歴代誌第一14−16章 「主への歌」
アウトライン
1A 盛んになる王権 14
1B ダビデ家 1−7
2B 強敵への勝利 8−17
2A 神の箱の移動 15
1B レビ人の任命 1−15
2B 歌うたい 16−29
3A 箱の前での奉仕 16
1B 祝宴 1−7
2B 賛美 8−36
3B 日課 37−43
本文
歴代誌第二14章を開いてください。今日は14章から16章までを学んでみたいと思います。ここでのテーマは、「主への歌」です。
1A 盛んになる王権 14
1B ダビデ家 1−7
14:1 ツロの王ヒラムは、ダビデのもとに使者を送り、ダビデの王宮を建てるために杉材、石工、大工を送った。14:2 ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立て、主の民イスラエルのために、彼の王権がいよいよ盛んにされているのを知った。
前回、ダビデがイスラエル全体の王となったところを学びましたが、その時イスラエルの北にあるツロ(現代のレバノン)の王ヒラムは、ダビデと友好な関係を持っていました。そこで、新しく王となったのだから王宮を造りなさい、ということで、その材料や技術者を送りました。このような出来事から、ダビデは主が王国を栄えさせることを知るようになりました。
14:3 ダビデはエルサレムで、さらに妻たちをめとった。ダビデはさらに、息子、娘たちを生んだ。14:4 エルサレムで彼に生まれた子の名は次のとおり。シャムア、ショバブ、ナタン、ソロモン、14:5 イブハル、エリシュア、エルペレテ、14:6 ノガハ、ネフェグ、ヤフィア、14:7 エリシャマ、ベエルヤダ、エリフェレテ。
宮殿だけでなく、多くの子を持つようになりました。
2B 強敵への勝利 8−17
14:8 ペリシテ人は、ダビデが油をそそがれて全イスラエルの王となったことを聞いた。そこでペリシテ人はみな、ダビデをねらって上って来た。ダビデはそれと聞き、彼らを迎え撃ちに出た。14:9 ペリシテ人は来て、レファイムの谷間に突入した。
覚えていますか、ダビデは比較的最近までペリシテ人の王アキシュの下で働いていました。けれども今、彼は全イスラエルの王となっています。そこで彼らはダビデはもはや自分たちの家臣でもなければ、仲間でもない、我々の敵になったと考え、急襲を試みたのです。主が国を盛んにされるときに、このように敵が出てきました。私たちの生活も、神の御霊が導かれるときに必ず、これまで私たちを支配してきた敵である悪魔が挑みかかってきます。
14:10 そこで、ダビデは神に伺って言った。「ペリシテ人を攻めに上るべきでしょうか。彼らを私の手に渡してくださるでしょうか。」すると主は彼に仰せられた。「上れ。わたしは彼らをあなたの手に渡す。」
前回の学びで、全イスラエルがダビデを王にした後で彼が初めに行なったことが、神の箱をダビデの町エルサレムに持ってくることでしたが、彼の生活の中心は神ご自身でした。これは決まった宗教行事として儀式的に行なうのではなく、戦いという実際の場においても中心だったのです。いざ戦わなければいけないというときに、彼は自分の判断や能力に頼むのではなく、まず主に伺いました。
14:11 それで、みなはバアル・ペラツィムに上り、ダビデはそこで彼らを打った。そして、ダビデは言った。「神は、水が破れ出るように、私の手を用いて私の敵を破られた。」それゆえ、その場所の名はバアル・ペラツィムと呼ばれた。14:12 彼らが自分たちの神々を置き去りにして行ったので、ダビデは命じて、これを火で焼いた。
敵が置いていったものは普通、略奪物として普通は取っていくのですが、神々つまり偶像であったのでダビデはそれを焼きました。私たちは、「どこかにこれ売れば、お金になるんじゃないか。」なんて計算してしまうかもしれませんが、主にあって捨てなければいけないものは捨てる潔さが必要です。
14:13 ところがペリシテ人は、なおもまたその谷間に突入して来た。14:14 そこで、ダビデがさらに神に伺ったところ、神は彼に仰せられた。「彼らを追って上って行くな。彼らには面と向かわず、回って行き、バルサム樹の林の前から彼らに向かえ。14:15 バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえたら、そのとき、あなたは戦いに行け。神はすでに、ペリシテ人の陣営を打つために、あなたより先に出ているから。」14:16 ダビデは、神が彼に命じたとおりにし、彼らはギブオンからゲゼルまでのペリシテ人の陣営を打った。
