ローマ人への手紙4章 「信仰の父アブラハム」

 

アウトライン

 

義と認められるのは、

 

A 肉によらない 1−15

   B 行ないによらない 1−8

      C 理由 2−5

         D 誇り 2−3

         D 借り 4−5

      C 結果 「幸い」 6−9

   B 割礼によらない 9−12

      C 理由 − 割礼前の義認 9−10

      C 意味 − しるし 11

      C 目的 − 無割礼の義認 12

   B 律法によらない 13−15

      C 理由 − 律法前の約束 13

      C 意味 − 違反 14−15

A 信仰による 16−25

   B 対象 − 神 16−18

      C 神の恵み 16

      C 神の力 17−18

   B 過程 − 4つの鍵 19−21

      C 問題の無視 19

      C 疑いの拒否 20a

      3C 神のへ賛美 20b

      C 全能への信仰 21

   B 結果 − キリストを信じる信仰 22−25

      C アブラハムの模範 22

      C キリストの復活への信仰 23−25

 

本文

 

 ローマ人への手紙4章をお開きください。ここでのメッセージ題は、「信仰の父アブラハム」です。それではさっそく、本文を読みましょう。

 

A 肉によらない 1−15

B 行ないによらない 1−8

C 事例 − アブラハム 1

 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。

 パウロは、4章を、「それでは」という言葉ではじめています。ここは、「したがって」とも訳すことができます。つまり、4章は3章からの話の続きなのです。私たちは、3章において、神の義は、イエス・キリストを信じる者を義と認めてくださることによって現れたことを学びました。1章
18節から3章20節において、神の前で私たちが罪に定められていることを知りましたが、イエス・キリストが、そのさばきを身代わりに受けてくださったので、私たちは、キリストにあって、その罪に問われることがなくなりました。そして、パウロは、信仰によって義と認められることについての特徴を話しました。それは、誇りが取り除かれること、割礼を受けたものだけではなく、無割礼の者も義と認められることができること、そして律法を確立することです。このように、義と認められるときには、「信仰」という要素が必要になります。そこで、パウロは、4章において、アブラハムを例に取りながら、信仰によって義とみなされることはどういうことなのかを説明します。3章においては、信仰義認のうちの「義認」について力点が置かれていましたが、4章では、信仰義認のうちの「信仰」について力点が置かれています。

 「肉による私たちの先祖」とは、ユダヤ人の先祖のことです。アブラハムは、イスラエル民族の始祖でありますが、パウロは、信仰による義は、ユダヤ人の先祖アブラハムに見ることができ、何も新しいものではないことを論じています。パウロが、「私たちの先祖」と言っているように、パウロは自分をユダヤ人とみなし、またこの手紙の読者にも、多くのユダヤ人がいることを意識して書いています。

C 理由 2−5

 アブラハムについて、パウロは、第一に、行ないによって義と認められたのではないことを述べています。

D 誇り 2−3

 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。

 
アブラハムの生涯の始まりは、神が命じられたように、父の故郷を離れて、まだ知らない土地に移動したことです。そして、彼の生涯の終わりには、ひとり子イサクをささげるように命じられ、それに従おうとしたことです。もしこれらのことで義と認められたのであれば、アブラハムは誇ることができます。けれども、実際はそうではありませんでした。

 しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。

 
彼は、神を信じたことによって、義とみなされました。ですから、彼がバビロンを離れたことも、また、イサクをささげようとしたことも、誇るべき事柄にはならなかったのです。したがって、私たちは、行ないによっては神に義と認められないことを知らなければいけません。私たちは、自分が良いクリスチャンが悪いクリスチャンかを決めるときに、祈りはどれだけしたのか、聖書は毎日読んでいるか、礼拝に出席しているのかなどという、私たちの行ないによって決めようとします。けれども、それは間違いであり、神が行なわれたこと、あるいは行なっていることに目を留めて、それを受け入れるときに、神に喜ばれるのです。


D 借り 4−5

 また、義と認められるのが行ないによるのではないことは、神が私たちに借りを持っておられないことからも、そう言えます。

 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。

 
パウロは、行ないによって義と認められるのであれば、それは、仕事における主人としもべの関係であることを述べています。仕事の契約においては、主人はしもべに、賃金を払う義務がありますが、もし私たちが神とそのような関係にあるのであれば、ここでパウロが言っているように、「恵み」ではありません。けれども、神は、私たちと、ご自分の恵みによって関係を持ちたいと願われているのです。仕事のような労使関係ではなく、家族のような親子関係を持ちたいと願われています。報酬ではなく、愛と恵みを私たちに伝えたいと願われているのです。したがって、神は、行ないによって義と認めるようなことをなさいません。


