サムエル記第一1−2章 「新たな霊的指導者」


アウトライン

1A 主に願った子サムエル 1
   1B 胎を閉ざされる主 1−11
      1C ペニンナのいやがらせ 1−8
      2C うめく祈り 9−11
   2B 心に留められる主 12−28
      1C 魂を注ぎだす祈り 12−18
      2C 主への献身 19−28
2A 主の救いの胎動 2
   1B ハンナの賛美 1−10
      1C すべてを知る主 1−5
      2C 主に油注がれた者 6−10
   2B エリの息子と少年サムエル 11−36
      1C 主の宮での奉仕 11−21
         1D ささげ物の侮り 11−17
         2D ハンナへの祝福 18−21
      2C 警告とさばき 22−36
         1D 主に対する罪 22−26
         2D エリ家へのさばき 27−36

本文

 サムエル記第一1章を開いてください。今日は1章と2章を学びます。ここでのテーマは、「新たな霊的指導者」です。

 サムエル記第一から、聖書の歴史の中で大きな転換期を迎えます。それは、イスラエルが神を王とする神政政治から人を王とする君主制に移行することです。サムエル記第一は、最後の士師であるサムエルの生涯から始まり、最初の王であるサウルの歴史が記されています。そしてサムエル記第二には、イスラエルの王の中でもっとも偉大な王ダビデとその統治が記録されており、その後の歴史は列王記第一、第二に記されています。歴代誌第一と第二は、列王記と同時期の南ユダ王国の歴史が記されています。そして、イスラエルの君主制はバビロン捕囚によって終わります。

 今日は、士師時代において霊的に堕落してしまっていたイスラエルにおいて、主が、サムエルという霊的指導者を与えてくださる、その最初の話、サムエルの誕生について読んでいきます。

1A 主に願った子サムエル 1
1B 胎を閉ざされる主 1−11 1
1C ペニンナのいやがらせ 1−8
 エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに、その名をエルカナというひとりの人がいた。この人はエロハムの子、順次さかのぼって、エリフの子、トフの子、エフライム人ツフの子であった。

 舞台は、エフライムの山地です。そこにレビ人であるエルカナという人がいました。(エルカナがレビ人であるのは、歴代誌第一6章にある系図から分かります。)思い出してください、士師記17章にて、エフライムにはミカという人について紹介されていました。士師記19章には、エフライムの山地の奥に一人のレビ人が住んでいたことが書かれていました。同じ地域で、エルカナは住んでいました。

 エルカナには、ふたりの妻があった。ひとりの妻の名はハンナ、もうひとりの妻の名はペニンナと言った。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。

 エルカナの状況は、ちょうどヤコブに似ています。ヤコブはラケルとレアという二人の妻を持っていましたが、レアから子が産まれラケルにはずっと子が与えられていませんでした。子がいないということは、イスラエル人にとっては、創世記3章15節に記されている「女の子孫」を生み出す器であることを放棄することを意味し、またアブラハムに与えられた約束、「あなたの子孫によって、祝福される」という約束を受け継ぐことができなくなります。ですから文化的に子がないことは、のろいとみなされていました。けれども、聖書の中に出てくる、神に用いられる多くの女性のように、ハンナもまた不妊であることから神に用いられる器となります。

 この人は自分の町から毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。そこにはエリのふたりの息子、主の祭司ホフニとピネハスがいた。

 ヨシュアが約束の地に入ってから、シロがイスラエルの宗教の中心地となっていました。ヨシュアがそこに会見の天幕を建ててから(ヨシュア18:1)、シロに幕屋が置かれていました。そして、「万軍の主を礼拝し」とありますが、主の呼び名として「万軍の主」が使われているのはここが初めてです。主が敵に対して、ご自分の御使いの軍勢によって戦われる、ということですが、サムエル記以後の聖書の中に、数多くこの呼称が用いられています。

