1サムエル記12−14章 「人間の権威と神の力」
アウトライン
1A 主に従う王と民 12
1B 誠実な働き 1−5
2B 主の為された正義の御業 6−17
3B 執り成しの祈り 18−25
2A 取り除かれる王国 13
1B 民の圧迫 1−7
2B 王の越権 8−18
3B 武器の統制 19−23
3A 王から離れた神の救い 14
1B 信仰の冒険 1−23
1C 人数によらない戦い 1−15
2C あまりにも明らかな御心 16−23
2B 愚かな誓い 24−46
1C 神の命令違反 24−35
2C 民が認める救い 36−46
3B サウルの業績 47−52
本文
サムエル記第一12章を開いてください。私たちは前回、神がサウルをイスラエルの王として選ばれて、アラム人との戦いの後にギルガルにてサムエルが王権を創設する宣言をしました。今日は、その後の話です。
1A 主に従う王と民 12
1B 誠実な働き 1−5
12:1 サムエルはすべてのイスラエル人に言った。「見よ。あなたがたが私に言ったことを、私はことごとく聞き入れ、あなたがたの上にひとりの王を立てた。12:2 今、見なさい。王はあなたがたの先に立って歩んでいる。この私は年をとり、髪も白くなった。それに私の息子たちは、あなたがたとともにいるようになった。私は若い時から今日まで、あなたがたの先に立って歩んだ。
サムエルは、確かに民の要求を聞き入れて王を立てたことを宣言しました。自分は年を取って髪も白くなっているので、サウルに指導的役割を譲り渡すことを宣言しています。さらに初めは息子たちに受け継がせようとしていましたが、長老たちの反対にあったので、それも譲って彼らはイスラエルと共にいる、つまり頭になっていないことを告げています。
そして、すばらしい言葉は次です。「私は若い時から今日まで、あなたがたの先に立って歩んだ。」彼は乳離れして間もない時に主の言葉を聞いて、その時から白髪になるまで主に仕えていました。そして、「あなたがたの先に」と言っています。イスラエルが通っている困難をまず彼自身が先頭に立って直面し、そのことを主に申し上げ、そして主からの救いを民に分かち合っていくことを行っていました。自分は後ろにいて、大変な仕事を部下に任せるのではなく、むしろ先頭にたっていたのです。使徒ヨハネも、同じようなことを話しています。90歳以上になっていた、唯一、イエス様を目撃した使徒として生き残っている彼が、アジヤにある七つの教会に対してこう言いました。「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。 (黙示1:9)」イエスにある苦難と御国と忍耐を、先頭に立って受けていたのです。
12:3 さあ、今、主の前、油そそがれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを苦しめ、だれかを迫害しただろうか。だれかの手からわいろを取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、私はあなたがたにお返しする。」12:4 彼らは言った。「あなたは私たちを苦しめたことも、迫害したことも、人の手から何かを取ったこともありません。」12:5 そこでサムエルは彼らに言った。「あなたがたが私の手に何も見いださなかったことについては、きょう、あなたがたの間で主が証人であり、主に油そそがれた者が証人である。」すると彼らは言った。「その方が証人です。」
サムエルは、簡単に言うと「罷免」されたのと同じ仕打ちを受けました。人の王を立ててくれ、という要求は、彼が指導していた働きを真っ向から否定するものでした。本来なら、彼が大きな罪や過失を犯しているのでなければ行なってはいけないことです。それで彼は指導の座から降りるにあたって、確認させておきたいことでした。主ご自身が証人で、そして油注がれた者というのはサウルのことです。
神から権威が与えられるということは、必ずここにあるような腐敗の危険があります。多くのものを任されているので、本人があくまでもそれを管理している僕であることをわきまえていなければいけません。これは世の中でも同じですね、銀行員は多額の現金を取り扱っているのですが、一円足らずとも自分の懐に入れてはいけないのと同じです。警察が拳銃を持っているけれども、厳格な法律と規則の中で管理されて、市民を守るために最後の手段として使用するのと同じです。権威を与えられている者は、自ら権威の下にいないといけないのです。ローマの百人隊長の言葉がそれを適切に言い表しているでしょう。「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」(マタイ8:9)」
2B 主の為された正義の御業 6−17
12:6 サムエルは民に言った。「モーセとアロンを立てて、あなたがたの先祖をエジプトの地から上らせたのは主である。12:7 さあ、立ちなさい。私は、主があなたがたと、あなたがたの先祖とに行なわれたすべての正義のみわざを、主の前であなたがたに説き明かそう。
