列王記第一19−20章 「感情という敵」


アウトライン


1A 落ち込み 19
   1B 人の言葉 1−8
   2B かすかな細い声 9−18
   3B 残された仕事 19−21
2A 甘え 20
   1B 苦境 1−12
   2B 主の証し 13−21
   3B 自分の悟り 22−30
   4B 叱責 31−43

本文

 列王記第一19章を開いてください。今日は19章と20章を学びます。メッセージ題は、「感情という敵」です。

 私たちは前回、エリヤがバアルの預言者と対決し、動物のいけにえに火がつくように、ヤハウェなる神に祈ったところを読みました。バアルの預言者450人が一日中祈っても、何の変化もありませんでした。しかし、エリヤは、いけにえに水をたくさんかけたのにも関わらず、彼が祈ると、主からの火によって、いけにえも、石も焼き尽くし、水もなめつくしてしまいました。そして、エリヤはバアルの預言者450人を殺しました。

 この後、主に語られていた、雨が降るという語りかけのために祈り始め、雨が降ることがわかったエリヤはアハブ王に、山から下っていきなさいと命じます。エリヤも降りてきました。そして、19章に入ります。

1A 落ち込み 19
1B 人の言葉 1−8
19:1 アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。19:2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」

 イゼベルが、24時間以内にお前を殺すと脅しています。

19:3 彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、19:4 自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」

 これから、私たちは、「恐れ」という感情がいかに人を狂わせてしまうのか、エリヤの逃亡を通して学ぶことができます。先ほどまで、450人のバアルの預言者と対決していたエリヤです。そして、主からの火が降ってきて、動物のいけにえと水をなめつくすように、祈りをささげたエリヤです。このような、信仰による祈りと願いをささげることができたエリヤが、たった一人の、異教徒の女の脅し文句によって、逃げられるところまで逃げ、自殺願望まで抱くようになりました。

 「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」と箴言2925節に書いてあります。エリヤはまさに、わなにかかってしまいました。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4:23」と同じ箴言に書いてありますが、私たちの心が自分の感情に振り回されるとき、その時が危険です。主に信頼し、主の平安の中に自分を保たせていることが、とても大切です。

 彼は逃げられるところまで逃げた、と言いましたが、ベエル・シェバは北イスラエルをずっと南下し、南ユダも越え、イスラエル全土の南端に位置する町です。全イスラエルを指すとき、「ダンからベエル・シェバまで」と表現されています。

19:5 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。19:6 彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。

 エリヤは落ち込むと、眠りました。落ち込むときに、私たちが取る行動がこれです。寝込んでしまいます。けれども、こうした感情的起伏が激しいときに、御使いが彼を養いました。主のあわれみがここに現われています。聖書には、他の箇所にも、例えばイエスさまが4040夜断食されたあとに受けられた誘惑の後、御使いたちがイエスさまに仕えました。ゲッセマネの園で苦しみもだえながら祈られたときも、御使いがイエスに現われて、イエスさまを力づけました。神が精神的ストレスの中にいる者たちを、このように御使いによって助けてくださるのを、聖書では読みます。

19:7 それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。19:8 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。

 主の使いが現われています。ヤハウェの使いという言葉が出てきたら、それは、受肉前のイエス・キリストご自身であると考えられます。そして、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言われていますが、これは、命令ではなくエリヤがそう願っていたからでしょう。主の寛容さを私はここに見ます。エリヤが行なっていることは、みこころにかなったものではもちろんありません。けれども、彼が自分の感情に振り回されている限り、それが落ち着くまで、彼は従順に主の御声に聞き従うことはできません。そこで、彼がやりたいことをとことんまでやらせるように許容されて、それで彼の過ちを正そうとされているのです。

 そこでエリヤが行ったところは、ホレブの山でした。モーセにかつて、主が燃える柴の中で現われてくださったところであり、黒雲と雷、火でイスラエル人の前に現われてくださったところであり、またモーセに、ご自分の栄光の後ろ姿をお見せになったところでもあります。