ダビデは一回目の急襲のときに、すでに主に伺ってペリシテ人を打つように命じられましたから、二回目も主が言われたのだから、ということで攻め上ってもよかったものです。しかし、彼は再び伺いを立てました。そうしたら、私たちの思惑とは裏腹に、主は攻め上らないで待ち伏せしなさい、という指示をお与えになりました。
私たちは、この二度目の伺いを怠る傾向があります。一度、主によって示されたことを行なっていくときに、それを一定のものにして、法則化してどんどん動いていきます。けれども、主が与えられるのは目的だけでなく、手段もそうなのです。私たちが一歩一歩、進んでいくときに、主がどうお考えになっているのか聞いていく必要があり、これが御霊に導かれることです。
14:17 こうして、ダビデの名声はあまねく全地に及んだ。主はすべての国々に、彼に対する恐怖を起こされた。
このとき以来、イスラエルを悩ましていたペリシテ人の脅威は激減しました。思い出してください、ヨシュアが死んでから以後のイスラエルの歴史では、海岸南部地域を支配していたペリシテ人が、いつも自分たちを悩まし、また支配していた敵でありました。今ここで無敵とされていたペリシテ人が、ダビデの一撃によって敗退したので、このことがあらゆる国々に伝わりました。歴代誌の著者は、これらはすべて主が行なわれたことであり、この出来事によって国々がダビデに敵対したり対抗したりすることがなくなったこと言及するのを忘れていません。
2A 神の箱の移動 15
1B レビ人の任命 1−15
15:1 彼はダビデの町に自分のために家を造り、また、神の箱のために場所を定め、そのために天幕を張った。15:2 そのとき、ダビデは言った。「レビ人でなければ、神の箱をかついではならない。主は、主の箱をかつがせ、とこしえまでも、ご自身に仕えさせるために、彼らを選ばれたからである。」
前回の学びの続きです。ダビデがエルサレムに神の箱を移動させようとしたとき、ペリシテ人がかつて移動させてきたように、新しい車に乗せて運ぼうとしました。でこぼこ道にさしかかって契約の箱が倒れそうになると、ウザが手を出して箱に触れました。そのときに主の怒りが下って、彼が死んでしまいました。
ダビデは、この衝撃的な出来事を通して、神さまを喜ばせるためには、方法においても神が定められた方法を取らなければいけないことを学びました。モーセの律法を読んだのでしょう、そこには契約の箱には棒がついていて、それをいつも外してはならず、移動させるときにはその棒をつかって、箱に触れることなくレビ人が運ばなければいけないことが書かれています。ダビデは、レビ人が神によって選ばれていることを知り、そこでレビ人を呼び集めます。
先にも話しましたが、神は目的だけでなく手段も定めておられます。ですから神に対して熱心なだけでなく、御霊が働かれるように神が定めた方法にも注目しなければいけません。例えば伝道することは神のみこころですが、伝道方法を企業が行なっている広告戦略を採用すべきでしょうか?いいえ、必ずどこかで行き詰ったりつまずいたりするでしょう。時が良くても悪くても、みことばをまっすぐにしっかりと宣べ伝えること、これが神の方法です。
15:3 ダビデは全イスラエルをエルサレムに呼び出して、主の箱を定めておいた場所へ運び上らせようとした。15:4 そこで、ダビデは、アロンの子らとレビ人とを集めた。
アロンの直系の末裔は祭司として、幕屋の中で神に奉仕します。そしてレビ人は幕屋の周りや、幕屋の用具を運ぶような仕事をします。
15:5 ケハテ族から、そのつかさウリエルと、彼の同族の者百二十人。15:6 メラリ族から、そのつかさアサヤと、彼の同族の者二百二十人。15:7 ゲルショム族から、そのつかさヨエルと、彼の同族の者百三十人。15:8 エリツァファン族から、そのつかさシェマヤと、彼の同族の者二百人。15:9 ヘブロン族から、そのつかさエリエルと、彼の同族の者八十人。15:10 ウジエル族から、そのつかさアミナダブと、彼の同族の者百十二人。
レビの子はケハテ、メラリ、ゲルショムでしたが、それぞれの氏族とそのかしらの名が書かれています。さらにケハテ氏族の中にエリツァファン族とヘブロン族、ウジエル族がいます。
15:11 ダビデは祭司ツァドクとエブヤタル、それにレビ人たち、ウリエルとアサヤ、ヨエルとシェマヤ、エリエル、アミナダブを呼び、15:12 彼らに言った。「あなたがたはレビ人の家のかしらです。あなたがた自身も、あなたがたの同族の者たちも、身を聖別し、イスラエルの神、主の箱を、私がそのために定めておいた所に運び上りなさい。15:13 最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。」