サムエルはこれから、「主が行なわれたすべての正義のみわざ」を語ります。彼は、自分と民との関わりについて語るのにはためらいがあります。サムエルの焦点は、主ご自身です。ここではっきりと、イスラエルの成り立ちが神によって始まったことを、出エジプトの出来事を通して示しています。
12:8 ヤコブがエジプトに行ったとき、あなたがたの先祖は主に叫んだ。主はモーセとアロンを遣わされ、この人々はあなたがたの先祖をエジプトから連れ出し、この地に住まわせた。12:9 ところが、彼らは彼らの神、主を忘れたので、主は彼らをハツォルの将軍シセラの手、ペリシテ人の手、モアブの王の手に売り渡された。それで彼らが戦いをいどまれたのである。12:10 彼らが、『私たちは主を捨て、バアルやアシュタロテなどに仕えて罪を犯しました。私たちを敵の手から救い出してください。私たちはあなたに仕えます。』と言って、主に叫び求めたとき、12:11 主はエルバアルとベダンとエフタとサムエルを遣わし、あなたがたを周囲の敵の手から救い出してくださった。それであなたがたは安らかに暮らしてきた。
イスラエルは、救いが必要な時に必ず主に叫び求めていました。エジプトにいるイスラエルが苦役の中で叫んでいたからこそ、モーセとアロンを遣わしてくださいました。そして最終的にカナンの地に住むことができています。そしてイスラエルが罪を犯した時でさえも、彼らが叫び求めれば主はその叫びに答えてくださいました。ここに「エルバアル」とあるのはギデオンのことです。「ベダン」は、おそらくバラクのことと考えられます。そしてエフタがギルガルにいた士師でアモン人からイスラエルを救い出しました。
12:12 あなたがたは、アモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めなければならない。』と私に言った。
11章で、ヤベシュ・ギルアデの人々がアモン人ナハシュから脅しを受けた時に、イスラエルは主に助けを叫び求めたのではなく、サウルに救いを求めました。これは主に助けを求めるのを拒否して、主を退けて人に代えたということです。
12:13 今、見なさい。あなたがたが選び、あなたがたが求めた王を。見なさい。主はあなたがたの上に王を置かれた。12:14 もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い。12:15 もし、あなたがたが主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手があなたがたの先祖たちに下ったように、あなたがたの上にも下る。
神ではなく人が王となったことによって、その統治は極めていびつなものになりました。これを現代の教会に当てはめると、どうなるでしょうか?罪の赦しを得るために、キリストが流された血をそれぞれが仰ぎみなければいけないのに、代わりに「この人に頼めば、罪の赦しについては何とか処理してくれるよ。」と言っているようなものでしょうか?(実は、カトリック教会の司祭に対する懺悔あるいは「告解」は、これに近いものがあります。罪を犯したら教会に行き、司祭に告白し、そして司祭が執り成しの祈りを捧げることによって罪の赦しが得られるという仕組みです。)
そうすると、その仲介者にものすごい重責が課せられます。本人が絶えず主に出て行き、人々のために心からの執り成しの祈りを捧げなければ、その人の心が堕落すれば、そのプライバシーを掴んで相手を脅すことでさえ可能になります。そして、仲介者がどんなに祈ったとしても、それぞれが自分自身で罪の赦しを願わなければ、神はその祈りを聞くことはおできになりません。
これとイスラエルの国の救いは同じです。イスラエルの民は、これで主の御声に聞き従うという営みを止めることはできません。そして何よりも王自身が主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従うという責任があります。王は実は王ではないのです。神が王なのです。王という大きな権力を持っているのですが、あくまでも神という全能者に完全に服従するという僕でなければならないのです。それによって、初めてイスラエルの国が君主制を採っているにしても、神の治める国であり続けることができます。
12:16 今一度立って、主があなたがたの目の前で行なわれるこの大きなみわざを見なさい。12:17 今は小麦の刈り入れ時ではないか。だが私が主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。あなたがたは王を求めて、主のみこころを大いにそこなったことを悟り、心に留めなさい。」
小麦の刈り入れ時は五月の半ばから始まります。その時は乾季に入っていますから、雨が降ることはめったにありません。けれども主は雷と雨を下される、とサムエルは言っています。それによって小麦に損害が与えられます。神がイスラエルを裁かれている、わずかな徴をサムエルはこれから見せようとしています。
3B 執り成しの祈り 18−25