 エリヤがここに来たかった理由は、少し分かります。他のイスラエルの民はみな、神の律法にそむいて、他の神々を拝んでいる、私だけがここで与えられたあなたの律法を捨てないでいた、という気持ちがあったからでしょう。私も、自分が奉仕し、遣わされているところで、何か困難なことがあったら、甘えが出てきて、自分が霊的に養い育てられた母教会に戻り、こんなに頑張ったのに、だれも見向きもしてくれなかった、云々とつぶやく誘惑が出てくるかもしれません。そうした、甘えに基づく里帰りを彼は行ないたかったのではないか、と考えられます。

2B かすかな細い声 9−18
19:9 彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられた。

 主は、単刀直入に質問されています。「ここで、おまえは何をしているのか?」と。この質問は私たち自身にも向けられなければいけませんね、自分がはたして、主が言われているところにいるのか?もし、そうでなければ、何で今やっていることをやっているのか?という質問です。

19:10 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」

 エリヤは、落ち込みと孤独感で、事実が見えなくなっています。アハブ王の側近であるオバデヤがすでに、主の預言者をほら穴に百人隠している、とエリヤに伝えていました。けれども、彼は自分だけが、主に仕えていると、うそぶいているのです。

 けれども、これが、感情が私たちに行なうことです。先ほど、肉体的に疲れてるところで、御使いが食べ物を用意してエリヤが元気になりましたが、肉体的疲れと、精神的疲れ、そして霊的疲労は深く結びついています。私たちが、例えば長いこと病気でいると、どうして自分はこんなに痛みをこらえなければいけないのか?と、主ご自身ではなく、自分の痛みのほうに気が回ってしまいます。そして、そうした精神的疲れが今度は霊的疲れへ、つまり、こんなに不幸なことが起こっているのは、神が私を愛しておられないからではないか、という疑いにつながるのです。悪魔は、私たちの感情をしばしば利用します。肉体的なことや精神的なことで、神と私たちが持っている愛の関係を何とかしてぐらつかせようとするのです。

19:11 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。19:12 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。

 ここに、主にあわれみを見ます。主は、エリヤに対するご自分の質問にエリヤが答えていないので、今度は、彼が自分で何をやっているのかを気づかせるために、今よんだことを行なってくださいました。主のみわざとしか考えられない、激しい大風、地震、そして火のうちに、ご自分を現わさなかったことです。そして対照的に、かすかな細い声をもって現われてくださったことです。

 エリヤは、これまで多くの奇蹟を見ていきました。けれども、そのような奇蹟を見てきたばかりに、かえって疲れが生じて、自分の心に安寧をもたらす、主の御声を聞き逃していたのです。私たちも、同じようなことがしばしば起こります。すばらしい主の働きをいろいろ見ることができ、その中で一生懸命働くのですが、いつの間にか精神的に疲れが生じて、それでエリヤのように恐れたり、落ち込んだりします。その時に私たちは、大きな著しい出来事にではなく、ただ自分の内に語られる、ご聖霊からの声に傾けるべきなのです。その声が、私たちのじたばたや、もがきを止めさせてくれます。心に平安が与えられます。

19:13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」

 エリヤを落ち着かせようとされた主は、再び同じ質問をされました。ところでエリヤが外套で顔をおおっているのは、そこに主がおられることを知り、その栄光のすべてを見ないようにしているからです。かつてモーセに現われた主は、その後ろ姿のみを彼にお見せになりました。

19:14 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」

 まったく同じ答えをしています。いや、答えになっていない答えです。そこで主は、事の本質に入った話をされます。

19:15 主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。19:16 また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。19:17 ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。」