 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

 神は、私たちを義と認めてくださるのに、仕事の中にある関係とはまったく別の方法を持っておられます。不敬虔な者を義と認めてくださるのです。イエスさまは、夕方5時から働いたしもべに、朝から働いたしもべと同じように、1タラントの賃金を支払った主人のたとえを語られましたが(マタイ
20:1-16参照)、神は、十分な働きをしなかった労務者に報酬を与えるような気前の良い方なのです。このような話を聞くと、クリスチャンもクリスチャンではない方も、「これでは、自分の好き勝手なことをさせるような許可を与えているのではないか。」と思います。けれども、真実は逆なのです。不敬虔な者を義と認めてくださることを知った者は、そのことによって神の愛と恵みを知り、自ら神にお従いしたいと願うようになるのです。しなければいけないから、しょうがなくて行なうというような義務的なものではなく、パウロが言ったように、「キリストの愛に駆り立てられて」全てのことを行ないます。ですから、本物の信仰は、行ないによって現れるのです。

C 結果 「幸い」 6−9

 こうして、行ないにはよらない神との関係はすばらしいものですが、そのことが、「幸いなるかな」と呼ばれています。

 ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」

 
パウロが、まだユダヤ人として、ユダヤ人に語っていることを思い出してください。パウロは、信仰による義を、ユダヤ人の父アブラハムからだけではなく、ユダヤ人の王ダビデの言葉からも論証しています。ダビデも、同じように、信仰によって義と認められたのです。なぜなら、彼は、姦淫の罪と、それに引き続く殺人の罪を犯したのにも関わらず、「主は、あなたの罪を赦された。」と宣言されたからです。彼は、罪を赦されただけではなく、主が、罪を認められないことを喜びました。主がダビデに指をさして、「お前は、このような悪を行なったのだ。」とお責めにならず、かえって、その罪を忘却のかなたに捨ててしまわれました。ローマ書8章において、「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
31)」「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。(33」とパウロは言いました。

B 割礼によらない 9−12

 こうして、アブラハムが行ないによって義と認められたのではないことが分かりましたが、次に、彼は、割礼を受けたことによって義と認められたのではないことを論じます。

C 理由 − 割礼前の義認 9−10

 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。

 
肉の包皮を切り取る「割礼」は、ユダヤ人にとって、神との関係を持つために、もっとも大切な儀式とみなされていました。けれども、アブラハムは割礼を受けたことによって義と認められたのでしょうか。そうではありません。

 私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。

 
神がアブラハムを義とお認めになったときのことは、創世記
15章に書かれています。アブラハムがさらわれたロトを救出するためにダマスコまで行き、帰ってきたときに、エルサレムの王であり祭司であるメルキゼデクから祝福を受けました。その後に、アブラハムは主に呼ばれて、外に連れ出され、星を数えてみなさい、と言われました。主は、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われましたが、そのときにアブラハムは主を信じて、義と認められています。この10年ほどあとに、サラの願いによってハガルとの間にイシュマエルを生みましたが、イシュマエルが生まれてから13年経ってから、自分自身と彼の家族の男子全員に、割礼を受けさせたのです。ですから、彼は、無割礼のときに義と認められたのであり、言うなれば、まだ異邦人であったときに義と認められました。割礼を受けることがユダヤ人であることのしるしだからです。

C 意味 − しるし 11

 彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。

 ここに割礼を受けることの意味が述べられています。割礼は、それによって神との関係を築くことではなく、すでに築かれた関係の目印でありました。すべての儀式は、神と私たちとの霊的な関係を、外側に現わすためのしるしなのです。


C 目的 − 無割礼の義認 12

 それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。

 
ここに、割礼を受けていない者も義と認められることが述べられています。つまり、異邦人である私たちも、神との関係を結ぶことができるということです。割礼のような儀式によって、私たちは神との関係を持ちません。あくまでも、「アブラハムの信仰の足跡に従って歩む」という原則によって、神との関係を持ちます。私たちは、アブラハムにならう者にならなければいけません。アブラハムがどのように神に召されて、どのように神を信じるに至ったか。アブラハムに、神がどのように良くしてくださり、アブラハムがどのように神を個人的に、恵みの神として知るようになったか。また、そのような神への深い信頼のゆえに、イサクをささげなさいと言われたときに、イサクをよみがえらせることができる、と信じるようになったか。これらのことを私たちが、毎日の生活で、アブラハムにならわなければいけないのです。ユダヤ人がただ血がつながっているだけで、「アブラハムは私たちの父です」と言うのが間違っているように、私たちも、ただ洗礼を受け、礼拝に参加していることで、クリスチャンであると言うことはできません。