 そこには主の祭司エリと、その息子ホフニとピネハスがいますが、この息子二人が邪悪な者たちです。そのことが2章に書かれていますので、その時に見ていきます。

 その日になると、エルカナはいけにえをささげ、妻のペニンナ、彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えた。また、ハンナに、ひとりの人の受ける分を与えていた。

 「受ける分」というのは、動物のいけにえの中の、和解のいけにえをささげる場合に行なわれることです(レビ3章参照)。祭壇でいけにえを焼くとき、脂肪分は完全に焼いて、それを主のものとしてささげます。そして胸と右肩の肉は祭司のものとなります。残りがそのささげた人のものとなり、それが「分け前」です。主のものである肉を共に食べることで、神と交わり、神を礼拝します。

 そして、その分け前をハンナはひとり分受けました。ペニンナは、ひとり分を自分の息子と娘たちに分けて与えていましたが、ハンナにはひとり分丸々、エルカナは与えました。

 彼はハンナを愛していたが、主が彼女の胎を閉じておられたからである。

 とても大切な言葉です。主が、彼女の胎を閉じておられました。彼女が不妊であるのは主がそうされているからです。私たちは、ハンナから祈りについて多くを学ぶことができます。彼女は不妊のために、うめくような祈りへと導かれ、その祈りのために神が男の子をさずけられ、その祈りのために、神のみこころにかなった、神にすべてをささげる男の子を育てる決心を彼女はしました。すべての始まりは、ハンナの祈りではなく、その祈りを用意された主ご自身です。

 
彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。

 ラケルとレアとの間でも起こった、一夫多妻制の中での妻たちの確執と競争をここに見ます。一夫多妻制は当時、許容されたものでしたが、それが、神が立てられた結婚制度ではありませんでした。イエスさまは、「初めからそうだったのではありません。(マタイ19:8)」と言われてから、アダムとエバの二人が一心同体になったときのことをお話になりました。ひとりの男とひとりの女です。

 毎年、このようにして、彼女が主の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。この食事は、先ほど話した、和解のいけにえの分け前の食事です。それで夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ。なぜ、泣くのか。どうして、食べないのか。どうして、ふさいでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか。」

 エルカナはハンナのことを愛していましたが、女の気持ちが分かっていない男の典型ですね。私はエルカナの気持ちがよく分かります。自分は精一杯愛しているつもりなのに、妻の必要に鈍感になってしまっています。

2C うめく祈り 9−11
 シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。そのとき、祭司エリは、主の宮の柱のそばの席にすわっていた。ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。

 ハンナが立ち上がって、祈り始めました。心の激しい痛みをともなっていたからです。これは正しい反応です。私たちが心を痛めるとき、悲しいとき、苦しいとき、唯一、その心をいやすのは主ご自身です。主のところに、いやしの泉が湧き出ています。

 そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」

 主が彼女の胎を閉じられた理由が、ここにあります。それは、主にささげられた人として育てることを決意する祈りへとハンナをお導きになろうとしていたことです。その時、イスラエルは士師の時代にあったことを忘れないでください。士師の時代の霊的状態は、士師記に描かれていました。人々は主の目に悪を行ない、めいめい自分の目に正しいと見えることを行なっていました。ですから、イスラエルに霊的復興を与える器を必要とされていました。新たな霊的指導者を起こそうとされていました。そのためには、ご自分の心と同じくする人が必要でした。そこでハンナの胎を閉じられたのです。そして彼女が、この祈り、男の子を一生あなたにおささげします、という祈りをするように促されていたのです。そして主がその祈りを聞かれることによって、ご自分のわざをハンナを通して現わそうとされていたのでした。

 このように祈りは、主のみこころから始まります。祈りは私たちの願っていること、欲していることを思いのままに実現するような、まじないでは決してありません。神はサンタクロースではありません。ヨハネ第一の手紙5章14節に、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる」とあります。主が人の心に、ご自分の願いを起こされます。そして人がその願いをもって祈ると、神がその祈りを聞かれることによって、ご自分のわざをその祈った人を通して行なわれます。祈りは、私たちの願いではなく、神の願いが、みこころがこの地上で行なわれるための手段なのです。

