ローマ人への手紙15章 「クリスチャンの一致


アウトライン

1A キリストにならって 1−13
   1B 内容 − 自分を喜ばせない 1−7
   2B 目的 − 神の栄光 8−13
2A 異邦人の使徒として 14−27
   1B 神に受け入れられる供え物 14−21
   2B エルサレムの聖徒たちへの醵金 22−33

本文

 ローマ人への手紙15章をお開きください。ここでのテーマは、「クリスチャンの一致」です。

1A キリストにならって 1−13
1B 内容 − 自分を喜ばせない 1−7
 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。

 
「自分を喜ばせるべきではありません。」という勧めです。私たちは前回、
14章において兄弟を受け入れなければいけないことについて学びました。私たちには、神がおのおのの与えてくださった信仰があるのですが、それは、具体的な生活の事柄において必ずしも同じでないときがあります。けれども、その違いによって、その兄弟を交わりから締め出すようなことをしてはならないことを学んでいます。パウロは14章において、「兄弟をさばいてはいけません。」と言いました。また、「兄弟につまずきとなるようなものを、その前に置かないないように決心しなさい。」とも勧めました。そして、15章においては、兄弟を受け入れるために、「自分を喜ばせるべきではありません。」とパウロは勧めています。

 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

 
パウロは、自分を喜ばせるのではなく、隣人を喜ばしなさい、と言っています。それは、その徳を高めること、益になるようなことを求めることであります。自分を喜ばせるとか、隣人を喜ばせるというののは、私たちの心の動機についてのことを話しています。私たちが、自分が満たされるために、自分の心理的な必要、精神的な必要が満たされるために何かを行なうのであれば、自分を喜ばしていることになります。反対に、相手の必要が満たされるためにはどうすればよいかを考えて、何かを話したり行なったりすることは、隣人を喜ばせていることになります。


 教会に来るのは、自分の必要が満たされるためであると考える人たちが多いです。教会は、日々のクリスチャン生活を歩むうえでの原動力であり、そこで力を得て、新たにされて、個々の場所に遣わされる、と考えます。このこと自体は大切なことですが、教会において霊的な祝福を受けることは、副産物でしかありません。私たちはローマ書12章で学びました。私たちは、生ける供え物として、自分のからだを神にささげなければならないという教えを学びました。私たちは、神に必要を満たしてもらうために礼拝に集うのではなく、むしろ、神に仕えるために、神に自分の身をささげるためにこの場に集っています。自分自身を神にささげている人に、神は必要を十分に満たしてくださいますが、それが目的なのではありません。そこで、この神を礼拝している私たちは、自ずと他者に対しても、相手に与えようとして接し始めます。自分が言いたいこと、やりたいことを行なおうと思って他の人と接するのではありません。逆に、他の人が何を言いたいのか、また何を求めているのかを聞いて、相手の徳になるようなことを行なったり、発言しようと求めるわけです。私たちクリスチャンの交わりは、このように、自分ではなく隣人を喜ばせたいという動機によって成り立つのです。

 そして、キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。とパウロは言っています。

 私たちが自分を喜ばせない歩みをするときに、ならうべき模範がいます。私たちの主イエス・キリストです。イエスさまは正しい方でありながら、私たちが受けるべきそしりを代わりに受けられました。もしイエスさまがご自分の精神的必要を満たしたいと願われるなら、十字架につけられる前の、またつけられたときに受けたののしりを、決して黙って聞いておられたりはしませんでした。ですから、私たちが自分を喜ばせないためにはどうすればよいか分からないときは、キリストを見上げれば良いのです。


 今、パウロがキリスト預言として詩篇69篇9節を引用しました。そこでパウロは、次のように言います。昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

 ここで言っている「聖書」とは、旧約聖書のことです。パウロの時代に生きる聖徒たちにとっても、私たちと同じように旧約聖書は過去の出来事でした。けれども、そこに出て来る物語を読みますと、私たちは、自分たちが通っている状況を考えずして読むことはできません。聖書の登場人物たちは、神から輝かしい約束を知らされました。けれども、それを受け取るまでには忍耐が必要でした。神の約束は必ずそのとおりになるのですが、その反面、私たちが期待するようにはすぐに実現されないのです。ですから、彼らは忍耐しました。このような彼らの生き方を見ると、今、私たちは慰められます。忍耐しているのは、何も自分たちだけではないことを知ります。


