ローマ人への手紙3章 「神の義認」
アウトライン
1A 問題 − 律法による断罪 1−20
1B 特徴 − 神の公正 1−8
1C 責任としての優位 1−2
2C 人の偽り 3−8
2B 根拠 − 人の堕落 9−20
1C 状態 9−18
2C 結果 19−20
2A 解決法 − 信仰による義認 21−31
1B 土台 − イエス・キリストの贖い 21−26
2B 特徴 − 誇りの除去 27−31
本文
ローマ人への手紙3章を学びます。ここでのメッセージ題は、「神の義認」です。私たちはローマ人への学びにおいて、神の義がどのように現れているのを学んでいます。パウロは、1章において、異教徒が行なっているあらゆる不義と不敬虔に対して、神の怒りが現われていると言いました。そして、2章においては、その神の怒りを他人事のように考える独善的な人に対して、神のさばきを免れることはできないと主張しました。とくに、神から選ばれ、神の律法を与えられたユダヤ人は、自分たちは、異邦人のように神の怒りを受けることはないと思っていました。そこで、パウロは、ユダヤ人が異邦人と変わりなく、不義を行なっていることを指摘しました。
1A 問題 − 律法による断罪 1−20
1B 特徴 − 神の公正 1−8
1C 責任としての優位 1−2
そこで、パウロは、次の議論に移ります。では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。
パウロは、ローマ人への手紙において、また他の手紙においても、ユダヤ人とギリシヤ人には差別がないこと話しています。けれども、それは、ユダヤ人が選ばれた民であることを否定するものでは、全くありません。パウロは、「あらゆる点から見て、大いにあります。」と言っています。ローマ人への手紙9章において、パウロは、ユダヤ人のさまざまな利点を列挙しています。「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。(9:4-5)」そして、パウロは、この3章においては、みことばをゆだねられたことを、ユダヤ人がすぐれていることの第一の点として挙げています。旧約聖書はもちろんのこと、新約聖書のほとんども、ユダヤ人が聖霊に動かされて書いたものです。
けれども、すぐれている、というのは、あくまでも「ゆだねられている」ことにあることに注目してください。ユダヤ人が優秀で強い民であるからすぐれているのではなく、申命記には、むしろ彼らが数少ない民であったのに、神が愛されて選ばれた、と書かれています(7:7参照)。けれども、彼らには、他の民族よりも、より大きな使命と責任がまかされたのであり、その意味で、ユダヤ人は異邦人と区別されるべきなのです。
2C 人の偽り 3−8
パウロは、ユダヤ人はその責任を果たしていないことを、2章において話しました。そこで、次のような疑問が人々から出てくることを予測しました。
では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
神が、イスラエルを世界の光とするために、ご自分の証人とするために選ばれたのに、彼らはそうならなかった。ならば、神が言われたことは嘘だったではないか、という主張です。
絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。
神が嘘をついたのではなく、彼らが神に対して真実を尽くさなかった、というほうが正しいのです。例えば、多くの人が、「私は、イエス・キリストが自分の救い主だとは受け入れない。私は神を信じない。」と言ったからと言って、神がいなくなったり、イエス・キリスト以外に救いの方法ができたりするでしょうか。いいえ。人が神を否定しても、神は存在し、イエスは、人間が救われるための唯一の御名です。ですから、不真実な者が現われても、神は真実なのです。
しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。
イスラエルは偶像を拝み、それゆえ、神はイスラエルをさばき、バビロンなどに捕え移されました。神の正しさが、彼らの不義によって明らかにされたのです。ならば、イスラエルが神の義を明らかにしたのに、イスラエルをさばくのはおかしいではないかというのが、ここでの主張です。けれども、これは、あまりにもばかげています。例えば、泥棒を捕まえる警官に対し、社会の中における警察の必要性が明らかになったのだから、泥棒を捕まえたことは間違っているだろう、ということを言っているのと同じことだからです。けれども、そうしたら警官が泥棒を捕まえることはできなくなるし、同じように、神が世をさばくことができなくなります。
でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。・・私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、・・もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
善を行なうために、悪をしようではないか、という類いの議論が、もっとも悪質なものです。けれども、このことについて、パウロは、しばしばそしられていました。神の恵みによる、信仰による救いを語り継げるなかで、それでは、放縦な生活をしてもよい許可を与えているのではないか、と人々が思ったのです。けれども、このような議論をすることそのものが神への冒涜であり、神に罰せられるとパウロは言っています。
2B 根拠 − 人の堕落 9−20
1C 状態 9−18
そこで、パウロは、もともとの質問にふたたび戻ります。それでは、ユダヤ人はすぐれているのか、ということです。
では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