B 律法によらない 13−15

 ですから、義と認められるのは、行ないにもよらず、また割礼にもよらないことが分かりました。次に、パウロは、アブラハムが律法によって義と認められたのではないことを論じます。

C 理由 − 律法前の約束 13

 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。

 アブラハムに、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と主が約束してくださったのは、律法が与えられてからでしょうか。もちろん違います。律法がモーセに与えられたのは、アブラハムが生きている
500年ほど後のことです。アブラハムとその子孫が世界の相続人となることは、律法とは無関係のことです。

C 意味 − 違反 14−15

 もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。

 
私たちの国に法律がなければ、どのような犯罪と呼ばれているものも、それは違反とはなりません。法律がないからです。同じように、律法がなければ違反はなく、違反がないので、罰を受けることはありません。もし、律法によって相続が与えられるのであれば、すべての人が律法を守り行なえないのだから、違反者として罰せられ、相続の約束は無効になってしまいます。したがって、律法によっては、アブラハムとともに神の祝福を受けることはできないのです。


A 信仰による 16−25

 こうして、アブラハムが義と認められたのは、行ないによるのでもなく、割礼によるのでもなく、律法によるのでもないことが分かりました。それでは、何によって義と認められたかというと、信仰によってです。16節からは、アブラハムがどのようにして神を信じていったのか、その「信仰による義」の信仰とはどのようなものであるかを見ていくことができます。

B 対象 − 神 16−18

C 神の恵み 16

 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。

パウロは、アブラハムは、すべての人の父であることを繰り返しています。アブラハムは肉による子孫であるユダヤ人だけの父ではなく、むしろ、信仰によって義とみなされた異邦人の父でもあります。ここに、神の恵みがあります。神は、ご自分の祝福を受けるに値しない者にも手を伸ばされるような、恵み深い方です。ですから、信仰を持つということは、この神の恵みを知っていることに他なりません。神の恵みを知るときに、パウロがここで述べているように、「保証」があります。神との関係が、あるときには悪くなり、あるときには良くなるというような不確かなものではなくなります。私たちがどのようなことを行なっていても、私たちがどのような状態にいても、神は変わらずに私たちを義とみなしておられます。それゆえ、神との関係が安定して、私たちは、神と絶えざる交わりをすることができるのです。


C 神の力 17−18

 そして、信仰を持つということは、神の恵みを知っているだけではなく、神の力を知っていることでもあります。

 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。

 
神は、死んでいる者を生かすことがおできになり、何も無いところから有形のものを創造する力を持っておられます。この全能の神をアブラハムは信じていたのであり、私たちもこの神を信じているのです。アブラハムは、イサクをささげるとき、この子から神の祝福がもたらされるという約束を信じていました。けれども、イサクをほふりなさいと言われたのも、同じ神です。したがって、神は矛盾するようなことを言われたのですが、アブラハムはどちらのみことばも信じました。そこで、彼は、わが子イサクをほふっても、神はこの子を死者の中からよみがえらせてくださる、と信じたのです。神なら、そのようなことがおできになると信じました。


 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。

 
望みえないときに望みを抱く、という言葉は大切です。私たちが信仰を持っているというのは、人間ができることのみを信じることではありません。むしろ、人間には不可能であることが神にあって可能になることを信じているのです。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。(マルコ
10:27」というイエスさまのことばを信じなかったら、弟子たちは主の復活を信じることはできなかったでしょうし、私たちもクリスチャンになることはできません。そして、私たちが、日々の生活の中で、同じように望みえないときに望んでいるときに、信仰によって生きていると言えます。

B 過程 − 4つの鍵 19−21

 このように、信じるということは、神に対する信仰であり、神の恵みとその御力を信じることでした。次にパウロは、アブラハムがどのようにして、神を信じたのかについて説明します。彼が信じるときの過程、プロセスについて語ります。

C 問題の無視 19

 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。

 
アブラハムが
99歳のときに、主の使いがアブラハムのところに訪れて、「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。(創世18:10」と言われました。サラはそのとき、90を越えていました。ですから、どちらも子を生むような能力がなくなっていたときでした。けれども、アブラハムは、そのような問題に目を留めずに、そのことを言われた主に目を注いでいました。ここが信じることの第一歩です。問題があるときに、その問題を見つづけずに、主を仰ぎ見る必要があります。

C 疑いの拒否 20a

 そして次の一歩は、神の約束を疑わないことです。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、とあります。