 そこで、パウロは「励まし」と言っています。ここでのギリシヤ語は「パラクレーシス」であり、聖霊を表す「パラクレートス」と同じ言葉から来ています。そばにいて助けてくれる、という意味です。私たちは忍耐していると、心は疲れてきます。けれども、自分のそばにいて、「がんばって!」と励ましてくれる人、また、「あともう少しだ」と言って目標を思い起こさせてくれる人がいたらどうでしょうか。私たちは、その人の存在によってさらに前進することができるのです。私たちが日々の歩みをするゆえで、この励まし、あるいは慰めを決して欠くことはできません。だから、私たち信徒は、集まるのです。ヘブル書には、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(10:25」と書いてあるのです。

 神の約束は遅いように見えるのですが、この世が与える約束とは異なり、必ず実現するものです。ですから、私たちに希望を与えてくれます。神の約束がことごとく実現するのを、私たちは聖書の中で発見します。過去にこのようなことが起こったのだから、これからも必ず起こると希望を持つことができるのです。まだ成就していない預言はたくさんありますが、また、自分の個人生活に実現していない神のみことばがあるかもしれませんが、それらも必ず将来、実現するのです。ですから、聖書をこのようにして学ぶのは欠かすことはできません。この学びによって、私たちは忍耐と励ましが与えられ、また希望を抱くことができるのです。

 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。

 パウロは、話しを自分を喜ばせないことに戻しています。私たちが自分を喜ばせないで、互いに忍び合うとき、また、その人のそばにいて励ましてあげなければいけません。そして、忍耐と励ましの真中に神がおられて、私たちは主イエスさまにふさわしく、互いに同じ思いを持つことができるようになります。同じ思いというのは、馬が合う人たちが集まることではなく、福音伝道のやり方が似ているもの同士が集まるのでもなく、お互いに忍耐を働かせて、励まし合うときに、私たちは同じ思いを持つことができるのです。私と同じ思いをもっていてくださる方を自分で思い起こしてみると、それは、自分の欠点や弱さをも我慢して、愛をもって見守ってくださった方々であります。自分と同じ考えを持っていると思って、「じゃあ、いっしょにミニストリーをしようよ!」と意気投合した人とは、いま誰一人、深い交わりを持つことはできていません。そうではなく、私が弱まっているときに、ともにいて祈ってくださり、喜んでいるときにはともに喜んでくれてくださる方です。そして神は、私たちがそのように、忍耐と励ましによって同じ思いを持つように願われています。


 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。

 互いに思いを一つにすることによって、私たちは神に栄光を帰すことができます。もし自分がしたいことだけをやって、自分が言いたいことだけを言っていたら、だれが注目を集めるでしょうか。自分です。自分に栄光が行きます。けれども、心を一つにしているときは、私たちではなく主イエス・キリストが、そして父なる神がほめたたえられるのです。ですから、私たちが互いに受け入れるというのは、その人を愛しているということだけではなく、自分がへりくだって神に栄光を帰すことでもあります。


2B 目的 − 神の栄光 8−13
 そこでパウロは、ふたたびキリストのみわざに触れます。イエス・キリストのみわざによって、ユダヤ人と異邦人が一つとなることができました。

 私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは先祖たちに与えられた約束を保証するためであり、また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。