 エリヤは、自分がどういうことをしたのか、だれがあういうことをしたのかなど、いろいろな事を主の前に並べ立てましたが、主にとって、そんなことはどうでも良いのです。主はエリヤに、まだしなければいけない務めを、残しておられるのです。私が日本に帰ってきて、いろいろなごたごたが起こったとき、いつも母教会の牧師が励ましてくれたのは、「主から召されたこと、主に言われていることを、ただ行なっていきなさい。」でした。主に召されたこと、それは日本人に、大人だけでなく子供たちに、神のみことばを教えることでした。そして今、6年ほど続き、私たちのところに何十人の子供たちが来て、神のみことばを継続的に聞きました。これは明らかに主の働きであり、私たちがしたことではありません。けれども、私がもし、だれかれがこんなことを言った、などとつぶやいて、今していることをしなかったら、どうなるのでしょうか?主は、「何を言っているのか?ほらっ、私はあなたにしなければいけないと命じていることがある。」と答えられるのでしょう。

19:18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。

 これは、ローマ人への手紙11章でも引用されている箇所です。エリヤは独りだと思っていましたが、実は主は、残された者を七千人も用意されておられました。パウロの時代、また今の時代では、ユダヤ人であるのにイエスをメシヤと信じている者です。けれども、また、それぞれの国にいるクリスチャンにも、当てはめることができるでしょう。クリスチャン人口1パーセント未満と言われている日本において、自分だけが主を信じている、という意識にとらわれていくと、エリヤのように落ち込みやすくなります。自分だけで動く、というのは聖書的ではありません。主は必ず、思いを同じくする仲間を用意されています。パウロはしばしば、「私」ではなく「私たち」という主語を使って、手紙を書いています。

3B 残された仕事 19−21
19:19a エリヤはそこを立って行って、シャファテの子エリシャを見つけた。

 エリヤは、主に命じられたことに反応して、エリシャのところに行きました。

19:19bエリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎて自分の外套を彼に掛けたので、19:20 エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。「私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」

 エリシャは、農作業に従事していました。けれども、エリヤが外套をかけました。これは明らかに、自分の預言者の職をエリシャに引き継ぐことのジェスチャーです。それをエリシャはすぐに理解して、それで自分の職を捨てて、エリヤに従っていきます。

 エリシャが両親に挨拶したいと言うと、エリヤは、「私があなたに何をしたのか」と答えていますが、これは、「これは、あなたと神との問題だろう。神の召しに答えるのだから、私がとやかく言えるものではない。」という意味です。

19:21 エリシャは引き返して来て、一くびきの牛を取り、それを殺し、牛の用具でその肉を調理し、家族の者たちに与えてそれを食べさせた。それから、彼は立って、エリヤについて行って、彼に仕えた。

 エリシャは、お別れパーティーを家族のために開き、それからエリヤに従っていきました。

2A 甘え 20
 そして話は、北イスラエルの王アハブに戻ります。エリヤは神の人であり、神の預言者であり、そしてアハブは極悪王です。この対照的な二人ですが、ここ19章と20章では共通に持っていた問題を発見します。それは、「感情」という敵です。それでは読んでいきましょう。

1B 苦境 1−12
20:1 アラムの王ベン・ハダデは彼の全軍勢を集めた。彼には三十二人の王と、馬と戦車とがあった。彼はサマリヤに上って来て、これを包囲して攻め、20:2 町に使者たちを遣わし、イスラエルの王アハブに、20:3 言わせた。「ベン・ハダデはこう言われる。『あなたの銀と金は私のもの。あなたの妻たちや子どもたちの最も美しい者も私のものだ。』」20:4 イスラエルの王は答えて言った。「王よ。仰せのとおりです。この私、および、私に属するものはすべてあなたのものです。」

 当時、北イスラエルの北に位置していたアラム、あるいはシリヤがイスラエルの脅威となっていました。今もベン・ハダデが、アハブ王に挑発的なことを言っています。

20:5 使者たちは再び戻って来て言った。「ベン・ハダデはこう言われる。『私は先に、あなたに人を遣わし、あなたの銀と金、および、あなたの妻たちや子どもたちを私に与えよ、と言った。20:6 あすの今ごろ、私の家来たちを遣わす。彼らは、あなたの家とあなたの家来たちの家とを捜し、たとい、あなたが最も大事にしているものでも、彼らは手に入れて奪い取るだろう。』」