民数記8章5節以降に、レビ人を聖別する教えが書かれています。その律法のしたがってレビ人を聖別してから主の箱を運びます。同じく民数記によると、主の箱はケハテ族が運ぶことになっています。
15:14 そこで、祭司たちとレビ人たちは、イスラエルの神、主の箱を運び上るために身を聖別した。15:15 そして、レビ族は、モーセが主のことばに従って命じたとおり、神の箱をにない棒で肩にかついだ。
モーセを通しての主のことばに忠実に従いました。私たちがこのように、みことばの学びをしっかり行なっているのは、一つはこのためです。私たちは、主のためであると思って、熱心にいろいろなことをしますが、実はみとこばには違反している方法を取っている場合があります。今、ダビデが取り戻したバランスは、みことばを読んだ結果もたらされたものです。
2B 歌うたい 16−29
15:16 ここに、ダビデはレビ人のつかさたちに、彼らの同族の者たちを十弦の琴、立琴、シンバルなどの楽器を使う歌うたいとして立て、喜びの声をあげて歌わせるよう命じた。
モーセの律法には銘記されていませんが、イスラエルの民が昔から行なっていたこと、つまり主に歌うことを奉仕としてダビデは取り入れました。イスラエルがエジプトから救われたとき、モーセは歌い、姉ミリヤムはタンバリンを使いました。デボラも、カナン人シセラに勝利したとき歌いました。その歌を主に対する奉仕として行なうように、レビ人に命じたのです。
15:17 そこで、レビ人は、ヨエルの子ヘマン、彼の同族からベレクヤの子アサフ、メラリ族から彼らの同族クシャヤの子エタンを立てた。15:18 第二の部類に属する彼らの同族の者たちも、彼らとともにいた。すなわち、ゼカリヤ、ベン、ヤアジエル、シェミラモテ、エヒエル、ウニ、エリアブ、ベナヤ、マアセヤ、マティテヤ、エリフェレフ、ミクネヤ、門衛オベデ・エドムとエイエル。
神の箱がしばらくあった、あのオベデ・エドムの名がここにあります。
15:19 歌うたいは、ヘマン、アサフ、エタン。彼らは青銅のシンバルを用いて歌った。15:20 ゼカリヤ、アジエル、シェミラモテ、エヒエル、ウニ、エリアブ、マアセヤ、ベナヤは、十弦の琴を用いてアラモテに合わせた。15:21 マティテヤ、エリフェレフ、ミクネヤ、オベデ・エドム、エイエル、アザズヤは、八弦の立琴に合わせて指揮した。15:22 レビ人のつかさケナヌヤは荷物の係りで、荷物のことを指図した。彼はそれに通じていたからである。15:23 ベレクヤとエルカナは、箱を守る門衛であった。15:24 祭司たち、すなわち、シェバヌヤ、ヨシャパテ、ネタヌエル、アマサイ、ゼカリヤ、ベナヤ、エリエゼルは、神の箱の前でラッパを吹き鳴らす者、オベデ・エドムとエヒヤは箱を守る門衛であった。
青銅のシンバル、十弦の琴、八弦の立琴、ラッパなどの楽器を使います。
15:25 こうして、ダビデとイスラエルの長老たち、千人隊の長たちは行って、喜びをもって主の契約の箱をオベデ・エドムの家から運び上ろうとした。15:26 神が、主の契約の箱をかつぐレビ人を助けられたとき、彼らは七頭の雄牛と七頭の雄羊とをいけにえとしてささげた。15:27 ダビデは白亜麻布の衣を身にまとっていた。箱をかつぐすべてのレビ人、歌うたいたち、荷物係長ケナヌヤ、歌うたいたちも、同様であった。ダビデは亜麻布のエポデを着けていた。15:28 全イスラエルは、歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、十弦の琴と立琴とを響かせて、主の契約の箱を運び上った。
主への喜びを歌をもって表わしています。そしてダビデも他の祭司と同じように亜麻布のエポデを身にまとって、喜び踊りました。
15:29 こうして、主の契約の箱はダビデの町にはいった。サウルの娘ミカルは、窓から見おろし、ダビデ王がとびはねて喜び踊っているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。
この一節が、ここ歴代誌の記述の流れでは非常に違和感を伴わせています。御霊によって導かれ、イスラエルの諸部族がサウルが王であったときもダビデのところにやって来て、そしてイシュボシェテの死後、全イスラエルがダビデを王として喜び、そして今、神の箱を運んで、主への喜びは最高潮に達しています。そこでサウルの娘ミカルは、この流れをさげすんでいたわけです。王服を身にまとって威厳を持たなければいけない存在が、一般の民と混じって、レビ人たちと同じような格好をしているなんて、なんと卑しいこと、と思ったのです。