12:18 それからサムエルは主に呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨とを下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。12:19 民はみな、サムエルに言った。「あなたのしもべどものために、あなたの神、主に祈り、私たちが死なないようにしてください。私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです。」
サムエルは実にすぐれた霊的指導者です。彼は、イスラエルの民を主がここにご臨在されていることを示すように民を導くことができています。民はこの出来事によって、主への恐れが生じました。とんでもない罪を犯したことを悟りました。「あらゆる罪の上に」というのは、士師時代の偶像礼拝のことです。それらを取り去ったのに、今度は王を求めるという悪を加えました。
12:20 サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行なった。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。12:21 役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、わきへそれてはならない。それはむなしいものだ。12:22 まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。
サムエルは民にすぐに慰めと励ましを与えています。確かに罪を行なったが、主に従っていきなさい。そして「むなしいもの」というのは、人の力であるとか人の知恵です。彼らは神に救いを求めるのではなく、王に救いを求めました。そのように脇にそれてはいけないと戒めています。
そしてすばらしいのは、「主ご自身があなたがたを見捨てない」と言っていることです。ここに神の憐れみの選びがあります。彼らが正しいから主は彼らを見捨てないのではなく、「ご自分の偉大な御名のために」捨てられないのです。「あえて」ご自分の民とされているのです。私たちもそうです。私たちがキリスト者であることができるのは、私たちがキリストにしがみついている頑張りに拠るのではなく、キリストにあって神が私たちを選ばれたからです。キリストの御名のゆえに、私たちが見捨てられることはありません。
12:23 私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。
サムエルは自分が執り成しの祈りを止めたら、それは主に対する罪であるとまで言っています。サムエルは自分に与えられている務めをよく知っていました。神から与えられている務めをおろそかにすることが、神に対する罪であると思っていました。
サムエルは、執り成しの祈り手として有名です。主が預言者エレミヤに対して、ご自身がユダの民に裁きを下すことを決められているので、こう言われたことがあります。「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。(15:1)」モーセと並んでサムエルを、民のために祈った人として神は数えておられます。私たちも、聖徒たちのための執り成しの祈りをしなければいけないことが命じられています。「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:18)」執り成すことは、忍耐のいることです。戦いです。だからこそ、このように戦いの祈りを捧げなければいけません。
12:24 ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。12:25 あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」
この警告は、北イスラエルが紀元前722年にアッシリヤによって、ユダの国が紀元前586年にバビロンによって滅ぼされる時に実現します。
2A 取り除かれる王国 13
次から、サウルがサムエルの言葉通りに動いているのかどうか、その経緯を確かめることができます。
1B 民の圧迫 1−7
13:1 サウルは三十歳で王となり、十二年間イスラエルの王であった。
ここがヘブル語の写本自体に損傷があるため、数字が推測になっています。本文はこうなっています。「サウルは・・・歳で王となり、二年間イスラエルの王であった。」三十という数字はありません。ですから新共同訳はこう訳しています。「サウルは王となって一年でイスラエル全体の王となり、二年たったとき、」これも分かりません。
13:2 サウルはイスラエルから三千人を選んだ。二千人はサウルとともにミクマスとベテルの山地におり、千人はヨナタンとともにベニヤミンのギブアにいた。残りの民は、それぞれ自分の天幕に帰した。13:3 ヨナタンはゲバにいたペリシテ人の守備隊長を打ち殺した。ペリシテ人はこれを聞いた。サウルは国中に角笛を吹き鳴らし、「ヘブル人よ。聞け。」と言わせた。13:4 イスラエル人はみな、サウルがペリシテ人の守備隊長を打ち、イスラエルがペリシテ人の恨みを買った、ということを聞いた。こうして民はギルガルのサウルのもとに集合した。
