ローマ人への手紙6章 「罪からの解放」
アウトライン
1A 罪に対する死 1−14
1B 知ることによって 1−10
1C 原理 − 「死んでしまった」 1−2
2C 事実 3−10
1D バプテスマ 3−5
2D 十字架 6−8
3D 復活 9−10
2B みなすことによって 11−14
2A 神の奴隷 15−23
1B 服従による自由 15−19
2B 行き着くところ 20−23
本文
ローマ人への手紙6章を学びます。ここでのテーマは、「罪からの解放」です。私たちはローマ書において、信仰による義について学んでいます。前回学んだ5章においては、信仰によって義と認められた私たちが、キリストにあってどのような神の祝福を受けているのかについて学びました。その中に、神の怒りから救われることがありました。地獄に行かずに、天国に行くことができるという救いです。けれども、神の恵みは、そこで終わりません。私たちは、将来において救いにあずかるだけではなく、今、このときに救いにあずかることができます。それは、私たちを縛り、引きずり、苦しめてきた罪から自由になることができる救いであります。イエスさまは言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(ヨハネ8:34-36)」この自由を得たことを、パウロは6章において私たちに教えてくれます。罪からの解放です。
1A 罪に対する死 1−14
1B 知ることによって 1−10
1C 原理 − 「死んでしまった」 1−2
それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
パウロは、5章20節において、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と言いました。それを聞いて、「それでは、罪をもっと犯して、もっと恵みが増し加わるようにすればよいではないか。」という議論が持ちあがります。
けれども、パウロは答えます。絶対にそんなことはありません。そんな考えは、捨て去ってしまいなさい、と言っています。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
パウロは、罪からの解放を教えるときに、二つの根本的な原理について教えました。それは、今ここに出てきた、「罪に対して私たちは死んでいる」ということと、15節以降に出てくる、「神の奴隷とされた」ということであります。初めの罪に対して死んだ、ということですが、これは、罪が私たちを支配せずに、もはや効力を失っていることを意味しています。パウロは、6章において、このような生き方を、「いのちにある新しい歩み」とか、「聖潔に進む」と呼んでいます。神学においては、「聖化」とも呼ばれます。それは、罪に支配されるのではなく、キリストの似姿に変えられていく歩みをしていくことです。
まずここで知らなければいけないことは、私たちが罪に対して死んだのであり、これから死ぬわけでもなければ、今、死につつあるわけではないことです。もうすでに、過去において死んでしまいました。15節以降の神の奴隷とされることにおいても言えることですが、聖化とは、私たちの行ないによって勝ち得るものではない、ということです。私がクリスチャンになったとき、初めにしたことは、伝道活動でした。週の半ばにあった聖書の学びに、自分の友人を連れてきて、私はそこにただいることだけをしていました。けれども、それでも霊的な事柄に飢え渇いていた私は、なにか特別な体験を求めて祈ったり、そのような体験を受けることができると言われた集会に出席したりしました。このような活動をとおして、自分は聖くなれる、罪から自由になれると願ったのです。けれども、それは間違いでした。私たちが神の怒りから救われたのは、自分の行ないではなく信仰によったのとまったく同じように、私が聖い生き方ができるのは、これもまったくの恵みであり、信仰によることであるのです。それが、ここに書いてあります。私たちはすでに罪に対して死にました。もう私たちが、自分を聖くするために自分で行なうものは何一つなく、神がキリストにおいてすべてのことを行なってくださったのです。
2C 事実 3−10
そこでパウロは、「罪に対して死んだ」ことについて、三つの事実を私たちに伝えています。パウロは、それぞれの事実について、「知っています。」という言葉を使っています。つまり、知ることが、私たちが聖潔へと進む第一歩なのです。私たちは、福音を聞いて、それを知ったことが始まりで救いを得ました。聖めも同じなのです。三つの事実のうち、一つ目はバプテスマです。
1D バプテスマ 3−5
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
私たちはまず、私たちが受けた水のバプテスマについて知らなければいけません。パウロは、キリスト・イエスにつくバプテスマである、と言っています。5章において、私たちは、アダムが来るべき方のひな型であると学びましたが、アダムの子孫であることによって、罪と死に支配されていました。けれども、キリストを信じることによって、恵みといのちに満ちあふれました。つまり、今までは、アダムについていたのですが、これからは、キリストについているのです。キリストが行なわれたことが、私たちにも影響するのです。これはすばらしいことですね。私たちにはできなくなっていることを、キリストはすべてしてくださいました。キリストが、私たちの弱さに完全に働いてくださいます。
具体的には、パウロは、「死にあずかるバプテスマを受けたではありませんか。」と言っています。キリストは死なれましたが、そのときに、罪に支配されていた自分も死んでしまったのです。私たちを今まで苦しめ、虐げていた罪は、キリストが死なれたときに、ともに死んでしまったのです。だから、私たちを支配することが、もはやできません。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。
