テトスへの手紙2章 「健全な教え」


アウトライン

1A 慎み深い生き方 1−10
   1B 年上の人に対して 1−3
   2B 若い人に対して 4−8
   3B 奴隷に対して 9−10
2A 神の恵みの現われ 11−15


本文 

 テトスへの手紙2章を開いてください。ここでのテーマは、「健全な教え」です。

1A 慎み深い生き方 1−10
1B 年上の人に対して 1−3
 しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。

 「しかし」という言葉から始まっています。私たちは前回1章にて、クレテ島にいる人々が、どのような人であり、その教師たちがどのような者たちであったかを読みました。「『クレテ人は昔からのうそつき、悪いけだもの、なまけ者の食いしんぼう。』この証言はほんとうなのです。ですから、きびしく戒めて、人々の信仰を健全にし、ユダヤ人の空想話や、真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。(テトス1:12-16」このような彼らの忌まわしい行ないに対比させて、テトスは今、「しかし」という言葉を使っています。そして、パウロは、「健全な教え」と言っています。肉体が健康であるように、霊的にも健康な状態が「健全」です。健全な教えがどのようなものであるかを、具体的に教えています。

 老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。

 パウロは二節と三節にて、年上の男女に対して、どのように教え、勧めなければいけないかを教えています。教会の中における、年を取った人たちの役割はたいへん大きいです。彼らが、俗悪になり、教会に汚れをもたらすことは非常に容易でありますが、敬虔な老人、老婦人が、教会にもたらす良い影響は測り知ることができません。それが、ここで列挙されている、自制、謹厳などです。

 自制」は、文字通り自制ですが、とくにお酒において自制心を持ち、酔いしれないことを意味しています。次に「謹厳」です。これは、「まじめで、おごそか」という意味です。けれども、これは少しも笑わない、気難しいことを意味しています。クリスチャンとして長い年月を生きてきて、多くの経験を経て、そこからにじみ出てくるところの謹厳さです。ですから、年老いた人たちには教会において大きな役目があり、牧師を助け、その他の人々を助け、教える威厳を持っています。次に「慎み深さ」です。これは、自分に与えられている自由を、自分の好きなように用いるのではなく、自分を律することを知っていることです。あるいは、人生のことを真剣に考えており、軽率にならないであること、とも言えます。この性質は、若い人々にも、またすべての人に求められる性質であり、テトスの手紙2章だけでも、5回出てきます。けれども、年を取った人ほど、自分に何ができるか、できないかをよくわきまえており、時間を何に費やせばよいかを、よく知っているはずです。キリストにあって、その年の功を用いていくべきなのです。そして、「信仰と愛と忍耐において健全であるように」と言っています。何を信じているかについて、健全でなければいけません。聖書のことをよく知っている必要があります。また、神を愛して、人を愛することが何であるかも知っているでしょう。忍耐も同じです。

  同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。

  次は、年をとった婦人です。まず、「神に仕えている者らしく敬虔にふる」まう必要があります。ここでの「敬虔」とは、神聖さを意味します。昔、テレビ番組で、青島由紀夫が演じる「いじわるばあさん」という番組がありましたが、おばあさんが意地悪をするというのは、見ていてみにくいですね。けれども、年をとった婦人は、そのキリストとの歩みと、祈りの生活によって、ほんとうに敬虔な人がたくさんいます。宝のように輝くか、俗悪になるかは、その人次第です。そして、「悪口を言わず」とあります。これは、前にもお話しましたが、「悪霊する」とも訳すことができるギリシヤ語であり、偽りの告発をすることは悪魔、悪霊のすることなのです。根拠のないうわさを言い広め、もてあました時間を費やしてる人ほど、醜いことはありません。けれども、その時間を祈りとみことば、また良い行いにささげている老婦人ほど、美しいことはありません。「大酒のとりこにならず」とありますが、年とった婦人がお酒をたくさん飲んでいることが、クレテ島では当たり前に行なわれていたのでしょう。

