ローマ人への手紙5章 「義と認められた私たち」
アウトライン
1A 大いなる神の栄光 1−11
1B 神との平和 1−8
1C 恵みへの導き 1−5
2C 愛 6−8
2B 御怒りからの救い 9−11
2A 満ちあふれる恵み 12−21
1B アダムとの違い 12−17
1C 入り込んだ罪と死 12−14
2C 恵みの賜物 15−17
2B アダムと似た点 18−21
本文
ローマ人への手紙5章をお開きください。ここでの題は、「義と認められた私たち」です。
4章において、私たちは、アブラハムの信仰の足跡にならうことについて学びました。アブラハムは、行ないによらず、割礼にも律法にもよらず、ただ神を信じたことによって義と認められました。彼の神への信仰は、イサクが死者の中からよみがえるという確信として現われました。そして、同じように、私たちは、イエスを死者の中からよみがえらせた神を信じることによって、義と認められる、とパウロは言いました。そして、5章に入ります。ここでパウロは、私たちは義と認められたあと、どうなるのか、その状態について語っています。
1A 大いなる神の栄光 1−11
1B 神との平和によって 1−8
1C 恵みへの導き 1−5
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
義と認められたことによって、私たちは、あらゆる霊的祝福を受けます。その一つは、神との平和を持っていることです。神のみこころに逆らっている罪人は、神と敵対関係にあります。言いかえると、神と戦争状態にあります。ですから、神はご自分の義によって私たちをさばき、滅ぼしてしまわなければなりません。けれども、私たちは義と認められたので、神との間に平和ができあがりました。ですから、パウロは8章において、「神が私たちの味方であるなら、だれが私に敵対できるでしょう。(31)」と言っています。神は、もはや私たちを咎めたりしておられないのです!ちなみに、神との平和は、神の平安とは異なります。神の平安は私たちが経験するものであり、恐れや思い煩いから自由にされている状態のことを指しますが、神との平和は、もうすでに築かれている神との関係です。
またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、
導き入れられた、とありますが、神のみもとに導き入れられる、ということであります。義と認められたことによって、神の御前に大胆に近づくことができる、と言うことです。私たちは、ありのままの姿では、決して神に近づくことはできません。罪があるからです。罪は私たちを神から引き離して、神さまのおられるところに行くことができなくしています。けれども、もうすでに罪は取り除かれ、キリストの義を身にまとっているのですから、神への道は大きく開かれています。パウロは、エペソ人に手紙を書いて、「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。(3:12)」と言いました。ですから、自分の心にあることをすべて注ぎ出して、すべてを神に知っていただくような、大胆な祈りをすることができるのです。
神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
大いに喜んでいる、という言葉は、爆発的な喜びを指しています。心が張り裂けんばかりの喜びです。神の栄光を望んで、喜びおどるのです。私たちに与えられているもっとも大きな祝福は、神の栄光を見ることです。神のすばらしさ、神のすべてのご性質を見ることが許されました。これは、主イエス・キリストが再び私たちのために来られるときに実現します。パウロは、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。(Tコリント13:12)」と言いました。使徒ヨハネは、「キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。(Tヨハネ3:2)」と言っています。私たちが、主イエスさまをはっきりと見て、この方のふところのなかに入る日は、確実に近づいているのです。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
義と認められたことによって、この世における患難さえも喜ぶようになります。この真理は、理解するのにとても大切なことであります。患難を喜ぶというところで、キリスト教は、他の宗教と区別されます。私たちに何か良いことが起こるから、信じるに値すると私たちは考えますが、キリスト教では、患難や迫害がともなうことを教え、それでも、いや、それだからこそ喜びなさい、喜びおどりなさい、と言われています。なぜ、このような違いがでるかと言いますと、今一節で読んだように、私たちに与えられた祝福は、神との人格的な関係だからです。神との平和を持つという人格的な関係が祝福なのであり、私たちがこの世で得をすることではないからです。私たちは患難にあうときに、神との関係を一段と深めることができます。神は、私たちの苦しみと一体化してくださり、苦しみの中で神の慰めと愛を体験できるのです。また、患難がクリスチャンにとって喜ばしいのは、地上ではなく天における報いだからです。二節に書いてある神の栄光をじかに見ることができるのは、天においてであります。天国がいかにすばらしいところなのか、栄光に富んでいるところなのか、そのことを思い、喜び、神の国の到来を待ち焦がれる中で、この地上では患難にあうのです。ですから、私たちに必要なのは、自分の心と思いの中で、神の国がどのようなところであるか、はっきりと見ていることなのです。そこに、義と認められた者たちが受けるべき祝福があるのです。