 聖書には、神のすばらしい約束に満ちています。その約束を信じることが、信仰を持つことであります。けれども、私たちは、不信仰によって疑うことがしばしばあります。たとえば、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ
8:28」というすばらしい約束を、私たちは疑わずに信じているでしょうか。いいえ。一部のことは信じていますが、すべてのことを働かせて益としてくださっているとは信じていません。けれども、約束をしっかりと握りしめなければ、神を信じていることにならないし、アブラハムと同じように祝福にあずかることはできないのです。ヨシュアに語られた主のことばを思い出してください。「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。(ヨシュア1:3」神はすばらしい祝福を私たちに用意してくださっています。それを、ヨシュアが、約束の地に足を踏み入れたように、私たちも踏み入れなければいけないのです。

3C 神のへ賛美 20b

 そして、次に、神に栄光を帰すことをアブラハムは行ないました。反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、

 
状況はマイナス面ばかりなのに、アブラハムは、ますます確信を強めました。そして、その確信によって、なんと神を賛美していたのです。先ほど、神はないものをあるもののように呼ばれる方であることを読みましたが、アブラハムも同じように、まだ存在していないものをはるかに見て、それを喜び、神に感謝して、神を賛美しました。まだイサクが生まれていないのに、すでに生まれていたかのように喜んだのです。神を信じるということは、神と同じように時間を超えて、永遠の中に入ることでもあります。神にとって、万物万象はすでにくずれさり、新しい天と地が造られています。神にとっては、キリストにあって私たちがすでに、栄光の姿に変えられています。主が来られることも、すでに事実であり、私たちは、その栄光を喜びをもって待ち望んでいるのです。


C 全能への信仰 21

 そして最後に、アブラハムは、神が力をお持ちなのを信じていました。神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

 私たちは、神を自分たちの思いの中で小さくしてしまいます。これなら私たちにできるが、これならできないと私たちは選別して生きているのですが、それと同じことを神にも当てはめてしまうのです。けれども、神は、ご自分が語られたことばによって、この天地を造られたことを思い出さなければいけません。イザヤは、こう預言しました。「見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。(
40:15」日本列島で起こることなど、主にとっては細かいちりのようであられるのです。さらに、イザヤは、雨が天から地に落ちてくるように、「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(55:11」と言いました。ですから、初代教会の信徒たちが、「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。(使徒4:24」と祈り始める必要があるでしょう。

B 結果 − キリストを信じる信仰 22−25

C アブラハムの模範 22

 そして次の節があります。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。

 この「だからこそ」という接続詞が大切です。彼が義と認められたのは、今見た、アブラハムの神への信仰のゆえです。信仰によって義と認められることは、これほど躍動的なことであり、生き生きとしたものです。「善を行なうために、悪をしようではないか。」というパウロへの非難とは、程遠いものであります。律法によっては決して実現されたなかった、神との生き生きとした交わりこそ、信仰であり、それによって義と認められることであります。


C キリストの復活への信仰 23−25

 そしてパウロは結論を述べます。アブラハムがイサクについて、神に抱いた望みは、実は、後に来るキリストの復活を信じることを指し示していました。しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

 神が主イエスを死者の中からよみがえらせた方であることを信じる信仰を、神は義とみなされます。これは、アブラハムがイサクをささげるときに、神はイサクを死者の中からよみがえらせてくださると信じて、神の御声に従おうとした信仰にならうことであります。キリストの復活を信じることは、望みえないときに望むことであり、神の約束をしっかりと握りしめることであり、神の栄光を帰し、その全能の力に確信していることであります。そして何よりも、キリストの復活を信じることは、神の恵みを知ることであります。アブラハムが、イサクを死者の中からよみがえると信じたのは、彼に強い意思力があったからでしょうか。かれが努力家であり、たくさん祈って、神に深く献身したからでしょうか。いいえ、まったく違います。アブラハムは、神を信じて、それで義とみなされました。彼は、その生涯に数多くの過ちを犯しました。しかし、神は不敬虔な者を義と認める方であり、その神の大らかさと、恵み深さを、アブラハムは長い年月をかけて学んだのです。それゆえ、神をより深く信頼できるようになり、神に試されたときも、自然な応答として、イサクをささげる準備を始めました。私たちも、神が、キリストにあって行なってくださったことを知ることにより、神への愛と献身が増し加わり、キリストの復活の力に拠り頼むことができるようになるのです。


 アブラハムが、私たちがならうべき信仰の父です。その生涯の中には、行ないによって神からの好意を勝ち取ることはありませんでした。また、割礼のような儀式によって神に近づくこともしませんでした。また、むろん、律法を行なうことによって義と認められようともしませんでした。ただ、神の恵みを知り、神の力を信じて生きていただけです。この生ける神との交わりを、自分自身の生活の中で実現しますように、お祈りします。