慎み深く生きる 2001/10/02
私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。ローマ人への手紙12:3
先日、ある方から、1テサロニケ5章6節に出てくる、「慎み深くして」いるとは、どういうことなのか、という質問を受けました。これはとても良い質問で、クリスチャンの霊的生活にとって大切な要素です。
パウロがローマ12章において、「慎み深い考え方をしなさい」と言っているその背景には、「信仰の量り」があります。それは自分が造りだしたものではなく、神ご自身が分け与えられた信仰であるとしています。そして、パウロは、「自分に与えられた恵みによって」と述べています。
私たちが教会生活を営んでいるときに、自分は何を行なったらよいのかと悩みます。教会の掃除をすることか、献金集めの奉仕をすることか、あるいは伝道活動のミーティングに参加することかなどなど、いろいろな役割や活動内容が考えられます。とにかく与えられたものは神からのものであるから、それをこなそう、そしてその活動を神が祝福してくださるように祈ろう、という発想になります。
けれども、この出発点が「自分は何を行なったらよいのか」であるところで、間違っています。パウロは、「自分に与えられた恵みによって、あなたがたに言います。」と言いました。神の恵みによって、パウロはローマの信者たちに勧めをしているのであり、これがなかったら勧めを懇願もしないという立場でありました。神の恵みとは、神が私たちのために行なってくださったことです。受けるに値しない霊的祝福を、キリストにあって受けるようにしてくださった、神のご好意です。すべては神から始まります。私たちが一旦、自分が教会で何をすべきかという発想を捨てて、神が自分のために何をしてくださったのか、という恵みの確認をする必要があります。
そこには、私たちが何かを行なう余地は残されていません。ただ、「神が行なってくださったことを受け入れ、信じる」ことしかできません。つまり、自分の行ないではなく、信仰によって生きるのです。
こうして、私たちはただ、キリストにある神の恵みの中に浴し、キリストをあがめ、神に感謝する生活を送っていけば良いのですが、自分でも気づかぬうちに、何かを行なっています。祈りや礼拝、聖書を読むことはもちろんのこと、「これは、自分がクリスチャンとして、信仰をもって生きるためには当然、行なわなければならないことだ。」という意識があります。そして、それは時に、他の人たちには見えずに、自分だけが見えている分野であったりします。例えば、「あのたむろしている若者たちに、ぜひ福音を伝えたいな。教会に来てもらえないかな。」と当たり前のように思っている人がいます。けれども、「なかなかうまくいかない。」「教会に来てもらうのは至難の業だろう。」など、重荷に感じる人たちがほとんどであったりします。実は、その思いは、自分自身ではクリスチャンとして、しなければならない当然のことであると思っているのですが、それは自分に与えられている、神からの信仰の量りなのです。
「自分にも言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。(ルカ17:10)」とイエスさまはおっしゃられました。自分が何かを行なったことによって、見返りを期待しているのでは、それは自分の行ないであって、信仰の量りではないでしょう。けれども、人から「すごいねえ、こんなことしているの?」と聞かれて、自分自身その時に始めて気づくほど、自分が行なっていると意識していなければ、それは、神の恵みによって、信仰の量りにしたがって行なっていたことなのです。
このときに、その人は、自分が神からこのような使命が与えられていて、このような賜物が与えられていることに気づきます。大抵、神からそのように語られている人は、何とかして他の人たちに、その必要性を説いて、他の人たちにやってもらおうとします。ある人は、車椅子で路傍伝道をしている男の人を見て、「この人に、ふさわしい助け手が与えられますように。」と祈っていたら、主は、「あなたが、その助け手である。」と語られたそうです。
このように、神が自分に与えられた使命を知ると、今度は、それを淡々と行なうことに集中できます。それが、ローマ12章の続きに出てくる、賜物の説明です。「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。(ローマ人への手紙12:6-8)」「〜であれば、何々しなさい。」という勧めであり、これは与えられた任務を、黙々とこなしていく官僚のような響きすらあります。神から任されたものを、忠実にこなしていく姿勢です。だれだれが、どの賜物を持っているというような幼い議論は、ここには入る余地がありません。それぞれが、ただキリストを愛し、主に仕え、喜んでいることでいっぱいであり、その奉仕の中で、主を自然に賛美し、礼拝している意識であります。
このようにして、教会の奉仕は前進します。自分が何をするか、という自問ではなく、神が自分にこのようなことを任されているという自認です。このことがなくなると、教会はその存在目的を失ってしまいます。コロサイにあった教会のように、何らかの活動を推進しようとするあまりに、人間の哲学を取り入れてしまったり、人のしきたり、幻を見たなどの神秘主義、「〜をしてはいけない」という律法主義に陥ってしまいます。これが、パウロがローマ12章で戒めている、「思い上がってはいけません」という戒めなのです。
ですから、神の恵みがあり、信仰があります。その中で、「御霊の現われ」があります。主が自分のうちに生きておられ、その愛の中で憩うだけでなく、自分をとおして、自分の周りで、キリストの御霊に触れられる人々が出てきます。聖霊が内に住まわれるだけでなく、外側に流れ出て、人々を潤します。これが、「聖霊のバプテスマ」と呼ばれているものです。聖霊のバプテスマや、聖霊の満たしは、私たちが何らかのパフォーマンス(行為)を行なって得られるものではなく、信仰をもって祈り求める中で与えられるものです。
こうして、神は、私たち一人一人に、任されている領域があります。そして、神はその地境を広げたいと願われています。自分を通して、ご自分の実を結ばせるだけでなく、多く結ばせ、豊かに結ばせたいと願われているのです。それが、あの有名なヤベツの祈りです。
「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。(1歴代誌4:10)」
これは自分が広げるものではなく、あくまでも神が広げてくださるものなのです。自分が戸を開くのではなく、神が開いてくださるのを祈るのです。これは使徒パウロの祈りでもありました。
「私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。(コロサイ人への手紙4:3)」
このようにして、地境は広げられ、御霊の現われがますます見えてくるようになります。
パウロが、「慎み深い考え方をしなさい」ということは、こういうことです。自分からことさらに、何かを行なおうとする試みを捨てること。むしろ、神がキリストにあって、自分のためにしてくださったことを受け入れ、信じること。その恵みの中に生き、信仰によって与えられた確信と導きの中で生きること。主がその奉仕をさらに祝福し、地境を広げてくださるように祈ることであります。
終わりが近い今、私たちはますます、慎み深く生きていく必要があります(1テサロニケ5:6,8)。
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