 アハブは、強国シリヤに対して、低姿勢を取りましたが、その言葉を取ってシリヤは本当に自分の財産や家族を奪い取ろうとしにきました。

20:7 そこで、イスラエルの王は国のすべての長老たちを呼び寄せて言った。「あの男が、こんなにひどいことを要求しているのを知ってほしい。彼は人を遣わして、私の妻たちや子どもたち、および、私の銀や金を求めたが、私はそれを断わりきれなかった。」20:8 すると長老たちや民はみな、彼に言った。「聞かないでください。承諾しないでください。」20:9 そこで、彼はベン・ハダデの使者たちに言った。「王に言ってくれ。『初めに、あなたが、このしもべに言ってよこされたことはすべて、そのようにするが、このたびのことはできません。』」使者たちは帰って行って、このことを報告した。

 アハブ王は賢く動いています。長老たちに相談し、そして、屈服することはできないと伝えています。

20:10 するとベン・ハダデは、彼のところに人をやって言わせた。「サマリヤのちりが私に従うすべての民の手を満たすほどでもあったら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」

 つまりは、サマリヤの町は自分たちの民には小さすぎる、という意味です。

20:11 そこでイスラエルの王は答えて言った。「彼にこう伝えてくれ。『武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない。』

 これは、「戦争に勝ってから誇りなさい」ということです。

20:12 ベン・ハダデは、このことばを聞いたとき、王たちと仮小屋で酒を飲んでいたが、家来たちに、「配置につけ。」と命じたので、彼らは、この町に向かう配置についた。 シリヤはイスラエルを攻撃します。

2B 主の証し 13−21
20:13 ちょうどそのころ、ひとりの預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。「主はこう仰せられる。『あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう。』」

 ここは興味深い預言です。極悪人であるアハブに対して、神はなおも、ご自分が主であることをアハブに現わそうとされています。主はいつまでも忍耐深く、アハブに接しておられます。

20:14 アハブが、「それはだれによってでしょうか。」と尋ねると、その預言者は言った。「主はこう仰せられる。『諸国の首長に属する若い者たちによって。』」アハブが、「だれが戦いをしかけるのでしょうか。」と尋ねると、「あなただ。」と答えた。20:15 彼が諸国の首長に属する若い者たちを調べてみると、二百三十二人いた。そのほか、民の全部、すなわちイスラエル人全部を調べたところ、七千人いた。

 ずいぶんと貧弱な軍勢です。そしてしかもアハブが陣を先導しなければいけません。けれども、アハブは預言の言葉に従います。

20:16 彼らは真昼ごろ出陣した。そのとき、ベン・ハダデは味方の三十二人の王たちと仮小屋で酒を飲んで酔っていた。20:17 諸国の首長に属する若い者たちが最初に出て行った。ベン・ハダデが人を遣わしてみると、「人々がサマリヤから出て来ている。」との報告を受けた。20:18 それで彼は言った。「和平のために出て来ても、生けどりにし、戦うために出て来ても、生けどりにせよ。」

 おごり高ぶっていたベン・ハダデは、酒に酔いしれ、判断力が鈍っていました。イスラエルに不意をつかれました。

20:19 町から出て来たのは、諸国の首長に属する若い者たちと、これに続く軍勢であった。20:20 彼らはおのおのその相手を打ったので、アラムは逃げ、イスラエル人は追った。アラムの王ベン・ハダデは馬に乗り、騎兵たちといっしょに、のがれた。20:21 イスラエルの王は出て来て、馬と戦車を分捕り、アラムを打って大損害を与えた。

 主が勝利を与えられました。

3B 自分の悟り 22−30
20:22 その後、あの預言者がイスラエルの王に近寄って来て言った。「さあ、奮い立って、これからなすべきことをわきまえ知りなさい。来年の今ごろ、アラムの王があなたを攻めに上って来るから。」