サウルの息子ヨナタンが、ゲバにいたペリシテ人の守備隊長を打ち殺したことで、ペリシテ人との戦いが始まりました。それまではペリシテ人がこの地域に力を持っており、イスラエル人は彼らに歯向かうことがなければ平穏に暮らすことができていました。けれども、主の目的は異なります。神は、イスラエルをペリシテ人から救おうとお考えになっていました。主はサムエルに、「彼(サウル)は、わたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。(1サムエル9:16)」と言われていました。それで、ヨナタンが行なったことはその第一歩になります。
しかし、少しおかしいと思う部分があります。ヨナタンが守備隊長を打ったのに、「サウルがペリシテ人の守備隊長を打ち、イスラエルがペリシテ人の恨みを買った」とサウルが行なったことにしているのです。サウルが息子の行なったことを自分のものにしたがっている、いや、神が行なわれていることを自分のものにしたがっている姿をここで少し見ることができます。
13:5 ペリシテ人もイスラエル人と戦うために集まった。戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように多い民であった。彼らは上って来て、ベテ・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた。13:6 イスラエルの人々は、民がひどく圧迫されて、自分たちが危険なのを見た。そこで、ほら穴や、奥まった所、岩間、地下室、水ための中に隠れた。13:7 またあるヘブル人はヨルダン川を渡って、ガドとギルアデの地へ行った。サウルはなおギルガルにとどまり、民はみな、震えながら彼に従っていた。
イスラエルはヨナタンのところに千人、そしてサウルのところに三千人いましたが、ペリシテ人は圧倒的な軍事力をもって対峙してきました。戦車三万、騎兵六千、そして数え切れぬ歩兵たちがいます。ミクマスに陣を敷いています。イスラエル人はこれによって、とてつもない圧迫を受けており、震えおののいています。多くの者が隠れられるところに隠れています。サウルは、民を招集させているギルガルに留まっていますが、ヨルダン川を越えて東のガドとギルアデの地に逃げた者たちまでいます。
いかがでしょうか、サムエルが先に「役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、わきへそれてはならない。」と言いました。王ではなく、神に頼らなければいけなかったのですが、いざとなれば王が頼りにならないのです。
2B 王の越権 8−18
13:8 サウルは、サムエルが定めた日によって、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで民は彼から離れて散って行こうとした。13:9 そこでサウルは、「全焼のいけにえと和解のいけにえを私のところに持って来なさい。」と言った。こうして彼は全焼のいけにえをささげた。13:10 ちょうど彼が全焼のいけにえをささげ終わったとき、サムエルがやって来た。サウルは彼を迎えに出てあいさつした。13:11 サムエルは言った。「あなたは、なんということをしたのか。」サウルは答えた。「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。13:12 今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。」
午前礼拝で話しましたが、これはすべて言い訳であり、サウルはただ主の命令に従わなかった、ということに付きます。そしてサウルは、命令に聞き従わなかっただけでなく、うぬぼれてさえいます。サムエルに「あいさつした」とありますが、これは「祝福した」と訳すことのできる言葉です。上位のものが下位のものを祝福します。彼は祭司になりきっていたのです。彼が行なっていることを現代に当てはめたらどうなるでしょうか、ちょうど聖書の権威の下に自分を置かなければいけないのに、自分の都合に合わせて聖書の言葉を利用する、ということになるでしょう。権威が神の御言葉ではなく自分自身になっており、しかも自分の威信を高めるため聖書の言葉を引き合いに出している、ということになるでしょう。
彼の言い訳を一つ一つ見てみましょう。「民が私から離れ去って行こう」とした、と言いました。けれども彼は民の援軍に頼まなくとも、主ご自身に願い求めれば良いのです。自分に民を引きつけるために、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげるという外見の行為、パフォーマンスを行ったのです。次に、「あなたも定められた日にお見えにならず」と言いました。自分の過ちを他人に押し付けています。そして、「まだ主に嘆願していない」と言っています。ならば、嘆願すればよいのです。主に叫び求めればよいのです。けれども、なぜ「全焼のいけにえ」を捧げなければいけないのでしょうか?全焼のいけにえを捧げるのは厳密に祭司の務めであり、王が立ち入る領域ではありません。そして最後に、「思い切って」と言っています。英語は”fell compelled”となっており、「駆り立てられて」と訳すこともできます。彼はこの感情が主の御霊の導きとでも思ったのでしょうか、いいえ主の命令に反するような御霊の導きなど存在しません。彼は単に自分の感情にまかせて衝動的に行動に移しただけです。