そして、パウロは、患難を受けるところから、この希望が生み出されるにいたるまでの過程を語っています。患難にあうと、まず忍耐が生み出されます。これは、無意味にがまんすることではなく、神とキリストを見つめることに他なりません。「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(ヘブル12:3)」とヘブル書にあります。そして、忍耐によって品性が生み出されます。この品性は、金属が火の中に入れられて、その真価が試されることを意味します。私たちは忍耐しているうちに、神の性質が私たちのうちにかたち造られていくのです。そしてこの練られた品性によって、希望が生み出されるのです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
天に蓄えられている希望は、ペテロが言っているように、決して「朽ちることも、汚れることも、消えていくことも」ありません(Tペテロ1:4)。けれども、患難にあっているときに、私たちだけでは、その重さに耐え切れなくなり、つぶれてしまいます。しかし、私たちには、聖霊が与えられています。ご聖霊が私たちのうちに宿ってくださることによって、私たちはこの希望の中に生きることができるのです。そして、ご聖霊は、私たちの心に神の愛を注いでくださいます。
2C 愛 6−8
そして、神の愛は、どのようなかたちで私たちに示されたかを、パウロは次に語ります。私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに愛を示されました。死ぬほどに愛してくださったのです。このような話しは、人間の中でも聞きます。父親が、息子のために自分のいのちを捨てる、という類のものです。けれども、これら人間の愛とは比べることができないほど神の愛が深いことを、パウロはここで説明しています。つまり、私たちが弱かったときに、不敬虔であるのに、罪人であるのに、キリストが死んでくださったのです。私たちの側には、何ら愛すべき特徴や原因はないのに、いのちを捨ててくださいました。この神の深く、広い愛があるために、この愛を聖霊が注いでくださっているために、私たちは、神の栄光を待ち望む希望を抱きつづけることができるのです。
2B 救いによって 9−11
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
ですから、という言葉から始まっていますが、一節の、「神との平和を持つ」ことに戻っています。私たちが神との平和を持っているので、ここでパウロが言っているように、神の怒りから救われます。一章において、神の怒りが、人々を良くない思いに引き渡されることによって現れていることを学びましたが、ここでの神の怒りは、それとは異なります。ここの怒りは、大患難時代に、神がこの地上に下される怒りであり、また、人間が死んでから永遠の地獄に送られるときの怒りであります。そして、パウロは、怒りから救われるのは、「なおさらのこと」であると言っています。これは対比を表しています。私たちが罪人であったときにさえ、神は、私たちに怒りを下すことなく、キリストにおいて怒りを現わしました。けれども、今、私たちは義と認められています。だから、なおさらのこと、神の怒りから救われるのは明らかである、ということです。
義と認められるということは、これほどまでに、私たちを高い位置に着かせているのです。義と認められることは、単に罪赦されることではなく、まさにキリストのように正しくみなされている、ということです。ですから、神がキリストに与えておられる立場を、私たちにも分け与えられる、という、とてつもない特権が与えられていることでもあります。
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
再び、「なおさらのこと」が出てきました。私たちが敵であったときに、神は御子の死において私たちと和解してくださいました。しかし、御子は死者の中からよみがえられ、今は生きておられます。御子が死なれたことによって、神が和解してくださったのだから、生きておられる御子は、私たちのために天から来られて、私たちを、今の悪い世から救い出してくださるのは、なおさらのことなのです。テサロニケ人への第一の手紙に、このすばらしい救いについてパウロが語っています。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(Tテサロニケ4:16-17)」
そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
パウロはふたたび、神を喜んでいる、と語っています。爆発的な喜びのことです。ここで、「神を」喜んでいる、と書かれてあることに注目してください。自分に良いことが起こったり、周りの状況が良くなったことを喜ぶのではなく、神ご自身を喜ぶのです。私たちには、良いことだけではなく、悪いことも起こります。けれども、神に目を向けるとき、神のすばらしさを見るときに、神がいかに私たちを愛してくださったかを知るときに、心に喜びが涌き出てきます。周りの状況には、喜ばせるようなものがないのに、私たちは喜ぶことができるのです。それは、神を喜んでいるからです。
2A 満ちあふれる恵み 12−21