古い自分は、キリストとともに死んだだけではなく、キリストともに葬られました。バプテスマの水は墓場であり、その中に入ることによって、古い私は死に、葬られました。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
キリストが死なれて葬られたのは、復活するためでした。同じように、私たちが罪に対して死んだのは、新しい生き方をするためです。バプテスマの水から出てくるときに、私たちは、キリストとともによみがえったことを示しています。パウロは言いました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Uコリント5:17)」すべてが新しくなったのです。私たちクリスチャンの生活は、以前の生活からの延長線上にあるのではありません。ちょうど、川上りをしていたボートが、ナイル川のような滝にぶつかってそれ以上前に進むことができないように、ありのままの自分では、決して神の理想に到達することができないのです。一度、死ななければいけません。死んで始めて、新たな生き方をすることができます。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。パウロは先ほど、「キリストにつく」と言いましたが、ここでは、キリストにつぎ合わされている、と言っています。私たちがキリストにつぎ合わされているのなら、キリストが復活されたとき、私たちもよみがえるのだ、と言っています。復活の力が、私たちのうちにも確実に働くのです。
2D 十字架 6−8
こうして、罪に対して私たちが死んでいることについての事実は、バプテスマの中に現われていました。そして、二つ目の事実は、十字架です。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
再び、「知っています。」とパウロは言っています。クリスチャンであれば、キリストとともに十字架のことを知っています。キリストが、私たちの罪のために死んでくださったことにより、罪の赦しが与えられることを信じて、私たちは罪の赦しを得ました。けれども、十字架には、もう一つの意味があります。イエス・キリストがが十字架につけられたとき、私たちの罪のからだも、ともに十字架につけられたのです。私たちは、古い人がいかに強力であるかを知っています。クリスチャンになってから、霊と肉の戦いが自分のうちで繰り広げられているのを知っています。これほどまでに強力な古い人が死ぬには、十字架という処刑台が必要だったのです。古い人がどんなにもがいても、そこから降りてくることはできませんでした。イエスさまが降りられなかったからです。どんなにあがいて、生き延びようとしても、十字架の上での激しい痛みと呼吸困難の中でしだいに力を失い、ついに無力になってしまいました。これが、「キリストとともに十字架につけられた」ということです。このことを知らなければいけません。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
これは、実に明解な説明です。死んでしまった者は、罪を犯すことができません。誘惑を受けることができません。好色の罪を犯していた人が死んだら、その死体の周りに何十冊のポルノ雑誌を置いたとしても、何の誘惑も受けません。同じように、罪は、私たちに効力を発揮することができないのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
先ほど説明したように、死んだことによって生きることができます。キリストとともに新たな歩みをすることができます。ここで、英語ですと、”shall”という言葉が使われており、確実に生きることができるのです。
3D 復活 9−10
そして、パウロは、三つ目の事実について話します。それは、キリストの復活です。ここでも、「知っています。」という言葉を使っています。
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
キリストが復活されたとき、それは、新しいからだにおいて復活されました。他にも死んだのに生きた人たちはいました。ヤイロの娘や、ラザロなどがそうですが、彼らは生きかえったとき、生まれたときと同じ肉体でよみがえったのであり、年をとって再び死んだのです。けれども、イエスさまのよみがえりは、そのような蘇生とは異なります。それは、新しいからだであり、朽ちないからだです。ですから、もはや、キリストが死に支配されることはないことを、私たちは知っています。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
キリストは、2000年前に十字架につけられて、再び十字架につけられる必要はありませんでした。ただ一度、罪に対して死なれました。そして、今は、神の右の座におられ、生きておられます。
2B みなすことによって 11−14
このようにして、新たな歩みをするための方法、罪の中にとどまらない方法は、すでに起こった事実を知ることから始まります。聖い生き方をするのも、義と認められることと同じように、神がキリストにあって私たちのためにしてくださったことに基づいているのです。そこで、パウロは、この事実を、どのようにして当てはめればよいかを、次から説明します。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