ミカルが思い浮かべていたのが世の王についての姿であるならば、ダビデは神が立てた王の姿でありましょう。ダビデは神の前で喜ぶことを、臆することなく行ないました。神の前では、大きな者も小さな者も、あらゆるものが一つであり、主の前でひれ伏すだけなのです。そして主にあっては、王も人々の間に住んでいる者です。人々の間に住み、御父への祈りや賛美を絶やすことのなかった方と言えば、だれでしょうか?人となられたイエスさまですね。神の身分でありながら、このようなへりくだった姿を取られました。
イエスさまについていく私たち、また教会の指導者も同じです。人々の間にいなければいけません。そして、神を礼拝する者であり、神の礼拝者として上下の差はないことを知らなければいけません。
3A 箱の前での奉仕 16
1B 祝宴 1−7
16:1 こうして、彼らは、神の箱を運び込み、ダビデがそのために張った天幕の真中に安置した。それから、彼らは神の前に、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげた。16:2 ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、主の名によって民を祝福した。16:3 そしてイスラエルのひとりひとりみなに、男にも女にも、それぞれ、丸型のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を分け与えた。
神の箱のための天幕をはったこと、そこでいけにえをささげたこと、また人々を祝福してお菓子を分け与えたことなど、ダビデがしたことはサムエル記第二にも書いてあります。その他に、次のことを彼は行ないました。
16:4 それから、レビ人の中のある者たちを、主の箱の前に仕えさせ、イスラエルの神、主を覚えて感謝し、ほめたたえるようにした。16:5 かしらはアサフ、彼に次ぐ者は、ゼカリヤ、エイエル、シェミラモテ、エヒエル、マティテヤ、エリアブ、ベナヤ、オベデ・エドム、エイエル。彼らは十弦の琴や、立琴などの楽器を携え、アサフはシンバルを響かせた。16:6 祭司ベナヤとヤハジエルは、ラッパを携え、常に神の契約の箱の前にいた。
賛美の奉仕です。神の箱を運ぶときの祝い事だけではなく、神の箱の前でつねに賛美するようにレビ人を任命しました。ここにダビデの霊性、というかメシヤ性があるでしょう。それは、神の箱が表わしている天の御座において、主に何が行われているかを思い出していただければ解ります。主への賛美です。主の周りにいるケルビムは、絶えず主をほめたたえ、無数の御使いもほめたたえています。それから、立琴のような音がしていると黙示録の著者ヨハネは記述しています。賛美があり歌があり、音楽がそこにはあるのです。天にあるものの地上の模型である幕屋や神殿にて、賛美と歌があることはみこころにかなったことなのです。
16:7 その日その時、ダビデは初めてアサフとその兄弟たちを用いて、主をほめたたえた。
アサフが賛美リーダーになりました。詩篇の中に、彼の名がたくさん書かれていますね。彼が作詞・作曲した詩が、詩篇の中に収められているのです。
2B 歌 8−36
16:8 主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。16:9 主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。16:10 主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。16:11 主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。
何か似たような言葉が詩篇にもあるんじゃないか、と思われた方がいるかもしれません。これは詩篇105篇にあるものととても似ています。
詩篇にある神への賛美は、ここにあるように、「これこれを行いなさい」という私たちへの勧めになっている場合が多いです。「感謝しなさい」「主の名を呼び求めなさい」「知らせなさい」と8節には命令されていますね。感謝すること、主を呼び求めて祈ること、そして御名を知らせる、つまり宣教すること、これらを行いなさいと勧めているのです。詩篇は、このように実際的な行動を促すものが多いので、私たちも実際に、読んでから立ち止まって、そのことを行ってみたらよいのではないでしょうか?「感謝しなさい」と出てきたら、感謝の祈りをささげるとか。そうやって読んでいくと、生き生きとしたものとなるでしょう。