このように、私たちが、信仰によって義と認められることによって、神を大いに喜ぶことができるという祝福があることがわかりました。12節からは、義と認められることによって、恵みに満ちあふれることができる祝福について書かれています。
1B アダムとの違い 12−17
1C 入り込んだ罪と死 12−14
そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。
パウロは、「そういうわけで」と言っていますが、これは、ずっとさかのぼって、3章23節にまで戻ります。「すべての人は罪を犯した」とパウロが言いましたが、そういうわけで、罪が世界に入り、罪によって死が広がった、とつながるのです。パウロはこれから、罪の性質に焦点を当てて語りはじめます。罪を犯すという罪の行為の前に、アダムから受け継がれてきた罪の性質がある、とパウロは述べています。これは、生まれながらにして持っている性質であり、最初の人アダムから子孫へ感染して伝わっている罪であります。ですから、私たちが罪を犯すのは、罪人だからであります。生まれながらの罪の性質を持っているので、罪を犯すのです。罪を犯したから、罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。そして、罪は必ず死をもたらしますので、死もすべての人に広がります。
というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
罪は、律法がなければ認められません。罪とは、神の言われたことに反することを行なうことだからです。ですから、モーセに律法が与えられるまでは、罪を罪と認めることができませんでした。けれども、モーセに律法が与えられる前にも人々は死んでいたので、罪があったことが分かります。したがって、アダムのように罪を犯さなかったのもかかわらず、アダムが罪を犯したことによる報酬を、私たち子孫も受けることになるのです。「善悪の木からの実を食べてはならない」という神のおきてに背いたその結果を、アダムの子孫である私たちも被らなければいけません。私たちは、アダムとともに、死んで、死んだ後に神のさばきを受けるという運命の中に入っている、というのがパウロの主張です。そうすると、私たちは、「ひどすぎる。アダムが行なったことなのに、私たちまで迷惑を被っているのか。」と考えるかもしれません。けれども、その不満は、アダムがキリストのひな型であることに気づくときには、なくなってしまいます。私たちは、罪と死においてアダムと一体化している一方で、義といのちにおいて、キリストと一体化しているのだ、というのがパウロがここで言いたいことなのです。つまり、キリストが行なわれた義が、そのような義をまったく行なっていないもの者たちにまで感染して、義といのちが与えられる、という、とてつもない恵みの中に入るのです。たった一回、キリストがこの地上で行なわれたことが、キリストを信じる者すべてに波及します。
2C 恵みの賜物 15−17
ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
パウロは、アダムがキリストのひな型であると言いましたが、もちろん、アダムとキリストの間には相違点があります。パウロは、類似点を語るまえに、まず相違点について語りはじめます。初めに、アダムは違反を行なったけれども、キリストにおいては恵みの賜物が満ちあふれる、ということです。一人の人が行なったことが、一気に広がりました。原発で働いている人の、たった一つの操作ミスによって、大ぜいの人が放射能をあびて死んでしまう可能性があるように、アダムの違反によって、多くの人が死んだのです。けれども、神においては、キリストが行なわれたことによって、私たちがまったく何も行なっていないので、そのキリストが行なわれたことにともなう祝福が、怒涛のごとく私たちに押し寄せる、というものなのです。ある小国において、原油が発見されて、その国の住民全体がまったく働かなくても裕福に暮らせるほど潤いがもたらされるように、キリストが行なわれたことによって、私たちに祝福が満ちあふれます。しかも、パウロは、「それにもまして」と言っています。たった一人の人間が多くの人を死にいたらしめるほど影響力を持っているのなら、神とキリストが行なわれたことは、どれほど私たちに影響を与えて、恵みに満たしてくださるだろう、とパウロは言っているのです。恵みは、罪と死に対して、勝ち誇っているのです。
また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。
パウロは、ふたたび、アダムとキリストとの間にある相違点をあげています。アダムによって私たちにもたらされたのは、罪に定められることです。人は死ぬことと、死後に神にさばかれることが定まっています。アダムによって、みなが地獄に行くことが定められてしまったのです。けれども、キリストによっては、義と認められることがもたらされました。罪とは大きな力を持っており、二つ、三つと言わず、たった一つの違反で死罪にあたります。他にどんなに良い行ないをしていたとしても、たった一つの罪で十分なのです。しかし、キリストにおいては、たった一つの罪どころか、私たちが犯した罪のすべてを、あの十字架の上で背負ってくださいました。イエスさまは、あなたのこの罪のために死んでくださったけれども、あの罪を犯しちゃったら、もうだめだね。地獄行きさ、とはならないのです!私たちは、すべての罪において、はっきりと、神の前では無罪判決が出ていると言うことができます。
もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
アダムが行なったことによって死がもたらされたけれども、イエス・キリストの場合は、いのちがもたらされました。アダムの違反がもたらした影響力は、とてつもなく大きいものでした。全人類が死に至るという影響力と確かさを持っていました。人間なら、人は必ず死ぬというほどはっきりしていることはありません。けれども、パウロはここでも、「なおさらのこと」と言っています。アダムという人間でさえ、これだけのことをすることができたのだから、神であられる方は、なおさらのこと影響力を与え、より確実なことを行なわれるのだ、とパウロは言っているのです。人が死ぬよりも、私たちが義と認められ、永遠の命が与えられ、神の国を相続することのほうが確実だ、と言うのです。すばらしいですね。
2B アダムと似た点 18−21
こうしてアダムとキリストとの相違点を話したうえで、なぜアダムがキリストのひな型であるか、その類似点を次から話します。
こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。
アダムとキリストが似ていたのは、一つの行為を行なったことです。アダムは、善悪の知識の木から、実を食べるという行為を行ないました。それによって、すべての人が罪に定められました。キリストの場合は、十字架の上で、血を流されて、死なれました。この一つの義の行為によって、キリストを信じるすべての人にいのちを与えることがおできになります。
すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
もう一つの類似点は、影響を受けた人についてです。「多くの人」とあります。イエスさまは、ただ一度、死なれたわけですけれども、それは、ご自分を信じるすべての人に及びます。アダムの不従順によって、見事にすべての人が罪人とされました。同じように、キリストの父なる神への従順によって、キリストを信じる者は、だれひとりとして罪人のままでいることはありません。ここで、「義人とされる」とあります。未来形になっています。義と認められる、あるいは、正しいと宣言されることは、もうすでに起こりましたが、実際に義人になるのは、主が再び来られるときを待たなければなりません。そのときに、私たちのからだが変えられて、キリストに似た者とされるのです。ある人々は、イエス・キリストを信じている者であっても、御霊に満たされていなければ、主が来られたとき取り残される、と教えます。しかし、それは、主がなされた、尊い贖いの御業を理解していないからです。アダムによって罪がもたらされたのと同じぐらい、いや、それ以上に、私たちが義人とされることは確かなのです。
そして次に、すばらしいことばがあります。律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
罪が増し加わるところに、恵みが満ちあふれました。満ちあふれたのであり、罪は恵みの中で飲みこまれてしまったのです。私たちがどんなに罪を犯したとしても、私たちが自分で赦すことのできない、ひどい罪を犯したとしても、そこには、その罪の力を完全に打ち消し、さらに義といのちで満ちあふれさせる恵みがあるのです。
それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
アダムとキリストにある最後の類似点は、支配する力です。アダムの罪がもたらした死は、だれがどうもがいても免れることのできない支配力を持っています。同じように、信仰によって義と認められた者たちが、永遠のいのちを得ることは、だれがどう反対しても、取り消すことのできない支配力を持っています。
ですから、私たちが義と認められることは、このあふれるばかりの恵みの中に入ることであります。恵みは、決して私たちの失敗によって打ち消されるものではありません。罪に神にさばかれるよりも、義と認められていることは確かなのです。また、死ぬことよりも、よみがえって永遠のいのちを持つことのほうが確かなのです。たったひとりの違反によって、これだけの影響が出たのだから、ましてや、神がキリストにおいてしてくださっていることに、影響力はないとは決して言えないのです。
私たちの喜びは、神ご自身にあります。恵み深い神と平和を持ち、この神の御胸に飛び込んでいくことであります。私たちは、どれだけ神のみもとに走っていっているでしょうか。「この小さき者のようにならなければ、神の国に入ることはできません。」とイエスさまは言われましたが、私たちはどれだけ、子どもが父親の胸に飛び込んでいくように、神のみもとに近づいているでしょうか。もう、神との隔ての壁は完全に取り壊されているのです。今まで、私たち罪の中に閉じ込めて私たちを苦しめた悪魔は、キリストのみわざにより、完全に敗北し、退散しているのです。私たちには、このすばらしい父なる神との出会い、主イエス・キリストとの出会いを、天においてすることができます。この望みによって私たちが生きるとき、私たちはこの世における患難をも喜び、その患難が忍耐を生み、イエスさまのご性質が私たちのうちで形づくられ、そのような中で、御国への希望はますます大きくなっていきます。当然のことながら、私たちは神の怒りから救われます。私たちが罪人であったときでさえも、神はキリストを死に渡されることによって、私たちを愛してくださったのですから。パウロのように、胸がはりさけるほどの喜びで、みなさんも喜んでください。