黙示録8章 「神のラッパ」


アウトライン

1A 祭壇の火 1−5
   1B 半時間ばかりの静けさ 1−2
   2B 金の香壇 3−5
2A 投げ込まれた香炉 6−13
   1B 三分の一の破滅 6−12
      1C 地 6−7
      2C 海 8−9
      3C 川 10−11
      4C 天 12
   2B なお三つのわざわい 13

本文

 黙示録8章を開いてください。8章のテーマは、「神のラッパ」です。

 私たちは今、「主の日」または「大患難」と呼ばれる時代の部分を学んでいます。6章にて、七つの封印が一つ一つ解かれました。すると四頭の馬が出てきて、そこに乗っている者がそれぞれ、勝利、戦争、インフレ、死をもたらしました。第五の封印が解かれたとき、祭壇の下に、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいがいました。彼らは、「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。(6:10)」と言いました。すると、彼らひとりひとりの白い衣が与えられて、「あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。(11節)」と言い渡されています。

 このように大患難時代に、イエスさまを信じて、そのあかしのために殺される殉教者たちがいます。どのようにして彼らが主を信じて、また殺された後どのようになるのかが、7章に書かれていました。さらにわざわいが下る前に、生ける神の印を押される十四万四千人のイスラエル人たちが現われます。彼らの福音宣教の働きによって、主を信じる人たちが数え切れないほど現われて、そこで天において、神の救いを賛美し、また神を礼拝する場面を、先週学びました。

 また6章に戻りますが、第五の封印の次は、第六の封印で、天変地異が起こっています。太陽が黒くなり、月が血のようになり、星が地上に落ち、大地震が起こります。彼らは、これが父なる神と小羊イエスの怒りが下っていることを知ります。

1A 祭壇の火 1−5
 そして8章に入ります。ここでは第七の封印が解かれる場面です。

1B 半時間ばかりの静けさ 1−2
 小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。

 半時間ばかりの静けさ」が、4章以降、天における情景を読んできた者によっては、とても異様であるように思われます。なぜなら、天においては、絶え間なく、昼も夜も、神と小羊を賛美し、礼拝して、聖所で仕えている聖徒たちが、数限りなく、大ぜいいるからです。そして、あるグループが大声で賛美し、他のグループがそれに呼応して、賛美して礼拝をささげています。ところが今、半時間、静けさがやって来ました。これから、恐ろしい神のさばきが始まります。この静けさはちょうど、嵐がやってくる前の無気味な沈黙であります。

 それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。

 七人の御使いが神の御前に来ています。彼らと同人物であるかどうか分かりませんが、七つの燭台の真ん中におられたイエスさまのところにも、七つの御使いがいました。イエスさまが、七つの教会に対して、それぞれ御使いを通してお語りになっていました。そして、七つの鉢が地上にぶちまけられるとき、同じように七人の御使いに、それぞれ鉢が手渡されています(15:7)。このように神の御前に七人の御使いがいますが、彼らは七つのラッパが与えられました。

 ラッパ」とは何でしょうか?聖書の中で出てくるラッパは何であり、またどのような目的で用いられたものなのでしょうか?聖書では、「角笛(ショーファー)」とも訳されています。“角笛”ですから、実際に雄羊の角によって造られた笛です。金色のまっすぐな、中世時代のヨーロッパに出てくるようなラッパとは違います。そして音も、金属音ではなく、象の鳴き声に少し似ています。これを使って、イスラエルは、イスラエルに呼びかける音として用いていました。

 イスラエル人たちに十戒をお語りになるために、シナイ山に主が降りて来られたときのことを思い出してください。「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。(出エジプト記19:16」聖なる主が来られるときに、雷といなずまと密雲があるのですが、角笛も非常に高く鳴り響きます。おそらく、これは主とともにやって来た御使いたちが吹き鳴らす角笛の音だったかもしれません。ステパノが、モーセの律法は、御使いによって定められたと言っています(使徒7:53)。

 今、ラッパは角笛であると言いましたが、民数記10章には銀によって造られたラッパが二つ登場します。イスラエルがシナイ山から旅を始めるときに、会衆を召集し、旅を始めるために呼びかけるためのラッパです。また、このラッパは、自分たちを襲う侵略者への戦いに出るときに、また例祭と言って、例年行なう主への祭りの時にも、吹き鳴らされます。実際、レビ記23章には、秋の祭りの一つに、「ラッパを吹き鳴らす日」があり、そのときに人々はヨム・キプール、つまり贖罪日まで断食をしたり、悔い改めの時とします。また、ダビデが神殿建設を指導してからは、礼拝の中で、琴やタンバリンやシンバルとともに、角笛が楽器の一つとして用いられています(詩篇150など)。

