列王記第一21−22章 「甘えと神の御言葉」


アウトライン

1A むさぼりの罪 21
   1B 先祖のゆずりの土地 1−4
   2B 悪妻の尻に引かれる男 5−16
   3B 突き刺す言葉 17−29
2A 耳触りの良い言葉 22
   1B 悪に対する報い 1−40
      1C 自分がやりたい事 1−12
      2C 神のさばきと悪霊 13−28
      3C 妨げられることのない御心 29−40
   2B 後の王 41−53

本文

 列王記第一21章を開いてください。今日は21章と22章を学び、列王記第一の書を終えたいと思います。ここでのテーマは、「甘えと神の御言葉」です。さっそく本文を読みましょう。

1A むさぼりの罪 21
1B 先祖のゆずりの土地 1−4
21:1 このことがあって後のこと。イズレエル人ナボテはイズレエルにぶどう畑を持っていた。それはサマリヤの王アハブの宮殿のそばにあった。

 「このことがあって後」というのは、アハブがシリヤの王と戦って、彼を生かして逃してしまった後のことを意味します。怪我をしている兵士を装った預言者によって、アハブは、シリヤの王の命のかわりに、あなたのいのちが取られる、と言われました。そこでアハブは、不きげんになって、激しく怒って、自分の家に戻って行った、とあります。アハブには、大きな性格上の問題があり、それが霊的問題となっていました。それは、甘えん坊であったことです。彼は、神のみことばが自分が願っていることと反している場合、自分を否んで神を選び取るのではなく、また、公然と反抗するのでもなく、ふてくされて、ふさぎこむ反応に出ました。この彼の性格を、残りの二章の中にも見出すことができます。21章は、アハブが宮殿のそばにあった、ナボテの畑を欲しがることろから始まります。

21:2 アハブはナボテに次のように言って頼んだ。「あなたのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。あれは私の家のすぐ隣にあるので、私の野菜畑にしたいのだが。その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑をあげよう。 もしあなたがそれでよいと思うなら、それ相当の代価を銀で支払おう。」21:3 ナボテはアハブに言った。「主によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。」

 ナボテがしたことは、正しいことでした。神の律法には、自分の家の土地、先祖から受け継いだ土地を、どのようなことがあっても売り飛ばしてはならないことが教えられています。もし貧しくて売ってしまったら、近親者が買い取らなければいけない規定も書かれています(レビ25:25以降参照)。たとえ相手が王であっても、神のみことばの権威にまさることはありません。

21:4 アハブは不きげんになり、激しく怒りながら、自分の家にはいった。イズレエル人ナボテが彼に、「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲れません。」と言ったからである。彼は寝台に横になり、顔をそむけて食事もしようとはしなかった。

 典型的な、甘えの姿勢です。激しく怒って、ふさぎこんで、寝床から上がってきません。私には経験があります。落ち込むと起き上がりたくない、ずっと寝ていたい、何もしたくない、食べることもしたくない、と願います。

 アハブは、自分が間違っていることを知っていました。だからといって、その間違いを間違いであることを認めることも、したくありませんでした。その結果、落ち込みます。創世記4章にて、カインが自分のささげた物を神が受け入れてくださらなかったので、ふさぎこんでいました。そこで主がカインに、「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。(7節)」と言われました。正しくないことは分かっているのに、自分の主張を通せないことで怒っているのです。カインの場合は、自分の手でその主張を通しました。弟アベルを殺しました。けれどもアハブは、自分の妻イゼベルの手によって、間接的にナボテを殺すことになります。

2B 悪妻の尻に引かれる男 5−16
21:5 彼の妻イゼベルは彼のもとにはいって来て言った。「あなたはどうしてそんなに不きげんで、食事もなさらないのですか。」21:6 そこで、アハブは彼女に言った。「私がイズレエル人ナボテに『金を払うからあなたのぶどう畑を譲ってほしい。それとも、あなたが望むなら、その代わりのぶどう畑をやってもよい。』と言ったのに、彼は『私のぶどう畑はあなたに譲れません。』と答えたからだ。」21:7 妻イゼベルは彼に言った。「今、あなたはイスラエルの王権をとっているのでしょう。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑をあなたのために手に入れてあげましょう。」21:8 彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテの町に住む長老たちとおもだった人々にその手紙を送った。