16:12 主が行なわれた奇しいみわざを思い起こせ。その奇蹟と御口のさばきとを。16:13 主のしもべイスラエルのすえよ。主に選ばれた者、ヤコブの子らよ。16:14 この方こそ、私たちの神、主。そのさばきは全地にわたる。
イスラエルに対する命令です。エジプトであなたがたが救われたことを思い起こしなさい、と命じて、主はイスラエルの神だけではなく、全土の神であることも思い起こさせています。私たちキリスト者であれば、イエスが行なわれたこと、私たちの罪のために死なれ、そして三日目によみがえったことを思い起こしなさい、という勧めになるでしょう。
16:15 覚えよ。主の契約をとこしえに。お命じになったみことばは千代にも及ぶ。16:16 その契約はアブラハムと結んだもの、イサクへの誓い。16:17 主はヤコブのためにそれをおきてとして立て、イスラエルに対する永遠の契約とされた。16:18 そのとき主は仰せられた。「わたしはあなたがたの相続地としてあなたに、カナンの地を与える。」
契約または約束を覚えておきなさい、という命令です。特にイスラエルにカナンの地を与えられたことを思い出しなさい、という命令です。帰還してきたばかりのユダヤ人にとって、この約束はとくに覚えておかなければならなかったでしょう。私たちも、神さまから与えられた約束はたくさんあります。その頂点が永遠のいのちという約束です。
16:19 そのころ、あなたがたの数は少なかった。まことにわずかで、そのうえそこでは、寄留の他国人であった。16:20 彼らは、国から国へ、一つの王国から他の民へと渡り歩いた。16:21 しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、かえって、彼らのために王たちを責められた。16:22 「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」
そうですね、イスラエルがヨルダン川の東岸を歩いているとき、そこにいる王たちが攻めてきましたが、主はその王たちを倒されました。ヨルダン川を渡ってからも、王たちが相集まって攻めましたが、ことごとく敗れました。主が油注がれた者たち、預言者たちに対する神の守りです。
16:23 全地よ。主に歌え。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。16:24 主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいみわざを、すべての国々の民の中で。16:25 まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。16:26 まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。16:27 尊厳と威光は御前にあり、力と歓喜はみもとにある。
先ほどはイスラエルに対して、イスラエル自身に対する内向けの勧めでした。主があなたがたのために行なわれたことを覚えなさい、というものでしたが、ここの詩篇は宣教への勧め、と言って良いでしょう。イスラエルが、諸国の民に主のみわざや栄光を告げ知らせよ、という勧めです。
ですから諸国の民が拝んでいる神々と、天地を創造された神との比較を行っています。神々はむなしいが、主の尊厳と威光は御前にあり、力と歓喜がある、とあります。私たちも神々の中に住んでいますから、このことを実感をもって読めるのではないでしょうか?宣教は、私たちの信じている神と主イエス・キリストが、先祖から伝わっている金銀で造られたものよりも、はるかにすばらしいことを言い表わしていくことに他なりません。
16:28 国々の民の諸族よ。主にささげよ。栄光と力を主にささげよ。16:29 御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、御前に行け。聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。
ここからは、宣教からさらに推し進められた考えが書いています。今度はイスラエルに対してでなく、諸国が栄光と力を主にささげよ、と命令されています。つまり順番があります。初めはイスラエルから、そしてイスラエルを通して宣教が行われ、それから諸国の民が主をほめたたえます。歴史の中で、これを見ましたね。イスラエルによって神の栄光が現われ、その子であられるキリストの名がエルサレムからはじまり、地の果てにまで伝えられました。そして世界中で主がほめたたえられています。さらに、事は万物の回復、つまり主の再臨へと至ります。