 角笛は、おもに戦いをするときに使われていました。ヨシュアが率いるイスラエル軍がエリコを陥落させるとき、角笛を吹き鳴らして、それからときの声をあげると、エリコの城壁が崩れ落ちました。士師記では、ギデオンがイスラエル兵士300人を連れて、ミデヤン軍を倒したとき、一人一人に角笛を吹かせました。サムエル記第一では、サウル王やヨナタンが角笛を吹き鳴らして、イスラエル兵士たちを呼び集めています。

 そして預言書には、主がさばきを行なわれるとき、主が怒りを発せられるときに、ラッパを吹き鳴らしておられます。エレミヤ書6章1節には、「ベニヤミンの子らよ。エルサレムの中からのがれよ。テコアで角笛を吹き、ベテ・ハケレムでのろしを上げよ。わざわいと大いなる破滅が、北から見おろしているからだ。」とあります。そして、ヨエルの預言を見てみましょう。ヨエル書2章1節からです。「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。(1−2節)」とあります。主の日において、角笛が吹き鳴らされます。私たちが読む黙示録8章以降のラッパは、このヨエルの預言の成就です。

 続けて読むと、「山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。(2節)」とあり、さらに4節には、「その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。」とあります。ここは次回学ぶ黙示録9章の内容になっています。ですから、主の日において、万軍の主と呼ばれる神が、御使いによってこの地上に制裁を加えられるのです。

 ところで、テサロニケ人への手紙第一の4章には、有名な、携挙の預言があります。そこにもラッパ、角笛について書かれています。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。(4:17)」とあります。これは、主が戦われるためのラッパではなく、キリストのうちにある死者や生き残っている私たちを、引き寄せて、ご自分のみもとに集められるためのラッパです。ちょうどイスラエルが、銀のラッパの音を聞いて、集まって、旅を再会するように、私たちもキリストのうちにある者はみな、神のラッパの音によって一挙に引き上げられ、空中にまで降りてこられたキリストのみもとに集められます。けれども黙示録7章では、主が戦われるためのラッパが吹き鳴らされます。

2B 金の香壇 3−5
 では、3節をご覧ください。また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。

 七人の御使いとは異なる、もうひとりの御使いが出てきました。彼は金の香炉を持って、祭壇のところに来た、とあります。続けて読みます。

 彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。

 彼がもっていた香炉とは、炭火が入っている火皿に香をたくためのものです。そして、神の御座の前には金の祭壇があります。

 香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。

 ここ3節から5節に書かれている情景を理解するには、旧約聖書にある主の幕屋のことを思い出さなければいけません。主がシナイ山にて、モーセに、主が住まわれるところの幕屋を造りなさい、と命じられました。そこには、聖所があり、聖所は、垂れ幕によって聖所と至聖所に分かれていました。聖所には、入り口から右手にはパンを供える机があり、左手には金の燭台があります。そして垂れ幕に接しているところに、金の祭壇があり、その上で香をたきます。香は、至聖所の中に入っていき、契約の箱があるところにまで届きます。その香が表している祈りが、神に届けられたことを表しているのです。

 そして、ヘブル人への手紙には、地上の幕屋は、天にあるものの影であり写しであり、また模型であると書かれています(8:5、9:24)。つまり、今読みました、金の香壇、香炉、そして祭壇の火とは、すでに旧約聖書にて幕屋の中で表されていたものでした。

 もうひとりの御使いは、香をたくさん受け取って、それを金の香壇の上にささげました。それによって、香の煙が神の御前に立ち上りましたが、それは、「すべての聖徒の祈り」とともに立ち上ったとあります。この祈りとは何でしょうか?第五の封印が解かれたとき、祭壇の下にいたたましいのことを思い出してください。彼らは、「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。(6:10)」と言いました。彼らがいたところの祭壇は、青銅の祭壇のほうであり金の香壇ではありませんが、これら聖徒たちの祈り、地にさばきを行なってくださいという祈りが、今、神の御前に立ち上っているのです。そして7章に、大患難から救い出された彼らの姿を見ることができました。したがって、8章からは、地に残されている人々、主に不信者に対する神のさばきが書かれているのです。