パウロは、「思いなさい」と言っています。これは、「みなす」と言いかえることができます。英語ですと、reckonです。私たちは罪人であるのに、罪を犯さなかったようにみなされた、という言葉と、まったく同じ「みなす」が使われています。つまり、私たちが、自分の罪を赦していただくために、キリストを信じたのとまったく同じように、信じるのです。自分は罪に対して死んだ。神に対して生きた者だ、と信じるのです。信じたときに、神の御霊が私たちのうちで働いてくださり、私たちには決してできなくなっている神の命令を、行なうことができるようになります。御霊の働きについては、8章に入ったときに、詳しく述べられています。
私はある人から、自分が罪深い、家族に対して怒ってはならないときに、怒ってしまう。どうすればよいか、と相談してきた人がいました。そのときに、私は、もう罪に対して死んでいるとみなさなければいけないことを告げました。すると、その人は、「いや、自分の罪は生きている。自分のからだの中に、こんなに働いているではないか。」と反論してきたのです。そこで僕は言いました。「そりゃ、罪が生きて働くよ。だって、罪に対して死んだ、って信じていないんだもん。」その人は、自分が罪を克服できないのが問題ではなくて、神がその罪の問題を完全に処理してくださったことを信じていなかったのが問題だったのです。だから、自分の力でなんとかして、良いクリスチャンになろうとして、神さまの言われることに聞き従おうとするのですが、できないで葛藤します。けれども、みなさなければいけません。どんなに罪が私たちを引きずっていたとしても、神の御前では、すでに十字架につけられ、殺されて、葬り去られているのです。英語の賛美で、このような歌があります。”Love God. Hate sin. Reckon the old man
dead.”神を愛し、罪を憎もう。古い人を死んだものとみなそうではないか、という意味です。みなしていくことによって、新しい歩みをすることができます。
そして次に、二つ目の適用についてパウロは述べています。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
ささげなさい、という命令です。自分は罪に対して死んだとみなしていくことによって、私たちのからだに罪は働かなくなりますが、そこまででは、ちょうど、自動車のギアがバックになっていたのをニュートラルにしただけです。それからさらに一歩進んで、自分の手足を神にささげなければいけません。この「ささげる」と言うギリシヤ語は、「並んで立つ」とか、「近くに立つ」という意味があります。つまり、罪を犯させるようなつまずきの近くに立たないということです。そして、良いもののそばに立ちなさい、という命令です。例えば、自分がパチンコをしてしまって、やめられない、とします。帰り道にパチンコ店が並んでいるとします。パチンコをする誘惑に打ち勝つためには、どうすればよいでしょうか。パチンコのお店に近づいたとき、祈りをすればよいのでしょうか。聖書のことばを思い出せばよいのでしょうか。違います。パチンコがある通りをさけて帰宅すればよいのです。とても簡単ですね。これが不義の器として罪にささげてはいけない、ということです。と同時に、私たちは、義の器としてささげることができます。たとえば、このように礼拝に参加しています。これは、自分のからだを義の器としてささげていることです。多くの人は、自分が調子悪いとき、教会に行きたくないと思います。もっと、きよくなってから、霊的に良い状態のときに教会に行こうとします。間違いですね。その逆です。弱いから、礼拝に来るのです。ある牧師が、こう言いました。「神は、牧師がほんとうに弱い人間だから牧師に召したのだと思う。祈りとみことばに専念しなければ、容易に罪に陥ってしまうことをご存知で、そのような働きに召してくださった。」本当にそうだと、私は思いました。
というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
これが、パウロが、「罪に対して死んでいる」と言ったことの結論です。恵みにみちあふれる、ということは、罪をとどまるどころか、罪から解放された生活、罪から離れた生活が約束されているところに現われています。私たちは、今までの犯した罪が赦されたことについての恵み、将来、神の御国に入ることができることについての恵みだけではなく、今、日々の歩みの中で、私たちを悩ましてきた罪に対して、打ち勝つことができる恵みも与えてくださったのです。それは、キリストが私たちのためにしてくださったことを知り、また、信じ、そして、ささげることによって自分のものとすることができます。
2A 神の奴隷 15−23
1B 服従による自由 15−19
そして次にパウロは、ここで言うかもしれない人々の議論をふたたび取り上げます。それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ふたたび、「罪を犯そう」という議論を持ち出していますが、このような考えは、一切持たないこと、と言っています。そして、罪から解放されるときの新たな原則について話します。
あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
罪に対して死んでいる、という原則の次は、「神の奴隷とされた」という原則があります。私たちは、完全に主体性のある存在ではないことを知るべきです。私たちは何かの奴隷になっているのです。何かに自由にされているのであれば、他の何かに従っています。ここでパウロは、神から自由になっているのであれば、同時に罪の奴隷になっていると言っています。「クリスチャンは、窮屈で、苦しそうだなあ。自分のしたいことができないではないか。」と言います。けれども、クリスチャンは例えばこう言います。「ええ、だって、酒飲んで、酔っ払わなくたって、大声で笑えるし、自分のこと話せるぜ。お酒がなければ楽しめないの?ずいぶん、不自由だね。」ですから、神の奴隷であれば、罪から自由にされています。結局、どちらにおいても奴隷なのですが、どちらの奴隷でいるかは私たちが選択することになります。