ユダヤ人は、神のおことばをゆだねられている点においてはすぐれていても、神の前に正しいことを行なっているかどうかの点においては、まったく異邦人と変わりないのです。「私たちは前に、」とパウロが言っていますが、すでに1章と2章において、異邦人もユダヤ人も神のさばきを受けなければならないことを語りました。そこで、パウロは、聖書から、私たちがいかに堕落しているか、その姿を示します。
それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
これは、詩篇14篇からの引用です。義人は誰一人としていない、と断言しています。私たちは、人々が行なう善行を見て、「あの人は正しい人だろう。」と思います。あるいは、宗教活動を見て、「あの人は、あれほど熱心に祈っているから、神はよく見てくださるだろう。」と思います。けれども、聖書は、神の前には罪人であると断言しています。
次に、パウロは、どのように人間が堕落しているかを、体の器官の中に見ることができるとしています。つまり、口と、足と、目です。
「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
まず、口についての聖書の個所を引用しています。口によって、人は欺きます。それはまむしの毒のようになり、人を傷つけ、人を実際に殺してしまうほどの力を持っています。ヤコブもこう言いました。「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲへナの火によって焼かれます。(ヤコブ3:6)」
そして、次は、足についての聖書個所です。「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」
これは、私たちの行動について語っています。言葉だけではなく、行動によって罪を行ないます。イエスさまは、人の悪は内側から出てくると言われました(マルコ7:20‐23)。事実、アベルの兄カインは、まず神に対して怒り、次にアベルを心の中でねたんだため、殺人行為に移ったのです。
そして、次に目についての聖書個所です。「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
私たちの一つ一つの行動や決断は、神への恐れによって正しい道へと導かれます。ヤコブの息子ヨセフは、ポティファルの妻に、「私といっしょに寝ておくれ。」とせがまれたとき、こう答えました。「ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。(創世39:9)」ヨセフの目の前には、神に罪を犯すことはできないという、神への恐れがありました。けれども、私たちはみな、そのような恐れをもたないため、悪事に走るのです。
2C 結果 19−20
パウロはこれらを引用しましたが、人々が、「これは異邦人についてのことではないか」あるいは、「ある特定の悪い人たちに対するものではないか。」と考えるだろうと予測し、次のように言います。
さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
聖書に書かれていることは、聖書が与えられた人たち、つまりユダヤ人に語られています、とパウロは言っています。ユダヤ人たちも、異教徒と変わらず、同じような悪を行なっているので、全世界が神のさばきに服さなければいけない、と言っています。
なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
ここで、律法の役目についてパウロは話しています。律法は人を正しくすることはできず、むしろ、自分が罪人であることを示すものです。このことについては、とくに7章において取り扱われます。
2A 解決法 − 信仰による義認 21−31
こうして、パウロは、すべての人が神の前に罪人であること、すべての人が神のさばきを受けなければならないことを論証しました。1章18節から、ここ3章20節に至るまで、私たちは神の怒りを受けるべき存在であることが示されました。神は正しい方です。そして、神は、私たちにもその正しさを要求します。しかし、神は、ご自分を正しいとしながら、なおかつ私たち罪人を義と認める道を示されます。このことを知らせるのが、パウロがローマ人への手紙を書いた目的であり、パウロは冒頭で、「福音のうちには神の義が啓示されています。その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。(1:17)」と言ったゆえんです。
1B 土台 − イエス・キリストの贖い 21−26
しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
神の義は、律法によって示されていました。パウロは、7章で、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、良いものなのです。(12)」と言いました。律法によらなければ、私たちは神がいかに正しい方なのか、聖なる方であるのかを知ることはできません。また、律法によって、神はご自分が正しいだけではなく、人間にその正しさを要求していることが分かります。つまり、神の基準に達しない者は、罰として死ななければいけないのです。しかし、今や、律法とは別のかたちで、神の義が示されたとパウロは言っています。それは、神ご自身が、その義を私たちのためにすべて用意された、と言うことです。神は、その義の要求であるさばきも、ご自分の中で行なってくださいました。すべてを行なってくださり、それを贈り物として受け入れるようにしてくださったのです。つまり、私たちが、神ご自身の義を、ご自分でさばきを受けてくださったことを信じることによって、神が私たちを義とみなしてくださるのです。