 私たちは、「敵を愛し、敵を祝福し、敵のために祈りなさい。」とイエスさまから命じられています。けれども、ここの聖徒たちの祈りは、復讐を行なってくださいであるからおかしいのではないか、と思われるかもしれません。このことについては、テサロニケ人への手紙第二1章で学びました。主は、キリスト者を苦しめる者たちに対して、その苦しみをもって報われると書かれています。それが「主の日」であり、福音を信じない者たち、神を認めない者たちに対するさばきが下るのです。そして、今生きている私たちは、終わりの日に正しくさばいてくださる主に復讐をお任せして、悪を行なう者に対して悪で報いず、善をもって報いるように命じられています(ローマ12:9)。主は聖なる方であり、真実な方です。悪に対して正しくさばかれます。そして正義が行なわれることを願っている聖徒たちの祈りを、神は決して見過ごされることはありません。

 それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。

 香炉を祭壇の火で満たしたあと、それを地に投げつけました。ですから6節以降に出てくる災いは、天から地上にもたらされるものです。また、「」によるさばきでもあります。そして、「雷鳴と声といなずまと地震が起こった」とありますが、覚えていますが、主がシナイ山に降りて来られるとき、角笛の音とともに雷鳴といなずまがあり、地が震えました。聖なる主は、出エジプト記の時代だけではなく、今もそしてこれからも変わりなく生きておられるのです。

2A 投げ込まれた香炉 6−13
1B 三分の一の破滅 6−12
1C 地 6−7
 すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。

 第一の御使いによるラッパは、「血の混じった雹と火」をもたらしました。同じく出エジプト記にて、主がエジプトの国をさばかれるとき、雹の災いをもたらされています。「モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。主はエジプトの国に雹を降らせた。雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。雹はエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいるすべてのものを打ち、また野の草をみな打った。野の木もことごとく打ち砕いた。(9:23-25」とあります。同じような災いをもって、今、主は全世界をさばかれています。

 そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。

 エジプトに起こったように、地上にある植物がダメージを受けました。三分の一が焼け、青草は全部焼けてしまっています。

2C 海 8−9
 そして地上だけではなく、海上にもさばきが下ります。第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。

 大きな山」とありますが、実際の大きな山ではありません。「大きな山のようなものが」とありますが、実際の山ではないようです。火で燃えているのですから、火のかたまりだったのでしょうか、分からないですが、それが海に投げ込まれています。

 そして海の三分の一が血となった。

 覚えていますか、エジプトに下った十の災いで、第一の災いは、ナイル川が血になるというものでした。ここでは海全体の三分の一が血となりました。

 すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。

 地上へのさばきでは、植物の生命体が滅ぼされましたが、ここでは海洋生物が滅ぼされています。また、海上の舟も三分の一が滅ぼされています。

3C 川 10−11
 植物がなくなり、海も汚され、これだ地上にいる人々へのダメージはかなり大きいですが、次の災いもまた、究極の苦しみを与えます。

 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。

 第三の御使いによるラッパは、「たいまつのように燃えている大きな星」がもたらされました。これは、天使が「星」と呼ばれることがたくさんありますが、ここでは、文字通りの星でしょう。

 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。

 苦いよもぎ」とありますが、これは実際にある植物の名前です。ネットで調べたら、紹介サイトがありました。そこにこう書いてあります。「ヨモギに似ていますが、葉がヨモギよりも細く、白っぽい感じで、7〜8月に黄色い小さな花をつけます。・・・現在では多くの国で、製造販売が禁止されています。理由は、ニガヨモギの精油成分が神経系に作用して精神障害をおこす危険があるからだそうです。・・・ニガヨモギに含まれるツヨン(thujone)という物質がマリファナの有効成分のTHC(tetrahydorocannabinol)に似た化学構造を持っていて、人々を常習、幻覚、錯乱、痙攣、更には狂気や自殺に駆り立てるそうです。」人を狂わせ、死なせるような要素を持っています。そしてエレミヤ書には、実際に苦よもぎによる神のさばきが書かれています。「それゆえ、万軍の主は、預言者たちについて、こう仰せられる。『見よ。わたしは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。汚れがエルサレムの預言者たちから出て、この全土に広がったからだ。』(23:15」同じように今、苦よもぎによる毒の水で、多くの者が死にました。