16:30 全地よ。主の御前に、おののけ。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。16:31 天は喜び、地は、こおどりせよ。国々の中で言え。主は王である。16:32 海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。野とその中にあるものはみな、勝ち誇れ。16:33 そのとき、森の木々も、主の御前で、喜び歌おう。確かに、主は地をさばくために来られる。
自然界も、アダムの罪による呪いによって苦しんでいます。けれども主が戻られる時、すべてのものが回復します。だから自然界に対して主を喜べ、と勧めているのです。
16:34 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。16:35 言え。「私たちの救いの神よ。私たちをお救いください。国々から私たちを集め、私たちを救い出してください。あなたの聖なる御名に感謝し、あなたの誉れを誇るために。」16:36 ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。それから、すべての民はアーメンと言い、主をほめたたえた。
これは詩篇106篇の最初と最後の部分に似ています。詩篇では、主のとこしえにまで至る恵みを強調しています。
3B 日課 37−43
16:37 彼は、その場所、すなわち、主の契約の箱の前に、アサフとその兄弟たちをとどめておき、毎日の日課として、常に箱の前で仕えさせた。
この時だけでなく、これからずっと、毎日の日課として神の箱の前で奉仕させます。
16:38 オベデ・エドムと彼らの兄弟たちは六十八人いたが、エドトンの子オベデ・エドムとホサを門衛とした。
門衛もレビ人でした。教会で言うならば、案内係でしょうか?
16:39 祭司ツァドクと彼の兄弟である祭司たちを、ギブオンの高き所にある主の住まいの前におらせ、16:40 全焼のいけにえを、朝ごと、夕ごとに、絶えず、また、すべて主のイスラエルに命じた律法に書かれているとおりに、全焼のいけにえの壇上で、主にささげさせた。
この時点で、主を礼拝する場所は二つになりました。かつてシロにあった幕屋は、どこかの地点でギブオンに移りました。そして今、神の箱を安置している天幕がダビデの町にあります。神の箱はアサフとその兄弟に任せましたが、ギブオンでは祭司ツァドクによって、律法にしたがったいけにえをささげるようにさせました。
16:41 彼らとともにヘマン、エドトン、その他、はっきりと名の示された者で、選ばれた者たちを置き、主をほめたたえさせた。「まことに主の恵みは、とこしえまで。」16:42 ヘマンとエドトンの手には、歌う者たちのためにラッパとシンバルとがあり、また、神の歌に用いる楽器があった。また、エドトンの子らは門にいた。
賛美もその日課です。そして先に話したように、「主の恵み(あるいは、あわれみ)がとこしえまで」というのがそのうたい文句です。
16:43 民がみなそれぞれ自分の家に帰ってから、ダビデは自分の家族を祝福するために戻って行った。
サムエル記第二では、これまで見てきたレビ人の働きについては何も記されず、ここの祝福し終わってから、それぞれが家に帰るところに飛んでいます。やはり歴代誌の著者はレビ人の働きを特に強調しているようです。
こうして、主に歌をうたうことが礼拝の中に取り込まれたことを見ました。クリスチャンであれば、やりなさいと命じられる前に自然発生的に歌っているかもしれませんね。けれども同時に、これは主からの勧めでもあり、新約聖書の教会に対しても命じられていることです。「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り合い、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。(エペソ5:18b−19)」と使徒パウロは勧めました。そしてヤコブも、「喜んでいる人はいますか。その人は賛美しなさい。(ヤコブ5:13)」と言っています。何よりも、私たちが永遠に住むところの天においては、永遠に主の御名をほめたたえているのですから、この地上においてダビデの時代も、また教会の時代も主をほめたたえるのです。これが主が私たちの真ん中で王になっていることの何よりの証拠です。
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