テトスへの手紙1章 「仕事の整理」

アウトライン

1A みことばの宣教 1−4
2A 長老の任命 5−9
3A 反抗者への戒め 10−16

本文

 テトスへの手紙を読みます。今日は1章を学びます。ここでのテーマは「仕事の整理」です。5節のところに、「私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし」とあります。

 テトスへの手紙は、テモテへの手紙と同じように、牧会書簡と呼ばれています。パウロの信仰による子どもで、パウロとともに同行していたのが、このテトスでした。彼は、コリント人への第二の手紙でたくさん出てきますが、コリント人への手紙をコリントに持っていったのは彼ですし、またエルサレムにある教会のために、コリントで醵金したのも、テトスでした。彼はギリシヤ人であり、ガラテヤ書では、彼に割礼を強いる偽兄弟たちに、一歩たりともゆずらなかったとパウロは言っています。

 テトスは、テモテと同じように、問題を持っている教会において、その秩序を取り戻すためにパウロによって遣わされました。場所はクレテ島です。そこでパウロは、テトスに残された仕事の整理をさせ、秩序を取り戻させようとしたわけです。この、初代教会で起こった問題は、現代においても続いています。教会でさまざまな問題が起こり、牧師も教会員によって追い出されて、収拾がつかなくなっているとき、他のだれかがその教会の建て直しのために遣わされることがあります。企業では「再建」という言葉がありますが、教会の再建をするために送られた人、それがテトスです。それでは本文を読みましょう。

1A みことばの宣教 1−4
 神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ・・私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。

 パウロのいつもの手紙の書き出しですが、初めに「神のしもべ」と自分を呼んでいます。これは神の奴隷ということであり、卑しい仕事でありますが、かつ、特権ある務めでもあります。かつては、モーセも「神のしもべ」と呼ばれました。そして、「イエス・キリストの使徒パウロ」です。「使徒」の意味は、「遣わされる者」ということです。パウロは、イエス・キリストを代表する者として、その権威によって遣わされた、キリストの大使です。そして、これが神に選ばれた人々の信仰のためであり、そして、「敬虔にふさわしい真理の知識とのため」とあります。これは大事ですね。真理の知識は、必ず人を敬虔へと導きます。真理の知識によって、その人がますますキリストに似た者とされ、神に似た者とされるとき、その知識は神から来たものであることを知ります。「知識」とか「霊知」と呼ばれているもので、そのような敬虔という実を結ばせるものでなければ、それは偽りです。

 それは、偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。

 パウロは、「選ばれた人々の信仰のために」と今、言いましたが、その選びがどのように行なわれたかが、ここに書かれています。「偽ることのない神が」とあります。神は嘘を尽くことがおできにならない方です。ひとつだけ、私たち人間に行なうことができ、神にできないことがあります。それは嘘を尽くことです。神は真実をお語りになることしかできません。そして、神は、「永遠の昔から約束してくださった」ものがあります。永遠の昔から、私たちに約束されているのです。私たちが何かを行なったからでもなく、天地が創造されて、その後に起こったことによって約束されたのではなく、永遠の昔から約束されました。つまり、神は、あらかじめ人を選びに定めておられる、ということです。そして、その約束とは、「永遠のいのちの望み」です。神と永遠にともにいることが、永遠に続きます。このような祝福が、永遠の昔から約束されていて、偽ることができないのですから、なんとすばらしいことでしょうか!私たちの救いは、これほど確かなのです。

 神は、ご自分の定められた時に、このみことばを宣教によって明らかにされました。私は、この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、ゆだねられたのです。

 「ご自分の定められた時に」とは、キリストがこの世に遣わされたその時です。キリストが死に、よみがえらえ、天に昇られた後に、聖霊が弟子たちに臨まれました。そして宣教がはじまったのですが、これが、神が定められた時です。そして、この永遠の計画が、「みことばの宣教」によって明らかにされた、とパウロは言っています。このことは大事ですね。テモテへの手紙でも強調されていましたが、みことばを宣べ伝える務めです。ただみことばを語っていくことによって、この偉大な神の選びのご計画を知ることができるのです。キリストの栄光、みわざ、みこころ、ご性質、これらのものはみな、みことばがまっすぐに説き明かされるときに、聞いている一人一人に明らかにされていきます。そして、パウロは、父なる神を「救い主なる神」と呼んでいます。これは、テモテへの手紙でも同じでした。父なる神は救い主です。