 こうして、地上の植物の生命体、海中の生命体、それから飲料水の三分の一が、破壊されてしまいました。

4C 天 12
 さらに災いが続きます。第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。

 第六の封印が解かれたとき、太陽が黒くなり、月が赤くなる災いがありましたが、ここでも光が失われる災いです。前回は、おそらくは天からの星が地上に落ちたことによって、土地のちりが舞い上がることによる現象であったように思われますが、ここでは実際に、太陽と月と星の光源が三分の一に低下しています。

 主の日は、「暗黒の日」と呼ばれています。先ほど引用したヨエル書にも、主の日は暗黒の日であると書かれていました。エジプトに災いがくだったとき、九つ目の災いが暗やみでしたが、同じように主は終わりの日も、暗やみによってさばかれます。

 そして興味深いことに、イエスさまは地獄のことをお語りになったとき、「外の暗やみ」と呼ばれていたことを思い出してください。外の暗やみで歯ぎしりすると主は言われました。ですから、暗やみは神のさばきなのです。実際、アメリカで鍾乳洞の中に入ったとき、途中でガイドさんが、そこの電気を消しました。真っ暗で、自分にマシュマロがまとわりついているかのように、その暗さにまとわりつかれているような感触を受けました。ガイドさんは、何日間かこの状態でいると、人は錯乱するそうです。

2B なお三つのわざわい 13
 そしてなお三つのわざわいがあり、それらは9章以降で学びますが、この残りの三つのわざわいがいかにひどいかを予告する存在を次に読みます。

 また私は見た。一羽のわしが中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」

 「一羽のわし」とありますが、聖書の本文であるギリシヤ語の写本には、ここに書かれてあることが少し変わってきます。「わし」と「御使い」のギリシヤ語が似ているそうです。ですから、「一人の御使い」と訳してある聖書もあります。いずれにしても、天にいる霊的存在であることには間違いありません。

 「わざわいが来る」と三回叫んでいるのには、意味があります。あと三人の御使いが、ラッパを吹き鳴らしていないからです。残りの三つの災いが、初めの四つの災いよりも、なおさらにひどいので、一羽のわしが、「わざわいなるかな、わざわいなるかな、わざわいなるかな」と叫んでいるのです。

 この「わざわい」という言葉は、旧約聖書の中で何回か使われています。「忌まわしい」とも訳されていますが、「あなたはこのすべての悪行の後・・ああ。わざわいがあなたに来る。神である主の御告げ。(エゼキエル書16:23」とエゼキエル書に書かれています。そして、イエスさまご自身がこの言葉をお使いになったのをご存知でしょうか?マタイ23章にて、イエスさまは律法学者とパリサイ人に対して、「忌まわしいものだ」と八度、宣告されました。聞くにもおぞましい、恐ろしいことがあなたがたにくだる、ということです。そして9章は、あまりにも恐ろしく、こんなことがあって良いものか、と思ってしまう災いです。

 このように、主イエス・キリストはヨハネに、大患難における殉教者たちのことを啓示されてから、地上に残されている者たちに対する、激しい災いについてお語りになりました。神のさばきは、ノアの箱舟とか、ソドムとゴモラ、エジプトに対するもののような過去のものではなく、これからも、似たような現象をもって、地上に残されている者たちに襲ってきます。

 けれども、過去はそうだったのかもしれないが、今は同じようなことが起こるわけはない。今は科学万能の時であり、そうした宗教的神話は受け入れない、と言う人たちがたくさんいるでしょう。けれどもペテロはそのことをすでに知っており、終わりの日に起こることをこう言いました。「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。(ペテロの手紙第二3:3-7」昔がそうであったのだから、今もそうなのです。海水が血になり、火の混じった雹が降ってきて、飲み水が血になります。太陽も暗くなり、エジプト人がかつて味わった苦しみを再び味わうようになるのです。

 だからこそ、主イエス・キリストが十字架にかかって死に、三日目によみがえってくださいました。御子が来られたのは、世がさばかれるためではなく、世が救われるためであると書かれています(ヨハネ3:17)。主は、私たちがこのような神の怒りにあわないように、救い出してくださるのです。地獄も同じです。外の暗やみで歯ぎしりすることを主は望んでおらず、すべての人が悔い改めに導かれることを望まれています(2ペテロ3:9)。すでに救いを得ている人は、福音が、これら神の怒りから救われるための力であることを知る必要があるでしょう。地獄はあり、大患難はやって来ます。そこからの救いを宣べ伝えましょう。


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