 戦いはこれだけで終わりではない、気を抜かないで備えていなさいと命じています。

20:23 そのころ、アラムの王の家来たちは王に言った。「彼らの神々は山の神です。だから、彼らは私たちより強いのです。しかしながら、私たちが平地で彼らと戦うなら、私たちのほうがきっと彼らより強いでしょう。20:24 こういうようにしてください。王たちをそれぞれ、その地位から退かせ、彼らの代わりに総督を任命し、20:25 あなたは失っただけの軍勢と馬と戦車とをそれだけ補充してください。彼らと平地で戦うなら、きっと私たちのほうが彼らより強いでしょう。」彼は彼らの言うことを聞き入れて、そのようにした。

 非常に面白い助言です。欧米の英語の注解を読むと、戦車を持っていたから、とか、古代の神概念とかの説明がありましたが、日本にいる私たちはよく理解できる言葉ですね。主がなされたことでもあっても、自分たちが知っている、地域に限定する神々でしか理解していません。私の父は、今は救われていますからハレルヤですが、その前はキリストのことを、「○×(私の名前)の神」と言い続けました。キリストが八百万の神々の一つにしか考えられなかったのです。シリヤ人たちも同じでした。

20:26 翌年、ベン・ハダデはアラムを召集し、イスラエルと戦うために、アフェクに上って来た。20:27 一方イスラエル人も召集され、糧食を受けて出て行き、彼らを迎えた。イスラエル人は彼らと向かい合って陣を敷いた。彼らは二つの群れのやぎのようであったが、アラムはその地に満ちていた。

 軍勢が圧倒的に違います。

20:28 ときに、ひとりの神の人が近づいて来て、イスラエルの王に言った。「主はこう仰せられる。『アラムが、主は山の神であって、低地の神でない、と言っているので、わたしはこのおびただしい大軍を全部あなたの手に渡す。それによって、あなたがたは、わたしこそ主であることを知るであろう。』」

 主はご自分が全地の神であることを示されるために、この戦いにも勝利をもたらされます。

20:29 両軍は互いに向かい合って、七日間、陣を敷いていた。七日目になって、戦いを交えたが、イスラエル人は一日のうちにアラムの歩兵十万人を打ち殺した。20:30 生き残った者たちはアフェクの町に逃げたが、その二万七千人の残った者の上に城壁がくずれ落ちた。ベン・ハダデは逃げて町にはいり、奥の間にはいった。

 これで勝利は決まったかのように見えます。しかし、最後のベン・ハダデの工作によって、アハブには敗北が定められます。

4B 叱責 31−43
20:31 家来たちは彼に言った。「イスラエルの家の王たちはあわれみ深い王である、と聞いています。それで、私たちの腰に荒布をまとい、首になわをかけ、イスラエルの王のもとに出て行かせてください。そうすれば、あなたのいのちを助けてくれるかもしれません。」

 イスラエルの家の王があわれみ深い、というのは面白いです。たとえ腐敗したイスラエルの王であっても、やはり、異教の諸国の道徳よりはさらに高かったのでしょう。

20:32 こうして彼らは腰に荒布を巻き、首になわをかけ、イスラエルの王のもとに行って願った。「あなたのしもべ、ベン・ハダデが、『どうか私のいのちを助けてください。』と申しています。」するとアハブは言った。「彼はまだ生きているのか。彼は私の兄弟だ。」20:33 この人々は、これは吉兆だと見て、すぐにそのことばにより事が決まったと思い、「ベン・ハダデはあなたの兄弟です。」と言った。王は言った。「行って、彼を連れて来なさい。」ベン・ハダデが彼のところに出て来ると、王は彼を戦車に乗せた。20:34 ベン・ハダデは彼に言った。「私の父が、あなたの父上から奪い取った町々をお返しします。あなたは私の父がサマリヤにしたように、ダマスコに市場を設けることもできます。」「では、契約を結んであなたを帰そう。」こうして、アハブは彼と契約を結び、彼を去らせた。