 ・・・このパウロから、同じ信仰による真実のわが子テトスへ。

 テモテと同じように、テトスもパウロにとって信仰の息子でした。これはすばらしいことです。自分の伝道のことばによって救われて、自分のみことばの教えによって、養われて訓練を受けて、そしてともに労するような人が出てくるとき、その人は自分のとっての信仰の息子と言えるでしょう。

 父なる神および私たちの救い主なるキリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。

 ここでは「救い主なるキリスト・イエス」とありますが、先ほどは「救い主なる神」とあり、父なる神とキリスト・イエスが同じ救い主にされています。これはまぎれもなく、父なる神とキリストが同等であることを意味しています。そして、ここでは「恵みと平安が」とありますが、異本では「恵みとあわれみと平安がありますように」となっています。テモテへの手紙でもそうでした、牧会者にとって必要なのは「神のあわれみ」です。神の恵みと平安はもちろんのこと、あわれみによって生かされ、福音の働きのために専念することができます。

2A 長老の任命 5−9
 あいさつが終わり、本題に入っていきます。私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。

 先ほども説明しましたが、「仕事の整理」というのは、事務的な仕事のことを意味しているのではなく、教会の秩序の、建て直しのことです。この建て直しのために、テトスは「町ごとに長老たちを任命する」ように、パウロから指示を受けていました。長老の存在によって、教会の乱れが正されていきます。

 それには、その人が、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であることが条件です。

 パウロはこの節と次の節で、「非難されるところがない」という条件を書いています。この節では、家庭において非難されることがない、ということです。妻がおり、その子どもが不品行を行なってしまったり、反抗的な子であってはいけません。そして信者であることが条件です。後で読みますが、クレテでは、まさに「悪いけだもの」のような者、反抗的な者がいたので、そのような子供に対する条件も加わったのでしょう。

 監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、

 パウロは「長老」を次に「監督」をいい換えています。長老は、霊的権威があるということですが、監督は、文字通り教会を監督するという意味合いがあります。けれども、これは同一人物です。監督は非難されるところのない者であるべきですが、第一に「わがまま」であってはいけません。自分を喜ばすことを求める人ではないこと。第二に「短気」ではないことです。喜怒哀楽は神から与えられた、感情です。怒りも、不正や不義に対して抱くべく感情です。しかし、自分の正しさを求めるために怒りを爆発させるなら、ここで言う「短気」になります。次に、「酒飲み」ではなく、「けんか好き」ではないことが条件です。初代教会のときには、このようなけんか、あるいはなぐりつけることが頻繁に起こっていた環境があったと、考えられます。そして「不正な利を求めず」とあります。お金について、きちんとしていることです。

 ここまでは、消極的側面でしたが、次は積極的側面です。かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、

 旅人をもてなします。監督は、完全に内気な人はなれないでしょう。人々をもてなすことができる人でなければいけません。次は「善を愛し」ですが、善き人、善き物を自分の周りに置こうとする人です。そして「慎み深く」は、酔っていないという意味もあります。お酒を飲まず、思考が明晰である、ということです。そして「正しく」とは、実直であり潔癖であるということです。自分が言った言葉が、人々に信頼されており、自分の行いと言葉が乖離していないことです。次の「敬虔」は、「聖い」といい換えることができます。他の人と異なる。世の人と違った生活をしている。神の人だ、という評価です。それから「自制心があり」とありますが、自分の財産、時間、欲求もろもろを管理できている状態です。

 教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。

 長老は、しっかりと教えることができる人でなければいけません。けれども、6節から8節までにおいては、家庭における生活、個人の生活がその条件となっていることに注目せねばいけません。なぜなら、教会ではとかく、「賜物」いや「能力」中心に考えてしまいがちであり、その人に与えられた能力を使いたいために、教会の奉仕につかせることがあります。しかし、奉仕の務めは、その人の敬虔さという土台があって、はじめてあてがわれるものなのです。私が宣教会議に参加したときに、指導者が現地の人々を訓練し、リーダーとして養うときに、もっとも大事にしなければいけない要素は、「キリストの似姿に変えられる」ことであるということでした。もし、その人が生活において変えられていなければ、教会が後にたいへんな混乱に陥る、という警告でした。ですから、ここでも、生活が重視されているのです。

 それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。

 長老は、しっかりと教えられる人でなければならず、それは健全な教えのためであり、また反対者を正すための教えであると言っています。教えるという能力は、ほんとうに大切です。教える務めによって、人々を励ますことができます。また、みことばによって人々が養われて、なにが良くて悪いのかその判断を自分でつけていくことができます。そこで、反抗する者たちを矯正することができるのです。

3A 反抗者への戒め 10−16
 実は、反抗的な者、空論に走る者、人を惑わす者が多くいます。特に、割礼を受けた人々がそうです。

 このような者が過去だけのことではないことを、私たちは知っておいたほうが良いでしょう。権威に対して反対する者、実のない議論をふっかけてくる者、また人を惑わす者は、いつでも、どこでも出没します。そしてパウロは、「割礼を受けた人々」と言っていますが、いわゆるユダヤ主義者のことです。割礼を受けなければ救われないと言ってみたり、律法を守ることをことさらに強調する者たちでした。

 彼らの口を封じなければいけません。彼らは、不正な利を得るために、教えてはいけないことを教え、家々を破壊しています。

 偽りの教えをするのは、いつも「不正な利」を得たいからです。不正な利、敬虔を利得の手段であると思うことなど、使徒たちの手紙には、偽教師と利益とを深く結び付けています。現代のキリスト教の動きで、その目的が金銭的な利益になっていることがあります。また、ビジネスと教会をくっつけることもあります。これは危険なことです。私たちのミニストリーは、まず与えるのであって、受け取ることではありません。与えたいという動機、また与えているという実際が、ミニストリーの正統性をはかる材料になります。

 そしてここに、「家々を破壊しています」とありますが、これは初代教会では家々がその礼拝の場所でした。

 彼らと同国人であるひとりの預言者がこう言いました。「クレテ人は昔からのうそつき、悪いけだもの、なまけ者の食いしんぼう。」

 クレテ人のこの描写は、他のギリシヤ語の文献においても確認されているそうです。うそが多く、けだもので、なまけ者です。

 この証言はほんとうなのです。ですから、きびしく戒めて、人々の信仰を健全にし、ユダヤ人の空想話や、真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。

 テモテへの手紙にも、「戒める」とか「責める」という言葉が出てきましたが、それを行なうことで、人々の信仰が健全になります。そして、「ユダヤ人の空想話」とありますが、テモテへの手紙では「系図」に関わることとありました。現在でも、ユダヤ人についての議論を耳にします。現代のユダヤ人は本当のユダヤ人ではない、というような類いの議論であり、これを続けると、なにがなんだか分からなくなるような、迷宮入りの議論へとなってゆきます。まさに、「ユダヤ人についての空想話」なのです。このようなもの、実質のない教えには、「心を寄せてはいけない」という戒めです。

 きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。

 これは、食物についての規定です。割礼を受けている者たちが、律法をつかって、これを食べてはいけない、食べてよいなどと、食べ物にきよいものと汚れた者を区別しようとしていました。しかし、食物は祈りと神のみことばによって、きよめられる、とテモテへの手紙にありました。ですから、きよいのです。汚れているのは、食物ではなく、彼らのほうです。彼らの不信仰が彼らを汚しており、知性と良心までも汚れています。

 彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。

 実に重要な言葉が出てきました。「神を知っていると口では言っているが、行ないでは否定している」ということです。テトスの手紙では、「良い行ない」が繰り返して用いられています。神の救いにあずかった者が、良い行ないに励むことが勧められています。クレテ人は、それまで悪い行いで知られていました。けれども、キリストの尊い贖いによって、彼らは変えられた者となり、良い行ないに励む者とされたのです。ですから、良い行ないが強調されています。反抗的な者たちは、口は達者だったけれども、この行ないがなかったのです。

 そして、これは「忌まわしく、不従順で、良いわざに不適格」とあります。最後の不適格とは、向上の製品で試験に合格せず不適格になる、という意味の不適格です。私たちが、信仰者として、良いわざを生み出していないことについて不適格だとパウロは言っています。


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