神が用意されたご自分の義と、またさばきとは、イエス・キリストであります。イエス・キリストは、神の栄光の完全な現われであり、罪を一度も犯したことがない方でした。神のように完全な方であり、また、神ご自身なのです。そして、イエス・キリストが、私たちに代わって、神のさばきを受けてくださいました。この神の一方的なみわざを、私たちはただ受け入れるだけでよいし、また、ただ受け入れることしかできません。これを、「信仰による義」と言い、神は、このような方法で私たちにご自分の義を示されました。
パウロは、この義は、律法とは別であるが、律法と預言者によってあかしされていた、とあります。パウロは、ローマ人への手紙の中で、数多く旧約聖書からの引用をしていますが、例えば、申命記30章14節には、「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」とありますが、パウロはこの律法を引用して、イエス・キリストを信じるとは、自分の口で告白して、心の中で信じることであると話しています。1章17節においては、ハバクク書2章4節が引用されていました。「正しい人はその信仰によって生きる。」とあります。それだけではありません。律法と預言者とは旧約聖書全体を指していますが、まさに、創世記1章からマラキ書4章に至るまで、キリストの人格とそのわざについてあかしされていたのです。とくに、神が私たちを義と認めるときに必要となる、キリストの贖いのわざは、律法の中にある、いけにえの制度がそれをあかししていました。人々は、自分の罪を告白して、動物をほふって、その血がながされるのを見るとき、罪から自分たちを救うキリストを信じて、それを行なっていたのです。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
神が私たちを義と認めてくださるのは、神の恵みであり、価なしに行なってくださったことを知らなければなりません。恵みとは、私たちが受けるに値しないことを、受けることです。また、「価なし」という言葉は、もともと「原因がなく」という意味です。私たちには何の原因もないのに、神が一方的に義と認めてくださいました。ですから、私たちは、パウロがこの前に話していたこと、つまり、「すべての人が、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできない。」という真理を理解しなければならないのです。自分が神に認められようとしても、もうすでに遅いのです。もう罪を犯してしまって、神のさばきに服さなければならないのです。完全に堕落しているので、私たちの側からは、神にご好意を得るようなことは、何一つできなくなっています。けれども、神がそのご慈愛から、一方的に私たちに働きかけてくださいました。
その働きかけの土台となっているのが、「イエス・キリストの贖い」です。贖いとは、もともと商業用語です。「買い取る」ということです。市場に行って、他人の所有物を、代価を支払うことによって自分のものにすることを意味します。旧約聖書では、例えば、神が、イスラエルをエジプトから救い出されて、ご自分の民となったとき、「わたしはあなたがたを贖った」と言われています。つまり、イエス・キリストが、罪の奴隷となっている私たちのところにやって来てくださいました。そして、ご自分のいのちを代価として払ってくださり、私たちを神のものにしてくださったのです。
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。
なだめの供え物とありますが、これに相当する旧約聖書の言葉は、「贖いのふた」であります。幕屋の聖所は、垂れ幕によって聖所と至聖所に分かれています。至聖所の中には、ただ一つ契約の箱があり、その箱の上には、純金でできた贖いの蓋があり、二人のケルビムが彫刻されています。この至聖所は、年に一度、大祭司のみが入ることができます。そのときに、ほふった雄羊から流された血を、その贖いのふたに振りかけますが、そのことによって、イスラエルの罪がきよめられます。使徒ヨハネが書いた手紙、第一の手紙ですが、2章の2節に、「この方こそ、私たちの罪のための、・・私たちの罪だけでなく全世界のための、・・なだめの供え物なのです。」と言いました。「なだめの供え物」とあるとおり、これは神の怒りをなだめるもの、神の怒りが下ったことによって、神の義の要求が全うされたことを意味します。イエスさまが、このなだめの供え物となってくださいました。ですから、私たちは、自分たちの罪が、神の御怒りのために積み上げられていると言ったパウロのことばに、耳を傾けなければならないのです。イエスさまは、神の前に積み上がっている、私たちが犯した膨大な罪をすべて背負って、十字架の上で血を流されました。私たちの不義に対する神の怒りは、イエス・キリストにおいて、すべてなだめられたのです。
というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
神は、人間が犯した罪を、ただイエス・キリストのみに背負わせるように定められました。それゆえ、それまでに犯されて来た罪に対して、神は忍耐をもって見のがして来られて、ただ一度、すべての人にために、イエスさまが死なれました。ですから、主が十字架の上で死なれたことは、神の愛の現われだけではなく、神の義の完全な現われなのです。神の怒りが完全なかたちで現れたのが、御子の十字架刑でした。だから、イエスさまは、「もし、できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。(マタイ26:39)」と祈られたし、十字架の上では、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)」と祈られました。
