恵みと行ない 2001/02/06
「もし恵みによるのでなければ、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなるでしょう。」(ローマ11:6)
パウロは、はっきりと「恵み」と「行ない」が反対語であることを、上の個所にて表明しています。私たちが何らかの行ないをしたから、神が私たちを「恵んでくださる」と言うことは、上の定義によるとできないのです。神がキリストにあって、私たちのためにしてくださったこと、これを受けるにまったく値しない私たちが受け取ることができる、― これが恵みです。
けれども、「恵みのみ」「信仰のみ」ということが、「何の行ないもしない」「努力もしない」ということになるのでしょうか?決してそんなことはありません。信仰による義を前面に打ち出した、あのパウロが、次のような興味深い発言をしています。
「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。(コリント第一15:10)」
恵みを知ったからこそ、多くの働き(行ない)をした。そして、それは神の恵みである、と言っています。つまり、言いかえると、恵みは必ず良い行ないの実を結ばせるのです。けれども、それは私たちが結ばせるのではありません。実はあくまでも実であり、神が成長させてくださらないかぎり、私たちのほうでは何もできないのです。
それでは、どのようにして実が結ばれるのでしょうか。それは、信仰によって、御霊が結ばせてくださいます。ガラテヤ書5章において、肉の「行ない」と対比して、「聖霊の実」の定義がなされています。聖霊の実は愛であり、愛の特質や特徴が、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、自制です。私たちはこれらの性質を、自分たちで作り出すことは決してできません。私たちのうちは、邪悪で汚れており、何一つ善いものがない、と聖書で書かれているとおりです。しかし、キリストが私のために十字架につけられた、そして、キリストとともに私が十字架にすでにつけられた、― このことを信じるとき、御霊が私たちのうちで働いてくださるのです。
私たちが、「自分で何々をしよう…」と思っている間は、肉の原理が私たちのうちに働き、何も行なうことができません。しかし、神がすでにキリストにおいてしてくださったことを、信仰をもって受けとめるとき、自分の前におられるのは御霊であることに気づきます。御霊が私を導いてくださり、私がその声に聞き従っているときに、振り返ってみると、「実」が結ばれていることに気づきます。
もうそこでは、「自分がこのようなことをした。」と誇れる余地は、まったく残されていません。「うわっ、すごい!神さまが、すべてしてくださったのだ!」という賛美のみが湧き出ます。自分にはできないことを、神がキリストにおいてしてくださいました。こんなにすばらしく、おいしい話しはありません、だから「福音(良き知らせ)」なのです。
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