 イゼベルは、実質的にアハブを支配していました。彼の名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテ殺しのための手紙を送ります。アハブは完全に、妻の尻に引かれていたわけで、私たち男性は妻の尻に引かれることがどういうことかを、よく知っています。これ自体が罪であるとか悪であるとは言えませんが、罪になるときがあります。

 それは、神が行なってはいけないといわれていること、また行なわなければいけないと命じられていることに反して、妻が夫に何かを要求するときです。このときに妻の言うことを聞いたら、それは罪なのです。聖書にはエバは惑わされた、と書かれていますが、罪を犯した、とは書かれていません。アダムが罪を犯した、と書かれています。主は、アダムにこう言われました。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。(創世3:17」自分が夫婦関係においてキリストをかしらとしないとき、それが罪となります。

21:9 手紙にはこう書いていた。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせ、21:10 彼の前にふたりのよこしまな者をすわらせ、彼らに『おまえは神と王をのろった。』と言って証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。」

 出エジプト記22章やレビ記24章には、神や王をのろってはいけないことが書かれています。とくにレビ記には、その者は殺されなければいけない、と書かれています。

21:11 そこで、その町の人々、つまり、その町に住んでいる長老たちとおもだった人々は、イゼベルが彼らに言いつけたとおり、彼女が手紙に書き送ったとおりを行なった。21:12 彼らは断食を布告し、ナボテを民の前に引き出してすわらせた。21:13 そこに、ふたりのよこしまな者がはいって来て、彼の前にすわった。よこしまな者たちは民の前で、ナボテが神と王をのろった、と言って証言した。そこで人々は彼を町の外に引き出し、石打ちにして殺した。

 二人、三人の証言によって罪と定められる、とも律法に書かれているので、このように偽証をする者を立てて、ナボテを死罪に定めています。イエスさまが死罪に定めるときに、ユダヤ人議会が行なったことと同じですね。

21:14 こうして、彼らはイゼベルに、「ナボテは石打ちにされて殺された。」と言ってよこした。21:15 イゼベルはナボテが石打ちにされて殺されたことを聞くとすぐ、アハブに言った。「起きて、イズレエル人ナボテが、あなたに売ることを拒んだあのぶどう畑を取り上げなさい。もうナボテは生きていません。死んだのです。」21:16 アハブはナボテが死んだと聞いてすぐ、立って、イズレエル人ナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行った。

 アハブは臆面もなく、ナボテの畑に行きました。自分のしていることがわかりません。彼の罪は、むさぼり、欲しがることでしたが、それが熟すと、殺人、また盗みの罪に変わっています。私が教会学校で子供たちに、ここの部分から、親に、だだをこねて何かをもらおうとすることは、本当にそれを行なったら人殺しもするような恐ろしいことである、と教えました。だから与えられたもので満足しなさい、と言った覚えがあります。

3B 突き刺す言葉 17−29
21:17 そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。21:18 「さあ、サマリヤにいるイスラエルの王アハブに会いに下って行け。今、彼はナボテのぶどう畑を取り上げようと、そこに下って来ている。」

 ホレブの山にいたエリヤは、主からエリシャに油注ぎなさいとの指令を受け、それでイスラエルの地に戻っていました。そして今、主がエリヤにアハブに対する言葉を与えられています。

21:19 彼にこう言え。「主はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。」また、彼に言え。「主はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。」

 アハブは以前、シリヤの王ベン・ハダデのいのちを取らなかったので、今度は自分のいのちが取られることを、預言者から告げられていましたが、さらに悲惨です。ナボテを殺した罪を重ねたので、そのしかばねが、ナボデの畑のところで捨てられ、犬がその血をなめる、という宣言を受けます。

21:20 アハブがエリヤに、「あなたはまた、私を見つけたのか。わが敵よ。」と言うと、エリヤは答えた。「あなたが裏切って主の目の前に悪を行なったので、私は見つけたのだ。