 キリストが割礼ある者のしもべとなられた、とありますが、これはイエスさまがユダヤ人となられたということであります。それゆえ、先祖たちに与えられた約束は無効になったのではなく有効であり、イスラエルは約束の民であることが保証されたのです。その一方で、異邦人があわれみのゆえに、神をあがめるようになることができました。異邦人は、「キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。(エペソ
2:12」とパウロは言いました。ごく自然の成り行きでは、異邦人はこれら聖書の事柄とは無関係な者だったのです。けれども、イエスさまに近づいた、カナン人の女のことを思い出してください。彼女は、自分の娘から悪霊を追い出していただくように主にしきりにお願いしました。主はだまったままでおられました。そして、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない。」と言われたのです。イスラエル人に与えられた約束をないがしろにして、異邦人にそれを与えるのはよくない、と言われたのです。けれども、女は詰め寄ります。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」イエスさまはこの信仰をほめられて、娘を直してあげました。私たち異邦人がキリスト者となっているのは、まさにパンくずをいただいていることなのです。ただ神の一方的なあわれみのゆえに、私たちは救いに導かれました。

 そこで次にパウロは、異邦人が神のあわれみにあずかること、異邦人も神をあがめるようになることを聖書から立証します。こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」また、こうも言われています。「異邦人よ。主の民とともに喜べ。」さらにまた、「すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ。」さらにまた、イザヤがこう言っています。「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。」

 引用された聖書個所は、とても興味深いです。まずパウロが偉大な信仰者の預言から引用しているからです。一つ目の預言は、ダビデによるものでした。詩篇
18篇からです。もう一つはモーセからです。そして三つ目は他の詩篇の著者であり、四つ目が預言者イザヤによるものです。そして、順を追って、異邦人がどのように神の祝福にあずかっているか、その進展を見ると面白いです。一つ目は、ユダヤ人ダビデが、異邦人の中で神をほめたたえています。イスラエルの中だけではなく、異邦人に交わって神をほめたたえているのです。次に、今度は異邦人自身が喜ぶように命じられています。主の民とともに喜びなさい、とモーセは命じています。そして次に、喜ぶだけではなく、異邦人はほめたたえるように命じられています。そして、最後にイザヤは、メシヤが異邦人を治められることを話しています。こうして、異邦人は、イスラエルの民とともに神に望みをかけることができるのです。

 そこでパウロは次のように言います。どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

 
望みにあふれさせてくださいますように、とパウロは祝祷しています。望みをいただくと、それが実現する期待で私たちに喜びが満ちますね。また、実現するので将来への不安がなくなり平安で満ちます。ですから、すべての喜びと平和をもって満たされるのですが、さらに聖霊の御力によって私たちは、その望みがあふれでるようになるのです。望みに満ちるのではなく、あふれでます。これが聖霊のみわざです。私たちの心を満たすだけではなく、あふれ出させてくださるのです。


2A 異邦人の使徒として 14−27
 こうしてパウロは、キリストを模範として自分を喜ばせないこと、また神をほめたたえることについて教えました。次から、パウロは自分のことについて語り始めます。1章前半の話しに戻ります。彼は、異邦人を福音に従順にならせるための使徒として召されたことを語り、彼らに会おうとしたけれども、幾度も妨げられていたことを語りました。またローマに着いたら、彼らに霊的な賜物を分け与え、また彼らからも励ましを受けたいと話していました。その話しに戻ります。

1B 神に受け入れられる供え物 14−21
 私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。ただ私が所々、かなり大胆に書いたのは、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうためでした。

 
パウロは、ローマにいる信徒たちを「私の兄弟たちよ」と呼びかけています。使徒としてではなく、兄弟として彼らに語っています。さらに、「この私は確信しています」とありますね。パウロは、この手紙を長々と書いたのは、彼らがそれらのことについて無知であったからではなく、あるいは未熟であったからではなく、思い起こしてもらうためだったのです。知っていても、思い起こすことはとても大切です。パウロは、思い起こすことによって、善意にあふれ、知恵に満たされて、互いに訓戒することができる、と言っています。ただ頭の知識として持っているだけではなく、生活の具体的な場面で、自分の知っている教えを当てはめていくことができるようになります。訓戒、というのは、今の言葉で言うとカウンセリングのことです。クリスチャンが受けるべきカウンセリングは、聖書の教えを生活の中でどのように当てはめれば良いのかを知ることに他なりません。


 それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。

 まだ会ったこともない人に手紙を書いて、しかも、このような長い手紙になってしまいました。けれども、パウロは、異邦人を聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするために、祭司の務めを果たしている、と言っています。先ほど説明しましたように、異邦人が神への聖なる供え物になるということは、当時の世界ではとうてい考えられるものではありませんでした。ですから、パウロは、異邦人も神に受け入れられるという真理を弁明する必要があったのです。弁明するために、1章から
11章まで書いたのです。

 それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。


 パウロが誇っているのは、自分自身に対してではなく、異邦人がキリストに従うようになるという偉大な奥義を語ることができる特権に対してであります。私たちにとっても、福音伝道は恥ずかしいものではなく、むしろ大きな名誉ある務めです。


 キリストは、ことばと行ないにより、また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。

 
パウロをとおして、キリストは、しるしや不思議を行なわれましたし、また御霊の力によって多くの人々をご自分に引き寄せられました。

 その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。

 パウロは、今、この時点でコリントにいると考えられています。第三回目宣教旅行が終わりにさしかかり、これからエルサレムにいる兄弟たちに献金を持っていこう思っています。イルリコとうのは、ギリシヤの北上の別名ダルマテヤというところで、現在のアルバニアのあたりの地域です。パウロはコリントに来てからそこに行って、それから戻ってきてまたコリントにいるのでしょう。だから、イルリコが今の自分の記憶の中では新鮮であるに違いありません。そして、パウロは、「キリストの福音をくまなく伝えました」と言っています。くまなく伝えることが、彼の願いであり、大志でした。


 このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」

 彼は、すでに福音が十分に伝わっているところへは赴かず、まだ伝わっていない地域に行きました。他人の土台の上に建てないように宣べ伝えました。このパウロの姿勢は、多かれ少なかれクリスチャン一人一人が持つべき態度ですね。すでにクリスチャンになっている人ではなく、クリスチャンではない人たちに向かって広がろうとすること、また、すでに成熟したクリスチャンではなく、これから成長しようとしているクリスチャンに向かって広がることが大事です。もっと簡単に言えば、自分が行なっている奉仕によって、集まってくる人が少しでも神の国に近づき、あるいはキリストをもっと深く知っていくことができているかどうかが大事であります。


2B エルサレムの聖徒たちへの醵金 22−33
 そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを幾度も妨げられましたが、今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行くばあいは、あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので、・・というのは、途中あなたがたに会い、まず、しばらくの間あなたがたとともにいて心を満たされてから、あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです。・・

 
パウロは、今までローマに行けなかったことを釈明しています。まだ福音が伝えられていない地域に言って宣教活動を行なっていたので、忙しかったと言っています。けれども、小アジヤの地域、またギリシヤ・マケドニヤの地域には教会が建て上げられたので、ローマにも行くことができる時間が出来ました、と言っています。イスパニヤとはスペインのことです。スペインは、ローマ帝国の西端の地域でした。そこにも福音を宣べ伝えようと思っているのですが、その途中にローマに立ち寄り、あなたがたとともにいて心が満たされてから、送り出されてスペインに行きます、と言っています。


 ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。

 コリントにいるパウロは、そのまま西に向かってローマに行き、さらにスペインにも行こうと思えば行けました。けれども覚えていますか、使徒行伝において、パウロは、「エルサレムに行ってから、ローマも見なければいけない。」と言いました(
19:21)。異邦人に福音をくまなく伝えるのはパウロの使命でしたが、彼にはその他に大きな願いを持っていたのです。それが、エルサレムにいる聖徒に奉仕することです。

 教会はエルサレムから始まりました。そのとき、人々は自分たちの財産を売って、共同生活をしようと試みました。けれども、それは財政的に彼らを窮乏状態に陥れてしまったのです。パウロは、エルサレムにおける教会では、あまり快く受け入れられていませんでした。律法主義的なパリサイ派出身の信者は、パウロが神の律法をないがしろにしていると考えていたのです。また、異邦人が神の家族に招かれるためにも、律法をいくらか守らなければいけないのでは、と考えていました。このような、目に見えない軋轢が、異邦人を主体とした教会とユダヤ人を主体とした教会の中に出来ていました。

