ローマ人への手紙13章 「クリスチャンの社会生活」
アウトライン
1A 政府に対して 1−7
1B 従う 1−5
2B 義務を果たす 6−7
2A 隣人に対して − 自分自身のように愛する 8−10
3A 自分に対して 11−14
1B 目をさます 11
2B 光の武具を着ける 12−14
本文
ローマ人への手紙13章を開いてください。ここでのテーマは、「クリスチャンの社会生活」です。私たちは先週から、クリスチャンの実際的な生活について学び始めています。12章の初めには、「自分のからだを、生ける供え物として、神にささげなさい。」というパウロのお願いから始まりました。そして、彼は、教会の中において互いに愛していかなければいけないことを勧め、12章の最後は、悪を行なう者に対して悪で報いず、かえって善を行ないなさい、という勧めで終わりました。それは、神は、悪を行なう者に対して復讐を行なってくださるからです。そこで13章に入るのですが、パウロは、神が、悪を処罰するための権威を人間に与えておられることを教え始めます。私たちが住んでいるこの世は、きまりごとに則って生きている人間の集団であります。それを普通、私たちは「社会」と呼んでいます。神は、この社会に対して働きかけ、支配されており、主権を持っておられます。ですから、神を信じているクリスチャンは、個人生活や教会生活だけではなく、社会においても果たすべき責任を持っています。そこで、今日は、クリスチャンの社会生活について考えて行くことができます。
1A 政府に対して 1−7
1B 従う 1−5
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
上に立つ権威とは、政府など法律を持ち、それを執行している機関と言いかえることができます。パウロは、これらはすべて神に立てられている、と言っています。つまり、神は、私たちの心の中だけではなく、また教会の中だけでもなく、社会に対しても生きて、働いておられることを知ることができます。世界の中で、歴史の中で、信者ではない人をも用いられて、あらゆることを行なっておられます。クリスチャンが、神に自分をおささげした生活であることを12章で学びましたが、それは、プライベートな生活や教会生活だけではなく、社会に対しても責任を持って行動しなければならないことが分かります。したがって、私たちクリスチャンは、自分のことだけではなく、周囲のことにも目を留めなければいけません。この社会は、神のみことばに照らすと、どのようになっているのか注意して見ていかなければならないのです。
そこで、パウロは、「従いなさい」という勧めをしています。上に立つ権威は神によって立てられたのであるから、あなたがたは従いなさい、と言っています。私たちには、法律をはじめ、さまざまな決まり事が与えられています。それらに従って生きることが、クリスチャンとしての務めです。私たちは、神の恵みによって、信仰によって救われた者ですが、「恵みの下にいるのだから、決まり事から自由にされている。」ということでは決してありません。社会のルールに従うことは決して律法主義ではないし、逆に、ルール違反をすることに対して、決して言い訳をすることはできません。教会は、社会の中に住んでいる人々が集まっています。したがって、法律はもちろんのこと、社会の基本的ルールにも従わなければいけません。例えば、教会の集会があるときは、極力、時間通りに来る。他のクリスチャンから借りたものは、きちんと返却する。会計は献金をしている人には公開するなど、いろいろ挙げられます。そして、そのようなルールの下で生きている中において、私たちは神の恵みを知ることができます。キリストにある愛を互いに示していくことができます。
けれども、もちろん、この世は完全ではなく、むしろ、全世界は悪い者の支配下にあると、使徒ヨハネは教えています(Tヨハネ5:19)。したがって、社会の中にある決まり事や、国の法律の中には、神が立てられたおきてに違反することがあります。信仰者の良心に違反するのです。そのようなときは、人の決まり事よりも、神のおきてに従うべきです。聖書の中には、いくつか、そのような例を見ることができます。出エジプト記1章において、エジプトの王パロは、ヘブル人の男子の初子を、産まれてきたときに殺してしまいなさいという命令を助産婦に対して出しました。けれども、それは、神のみがいのちを与え取ることができるおきてに違反します。また、神がイスラエルを祝福されるというみこころを汚すものです。ですから、助産婦はその命令に背きました。ダニエルとその三人の友人のことを思い出してください。彼らは、バビロン政府の中で勤勉に働く政府要人でありました。けれども、ネブカデネザル王が、全身金の像の前でひれ伏しなさい、という命令を出しました。これは、偶像を拝んではならないという、神のおきてに違反する命令です。そこで、ヘブル人の三人は、公然とその命令に背きました。新約聖書においてもそうです。神殿において、ペテロとヨハネは、「イエスの名によって語ってはならない。」と命じられましたが、主イエスは、「全世界に福音を宣べ伝えなさい。」と命じられました。ですから、ペテロは、「神に従うことと、人に従うことでは、どちらが正しいと思いますか。」と言って、彼らはみことばを語りつづけたのです。