13:13 サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。13:14 今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。」
サムエルは、「主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。」と言っていますが、昔ヤコブがユダに王権が彼から出てくる、と預言していました。それと矛盾するのではないかと思われるかもしれませんが、主はサウルのこの不従順も予め知っておられてユダに対する王権を約束しておられました。確かにサウルが主に最後まで従順であれば、王国を永遠に与えられるはずなのです。けれども、それができませんでした。これはちょうど、律法による行ないと似ています。律法の行ないによって永遠のいのちを得ることはできるでしょうか?はい、できます!もし、たった一つの違反もなく完全に守り行うのであれば、その人は永遠の命に至ります。けれども、全ての人が罪を犯したから、キリストの犠牲に対する信仰によってのみ救われることができます。
13:15 こうしてサムエルは立って、ギルガルからベニヤミンのギブアへ上って行った。サウルが彼とともにいる民を数えると、おおよそ六百人であった。
サウルはサムエルのこの言葉を聞いて、そのまま立ち去っています。前線の方面ギブアへ向かいました。悔い改めたり、へりくだったりした形跡はありません。次回の学び、15章で彼がサムエルが語っていたことの意味をようやく知ることができます。民に招集をかけたところ、初めの三千人はおらず、何と六百人になってしまいました。
13:16 サウルと、その子ヨナタン、および彼らとともにいた民は、ベニヤミンのゲバにとどまった。ペリシテ人はミクマスに陣を敷いていた。13:17 ペリシテ人の陣営から、三つの組に分かれて略奪隊が出て来た。一つの組はオフラへの道をとってシュアルの地に向かい、13:18 一つの組はベテ・ホロンへの道に向かい、一つの組は荒野のほうツェボイムの谷を見おろす国境への道に向かった。
イスラエルはゲバ、ペリシテはミクマスにいて対峙しています。情勢はさらに怪しくなりました。略奪隊が三方から出てきています。
3B 武器の統制 19−23
13:19 イスラエルの地のどこにも鍛冶屋がいなかった。ヘブル人が剣や槍を作るといけないから、とペリシテ人が言っていたからである。13:20 それでイスラエルはみな、鋤や、くわや、斧や、かまをとぐために、ペリシテ人のところへ下って行っていた。13:21 鋤や、くわや、三又のほこや、斧や、突き棒を直すのに、その料金は一ピムであった。13:22 戦いの日に、サウルやヨナタンといっしょにいた民のうちだれの手にも、剣や槍が見あたらなかった。ただサウルとその子ヨナタンだけが持っていた。13:23 ペリシテ人の先陣はミクマスの渡しに出た。
当時は青銅器時代から鉄器時代に移行していた時でした。そして海洋民族であったペリシテ人は技術的にイスラエルより優っていました。彼らは言わば、イスラエル人に対して「刀狩」をしていたのです。刀はもちろん狩っていませんが、刀を作らせないように鍛冶屋を独占しました。
3A 王から離れた神の救い 14
しかし、このような不利な状況の中でも主は勝利をもたらすことができます。必要なのは、その主の心に沿って一歩踏み出す人です。その話が次に出てきます。
1B 信仰の冒険 1−23
1C 人数によらない戦い 1−15
14:1 ある日のこと、サウルの子ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、この向こう側のペリシテ人の先陣のところへ渡って行こう。」ヨナタンは、このことを父に知らせなかった。14:2 サウルはギブアのはずれの、ミグロンにある、ざくろの木の下にとどまっていた。彼とともにいた民は、約六百人であった。14:3 シロで主の祭司であったエリの子ピネハスの子イ・カボデの兄弟アヒトブの子であるアヒヤが、エポデを持っていた。民はヨナタンが出て行ったことを知らなかった。
13章の最後に、「ペリシテ人の先陣はミクマスの渡しに出た」とあります。ミクマスは峡谷になっています。東西に走っており、唯一、そこを南北に横切れるのが、そこに書いてある「渡し」であります。そこにペリシテ人が陣営を集中させていました。
そして、それをヨナタンは父サウルに伝えていません。続けて読めば分かりますが、ヨナタンには父の姿もだれも目に入っていないのです。入っているのは、神ご自身です。主がこの戦いに対してイスラエルを救われることを彼は確信していたのです。