 アハブは生かしてしまいます。一見良さそうにみえますが、これが致命傷となります。私たちも、良かれと思ってやっていることが、実は、主の命令よりも自分の判断を優先させていた、ということがあります。いつも、主に聞かなければいけませんね。

20:35 預言者のともがらのひとりが、主の命令によって、自分の仲間に、「私を打ってくれ。」と言った。しかし、その人は彼を打つことを拒んだ。20:36 それで彼はその人に言った。「あなたは主の御声に聞き従わなかったので、あなたが私のもとから出て行くなら、すぐ獅子があなたを殺す。」その人が彼のそばから出て行くと、獅子がその人を見つけて殺した。

 アハブが行なったことが、主のみこころをいかにそこなったかのを伝えるために、主が預言者をアハブに遣わそうとされます。怪我をした兵士のふりをしなければいけなかったのですが、預言者学校の一人がその仲間に、自分を打ってくれと頼みます。そんなひどいことはできないと思ったのでしょうか、打つことを拒んだら、ライオンによって殺されてしまいました。預言を語ることの使命がこんなにも大切なことであり、また、主がいかにアハブにご自分のことばをお語りになりたいのか、その真剣さが表れています。

20:37 ついで、彼はもうひとりの人に会ったので、「私を打ってくれ。」と頼んだ。すると、その人は彼を打って傷を負わせた。20:38 それから、その預言者は行って道ばたで王を待っていた。彼は目の上にほうたいをして、だれかわからないようにしていた。20:39 王が通りかかったとき、彼は王に叫んで言った。「しもべが戦場に出て行くと、ちょうどそこに、ある人がひとりの者を連れてやって来て、こう言いました。『この者を見張れ。もし、この者を逃がしでもしたら、この者のいのちの代わりにあなたのいのちを取るか、または、銀一タラントを払わせるぞ。』20:40 ところが、しもべが何やかやしているうちに、その者はいなくなってしまいました。」すると、イスラエルの王が彼に言った。「あなたはそのとおりにさばかれる。あなた自身が決めたとおりに。」

 逃がさないで監視していなければいけない敵を逃がしてしまいました。捕虜を逃がしてしまったことには、大きな罰がともないます。そしてそれを聞いてアハブ王は、「あなたがさばかれるのは、正しいことである。」と判断しました。

20:41 彼は急いで、ほうたいを目から取り除いた。そのとき、イスラエルの王は、彼が預言者のひとりであることを見た。20:42 彼は王に言った。「主はこう仰せられる。『わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたから、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる。』」

 この預言者が兵士に変装したのは、アハブが犯した罪を、自らさばかせるためでした。敵を逃がした兵士が罰せられなければいけないのであれば、あなたがベン・ハダデ王にしたのも、それと同じである、ということです。「あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。」とローマ2章のところに書かれていますが、このことによってアハブも自分がしたことを気づかなければいけませんでした。ところが、アハブは次のような反応をします。

20:43 イスラエルの王は不きげんになり、激しく怒って、自分の家に戻って行き、サマリヤに着いた。

 へりくだって悔い改めず、彼は非常に不機嫌になり、甘えん坊の子供のように、ふてくされて家に帰りました。今流行の言葉を使うなら「逆切れ」というのでしょうか?主によって叱責を受けたときに、自分を正すのではなく、頭に来たのです。

 アハブは、ベン・ハダデとの戦いの中で、比較的長期的に戦っていました。その中で、彼は精神的なストレスを、エリヤと同じようにためていたことでしょう。そこで、今、このような感情的反応に出たのだと思われます。感情というのは、しばしば私たちを狂わせます。サタンが私たちの感情を使って、主の命令から離れていくようにさせます。心を守ることが大切です。主にあって、自分の心がかき乱されることがないよう、そして、健全な判断力をもって、主にあって判断していくことができるよう、祈っていきましょう。


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