 アハブによって、自分の気持ちや思いに反することを言うものは、みな敵です。けれども、エリヤは、あなたが神に敵対しているのだ、と正しています。

21:21 今、わたしはあなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、アハブに属する小わっぱも奴隷も、自由の者も、イスラエルで絶ち滅ぼし、21:22 あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたがわたしの怒りを引き起こしたその怒りのため、イスラエルに罪を犯させたためだ。

 北イスラエルでは、一つの王家を根絶やしにする、神のさばきがこれまでに二度、ありました。一つはヤロブアムの家の者たちであり、バシャが滅ぼしました。もう一つは、バシャ自身の家をジムリという男が根絶やしにしました。そして今度は、アハブの家のものが絶ち滅ぼされます。

21:23 また、イゼベルについても主はこう仰せられる。「犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。」21:24 アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬どもがこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。

 イゼベルについても、具体的にその殺され方が預言されています。列王記第二に、これが文字通りに実現しているのを読みます。

21:25 アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。

 先ほど話しましたように、彼が主の目の前に悪を行なったのは、彼自身がそう願っていたのですが、イゼベルがそそのかしていたからです。

 そして、アハブが主を裏切った、とありますが、これは彼のことを表現するのに適切な言葉でしょう。彼は主から無視されていませんでした。前回の20章の学びを見ても、またその前の雨が降らなかった神のさばきを見ても、主はアハブに深く関わろうとされていることが、よく分かります。にも関わらず、彼は主を裏切ったのです。

21:26 彼は偶像につき従い、主がイスラエル人の前から追い払われたエモリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行なった。

 ヤロブアムの罪は、ヤハウェ信仰を偶像礼拝にゆがめた罪ですが、アハブが行なったのは、まったく異なる外国の神をイスラエルの導入したことです。ですから、主がイスラエルを初めに約束の地に導かれたときに、聖絶せよと命じられた、忌むべきカナン人やエモリ人の偶像礼拝やそのならわしを、イスラエルの中に導入してしまった罪がアハブにはあります。

21:27 アハブは、これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた。21:28 そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。21:29 「あなたはアハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」

 アハブは甘えて、だだをこねて、エリヤを敵視していましたが、アハブの家が全滅するという言葉を聞いて、ようやく心刺されることになりました。外套を裂き、荒布をまとい、打ちしおれています。私たちは、主のことばを聞くとき、また主ご自身に取り組むとき、この立場に至るまでの取り組みをしなければいけないことが分かります。神のみことばを、自分の気持ちを良くするためであるとか、自分がやっていることを正当化させるためだとか、へりくだりに至らない聞き方をしていれば、それはアハブと同じです。けれどもアハブが激しく怒って、不げんになるのではなく、ついに神のことばをそのまま受け取って、悲しむようになったように、私たちも神の前でへりくだることができます。

 その時、主は私たちをあわれんでくださいます。悪王アハブが打ちしおれたのは驚くべきことですが、もっと驚くのは、彼が打ちしおれたのをご覧になって、彼をあわれむ神のあわれみです。神は、ここまで人をあわれむことに富んでおり、へりくだり、悔い改める者には罪の赦しを与える方であることを再確認します。

 
具体的には、先ほど主がお語りになった、ナボテの畑のところで殺されて、犬がその血をなめるとか、またアハブの子供を含めた全員が立ち滅ぼされるという預言は、アハブが生存中には起こらない、という約束です。

2A 耳触りの良い言葉 22
1B 悪に対する報い 1−40
1C 自分がやりたい事 1−12
22:1 アラムとイスラエルとの間には戦いがないまま三年が過ぎた。

 前回の学びを思い出してください。アラムすなわちシリヤの王ベン・ハダデが、イスラエルに戦いをしかけて、敗北しました。それ以来、この二カ国の間には戦争がありませんでした。

22:2 しかし、三年目になって、ユダの王ヨシャパテがイスラエルの王のところに下って来ると、22:3 イスラエルの王は自分の家来たちに言った。「あなたがたは、ラモテ・ギルアデが私たちのものであることを知っているではないか。それなのに、私たちはためらっていて、それをアラムの王の手から奪い返していない。」