2B 心に留められる主 12−28
1C 魂を注ぎだす祈り 12−18
 ハンナが主の前で長く祈っている間、エリはその口もとを見守っていた。ハンナは心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのではないかと思った。

 ハンナの祈りは、うめく祈りでした。言葉にもならないうめきを主に持っていっていました。そのため、人が見れば、くちびるが震えるだけにしか思えず、酔っているのではないかと見えるのです。すばらしいことは、主はこのような祈りを聞いてくださる、ということです。ローマ8章にこう書かれています。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(26節)」言葉にもならないうめきを、なんと御霊が促しておられます。そして御霊は神のみこころを完全に知っておられるので、神のみこころに沿った祈りをすることができるように、助けてくださっているのです。

 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」食事をしたときのぶどう酒で酔ったものだとエリは思いました。ハンナは答えて言った。「いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」

 心を注ぎ出していた」とハンナは答えています。このような祈りを主は聞かれます。

 エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」

 エリは、祭司の霊的ミニストリーを行っています。慰めと励ましと祈りです。将来と希望を与える言葉を投げかけています。新約聖書では、このことを互いに行ないなさい、あなたがたはキリストにある祭司なのですから、という勧めになっています(1ペテロ4:10−11など)。

 彼女は、「はしためが、あなたのご好意にあずかることができますように。」と言った。それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。

 これが心を注ぎだす祈りをした結果です。彼女の顔は変わりました。祈りは周りの状況を変える前に、自分の内面を変えます。たましいの創造者に自分を任せることができるようになったからです。

2C 主への献身 19−28
 翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家へ帰って行った。エルカナは自分の妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。

 ここの「知った」というのは、もちろん夫婦関係を持つ、ということです。そして主がそれによって、受精と受胎を起こしてくださいました。

 日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を主に願ったから。」と言って、その名をサムエルと呼んだ。

 サムエルは、彼の名は神という意味ですが、音が「聞く」の意の「シャマ」、そして神「エル」が合わさった音にちなんで付けられました。神に聞かれた、という意味です。

 夫のエルカナは、家族そろって、年ごとのいけにえを主にささげ、自分の誓願を果たすために上って行こうとしたが、ハンナは夫に、「この子が乳離れし、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝し、いつまでも、そこにとどまるようになるまでは。」と言って、上って行かなかった。夫のエルカナは彼女に言った。「あなたの良いと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待ちなさい。ただ、主のおことばのとおりになるように。」こうしてこの女は、とどまって、その子が乳離れするまで乳を飲ませた。

 エルカナの誓願は、おそらくハンナの、男の子を主におささげする誓願のことでしょう。けれどもハンナは、自分の手からサムエルを手放すときは、ずっと主の幕屋で奉仕するときであることを知っていました。ですから乳離れの時期になるまで待たねばなりませんでした。

 その子が乳離れしたとき、彼女は雄牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携え、その子を連れ上り、シロの主の宮に連れて行った。その子は幼かった。彼らは、雄牛一頭をほふり、その子をエリのところに連れて行った。雄牛三頭のうちの一頭は、サムエルのためでした。ハンナは言った。「おお、祭司さま。あなたは生きておられます。祭司さま。私はかつて、ここのあなたのそばに立って、主に祈った女でございます。この子のために、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。祈りが聞かれたことを、祭司に報告しました。それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたものです。」こうして彼らはそこで主を礼拝した。

