サムエル記第一10章6-7節 「主の霊の満たし」

アウトライン

1A 御霊の賜物
   1B 預言
   2B 旧約時代
   3B 新約時代
2A 新しい人
   1B 御霊の新生
   2B 肉に打ち勝つ力
   3B キリストの似姿
3A 贖いの確証
   1B 神との関係
   2B 贖いの保証

本文

 サムエル記第一10章を開いてください。私たちは午後に、8章から11章までを読んでみたいと思いますが、イスラエルが新しくサウルという男を王に立てます。預言者サムエルが、サウルが王として働くときに、主の霊が下ることを前もって伝えました。6-7節を読みます。

6主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。7このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。

 私たちは前回、サウルがイスラエルを罪の告白と悔い改めに導き、また、主に叫び求めることによって、主がイスラエルをペリシテ人から救い出してくださったところを読みました。そして時は、サムエルが年老いてきたところに飛びます。イスラエルは、これまでの主に拠りすがって戦いに勝つことを求めませんでした。周囲の国々のように、王が戦ってくれることを願いました。神を王とするのではなく、人を王としたいと願ったのです。

 そこで主は、彼らの強い意志に任せて、サムエルにサウルが王になる男であることを示されます。サウルは、人が見たら、まさしく王としてふさわしい人物です。まず見た目が良かった。ハンサムでした。そして他の人よりも背が高かったのです。そして裕福な家庭育ちでした。けれども、裕福な家庭育ちにありがちな、わがままな性格ではありませんでした。父親に言いつけどおりに、いなくなった雌ろばを探しました。そして同行の若者が、「サムエルという先見者がいます。彼に尋ねればどこにいるか教えてくれるでしょう。」と言うと、「贈り物を用意しないといけないな。」と言いました。なにか日本人にも通じる、礼儀正しさがあります。さらにサウルは、サムエルから自分が王になることを示されると、「なんでこんな小さな者がそんなことができるのですか。」と遠慮しています。そして、サムエルに告げられたことを正直に伯父に伝えることができませんでした。民の前で任命を受けるときも、彼は荷物のところに隠れていたのです!そしてサウルのことを悪くいう者がいたのですが、彼は怒らずに黙っています。さらに彼は、王に任命を受けても、普段と変わらず畑を耕していました。

 いかがでしょうか?まずハンサムです。体格も良い。それから良い家庭の出身です。礼儀があり、控え目な人です。このような人だからこそ、私たちも王として選びたいのではないでしょうか?そうです、普通であれば彼は王になるにふさわしい人です。聖書では、自然に与えられた神からの賜物を教えています。学業で優れた人、運動に優れた人、音楽家など、いろいろいますが、そのような自然に与えられた賜物では、決して成し遂げることができないことがあります。

 それは、神の国を受け継ぐことです。神の国において王として祭司として、神に仕えることです(黙示1:5-6参照)。ですからどんなに能力があっても、神の御名のゆえに、神の栄光のために動くときには、そのような自然の能力によっては決して成し遂げられません。同じように音楽を奏でるにしても、同じように礼拝堂の掃除をするにしても、同じように新しい人をもてなすにしても、あるいは同じように人と交わるにしても、そのようなことに元々得意な人であったとしても、神の御国を受け継ぐには欠けているのです。

1A 御霊の賜物
 それは、「神の霊による賜物」であります。「主の霊があなたの上に激しく下る」とサムエルは言いました。聖書を読むときに、自然に与えられた能力で理解することはできず、神の御霊によって初めて福音の真理を悟ることができるように、神に仕えることも神の御霊によって初めて行なうことができます。ヤベシュ・ギルアデの人がアモン人に包囲されていることを聞き、遠慮がちで控え目な彼の性格なのに、主の御霊が下ると、「彼の怒りは激しく燃え上がった」とあります(11:6)。そしてヤベシュ・ギルアデの人たちをアモン人から救い出します。

 神がご自分の霊で上から臨まれて、私たちが普段思っていることとは正反対のことであっても、自分の思いや心を全く変えられて、神が願われていることを遂行していくことができるし、周囲の人々にも神が願われていることを行なうように導くことができます。

1B 預言
 サムエルは、サウルに主の霊が臨まれた時のしるしを告げています。「あなたも彼らといっしょに預言して」とあります。預言者の訓練学校のようなものがあって、その人たちが琴やタンバリンや、笛などで音楽を奏でながら預言をしています。その中にサウルも加わることになる、と言います。キリスト教会の中でも、このような集会を持つことがあります。賛美を奏でて、聖霊の働きを待ち望みます。ある人に預言の言葉が与えられて、語ります。そうやって、互いに徳を高める働きです。