このように主の先陣を切らなければいけないのは、本来ならサウルです。けれども彼は、ギブアの方にいて、そこの「ざくろの木の下」に留まっていました!分かりますか、彼がそこに座っていること自体が間違っているのではないのです。将軍が本営に座っていることもあるのです。けれども、サムエルが先にサウルに言った言葉、「主はご自分の心にかなう人」が大事なのです。主の心とは何でしょうか?このように圧迫されているイスラエル人を救われることです。この心と波長を合わせていないことが問題なのです。
さらに、サウルの致命的な過ちは、先ほどもそうですが、祭司に関わることを自分の権威づけのために利用しているのです。エリの子孫を自分のそばに付けています。皮肉ですが、「イ・カボテ」の名も出てきますが「栄光がない」ということで、サウルには神の栄光がなくなってしまっています。
彼はサムエルが祭司であり、サムエルの権威によって自分が王に立てられていることを知っていました。だから11章で、アモン人と戦う時に「サウルとサムエルとに従って出て来ない者の牛は、このようにされる。(7節)」と言いました。しかし、祭司を付けているから、祭儀を行なっているから物事が動くのではないのです。自分が、主の願っておられることを自分の願いとして、主がなされようとしていることに関わっていこうとする信仰が必要なのです。主が語られることに耳を澄まし、主が戦われることを信じてその中に自分の身を投じるのです。しかし、主の御声を聞くというすべての根本を持っていなかったので、彼の行っていることはみな主がなされようとしていることと“ずれて”しまっています。
14:4 ヨナタンがペリシテ人の先陣に渡って行こうとする渡し場の両側には、こちら側にも、向かい側にも、切り立った岩があり、片側の名はボツェツ、他の側の名はセネであった。14:5 片側の切り立った岩はミクマスに面して北側に、他の側の切り立った岩はゲバに面して南側にそそり立っていた。
これは、かなり切り立っています。岩登りに熟練した人でも、その岩をよじ登るにはかなりの努力を執拗とします。
14:6 ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」14:7 すると道具持ちが言った。「何でも、あなたのお心のままにしてください。さあ、お進みください。私もいっしょにまいります。お心のままに。」
ヨナタンを突き動かしていたのは、この信仰でした。まず、「主がわれわれに味方してくださる」という信仰です。主がペリシテ人からイスラエルを救うことは明白であります。ですから、その主の働きの中に関わるのであるから、主が味方してくださるだろうと言っています。ローマ8章31節に、「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とあります。
そしてもう一つは、「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」という信仰です。これが大事です。主が戦ってくださるのだから、大事なのは数ではありません。必要なのはこの方と心を一つにして戦う人です。これが、今までのイスラエルの戦いにおける神の証しでした。ギデオンのことを思い出してください。主は、三万五千人をなんと三百人にまで減らされたのです。ヨナタンは、これまでのイスラエルの戦いを見て、数が決して問題ではなかったことを知っていました。そして何よりも、そうした戦いを支えていた神の御言葉があったのです。「あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。(レビ記26:8)」
14:8 ヨナタンは言った。「今われわれは、あの者どものところに渡って行って、彼らの前に身を現わすのだ。14:9 もしも彼らが、『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ。』と言ったら、われわれはその場に立ちとどまり、彼らのところに上って行くまい。14:10 もし彼らが、『おれたちのところに上って来い。』と言えば、われわれは上って行こう。主が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これがわれわれへのしるしである。」
ヨナタンの信仰の冒険は、決して無謀ではありませんでした。ここにヨナタンの霊性が出ています。彼は、身勝手に神の御心だと思い込んで行っていないかどうかを調べるために、このような条件を付けました。もし、「相手が来い」というのであれば、それは主が彼らを自分たちに渡してくださると信じました。ヨナタンは、主がペリシテ人を倒すことについて何ら疑いを抱いていません。そうではなく、自分の思いと心を試しているのです。
私たちはヨナタンのように、主がなされようとしていることに自分を関わらせる信仰の冒険をするべきです。そこで大切なのが「撤退する」勇気です。主がそこにおられないと分かったら、そこから引き下がって態勢を整えればよいのです。自分が「これは神の働きだ」と主張したから、それを維持しようとしたら、神がおられないものを維持することほど苦痛なものはありません。
14:11 こうして、このふたりはペリシテ人の先陣に身を現わした。するとペリシテ人が言った。「やあ、ヘブル人が、隠れていた穴から出て来るぞ。」
そうですね、事実ヘブル人の多くが、ほら穴などいろいろな所に隠れていました。