2B 特徴 − 誇りの除去 27−31
こうして、神が私たちを義と認めてくださることにおいて、ご自分の義を現わしてくださったことが理解できました。それは、私たちの信仰によって現わされますが、次にパウロは、この信仰にについて、三つ特徴のことを語っています。
それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
一つ目は、信仰によって、誇りが取り除かれたことです。律法によって義と認められるのであれば、私たちが行なったことについて誇ることができます。しかし、神が一方的に行なってくださったことをただ受け入れるのであれば、私たちには誇るべきことは何一つありません。私たちが神の国に入るときに、自分はどのような位に着いているのか考えることはないでしょうか。主が来られるときに、行ないに応じてそれぞれに報いを与えてくださる、と聖書にありますから、自分は天国の片隅に追いやられているかもしれない、と考えるかもしれません。また、天国で、自分の行なったあの悪いことが、みな記されているのではないかと、恐れることもあるかもしれません。しかし、天においては、私たちが何を行なったかを語り合うような余地は残されていないのです。黙示録5章によると、天においては、主への賛美で満ちあふれているのです。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。(5:12)」と御使いが歌いました。私たちが行なったことではなく、主イエス・キリストが行なわれたことを、私たちは語り合い、ほたたため、またこの方を礼拝するのです。
ですから、信仰によって誇りが取り除かれますが、二つ目の特徴は、異邦人が、この祝福にあずかることができることです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。
ユダヤ人は、ヤハウェなる神は、イスラエルの神であり、異邦人はこの神と関係を持つことはできない、と考えていました。けれども、そうすると、異邦人の神々がいなければならないことになり、神が唯一であるという真理に逆らいます。イスラエルの神は、異邦人にとっての神でもあるのです。
この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
異邦人は、神がユダヤ人にゆだねられた律法によって、神との契約の中に入ることができないと思われていました。パウロも、律法についての規則が、ユダヤ人と異邦人を分け隔てていた、とエペソ書において言っています(2章参照)。けれども、神との関係を持つためには、律法という原則の前に信仰の原則があります。律法はあくまでも後に付け加えられたものであり、神との関係の本質は信仰によるのです。パウロは、4章において、アブラハムの場合を取り上げていますが、彼だけではなく、実際に律法が与えられたモーセ自身も、信仰によって生きていました。彼は、神に声をかけられて、それに応答し、神に語り、神との交わりを深めました。その一方、主が、イスラエルに、シナイ山から十戒を与えられたとき、彼らは、ただ恐ろしくなって、「主が仰せになったことは、みな行ないます。」と言いましたが、彼らは、神の声を一つの規則として受け止めていなかったのです。ですから、律法が本質的なことではなく、神に対する信仰が大切であり、異邦人も神を信じることはできるのです。したがって、信仰による義は異邦人にも当てはまります。
さらに、信仰の原則についての三つ目の特徴は、律法を確立することです。それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。
先ほど、律法と預言者によって、信仰による神の義があかしされていた、とパウロが言っていましたが、ここまでパウロが語っていたことは、すべて旧約聖書の延長線上にある話です。主イエスご自身が、山上の垂訓で、このように言われました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)」と言われました。律法があかししていたこと、また律法が要求していることが、イエス・キリストにあって、すべて成就したのです。イエス・キリストを信じる者は、このキリストをその人のうちにおられるので、その人のうちで律法が全うされたのです。
こうして、神の義が、怒りではなく、人を義と認めるところに現われたことについて学びました。私たちを責め立てていた証書は、すべて破棄されました。御怒りのために積み上げられていた罪は、すべてイエス・キリストが背負ってくださいました。神は、すべてご自分のうちに御怒りを下され、私たちは、ただ信じて、受け入れるだけで良いようにしてくださいました。これが、パウロがローマ人に伝えたかった福音です。私たちは、この福音の中に生きているでしょうか。私たちは、今も、神のさばきを受けるべき罪人であることを自覚しているでしょうか。私たちが、自分が救われようのない堕落した存在であることを、知っているでしょうか。私たちが救われるためにできることは、何一つないことを受け入れているでしょうか。私たちは神に対して罪を犯しました。神は被害者であり、私たちが加害者なのです。しかし、神は、被害者であられながら、加害者がしなければならない償いを、すべてご自分でしてくださいました。私たちに神から好意を得られるようなものは、何一つ無いのに、神は私たちを愛し、一方的な恵みによって、私たちに手を伸ばしてくださいました。ご自分の怒りを、ご自分のひとり子に下し、私たちをキリストにあって、傷のないもの、汚れのない者、責められるべきところのない者とみなしてくださったのです。私たちが神の前にへりくだって、この尊い贈り物を感謝して受け入れて歩むこと、これが、私たちがしなければいけないただ一つの責任です。