 預言と言いますと、私たちはとかく「予告するための言葉」だと考えます。けれども聖書を見ていただければ分かるように、預言の「預」は銀行の預金と同じ「預かる」という言葉です。神からの言葉を預かるのです。ですから、必ずしも将来のことを伝えるものではありません。コリント第一14章に預言の役割が書かれています。「・・・預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。(3節)」徳を高めます。勧め、あるいは励ましを与えます。そして慰めを与えます。「主は仰せになる。あなたは、今の罪を捨てなければ、二週間後に自動車にひかれて死ぬ。」なんていう脅しの言葉ではないのです。主に、徳を高め、励まし、慰めるのです。

 サウルは、これを主の霊が臨まれたことのしるしとして受けました。御霊が上に臨まれる時に、このようにしるしが伴うことがあります。使徒の働きを見ると、聖霊の満たしを受けた信者たちが異言を語ったり、預言を語ったりする場面が出てきます。「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。(使徒19:6」異言、すなわち外国の言葉を受けたり、預言を受けたりします。けれども、そのようなものは、何か自分の脳神経がすべて乗っ取られて、精神病患者のようになるのではないかという恐れを抱く人がいます。いいえ、知性も理性も保たれたままです。むしろ、神から与えられた思いがあって、それをそのまま言葉にして語ります。

2B 旧約時代
 旧約の時代には、このような働きは、一部の人にしか与えられていませんでした。モーセは、主の御霊によって数多くの奇蹟を行ないました。しかし、彼はもう押しつぶされそうになったことがありました。民が「肉が食いてえ!」と言って荒野で叫びだしたのです。そんなことをできるわけがありません、モーセは「私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。(民数11:14」と言いました。

 すると主は、七十人の長老を神の幕屋の前に集めなさいと命じられました。モーセがそうすると、主が雲の中で降りてこられ、モーセの上にある霊を取って、その七十人も与えられました。すると彼らは恍惚状態になって、預言を始めたのです。二人だけ幕屋に来なかった長老がいました。自分の天幕で預言を始めました。それで、ヨシュアが「彼らをやめさせてください。」と言いました。けれどもモーセがこう言ったのです。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。(11:29」これがモーセの真の思いでした。自分が支配したいのではなく、むしろ人々に御霊が同じように与えられて、そのような働きを互いにしてくれたらよいのに、と願ったのです。

3B 新約時代
 これはあたかも、新約時代の教会を願っているかのようです。このように、一部の人々にだけ与えられた上からの御霊の働きが、どのような人々に信じる者には与えられることを、神は預言者ヨエルを通して教えられました。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。(2:28-29」主がここで強調されているのは、「すべての人」です。息子でも娘でも年寄りでも、しもべにも、神を信じているならば与えられるという約束です。

 イエス様は復活されてから、弟子たちに父からの約束を待ち望みなさい、と言われました。そして、こう言われました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒1:8」事実、弟子たちは五旬節の時に、祈っている時に聖霊に満たされました。外国の言葉でそれぞれが語りはじめ、神を賛美しました。それを聞いていた、世界中からエルサレムに集まっていたユダヤ人たちが聞いて驚きました。自分たちの地方で語られている言葉で彼らが賛美しているのです。

 そこでペテロは彼らに、「あなたがたが殺したあのイエスを、神はこの方をよみがえらせることによりメシヤとされたのだ。」とはっきりと語りました。キリストを十字架につけたという罪、そしてよみがえられたという真実、これを聞いて彼らは心刺されたのです。そして、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか。」と尋ねました。それでペテロは言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。(使徒2:38-40」最後のところが大事です。聖霊の賜物の約束は、そこのエルサレムにいる人々だけ、またその時代の人々だけでなく、遠くにいる人々、後の子孫にも与えられ、「私たちの神である主がお召しになる人々」であれば誰にでも与えられる、ということです。

 したがってイエス様は言われました。「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(ルカ11:9-13」私たちに何が必要でしょうか?「求めなさい」と命じられて、これまで何を求めてきたでしょうか。けれども、聖霊を求めたことはあるでしょうか?この方の働きなくしては、私たちは何もすることができません。主は約束の通りに与えてくださいます。

2A 新しい人
1B 御霊の新生
 そして、「あなたは新しい人に変えられます」とサムエルはサウルに告げました。ここの訳は新共同訳のほうがよいでしょう、「別人のようになる」とあります。新しくなるのではなく、異なる人のようになります。サウルは、確かに別人のようになりました。穏やかな人が、戦争に耐えることのできる強靭な精神を持つことができました。けれども、内側は変わっていなかった、と言わざるをえません。彼は一度も、主から直接語られたという経験を持っていませんでした。彼の実質は変わらぬまま、死んでいくことになります。

 しかし、このことについても主は、古い契約ではできなかったことを新しい契約で行なうと約束されました。エレミヤに語られました。古い契約では、律法は石に刻まれていました。けれども神が新たに与える契約では、「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(31:33」と言われるのです。どうやってでしょうか?預言者エゼキエルが、こう語っています。「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。(11:19」新しい霊を与え、心そのものを石のような固いものから肉のような柔らかいものに変える、と約束してくださったのです。

 したがって、新しい契約における聖霊の約束は、ただ上から臨まれる聖霊の働きだけではありませんでした。神の命令に従えない心の内にある問題、それを聖霊が私たちの内に住まわれることによって可能にする、ということです。

 これがイエス様はニコデモに、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。(ヨハネ3:3」と言われたことです。そしてパウロはテトスにこう言いました。「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。(3:5-6」みなさんは、聖霊による新生の体験をされましたでしょうか?イエス・キリストを自分の救い主として心に受け入れている人であれば、聖霊が豊かに心の内に注がれています。

2B 肉に打ち勝つ力
 内に住まわれる御霊によって、肉の弱さによってできなくなっていることを、主が御霊によって可能にしてくださいます。パウロがローマ83-4節でこう言いました。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

 神がキリストを、私たちと同じ肉のある姿にしてくださいました。ですから、私たちが肉の弱さによって犯していく罪を、代わりにキリストがその肉体において神からの処罰を受けてくださいました。このことを信じて、受け入れている者には御霊がおられます。御霊がその人の心に神の律法を置いてくださっているのです。これまで自分で行なおうとしてもできなかった事が、自分の内に心の変化が起き、それで神の命じられていることを行なうことができるようになっているのです。

 パウロはこうも言います。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。(ローマ8:13」多くの人が言います。「それでは、私は罪を犯さないようにする努力、肉に従わないようにする努力をやめても良いのですね。御霊が働かれるまで待てば良いのですね。」いいえ、今読んだ箇所によりますと、「御霊によって、からだの行ないを殺す」とありました。ガラテヤ書516節にはこうあります。「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

 御霊によって歩む、または御霊に導かれて進むという意志が必要です。ちょうどこれは、ガソリンの入っていない車と、ガソリンの入っている車を動かす違いであります。御霊を持っていない人は、ガソリンが車に入っていないので押して動かしているような状態です。御霊を持っている人は運転席に乗り、ハンドルを動かし、アクセルやブレーキを足で踏みます。自動車がちょうどキリストご自身のようなものです。キリストの内にいる者は、御霊が与えられており、この方に従うときに意志は用いますが、御霊が従うための力を与えてくださいます。

 8月に、私たちの教会の姉妹が水のバプテスマを受けられましたね。そこで救いの証しを聞きました。初めは心に怒りと憎しみがありました。それを取り除いてからクリスチャンになったのではありません。取り除いてから信仰を持ち、バプテスマを受けたのではありません。その反対です。そのような憎しみと怒りのある自分がいることを認めました。罪人であることを認めました。そしてキリストがその罪人のために死なれたことを信じて、受け入れました。すると、心にキリストの愛が満ちました。そして次第に、心の憎しみと怒り、また自分にある汚れが洗い清められました。この順番なのです。信じる者に神が聖霊を与えてくださいます。聖なる御霊が、肉の弱さでできなくなっていることを私たちの内で行なってくださるのです。

3B キリストの似姿
 そしてこの働きは、信じた時から少しずつ行ってくださいます。「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリント3:17-18」少しずつ御霊が、私たちの内にキリストを形造ってくださいます。キリストの似姿へと近づけてくださいます。そしてキリストが天から降りて来られる時、教会が空中に引き上げられる時、卑しいこの体から、完全に似た者として栄光の姿に変えられています。

3A 贖いの確証
 そしてサムエルはサウルに、「このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。」と言いました。主の霊が下ることによって、神がサウルと共におられるということの確証が与えられます。このことも、聖霊が信者に対して行なわれる極めて大切な働きです。

1B 神との関係
 使徒ヨハネは、信者に対して励ましを与える手紙を書きました。その中でこう言っています。「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。(1ヨハネ4:13」私たちが神のうちにあり、また神も私たちのうちにおられる、という実に神秘的な関係を私たちは受け取っています。これ以上近しくなることはできませんね。どんな近しい男女であっても、その肉体関係を持っても、その人の内にいて、またその人が自分の内にいるなんていうことは決してできません。けれども御霊が、私たちが神とそのような結びつきと交わりの中にいることを証ししてくださるのです。

 私は、新しく信じて間もない時に誤って異端の教会に一か月ほど通ったことがあります。そこで三位一体を否定されました。キリストの神性も否定されました。私は頭が混乱しました。霊的にもおかしくなりました。その時にサタンや悪霊が生きている暗闇の世界をまざまざと見ました。そこから出る大きなきっかけは、心における確信でした。それが、「それでも、私は神の子どもである。」という確信です。頭が混乱状態に陥っても、その確信だけでは過ぎ去らなかったのです。ヨハネはこう教えています。「私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。(2:26」この油とは内に住まわれる聖霊のことです。

 使徒ヨハネはこうも言っています。「このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。(1ヨハネ5:6」イエスは、水のバプテスマを受けられました。それから公の働きを始められました。そして血を十字架の上で流されました。つまり、その公の働きの初めから終わりまで、御霊が証ししておられます。御霊がおられる人には、福音書の中にあるイエス・キリストの働きが、まさに自分の内で形造られているのを確信します。主が語られていることが、主が行なわれていることが、今、2012年に生きている自分の内で個人的に証しされていることを確信します。それをしてくださっているのは聖霊なのです。

2B 贖いの保証
 そしてもう一つ、私たちの確証を与える聖霊の働きをお話しします。エペソ113-14節です。「またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ1:13-14」パウロは二つのことを話しています。一つは「証印」です。もう一つは「保証」です。ここは「頭金」と訳すことのできる言葉でもあります。

 これは貿易用語です。エペソという町は、小アジヤ、今のトルコに位置する最大の港町でした。東洋とローマをつなぐ重要な中継都市でした。そこで荷物が東洋から到着すると、次の船に乗せる時に印を付けます。蝋を垂らして、自分の指輪の印を押します。それで、その荷物の所有者が誰であるかが分かるのです。そしてローマの近郊の港ポテオリに着いて、主人は若者に荷物を取ってくるように命じます。その印のある荷物が「自分のものだ」と、その所有を主張するのです。

 聖霊が神の民の贖いのための証印であり、御国を受け継ぐための証印だと言います。聖霊によって私たちが喜びます。救いの確信を得ます。罪が赦されたこと、神の子どもとされたことを喜びます。思いを超えた平安が自分の心を支配します。愛が溢れてきます。この聖霊の働きが証印なのです。主イエス・キリストが再び戻ってきてくださる時に、「これは、わたしのものである」と言って引き取ってくださるのです。イエス様の所有とされていることの印なのです。

 そして聖霊は、頭金でもあります。物の購買において、値段の高いものであれば、自分が確かにそれを購入することを示すために頭金を払いますね。それは販売している人が、確かにこの購入者が買うことを保証してもらいために、購入しなかった場合の保険として受け取るのです。けれどもそれは同時に、すべての支払いの一部であります。二百万円の自動車であれば、十万円の頭金を払えば、190万円を支払えば良いわけです。

 これが聖霊である、と言うのです。つまり、私たちが霊的に喜んでいること、主をほめたたえて、今がとても満たされていています。礼拝を楽しんでいます。「これはすばらしい、聖霊様、ありがとうございます。」と叫びたくなります。考えてください、これは単なる頭金なのです!後に来る栄光、キリストがまた戻ってきてくださり、神の国を建ててくださる時の栄光のごくごく一部にすぎないのです!天における祝福の前味にしか過ぎないのです。そして、聖霊を与えられることによって、神は私たちを必ず、確かにご自分のものとすることの保証となっているのです。

 どうか、こうした聖霊の働きを、ただイエス・キリストを信じる信仰によって与えられていることを知ってください!そして求める者には、内なる聖霊の働きのみならず、自分を通して外側に働く聖霊の満たし、あるいはバプテスマを受けることができることを知ってください。こんなにも祝福されています。またこの方がおられなければ、何もすることができません。

「ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内のメッセージ」に戻る
HOME