14:12 先陣の者たちは、ヨナタンと道具持ちとに呼びかけて言った。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」ヨナタンは、道具持ちに言った。「私について上って来なさい。主がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」14:13 ヨナタンは手足を使ってよじのぼり、道具持ちもあとに続いた。ペリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがそのあとから彼らを打ち殺した。
ヨナタンと道具持ちは、比較的緩やかになっている渡しを通ったのではありませんでした。迂回して峡谷の中に入り、そしてその谷をよじ登ったのです!そして、奇襲攻撃をしかけました。
14:14 ヨナタンと道具持ちが最初に殺したのは約二十人で、それも一くびきの牛が一日で耕す畑のおおよそ半分の場所で行なわれた。14:15 こうして陣営にも、野外にも、また民全体のうちにも恐れが起こった。先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいた。地は震え、非常な恐れとなった。
これが、主の戦いです。主は、ご自分の戦いにご自分の民を関わらせたいと願われています。けれども、それはご自分の戦いなのです。ですから彼らが二十人を殺すときに助け、守られるのはもちろんのこと、彼らとは無関係に、甚大な恐怖を陣営にもたらされます。そして地震も引き起こされたのです。イスラエルの戦いには、敵陣に雹が降ったり、洪水にさせたりと、天からの神の攻撃があります。
2C あまりにも明らかな御心 16−23
14:16 ベニヤミンのギブアにいるサウルのために見張りをしていた者たちが見ると、群集は震えおののいて右往左往していた。14:17 サウルは彼とともにいる民に言った。「だれがわれわれのところから出て行ったかを、調べて、見なさい。」そこで彼らが調べると、ヨナタンと道具持ちがそこにいなかった。14:18 サウルはアヒヤに言った。「エポデを持って来なさい。」当時、彼がイスラエルの前にエポデを取ったのである。14:19 サウルが祭司とまだ話しているうちに、ペリシテ人の陣営の騒動は、ますます大きくなっていった。そこでサウルは祭司に、「もう手をしまいなさい。」と言った。
他の訳では「エポデ」ではなく「神の箱」となっています。かつてイスラエルがペリシテ人との戦場に神の箱を持って来たのと同じことを行なっています。そして神に伺いを立てようとしています。けれども、自分の目の前でますますペリシテ人が慌てふためいています。主はそこの神の箱のところにはおられなかったのです。ペリシテ人の陣営におられたのです。神の御心はあまりにも明らかなのに、それを行なうのではなく、伺いを立てようとしているのです。
その前にサウルは、「だれがわれわれのところから出て行ったかを、調べて、見なさい」と言いつけています。そんなのどうでも良いことです!サウルは人間の王としては最もなことをしているかもしれませんが、イスラエルの神に選ばれた王としては、ボタンの掛け違いのようなことを繰り返しています。戦っているのは人ではなく、神なのです。
14:20 サウルと、彼とともにいた民がみな、集まって戦場に行くと、そこでは剣をもって同士打ちをしており、非常な大恐慌が起こっていた。14:21 それまでペリシテ人につき、彼らといっしょに陣営に上って来ていたヘブル人も転じて、サウルとヨナタンとともにいるイスラエル人の側につくようになった。14:22 また、エフライムの山地に隠れていたすべてのイスラエル人も、ペリシテ人が逃げたと聞いて、彼らもまた戦いに加わってペリシテ人に追い迫った。14:23 こうしてその日、主はイスラエルを救い、戦いはベテ・アベンに移った。
これが、まことの指導者です。恐れながらついてきたヘブル人がいて、逃げ出した者たちがいて、そのような臆病な者たちを無理やり自分のところに引き寄せることはできないのです。そうではなく、自分自身が主の心と一つになって先頭に立っている時に、主ご自身がその戦いに彼らを招き入れてくださいます。支配するのではなく、模範を示すのです。
2B 愚かな誓い 24−46
1C 神の命令違反 24−35
14:24 その日、イスラエル人はひどく苦しんだ。サウルが民に誓わせて、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれる。」と言い、民はだれも食物を味見もしなかったからである。
ああ、なんという愚かな誓いを立てたことでしょうか?ヨナタンが突破口を作って、残りはペリシテ人を追って倒していく掃討戦の段階に入っていますが、ここで自分が王として戦っているのだという威厳を付けるために、「私が敵に復讐するまで」と言っているのです。しかもそれを、霊的な装いを付けて行っているので、ますますイスラエルを苦しめました。イスラエル人にとって、それは王の命令にとどまらず、神からの命令として押し付けられたからです。