神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
パウロは、私たちが福音の教えを受け入れたことを、「伝えられた教えの規準に心から服従している」と言っています。服従するという言葉は、何か、大変なことのように聞こえますが、私たちが福音を受け入れたとき、このことを行なっていたのです。信じるということは、その教えに服従することであり、自分の願いや思いを退けて、その教えを自分の中心に据えることに他なりません。ですから、私たちはキリストを信じたときに、神に服従したので、神の奴隷、義の奴隷となったのです。これもまた、すでに義の奴隷となったのであり、これからなるのでも、今、なっているのではありません。そこで、パウロは次の議論に進みます。
あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
パウロはここで、基本的に、「これからもあなたがたは服従しつづけなさい。」と言っています。あるいは、信じつづけなさい、ということです。福音を初めに信じたときのことを考えてください。私の場合、家族にも親にもクリスチャンがおらず、大学には新興宗教がはびこり、宗教アレルギーの学生が多い中で、クリスチャンになりました。また、これから自分で道を切り開き、企業に入り、昇進して、人々に認められるビジネスマンになるという野望も、神のみこころであれば捨てるかもしれないという決断も必要でした。あらゆる自分の願いや思惑を、聖書のことばに明け渡して、それでクリスチャンになったのです。同じようにこれからも歩んでいきます。これからも、他の人々が行なっていることや思っていることに反しても、神の呼びかけに応えていき、自分の願いや考えではなく、神の考えておられることを優先していく決断が続いていくのです。これが、パウロが話している、義の奴隷としてささげて、聖潔に進むことであります。
2B 行き着くところ 20−23
そして、パウロは次から、このように神に服従した結果、どのような状態になるのか、その行き着くところはどこであるかを教えています。
罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
初めに、パウロは、私たちがキリストを信じるまえのことを私たちに思い出させています。私たちは、神に対してはまったく自由でした。けれども、今思い出すと、とても人に話すことはできない恥ずかしいものが数多くありますね。当時は、そのように感じなかったのです。けれども、目が開かれた今は、それが暗やみのわざであることを容易に知りうることができます。そこで私たちは、そのような行ないをしつづけていたら、その行き着く先は死であったことも容易に推測することはできます。事実、その行き着くところは死なのです。
しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
罪の奴隷であれば死ですが、神の奴隷であれば永遠のいのちが与えられます。けれども、聖潔に至る実を得たから、行き着く先が永遠のいのちである、という因果関係に注目してください。聖潔に進んでいることと、永遠のいのちが与えられることは、切っても切り離せないものなのです。したがって、クリスチャンになってから、聖い生き方を求めずして、天国に行けると考えるのは、明らかに間違いです。信じたら、どんなに罪を犯しても神に赦されているのだから天国に行ける、と教える人がいますが、聖書に照らすと明らかに間違いです。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(Tコリント6:9-10)」とパウロが言いました。神の奴隷とされているのですから、必ず聖潔の実を結ぶのであり、聖潔の実が結ばれる結果として永遠のいのちを持ちます。
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
ここで二つのことが対比されています。報酬と賜物です。私たちは罪を犯すことにより、その当然の報いとして死に至ります。けれども、永遠のいのちを持つときには、私たちが行なったことではなく賜物として受け入れるのです。神は、イエス・キリストにあって行なわれたものを、私たちに与えてくださいます。それを受け取るのが私たちの仕事であり、私たちがしなければいけないことは、唯一、信じることなのです。
ですから、聖潔に進むことは、完全に神の恵みなのです。私たちが行なうことではなく、神がキリストを通して、すでに行なってくださったことなのです。古い自分はもうすでに、キリストとともに死にました。また、もうすでに、神の奴隷とされました。私たちは、これからもこのことを信じつづけ、受け取りつづけていきます。信じるときに、神の御霊が私たちのうちで働いてくださり、私たちが自分ではできなくなっていることを行なってくださるのです。どうぞ、この新しい歩みの中に入ってください。自分がこれまで克服できなかった罪、悪習慣、それらをどうか、もうすでにキリストともに十字架につけられたことを信じてください。ただ信じるだけなのです。死んでいるとみなすだけで、私たちのうちで、神の御霊が、聖めの働きを行なってくださいます。問題は、自分の意思力が弱いからではなく、この御霊の働きの中に入っていなかったからです。神が用意されている義の賜物を受け取っていないからです。けれども、神の賜物として受け取るときに、神が私たちのうちで、新鮮な御霊の働きを行なってくださいます。