 こうしてサムエルは、祭司エリに手渡され彼は幼少の時から幕屋で過ごすことになります。

2A 主の救いの胎動 2
1B ハンナの賛美 1−10
 そして二人は主を礼拝しましたが、その時ハンナは祈りと賛美をささげます。読み進めればわかるのですが、非常に奥深い内容になっており、メシヤ到来の預言にさえなっています。実にイエスさまを身ごもったマリヤによる賛歌、マニフィカトはハンナの祈りに大きく影響されています。彼女は、不妊という苦しみの中において、自分の内なる人格が練られていたことが分かります。「患難は忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す(ローマ5:3−4)」とあるとおりのことが起こっていたのです。

1C すべてを知る主 1−5
 ハンナは祈って言った。「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。」

 「」とは力を表します。口が敵に向かって大きく開くとは、敵に対して勝利したということです。そして「あなたの救いを喜ぶ」とありますが、これはまさにメシヤ預言であります。

 主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。

 三つの文は、すべて同じことを話しています。主のような方はいない、ということです。そして、「神のような岩」とありますが、「」がメシヤの呼び名として聖書で使われていきます。

 高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは確かです。

 高ぶりに対する警告です。高ぶっても、主がすべてをご存知です。

 勇士の弓が砕かれ、弱い者が力を帯び、食べ飽いた者がパンのために雇われ、飢えていた者が働きをやめ、不妊の女が七人の子を産み、多くの子を持つ女が、しおれてしまいます。

 逆転劇が起こることを告げています。強い者が弱くされ、弱い者が強くされます。自分を低くする者が高められ、高ぶる者が低められる、という聖書全体に貫く原則です。そして、「多くの子を持つ女がしおれてしまう」というのは、もちろんペニンナのことです。彼女の高ぶりは、ハンナに子が与えられることによって打ち砕かれました。

2C 主に油注がれた者 6−10
 次にこのような逆転劇が、終わりの時にメシヤにおいて実現することをハンナは預言しています。主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。

 イエスさまは十字架上で殺され、墓に葬られ、よみに下り、そしてよみがえられました。

 
主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。

 主は貧しい方として来られ、それから天に上げられ、神の右の座に着く方とされました。

 主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。

 キリストにつく者も、主の足跡を歩みます。心を貧しくしている者が、将来、栄光の地位に着きます。

 主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。

 聖徒たちに対する神の守りと、悪者に対する神のさばきの預言です。

 主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。主は地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。

 これはハルマゲドンの預言です。イエスさまが戻ってこられて、諸国の軍隊を打ち砕き、国々をさばかれます。そして神の国を地上に立てられます。そして、「主に油注がれた者」とありますが、これが聖書で初めての、メシヤの言及です。メシヤあるいは油注がれた者、という名称はここが始めてです。

2B エリの息子と少年サムエル 11−36
1C 主の宮での奉仕 11−21
1D ささげ物の侮り 11−17
 その後、エルカナはラマの自分の家に帰った。幼子は、祭司エリのもとで主に仕えていた。

 ハンナの祈りは、いま霊的暗黒の中にあるイスラエルを救い出すために立てられるサムエルのことを意識してのことでしょうが、究極的に世を救われる方の預言も語っていました。


 さて、エリの息子たちは、よこしまな者で、主を知らず、民にかかわる祭司の定めについてもそうであった。

 エリの息子、ホフニとピネハスのことですが、彼らは当時のイスラエルの霊的状態を象徴しているような人物です。ここに、彼らが「主を知らない」という言葉が出てきます。主を知らない人が、祭司の務めを行なっていました。これは悲劇です。救われていない人が教会を牧会しているようなものです。けれども現にこのようなことが教会の中に起こります。牧師になろうとする人は、まず自分が救われているか点検するところから始める必要があるでしょう。

 だれかが、いけにえをささげていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子が三又の肉刺しを手にしてやって来て、これを、大なべや、かまや、大がまや、なべに突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。彼らはシロで、そこに来るすべてのイスラエルに、このようにしていた。