 そして、「良いことを教え」とあります。霊的な老婦人が持っている財産はここにあります。主にあって、経験してきたことに基づいて、さまざまな良いことを教えることができます。今まで自分が通ってきたことが、主にあって何の意味があったかを知ることができています。私の牧師はチャック・スミスですが、彼は今年で73歳のはずです。彼は若い牧会者たちに、自分が通ってきた失敗を話してくれて、その失敗を通らないでほしいという老婆心から、いろいろな知恵に満ちた忠告を与えてくれます。

2B 若い人に対して 4−8
 そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。

 ここには、若い婦人、とくに家族を持っている婦人に対しての健全な教えです。まず、「夫を愛し、子どもを愛し」ます。これが、婦人に与えられている大きな務めです。アダムの助け手として作られたエバにならい、女性は、家族のために動くことで、神さまが女性を造られた目的が達成されます。次に、「慎み深く」とあります。先ほどの2節にあった、慎み深いと同じギリシヤ語です。婦人は、男と女の間にある秩序を重んじます。テモテへの手紙にも、女は静かにして黙っていなさい、とパウロはテモテに教えていたところがありましたね。むしろ、良い行ないによって自分の身を着飾るときに、その人の美しさが表現されます。そして「貞潔で」とあります。これは、文字通り「貞潔」であり、自分を不品行によって汚すことがない、ということです。とくに若い婦人にとっては、この特質は必要です。そして、「家事に励み」とあります。今、共働きが多くなっていますが、しかし家族にとって、また子供にとって、神のことばがここにあるように、女性が家事に専念することが理想です。私の母は、私が小学生のときに仕事をしていましたが、教育上良くないとのことで、中学に入学したときから専業主婦になりました。今、そのことを神に感謝しています。そして、「優しく」とあります。これは、単純に「良い」と訳せる言葉です。人々に良くしてあげる、ということです。

 そして最後に、「夫に従順である」ことです。私も、従順な妻を持つことができて、神に感謝しています。従順であるというのは、すべての面において盲従するということではありません。男が、神に与えられた召しと仕事をしっかりと果たしていくことができるよう、その助け手として徹していくことです。男は、そのことによって、神からの務めが何であるかを明確に理解することができ、そして、その務めに専念することができるようになります。けれども、もし妻が独立的で、夫のすることに協力的ではなく、批判したり、反対したりしたらどうなるでしょうか?これは、クレテの人たちが頻繁に行なっていたことでしょう。ですから、「神のことばがそしられる」ことになります。健全な教えは、良い行ないによって保たれるのです。

 このように、年とった婦人が若い婦人に教えさとすことができます。同じように、若い人々には、思慮深くあるように勧めなさい。

 
若者に必要なのは「思慮深さ」です。よく考え、正しい判断をし、また自分を制することができることです。若者に必要なのはしばしば情熱であると言われますが、それは違いますね。ダビデが若いとき、ダニエルが若いとき、その他の神の人が若かったときに、彼らはその思慮深さのゆえに、良い評判を持っています。ダビデのゴリアテに立ち向かう勇敢さ、サウルのもとで仕える勤勉さとへりくだり、これはみな若いときのことです。ダニエルも、バビロンで仕えていたのはとても若かったですね。経験は少ないですが、思慮深さにおいて、健全な教えの中に生きていくことができます。

 また、すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち、非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。