 ベン・ハダデは、アハブによって生かされたときに、「私の父が、あなたの父上から奪い取った町々をお返しいたします。(20:34」と言いましたが、ラモテ・ギルアデは返していなかったようです。おそらく軍事的に戦略的な位置にこの町があるからでしょう。

22:4 それから、彼はヨシャパテに言った。「私といっしょにラモテ・ギルアデに戦いに行ってくれませんか。」ヨシャパテはイスラエルの王に言った。「私とあなたとは同じようなもの、私の民とあなたの民、私の馬とあなたの馬も同じようなものです。」

 この章の最後のところで、ヨシャパテの治世について短く説明されています。彼はアサ王の子であり、アサと同じように、主の目にかなうことを行なっていました。ところが、彼には風変わりな趣味がありました。それは、北イスラエルの悪王と仲良くしていることです。同じ記録が書かれている歴代誌第二18章の次19章には、ヨシャパテが預言者エフーによって、叱責を受けている場面が出てきます。「悪者を助けるべきでしょうか。あなたは主を憎む者たちを愛してよいのでしょうか。(2節)」とあります。使徒パウロは手紙の中で、「正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。(2コリント6:14」と言いました。また、「悪事においては幼子でありなさい。(1コリント14:20」ともあります。悪に対する変な好奇心を抱いてはいけません。けれども、ヨシャパテは自分自身は主の前に歩んでいたのに、悪王アハブを助けようとしています。

22:5 ヨシャパテは、イスラエルの王に言った。「まず、主のことばを伺ってみてください。」

 彼は、まず主のみこころを求めなければいけませんね、と助言しています。私たちも、「これこれのことをしようではないか。」と自分たちのやりたいことをやろうとするときに、「まず祈ってみよう。」と立ち止めてくれる人が必要ですね。

22:6 そこで、イスラエルの王は約四百人の預言者を召し集めて、彼らに尋ねた。「私はラモテ・ギルアデに戦いに行くべきだろうか。それとも、やめるべきだろうか。」彼らは答えた。「上って行きなさい。そうすれば、主は王の手にこれを渡されます。」22:7 ところが、ヨシャパテは、「ここには、私たちがみこころを求めることのできる主の預言者がほかにいないのですか。」と言った。

 この四百人の預言者はヤハウェの預言者なのか、また異教の預言者なのか分かりません。けれども、みなが一つになって、アハブが願っていることを預言していることに、ヨシャパテは胡散臭さを嗅ぎ分けたのかもしれません。彼は見分けています。

22:8 イスラエルの王はヨシャパテに答えた。「いや、ほかにもうひとり、私たちが主のみこころを求めることのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです。それは、イムラの子ミカヤです。」すると、ヨシャパテは言った。「王よ。そういうふうには言わないでください。」22:9 そこで、イスラエルの王はひとりの宦官を呼び寄せ、「急いで、イムラの子ミカヤを呼んで来なさい。」と命じた。

 一人ミカヤという預言者は、アハブは嫌いでした。理由は、「悪いことばかり預言するから」とあります。ここにアハブの甘えん坊の性格が、よく出ています。自分の気持ちを代弁してくれるような預言はすばらしい預言であるが、自分の気分を害するものは預言ではない、それを非常に憎む、というわけです。私たちも説教の聞き方がどうなっているか、確かめたいですね。自分のやりたいことを支持してくれるメッセージをすばらしいというのであれば、アハブの預言の聞き方と同じ間違いを犯しています。終わりの日に、多くの者がアハブと同じような聞き方をすることが預言されています。テモテへの手紙第二4章です。「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(2-4節)

22:10 イスラエルの王と、ユダの王ヨシャパテは、おのおの王服を着て、サマリヤの門の入口にある打ち場の王の座に着き、預言者はみな、ふたりの前で預言していた。

 旧約聖書では、町の門の入り口がいわゆる役所になっていることが分かります。

22:11 そのとき、ケナアナの子ゼデキヤは、王のために鉄の角を作って言った。「主はこう仰せられます。『これらの角で、あなたはアラムを突いて、絶滅させなければならない。』」22:12 ほかの預言者たちもみな、同じように預言して言った。「ラモテ・ギルアデに攻め上って勝利を得なさい。主は王の手にこれを渡されます。」