 けれども、パウロは、その壁をキリストにあって破りたいとねがったのです。どちらも一つのキリストのからだであり、ユダヤ人と異邦人はキリストにあって一つとなることができることを示したかったのです。そこで、パウロは、困っているユダヤ人信者たちに醵金する、つまりお金を募ることをしました。そこでパウロは、マケドニヤやアカヤにある教会で、エルサレムにいる兄弟たちのことを伝え、醵金をお願いしました。そうしたら、彼ら自身も貧しかったのも関わらず、惜しみなくささげたのです。この実をもって、パウロはこれからエルサレムに行こうとしています。確かに、信仰の持ち方は、ユダヤ人と異邦人の間で異なるでしょう。けれども、彼らの思いを一つにするのは、こうした彼らの慈善によるものなのです。


 そこで、この「醵金」というギリシヤ語に注目してください。コイノニアです。つまり他の個所では「交わり」と翻訳されている言葉です。分け与えること、これがそのまま交わりであると、聖書は定義しています。聖書が語っている交わりとは、私たちが普通に考えるような、「腹を割って、言いたいことが言える仲」というような交わりではありません。そのような受身の交わりではなく、分け与えることによって共有する交わりなのです。だから、異邦人たちの醵金は、ユダヤ人との交わりそのものに他ならなかったのです。

 彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。

 バランスを求める教えがあります。イスラエル人に、神は霊的な遺産を任されました。彼らの民族としての生活そのものが、神の証しであります。彼らが成功しているときも、失敗しているときも、神がどのような御方であるのかを鮮やかに知ることができるのです。だから、その霊的祝福を受けた異邦人は、物質的におかえししなければいけない、と言っています。今日、ブリッジ・フォー・ピースなど、困窮しているユダヤ人たちに奉仕するクリスチャンの団体がたくさんありますが、それはこのみことばに基づいています。ユダヤ人に奉仕することは、とても聖書的なことなのです。

 それで、私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニヤに行くことにします。あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じています。


 1章では、ローマに行くときには、霊的な賜物を分け与えたいとパウロは言っていましたが、ここではキリストの満ちあふれる祝福を持っていく、と言っています。


 そしてパウロは次に、ローマにいる信徒たちに祈ってほしいと願っています。兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。

 
御霊の愛によって、とあります。御霊も感情を持っており、私たちを愛してくださっているのです。そしてこの愛によって祈ってください、とお願いしています。私たちの執り成しの祈りは、愛に裏付けされたものでなければいけません。人々のために機械的に祈るのではなく、むしろ愛しているから促されて祈ります。そこで、パウロは、「力を尽くして」祈ってください、と言っています。これは苦悩する、とも訳せます。私たちが祈ることは格闘です。普通に、気分次第に生きていれば、私たちは自分のためには祈っても人のためには祈らなくなります。それは苦闘であり、私たちは力を尽くして祈らないと祈れないのです。


 具体的には、3つの祈りの課題でした。私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように。

 
パウロは、聖霊によって、苦しみと縄目がエルサレムで待っている、と示されていました。不信者から迫害にあうことがわかっていました。そこで、「救い出されますように」と祈っています。そして、「私の奉仕が受け入れられますように」というのは、献金が快く受け入れられますように、ということです。

 その結果として、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところへ行き、あなたがたの中で、ともにいこいを得ることができますように。


 ローマに戻って、みなさんに会うことができますように、という祈りです。この祈りはみな、聞かれました。けれども使徒行伝を思い出してください、パウロが予期したようには聞かれませんでした。彼はローマの囚人としてローマに行きました。軟禁されていましたが、彼は無事にローマにいる兄弟たちに会うことができました。


 どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。

 再び、祝祷しています。平和の神がともにいる、つまり、いろいろな騒ぎがこれから起こるかもしれないが、神の平和によって満たされて、堅く信仰を保つことができるように、という祝祷です。


 こうして、「クリスチャンの一致」という題で話させていただきました。その一致は、自分を喜ばせないこと、分け与えるところから来ることを知ることができました。


「聖書の学び 新約」に戻る
HOME