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
法律に違反したものは、当然のことながら処罰を受けます。
支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。
法律を遵守すれば、その人は良心的な市民であるとほめられます。
それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。
国には、その人の命を取る強制力まで持っています。刑務所に入ること、また死刑になることさえもあります。このように権力と言うのは、恐ろしい存在でもありますが、ただ「恐いから」というだけで権力に従うのではないことを、パウロは次に話します。
ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。
良心に従うべきである、とパウロは言っています。良心は、私たちクリスチャンにとって、とても大切な要素になります。14章において、この良心の大切さについてパウロが語っており、「疑いながら食べる者は、罪に定められます。」とまで言っています。それは、信仰によって歩むことは、まさに良心に従うことであるからです。ですから、私たちは、「法律を破ったら、牢屋に入れられてしまう。」と思うから法律を守るのではなくて、神さまにお従いするために法律を守らなければいけません。
2B 義務を果たす 6−7
このように、私たちは政府がつくったおきてに従わなければならないことを学びましたが、次は、政府に課せられた義務を話すことについて学びます。同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。
納税の義務を果たさなければいけないと、パウロは言っています。これは実に明解でありますが、私たちは政府が税の使い道を誤っているのを見て、「なんで、こんなに税を払わなければいけないのか!」と怒ってしまいます。けれども、パウロがこの手紙を書いていたときのローマ帝国は、日本に負けず劣らず腐敗していたことを知らなければいけません。たとえ、腐敗した政府であっても、私たちは神に従うゆえに、法を守り、税金を納めるのです。
2A 隣人に対して − 自分自身のように愛する 8−10
こうして、社会的な責任として、政府に対してその義務を果たすべきであることが分かりました。パウロは次に、国などの公の機関だけではなく、周囲にいる人々に対して私たちが責任を持っていることについて語り始めます。
だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
パウロは、納税のことを話したので、お金を借りることについて語っています。「何の借りもあってはいけません。」と言っています。これは、借金をいっさいしてはいけません、と言うことではありません。期日までに借金を返済しなければいけないことを意味しています。光熱費や家賃など、私たちは支払うべき日にまで払わなければいけません。もし払うことができないなら、例外はあるかもしれませんが、その人は使いすぎているのであり、神に与えられた財産をきちんと管理していないことになります。
そしてパウロは、「互いに愛し合うことについては別です。」と言っています。私たちは他の人を愛することにおいては、借りがある、つまり義務がある、ということです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。
モーセをとおして与えられた律法があります。その代表が十戒であり、その他にもさまざまなおきてがありました。けれども、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という律法の中に要約されます。イエスさまご自身がこのことを語られました。律法の中でもっとも大切な戒めは、「主なる神を愛する」ことと、「自分自身のように隣人を愛する」ことであると言われました。
愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
もし、隣人を愛しているなら、その人の妻と姦淫の関係に入りません。もちろん殺しません。その人のことを愛しているなら、盗むこともしません。むさぼりもしないのですが、その人を愛していれば、たくさんある律法をすべて守っているのです。だから、愛によって律法を全うしているとパウロは言っているのです。
3A 自分に対して 11−14
このように、パウロは、この社会の中で生きていくに当たって、果たさなければいけない責任について話しました。政府に対しては、従うこと。また自分の周囲にいる人々に対しては、愛すること、という原則があります。けれども、このことから、この社会が神が喜ばれるように動いているか、というと、そうではありません。むしろ、この世は、悪い者の支配下にあり、ますます悪がはびこっています。このような世界の中にいて、私たちが、国の命じることに従うことは、不公平であるように聞こえます。悪いことをしている人々をさえ愛して、良いことを行なっていくのは、神の正義にはかなわないのではないか、と感じてしまいます。
けれども、私たちは12章の最後で、「復讐は、わたしのすることである。」というみことばを聞きました。神は、この世の悪について、必ずさばきを行なってくださいます。事実、聖書には、定められた時に、神の怒りが下った話に満ちています。ノアの時代のときの大洪水、ソドムとゴモラの町に火と硫黄が降りました。カナン人は邪悪な行ないをしていましたが、神はイスラエルを送られて、彼らをさばくようになさいました。けれども、反対にイスラエルが神に背くようになったら、神はアッシリヤやバビロンを送られて、イスラエルをさばかれました。神は、復讐する方であり、悪に対して制裁を加えてくださる方なのです。したがって、私たちクリスチャンは、神さまの正義について考えるときに、つねに、そのさばきの時のことを考えなければいけません。旧約でも新約でも、「主の日」という言葉がたくさん出てきます。主の日とは、日曜日のことではなく、そのほとんどが、神の怒りが地上に下る日として、また、神の怒りが下ったあとに訪れる、正義と平和に満ちた時代、御国の時代のことを語っています。パウロが次から語るのは、そのような時のことです。私たちは、このような悪の時代から救い出されて、主がおられる天に引き上げられる時を待っています。この世においては不正や悪がはびこるのですが、私たちはこの時のことを思って、日々を歩まなければいけません。この救いの時について、パウロが次から語り始めます。
1B 目をさます 11
あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
パウロは、「救いは近づいている」と話しています。主イエスが戻って来てくだるときは近い、ということです。聖書は、教会が、どのような時代にあっても、主が今にでも戻って来られることを期待するように求めています。使徒行伝1章において、イエスさまが昇天されるまえに、弟子たちがイエスさまに、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。(1:6)」と聞きました。今すぐにでも、主が神の国を地上に立ててくださることを期待していました。主は彼らの期待を否定されずに、「それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」と答えられました。テサロニケにいる信者たちは、主がすぐにでも来られると思っていたので、先に死んでしまった人々が、主にお会いする機会を失ってしまったと思って、悲しんでいました。そこでパウロは、そのような死者がまずよみがえって、それから生きている私たちが変えられて、主と空中で会うことになる、と言って彼らを慰めました。このように、クリスチャンたちは、主が来られるのが近いと思わなければいけないことを教えています。
パウロは、「今がどのような時か知っているのです」と言っています。今の時代がどのような時であるのか、私たちは知らなければいけません。主が初めに地上に来られたときに、パリサイ人や律法学者は、自分たちが生きている時代がどのような時なのかを知りませんでした。そこでイエスさまは、こう言われました。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる。』と言うし、朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ。』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。(マタイ16:2-3)」ダニエル書9章には、メシヤが来られるときが、エルサレムの城壁を再建せよという命令が出てから、483年後であることが預言されています。彼らが生きていたのは、ちょうど、約480年のことでした。また、メシヤが来られることについての預言が数多くあり、イエスさまを通して、それらの預言が次々に成就していきました。今は、メシヤが来られた時代なのに、それを見分けることはできないのですか、と言っています。同じように、イエスさまが再び来られるときの前兆について、旧約・新約両方の聖書において、預言されています。私たちは、これらの預言から、今、この世で起こっていることは、主が再臨されることの前兆であることを知ることができるし、また知らなければならないのです。
そして、パウロは、「あなたがたが眠りからさめるべき時刻が近づいているのです。」と言いました。主が来られるときには、教会は眠ってしまっている、と預言されています。主イエスご自身が、花婿を迎える10人の娘のたとえを使って、教会が眠っていることをお話しになりました。これは霊的に眠っていることです。自分の周りで、自分が生きている社会の中で、いろいろなことが起こっているのに、それらに目を留めようとはせず、今の生活に基本的に満足してしまっているような状態のことを話しています。イエスさまは、ラオデキヤの教会に言われました。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。(黙示3:17-18)」私たちも、今、現実に何が起こっているのかを見極め、満足してしまっているような状態から目覚める必要があるのです。
2B 光の武具を着ける 12−14
そしてパウロは12節ですが、夜はふけて、昼が近づきました。と言っています。
夜がふける、というのは、暗やみのわざが行なわれている、ということです。悪や不法がはびこり、人々は自暴自棄になり、混乱している状態のことです。けれども、夜がふけているからこそ、昼が近づいている、とパウロは言っています。ここが、私たちクリスチャンが理解しなければいけない、大切な真理です。夜が一番暗くなるときは、夜明け前であると言われています。2時とか3時のときですね。日が出てくる直前が、もっとも暗くなるときなのです。ですから、私たちが、この世に生きているときに、もっとも希望が持てないような状況、がっかりしてしまうような状況にいるときにこそ、大いなる希望が近づいていることを知ることができるのです。神の正義に照らしたら、私たちの周りではとんでもないことが次々と起こっています。私たちの伝道も、そのような悪い行ないによってかき消されてしまうような感じを受けます。けれども、それはむしろ、主が再び来られる時が近づいていることを示しているのです。この世は徐々に、良い方向に向かっていく、というシナリオは聖書には書かれていません。むしろ、徐々に悪い方向に向かい、破滅へと向かっているときに、突如として、半ば暴力的に主が介入されて、一気に回復させてしまう、というシナリオになっています。だから、私たちは、昼が近づいている、と期待することができるのです。
このような状況をふまえて、パウロは、私たち自身に対して果たさなければいけない責任について話し始めます。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
私たちはこれまで、この社会の中に生きていて、政府に対する責任、隣人に対する責任について学びましたが、ここでは、この社会に生きているときの、私たち自身に対する責任、個人の責任について語られています。それは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けることです。エペソ書6章にも書いてありますね。私たちは神の武具を身に着けなければいけない。真理の帯を締めて、正義の胸当てを着けて、救いのかぶとをかぶります。平和の福音の備えのはきものをはき、信仰の盾を取って、みことばの矢を放ちます。このように、私たちは、キリストの兵士として生きることが勧められているのです。私たちは信仰の戦いをしています。
この世は、パーティーをする、酔っ払うことで、気を晴らそうとします。しかし、私たちは、そのような行ないに加わってはいけません。淫乱、好色がはびこる世になっていますが、これらからも離れなければいけません。さらに、争いとねたみからも無縁の生活をしなければいけません。そして、主イエス・キリストを身に着けるのです。私たちが、これらの戦いを行なうのではなく、私たちが主によりすがって生きることによって戦うのです。私たちのうちには、何もよいものがありません。けれども、キリストにあって、私たちは完全にされています。この方を見上げて、この方の名を呼び求めて、イエスの御名によってすべてのことを行ない、イエスさまにあって休憩します。すべてはキリストであり、キリスト・イエスを私たちは身につけるのです。そして、肉の欲を働かせる機会をつくってはいけません。私たちが、いやらしい思い、苦々しいことが心から出てきたとき、すぐに主のところに行って、主に洗い清めていただく必要があります。私たちに欲はあるのですが、その欲が孕むようなことがないように、注意していなければならないのです。
このように私たちは、自分たちが社会の中に住んでいることを知ることができました。社会に対して無関心ではなく、政府に対しても、隣人に対しても、また自分自身に対して責任を負っていることを知ることができました。私たちが目をさますときが来ています。どうか、そのことが分かるように、神さまにお祈りしたいと思います。
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