 ゼデキヤがこれら四百人の預言者のまとめ役だったのでしょう。彼は鉄の角をこしらえて、言葉だけでなく体を動かすことによって、神のみこころを示そうとしています。

2C 神のさばきと悪霊 13−28
22:13 さて、ミカヤを呼びに行った使いの者はミカヤに告げて言った。「いいですか。お願いです。預言者たちは口をそろえて、王に対し良いことを述べています。お願いですから、あなたもみなと全く同じように語り、良いことを述べてください。」22:14 すると、ミカヤは答えた。「主は生きておられる。主が私に告げられることを、そのまま述べよう。」

 これは興味深いです。これら預言者は、主が告げられたことを王に語っているのではなく、王を喜ばせるために預言していたことが分かります。主を喜ばすのではなく、王を喜ばそうとしていたのです。

 新約聖書においても、教会の中で偽教師や偽使徒たちが現れて、警戒するようにとの使徒たちの言葉がありますが、彼らとは異なって自分が行なってきたことを次のように説明しています。「私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。(1テサロニケ2:3-5」偽預言をするのは、単にそのような預言が与えられるからではなく、自分の不純な動機が働いているから、偽預言をします。偽りの教えはみな、そうした人間の欲望から、そしてもちろん悪霊が触発することによって発生するものです。

22:15 彼が王のもとに着くと、王は彼に言った。「ミカヤ。私たちはラモテ・ギルアデに戦いに行くべきだろうか。それとも、やめるべきだろうか。」すると、彼は王に答えた。「攻め上って勝利を得なさい。主は王の手にこれを渡されます。」22:16 すると、王は彼に言った。「いったい、私が何度あなたに誓わせたら、あなたは主の名によって真実だけを私に告げるようになるのか。」

 ミカヤは皮肉を込めて、「攻め上って、勝利を得なさい」と言ったのでしょう。アハブは、そのわざとらしいミカヤの言い方に腹を立てて、まじめに言いなさい、とたしなめています。そこでミカヤはまじめになりました。

22:17 彼は答えた。「私は全イスラエルが、山々に散らされているのを見た。まるで、飼い主のいない羊の群れのように。そのとき、主は仰せられた。『彼らには主人がいない。彼らをおのおのその家に無事に帰さなければならない。』」22:18 イスラエルの王はヨシャパテに言った。「彼は私について良いことを預言せず、悪いことばかりを預言すると、あなたに言っておいたではありませんか。」

 先に21章で、エリヤから語られた神のさばきの言葉には、彼は反応して悲しんだのに、ここではそのようなへりくだりを見ることはありません。

22:19 すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。私は主が御座にすわり、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。22:20 そのとき、主は仰せられました。『だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか。』すると、あれこれと答えがありました。22:21 それからひとりの霊が進み出て、主の前に立ち、『この私が彼を惑わします。』と言いますと、主が彼に『どういうふうにやるのか。』と尋ねられました。22:22 彼は答えました。『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』すると、『あなたはきっと惑わすことができよう。出て行って、そのとおりにせよ。』と仰せられました。22:23 今、ご覧のとおり、主はここにいるあなたのすべての預言者の口に偽りを言う霊を授けられました。主はあなたに下るわざわいを告げられたのです。」

 これは驚くべき裏舞台です。まず主が、アハブをさばこうとされています。そこでアハブが、彼自身が願うとおりにラモテ・ギルアデに行かせて、そこで死なせることをお許しになります。けれども、主は、そのことを成功させるためにだれか手伝う者はいないか、と天使たちに聞きます。すると、悪い霊どもがやって来て、私たちが偽りを言う霊となりましょう、と言います。