 彼らは主にささげられるべき肉を、このように自分たちのものにしていました。

 それどころか、人々が脂肪を焼いて煙にしないうちに祭司の子はやって来て、いけにえをささげる人に、「祭司に、その焼く肉を渡しなさい。祭司は煮た肉は受け取りません。生の肉だけです。」と言うので、人が、「まず、脂肪をすっかり焼いて煙にし、好きなだけお取りなさい。」と言うと、祭司の子は、「いや、いま渡さなければならない。でなければ、私は力ずくで取る。」と言った。

 和解のいけにえは、脂肪を焼いてしまわなければいけません。脂肪は主のものであるとレビ記3章に書かれています。

 このように、子たちの罪は、主の前で非常に大きかった。主へのささげ物を、この人たちが侮ったからである。

 ここの翻訳は、「人々が主へのささげ物を忌み嫌うようになった」というものもあります。二人が行なっていたことで、人々が礼拝から離れていった、という結果をもたらしました。これは大きな罪です。イエスさまも律法学者やパリサイ人に対して、「あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。(マタイ23:13)」と咎められました。

2D ハンナへの祝福 18−21
 サムエルはまだ幼く、亜麻布のエポデを身にまとい、主の前に仕えていた。

 二人のよこしまな祭司たちと対比させて、サムエルの姿が描かれています。幼少のサムエルが、祭司の装束の一部であるエポデを身にまとっています。

 サムエルの母は、彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに、その年のいけにえをささげに上って行くとき、その上着を持って行くのだった。

 子供はどんどん成長しますから、ハンナが成長に合わせたサイズの上着を作っていきました。

 エリは、エルカナとその妻を祝福して、「主がお求めになった者の代わりに、主がこの女により、あなたに子どもを賜わりますように。」と言い、彼らは、自分の家に帰るのであった。事実、主はハンナを顧み、彼女はみごもって、三人の息子と、ふたりの娘を産んだ。少年サムエルは、主のみもとで成長した。

 すばらしいですね、ハンナは、サムエルが主のみもとで成長するのを観ることができただけでなく、三人の息子と二人の娘が与えられました。ここに、「神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられます」というイエスさまの言葉の原則が貫かれています。ハンナはもちろん、自分の息子、娘を欲しかったに違いありません。自分をとおして、エルカナの息子が与えられることを望んでいたに違いありません。けれども彼女は、主を第一としました。けれどもそのときに、主は必要なものをも加えて与えてくださいます。

2C 警告とさばき 22−36
1D 主に対する罪 22−26
 エリは非常に年をとっていた。彼は自分の息子たちがイスラエル全体に行なっていることの一部始終、それに彼らが会見の天幕の入口で仕えている女たちと寝ているということを聞いた。

 主を知らず、主へのいけにえを侮ったホフニとピネハスは、性的罪も犯していました。神を侮ると必ず、人をも侮ることをします。

 それでエリは息子たちに言った。「なぜ、おまえたちはこんなことをするのだ。私はこの民全部から、おまえたちのした悪いことについて聞いている。子たちよ。そういうことをしてはいけない。私が主の民の言いふらしているのを聞くそのうわさは良いものではない。人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。」

 エリが叱責していますが、主に対する罪の恐ろしさを告げています。人に対する罪であれば仲裁者がいるけれども、その仲裁である、主のいけにえや礼拝を侮るとき、もはや仲裁は残されていません。これはちょうど、主イエス・キリストの十字架と復活によるみわざを侮ることと同じです。嘘をついたり、怒りちらしたりするような罪を犯しても、罪を赦すキリストの血に拠り頼むなら救われます。けれども、そのような肉の行ないを続けたいために、イエスさまへの信仰からも離れるのであれば、そこには罪のための供え物は残されていません。

 しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころであったからである。

 これは、彼らが決して悔い改めないことを知っておられた主が、彼らに対するさばきを定めておられたことを意味します。

 
一方、少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。

 再び、二人の祭司との対比として、サムエルが登場します。主にも、人にも愛された、という表現は、イエスさまの成長のときに使われた言葉です。

2D エリ家へのさばき 27−36
 そのころ、神の人がエリのところに来て、彼に言った。

 名の知れない神の人が、預言のためにエリのところに来ました。

 「主はこう仰せられる。あなたの父の家がエジプトでパロの家の奴隷であったとき、わたしは、この身を明らかに彼らに示したではないか。また、イスラエルの全部族から、その家を選び、わたしの祭司とし、わたしの祭壇に上り、香をたき、わたしの前でエポデを着るようにした。こうして、イスラエル人のすべての火によるささげ物を、あなたの父の家に与えた。」

 あなたの父の家、とはもちろんアロン家のことです。

 なぜ、あなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住む所で軽くあしらい、またあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうち最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。

 エリの罪は、自分の息子のほうを主よりも大事にしてしまったことにあります。ヘブル12章には、子を親が懲らしめることが書かれていますが、それをエリは怠っていたのです。自分の家族、夫婦、自分の教会など、自分たちのものを守ることが、主を恐れることに優先してはいけません。

 それゆえ、・・イスラエルの神、主の御告げだ・・あなたの家と、あなたの父の家とは、永遠にわたしの前を歩む、と確かに言ったが、今や、・・主の御告げだ・・絶対にそんなことはない。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。

 これはアロン家に対する約束が反故にされた、ということではありません。エリ家以外のアロンの子孫に祭司職は受け継がれますが、エリ家は絶たれる、ということです。

 見よ。わたしがあなたの腕と、あなたの父の家の腕とを切り落とし、あなたの家には年寄りがいなくなる日が近づいている。イスラエルはしあわせにされるのに、あなたはわたしの住む所で敵を見るようになろう。あなたの家には、いつまでも、年寄りがいなくなる。

 子孫が若死にするというさばきの宣告です。

 わたしは、ひとりの人をあなたのために、わたしの祭壇から断ち切らない。その人はあなたの目を衰えさせ、あなたの心をやつれさせよう。あなたの家の多くの者はみな、壮年のうちに死ななければならない。

 
「ひとりの人」とは、サムエルのことでしょう。

 あなたのふたりの息子、ホフニとピネハスの身にふりかかることが、あなたへのしるしである。ふたりとも一日のうちに死ぬ。

 エリ家が祭司職から絶たれてしまうことは、はるか後に実現します。ソロモンが王となったとき、祭司エビヤタルが罷免され、ツァドクが祭司となります。けれどもはるか後に起こることを確証されるために、しるしとして、二人の息子が死ぬことを見せると、主は言われます。

 わたしは、わたしの心と思いの中で事を行なう忠実な祭司を、わたしのために起こそう。わたしは彼のために長く続く家を建てよう。彼は、いつまでもわたしに油そそがれた者の前を歩むであろう。

 この忠実な祭司とは、サムエルのことでもあるし、ツァドクのことでもあるかもしれませんが、究極的には、いま神の右におられて、私たちのために執り成しておられる大祭司、イエス・キリストを指し示しています。キリストは、祭司メルキゼデクの例にならう方であります。

あなたの家の生き残った者はみな、賃金とパン一個を求めて彼のところに来ておじぎをし、「どうか、祭司の務めの一つでも私にあてがって、一切れのパンを食べさせてください。」と言おう。

 エリの子孫たちが貧しくなることの預言です。

 こうしてサムエルの誕生と成長、そしてエリの息子に対するさばきの預言を読んできました。主が、エリの息子の中に見られる暗黒の中で、ご自分の光としてサムエルを置かれました。それは、ハンナの不妊という苦しみとそこにある祈りの中から生まれ出た出来事です。私たちに目によいことが、すべて良いことではありません。逆に私たちの目に悪いことが、実は主のご計画の中でよいことのために用いられています。私たちが、ハンナのようなうめきを避けることなく、それを主の前に認め、祈ることを覚えましょう。


「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME