちろん今の時代の私たちも、このような天を受け継ぎます。天には、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産があると、ペテロは言いました(1ペテロ1:4)。今、私たちが真面目にクリスチャンをやっていこうとするならば、必ず激しい葛藤を心に抱きます。だれでも敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます(2テモテ3:12)。ですから、私たちはこのような天が自分たちのために用意されていることをますます思うべきであるし、またこの地上において、主が聖霊によって私たちに証印を押していてくださっていることも思い出すべきでしょう。私たちは主のものであり、主は私たちを守り、そして救ってくださるのです。


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