 若い人が身につけることができるのは、「良いわざの模範」です。自分が、「これを行ないなさい」と命じなくとも、自分がしていることを見て、人々がならっていくことができるものを、若い人は持っていくことができます。イエスさまが、そうでした。もちろんイエスさまは神の御子ですが、けれども人間としては30歳そこそこ、私とほとんど同い年でした。けれども、だれもイエスさまを非難できる者はなかった、ということを考えると、イエスさまが若い人たちのモデルとなるのです。そして、「教えにおいては純正で」とあります。汚れていない、曲がったことを教えていないということです。そして「威厳を保ち」とあります。良い模範、純正な教えによって、内側から出てくる霊的権威があります。これに、どのような世代の人々も従っていかなければいけません。内実をともなったところにこそ、威厳があります。そして、「健全なことばを用いなさい」とありますが、これも、曲がったところのない、まっすぐに真理のみことばを説き明かすことばです。

 そうすれば、敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう。

 イエスさまご自身がそうであったように、どのようなことを言い、行なっても、それに反対する人々は現われます。けれども、イエスさまが本当に過ちを犯したとか、受けるべき正当な非難というものは、一つも見出されませんでした。同じように、敵対する者の口を封じ込めるのは、この良い行ないそのものであります。

3B 奴隷に対して 9−10
 そしてパウロは、奴隷に対しての健全な教えを語ります。奴隷には、すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、盗みをせず、努めて真実を表わすように勧めなさい。

 ここにクリスチャンが会社において、果たすべき職業倫理が書かれています。その会社でよい成果を得るよう全力を尽くすこと、これがクリスチャンに求められていることです。満足を与え、口答えをしてはいけない、とパウロは言っています。クレテにいる偽教師たちは、「反抗する」ことが特徴的でしたが、健全な教えでは、「従順である」ことがその特徴です。そして、「盗みをせず」とあります。次の手紙、ピレモンへの手紙が、そのことについて取り扱っています。ピレモンの奴隷オネシモが、ピレモンのものを盗んでしまったというのがその背景です。私たちも、会社にあるものを自分のものとして着服してはいけません。そして、「努めて真実を表すように」とあります。ごまかしてはいけない、ということです。日本ではこのごろ、上司が部下に嘘をつくように教えている節がありますね。ここで、クリスチャンの職業倫理として貫かなければいけないことです。真実を尽くすのですから、ごまかしてはいけません。

 それは、彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。

 ここの「神の教えを飾る」というのは、装飾品を自分の身にみにつけるというギリシヤ語が使われています。「私たちの救い主である神の教え」とありますが、私たちを神が救ってくださった、という基本的な教えは、私たちが良い行ないをすることによって、初めて明らかにされるのです。

2A 神の恵みの現われ 11−15
 そこでパウロは、このことを次の節から説き明かします。というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、

 私たちは、恵みによって、また信仰によって救われました。それは、私たちの行ないではなく、神の賜物であると、パウロはエペソ人への手紙2章において語りました。まさに、そのとおりです。罪の中で死んでおり、悪魔の思うままにされており、ただ神の怒りを受けるしかなかった私たちを、神はご自分のあわれみのゆえに、私たちをキリストとともに生かし、天のところにすわらせてくださいました。これはみな、神の恵みによる救いです。そこで、次からが大事です。では、何から救われたのでしょうか?罪と死と地獄から救われました。ですから、パウロはここで、「不敬虔とこの欲の欲とを捨て」と言っています。不敬虔とこの世の欲から救われたのですから、救われた人とは、「この時代にあって、慎み深く、正しく、経験に生活し」ている人なのです。

 しばしば使われることばがありますね。「クリスチャンは、ただ罪赦されただけで、罪人です。」その通りなのですが、しかし、これを私たちが人々に非難すべきことを行なっているときの言い訳に使っています。「ただ救われた者」と言っていますが、それは、ここのパウロの言葉と真っ向から対立するのです!天国に行く切符を受け取るのではなく、「この時代にあって」慎み深く、正しく、敬虔に生きるのです。ヤコブは、「行ないのない信仰は死んでいる」と言いました。パウロも、「恵みが増し加わるために、罪を犯そうと言うのですか。絶対にそんなことはありません。」と断言しています。罪に対して死んだのだから、罪の中に生きることなど、できようか?と言っています。

 祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。

 パウロの手紙が次のピレモンへの手紙で終わりますが、彼が何回も何回も繰り返し語っていたのが、この主の再臨の希望です。これは、私たちがこの時代にあって、敬虔に正しく生きていくためには、絶対になければいけない希望であり、信仰です。もしこの希望がなければ、その人はこの世にあって、肉の欲にしたがっていきるか、あるいは、御霊ではなく、自分の行ないによって救いを達成させようとするでしょう。愛と信仰と忍耐において健全であるためには、主イエス・キリストの現われの栄光を待ち望むことが必要不可欠なのです。

 ところで、ここで、「大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリスト」とありますね。エホバの証人の人が家の戸を叩いてきたときにでも、使ってください。イエスさまが、はっきりと「大いなる神」であると宣言されている個所です。

 キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

 パウロは、同じことを繰り返しています。神の恵みによって、私たちが救われましたが、ここでは、「キリストが私たちのためにご自身をささげられた」と言っています。イエスさまが、贖いの代価として、ご自分のいのちをおささげになりました。私たちクリスチャンは、「贖い」という概念をしっかりと把握している必要があります。贖いとは、買い取るということです。購買するということです。ある物品をその所有者から、代価を支払って、自分の所有物とするということです。私たちはかつて、罪の奴隷でありました。しかし、イエスさまは、ご自分の流された血を代価にして、私たちを買い取ってくださいました。したがって、私たちはもはや私たちのものではなく、神のものであり、キリストのものなのです。キリストは、これほどまでに、私たちのことを愛し、慕っておられます。

 その目的は、「不法から贖い出」すことです。今、スーダンでは、未だに奴隷制度があります。そこで、クリスチャンの宣教団体は、奴隷として売られている子供たちを買い取って、自由にします。そのような恐ろしい奴隷状態から、贖い出したのです。同じように、私たちも不法から贖い出されました。だから、不法を行なうということは、もってのほかなのです。これは、救われるという言葉と、まさに反対語なのです。

 そして、パウロは、「良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」と言っています。私たちは不法からきよめられました。そして今は、ご自分の民とされて、その民は良いわざに熱心であることが証しされます。このように、神の恵みの救いと、贖いは、密接に良い行ないにつながっているのです。

 あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。

 テトスは、テモテと同じように若い牧者です。ですから、年が若いからといって軽んじられていたことでしょう。クレテにおいて、年を取っている人々が忌まわしい行ないをしていて、テトスが戒めても、それを「若者のくせに」という侮蔑の態度によって、あしらっていたかもしれません。職業倫理においても、何も言い返さず、真実を尽くすことなど、馬鹿馬鹿しいこととあしらわれたかもしれません。けれども、これらのことは健全な教えにかなうことだから、十分な権威をもって話し、勧め、また責めます。

 この「十分な権威をもって話し、勧め、また責めなさい。」ということばも、終わりの時に生きる者として、非常に重要なことばです。これまで、当たり前とされていた、敬虔をともなう生き方が、もっとも悪い生き方のように描かれます。これまで、イエス・キリストこそが大いなる神であり、この方以外には、だれも救いを与えることができないことを語ることが許されていましたが、世界は今や、これをもっとも独善的なこと、分裂や争いをもたらすものだとして、敵対視しはじめています。曲がった教えを説く者たちが現われ、それが間違っていると言ったら、「あなたは分裂をもたらしている」「反抗的だ」「そんなに頑なだから、問題なのだ」と、公然とあしらわれます。もはや、論議できる時代ではなくなったのです。このときに必要なのが、「十分な権威をもって話し、勧め、また責める」ことです。神のみことばを、はっきりと宣言し、まっすぐに説き明かすこと、これだけが救いの道です。

 神の恵みの救いが、良いわざに熱心にさせます。これが「健全な教え」であり、教えとは、知的な教理ではなく、その人が生きることを意味します。 


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