 ここから、聖書のほかの箇所にも書かれている二つの事柄について考えたいと思います。一つは、悪魔と悪霊は、究極的には神に仕えている存在である、ということです。ヨブ記を思い出してください、そこにサタンが神の前に出ています。そしてヨブに害を加える事を、主が許容しておられます。悪魔や悪霊は、もちろん神に反抗する者どもですが、神は全能者であり、彼らは神の手中に完全に収まっています。彼らが空中から投げ出され地上に落ち、それから地獄に投げ込まれるのは、まだ先の話です。

 そしてもう一つ、神は、人々がご自分の真理を受け入れないとき、そのことに対するさばきとして、悪魔や悪霊どもの惑わしや偽りを信じるようにさせる、という事実があります。テサロニケ人への手紙第二2章にて、パウロが反キリストの出現についてこう述べています。「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。(9-12節)」人が福音の真理を受け入れないとき、必ず偽りを信じるようになります。

22:24 すると、ケナアナの子ゼデキヤが近寄って来て、ミカヤの頬をなぐりつけて言った。「どのようにして、主の霊が私を離れて行き、おまえに語ったというのか。」22:25 ミカヤは答えた。「いまに、あなたが奥の間にはいって身を隠すときに、思い知るであろう。」

 つまり、実際に預言が外れたとき、あなたは自分の身を隠すようになりますよ、ということです。

22:26 すると、イスラエルの王は言った。「ミカヤを連れて行け。町のつかさアモンと王の子ヨアシュのもとに下がらせよ。22:27 王が『この男を獄屋に入れ、私が無事に帰って来るまで、わずかなパンと、わずかな水をあてがっておけ。』と命じたと言え。」

 王はミカヤを獄中に入れます。いや、英語では、「下がらせよ」ではなく「戻らせよ(return)」と書かれているので、もともと獄中にいたのかもしれません。ヨシャパテ王がしきりに勧めるので、あえてミカヤを獄中から連れ出したのかもしれません。

22:28 ミカヤは言った。「万が一、あなたが無事に戻って来られることがあるなら、主は私によって語られなかったのです。」そして、「みなの人々よ。聞いておきなさい。」と言った。

 大事ですね、預言が主からのものかどうか、その実現によってわかります、ということです。

3C 妨げられることのない御心 29−40
22:29 こうして、イスラエルの王とユダの王ヨシャパテは、ラモテ・ギルアデに攻め上った。22:30 そのとき、イスラエルの王はヨシャパテに言った。「私は変装して戦いに行こう。でも、あなたは、自分の王服を着ていてください。」こうして、イスラエルの王は変装して戦いに行った。

 アハブは、神の預言に対して、そのさばきを免れると考えました。自分は変装して、ヨシャパテに王服を着せて、自分は命拾いしようとしています。

22:31 アラムの王は、自分の配下の戦車隊長たち三十二人に命じて言った。「兵や将校とは戦うな。ただイスラエルの王を目ざして戦え。」22:32 戦車隊長たちはヨシャパテを見つけたとき、「確かにあれはイスラエルの王に違いない。」と思ったので、彼のほうに向かって行って戦おうとした。すると、ヨシャパテは助けを叫び求めた。22:33 それで、戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知ったとき、彼を追うことをやめ、引き返した。

 主が介入しておられます。ここでは戦車隊長たちがイスラエルの王ではないと知った、と書いてありますが、歴代誌第二18章では、「主が彼を助けられた。神は彼らを、彼から離れるように仕向けられた。(31節)」とあります。

22:34 ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。そこで、王は自分の戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を敵陣から抜け出させてくれ。傷を負ってしまった。」

 ここでの主の介入です。何気ない、兵士の弓が、― これは敵を殺そうと狙ったものでもなかったのですが、―それが、ちょうどイスラエルの王を射抜きました。主のことばは、私たちがいくら妨げようとしても、その通りになるのです。

22:35 その日、戦いはますます激しくなった。王はアラムに向かって、戦車の中に立っていたが、夕方になって死んだ。傷から出た血は戦車のくぼみに流れた。22:36 日没のころ、陣営の中に、「めいめい自分の町、自分の国へ帰れ。」という叫び声が伝わった。

 ミカヤが預言した通りになりました。

22:37 王は死んでからサマリヤに着いた。人々はサマリヤで王を葬った。22:38 それから、戦車をサマリヤの池で洗った。すると、犬が彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗った。主が語られたことばのとおりであった。

 ナボテの畑でではありませんが、犬が血をなめるというエリヤの預言はその通りになりました。けれども、文字通りに、ナボテの畑にてアハブの子が殺される預言は後で実現します。

22:39 アハブのその他の業績、彼の行なったすべての事、彼が建てた象牙の家、、彼が建てたすべての町々、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。22:40 アハブは彼の先祖たちとともに眠り、その子アハズヤが代わって王となった。

 アハブは22年間、王でした。そして象牙の家やいろいろな町々を建てたことなどが、業績となっています。物理的には繁栄をもたらした王と言えましょう。しかし霊的には退廃をもたらしました。

2B 後の王 41−53
22:41 アサの子ヨシャパテがユダの王となったのは、イスラエルの王アハブの第四年であった。

 先ほど話しましたように、ヨシャパテの記録がここから始まります。

22:42 ヨシャパテは三十五歳で王となり、エルサレムで二十五年間、王であった。その母の名はアズバといい、シルヒの娘であった。22:43 彼はその父アサのすべての道に歩み、その道からそれることなく、主の目にかなうことを行なった。しかし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。

 アサは善王であったことを以前学びました。そして、高き所は取り除かなかったとありますが、おそらくこれは、ヤハウェを礼拝する高き所であると考えられます。偶像礼拝の場は取り除き、ヤハウェ礼拝は取り除きませんでした。けれども、それでも神殿での礼拝を主は定められていたので、取り除くべきでした。

22:44 ヨシャパテはイスラエルの王と友好関係を保っていた。22:45 ヨシャパテのその他の業績、彼の立てた功績とその戦績、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。22:46 彼は、父アサの時代にまだ残っていた神殿男娼をこの国から除き去った。

 同性愛者を取り除きました。当時は宗教行事とこのような乱交は密接に関わっていました。

22:47 そのころ、エドムには王がなく、守護が王であった。22:48 ヨシャパテはタルシシュの船団をつくり、金を得るためにオフィルへ行こうとしたが、行けなかった。船団がエツヨン・ゲベルで難破したからである。22:49 そのとき、アハブの子アハズヤはヨシャパテに、「私の家来をあなたの家来といっしょに船で行かせましょう。」と言ったが、ヨシャパテは承知しなかった

 かつてソロモンが行なっていた貿易をヨシャパテが行なおうとしていましたが、うまく行きませんでした。またアハブの次の王がヨシャパテにすりよりましたが、彼は承知しませんでした。

22:50 ヨシャパテは彼の先祖たちとともに眠り、先祖たちとともに父ダビデの町に葬られた。その子ヨラムが代わって王となった。

 ヨラムについては列王記第二に書いてあります。少し混乱するのは、アハブの次の王アハズヤの次の王も、ヨラムという名前であることです。同時期に、同名の王がそれぞれ北と南で治めていました。

22:51 アハブの子アハズヤは、ユダの王ヨシャパテの第十七年にサマリヤでイスラエルの王となり、二年間、イスラエルの王であった。

 ヤロブアムの子ナダブの治世も、バシャの子エラも治世は二年間だけでした。それぞれの王家に神のさばきがあるからです。

22:52 彼は主の目の前に悪を行ない、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの道に歩んだ。22:53 すなわち、彼はバアルに仕え、それを拝み、彼の父が行なったと全く同じように行なって、イスラエルの神、主の怒りを引き起こした。

 彼もアハブの道、ヤロブアムの道を歩みました。彼に対するさばきは、列王記第二に書かれています。

 こうして列王記第一を読み終わりました。イスラエルは急降下しました。神に愛された人ダビデの晩年から、神のさばきが宣言されたアハブの晩年で終了しました。アハブは、これまでの王以上に悪い者でしたが、それ以上にエリヤや他の預言者を通して、主から語られた者でした。彼は神のみことばを受け入れるときは、たまにありましたが、基本的に、今日読んだように、自分の気持ちが神のみことばに優先して、自分のやりたい事を行なっていったのです。


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