14:25 この地はどこでも、森にはいって行くと、地面に蜜があった。14:26 民が森に入ると、蜜がしたたっていたが、だれもそれを手につけて口に入れる者はなかった。民は誓いを恐れていたからである。14:27 ヨナタンは、父が民に誓わせていることを聞いていなかった。それで手にあった杖の先を伸ばして、それを蜜蜂の巣に浸し、それを手につけて口に入れた。すると彼の目が輝いた。14:28 そのとき、民のひとりが告げて言った。「あなたの父上は、民に堅く誓わせて、きょう、食物を食べる者はのろわれる、とおっしゃいました 。それで民は疲れているのです。」14:29 ヨナタンは言った。「父はこの国を悩ませている。ご覧。私の目はこんなに輝いている。この蜜を少し味見しただけで。14:30 もしも、きょう、民が見つけた、敵からの分捕り物を十分食べていたなら、今ごろは、もっと多くのペリシテ人を打ち殺していたであろうに。」
蜜のような甘い物は、即座にエネルギー源になります。マラソンの選手が飲んでいる飲料水は砂糖のたくさん入っているジュースだそうですが、それは即効のエネルギー源だからです。ですから、むしろ掃討戦をしている時にこの蜜は主からの備えであるはずです。ヨナタンは、父のことを少し批判しましたが、それは言うべきではなかったでしょう。けれども彼がイスラエル人に蜜を食べるのを許したのは間違っていません。
14:31 その日彼らは、ミクマスからアヤロンに至るまでペリシテ人を打った。それで民は非常に疲れていた。
アヤロンは、ヨシュアたちがかつて五人の王を追跡して太陽が留まった、あの谷です。
14:32 そこで民は分捕り物に飛びかかり、羊、牛、若い牛を取り、その場でほふった。民は血のままで、それを食べた。
民はついに、分捕り物に手をつけてしまいました。血のままで食べてしまいました。私たちはレビ記や申命記で何度も、血を食べてはいけないと言う戒めを読んできました。これは大きな罪です。けれども、ここに一つの大事な真理があります。「律法主義は、神の命令に背く」ということです。もしサウルが、神の命令にもない誓いを立てていなかったら、イスラエル人は神の命令に背くようなことはしなかったはずです。イエス様は言われました。「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。(マルコ7:8)」サウルが敵を倒すまで食物をいっさい取ってはならない、と言ったその人の教えが、血を食べてはならないという神の戒めを無効にしてしまったのです。
私たちが「神の命令」や「神の戒め」という言葉を聞くときに、びくっとします。これはおかしいことなのです。ヨハネ第一には、神の命令は重荷とはならない、とあります。びくっと反応するのは、神の命令ではなく律法主義のほうです。神の命令であるかのように装って、実は人の命令でしかないものを人に課す時に、それは人々にとって重荷になります。神から命じられていない、してもしなくとも良いことに一生懸命になり、神が命じられている肝心なことをおざなりにするのです。
14:33 すると、「民が血のままで食べて、主に罪を犯しています。」と言って、サウルに告げる者がいた。サウルは言った。「あなたがたは裏切った。今ここに大きな石をころがして来なさい。」14:34 サウルはまた言った。「民の中に散って行って、彼らに言いなさい。『めいめい自分の牛か羊かを私のところに連れて来て、ここでそれをほふって食べなさい。血のままで食べて主に罪を犯してはならない。』」そこで民はみな、その夜、それぞれ自分の牛を連れて来て、そこでほふった。14:35 サウルは主のために祭壇を築いた。これは彼が主のために築いた最初の祭壇であった。
サウルが行なったことは正しいことです。血を地面に流して、そしていけにえをほふった後で食べるように主は命じておられます。そしてここで彼は、いけにえをほふって牛や羊をささげたのではなく、そばにいる祭司が行なったであろうと考えられます。しかし、彼のふるまいは変わっていません。「あなたがたは裏切った」と言っています。サウルへの裏切りなのです。そして、「私のところに連れて来て」と言っています。主の前に人々を導くのではなく、自分の前に導いているのです。やはり、祭司の務めを自分でしているかのようにふるまっています。
2C 民が認める救い 36−46
14:36 サウルは言った。「夜、ペリシテ人を追って下り、明け方までに彼らをかすめ奪い、ひとりも残しておくまい。」すると民は言った。「あなたのお気に召すことを、何でもしてください。」しかし祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう。」14:37 それでサウルは神に伺った。「私はペリシテ人を追って下って行くべきでしょうか。あなたは彼らをイスラエルの手に渡してくださるのでしょうか。」しかしその日は何の答えもなかった。14:38 そこでサウルは言った。「民のかしらたちはみな、ここに寄って来なさい。きょう、どうしてこのような罪が起こったかを確かめてみなさい。
サウルは掃討戦を日が暮れても続けようと考えました。けれども祭司は、イスラエル人がさらにペリシテ人を追うべきかどうか主に伺いを立てましょう、と言っています。それでサウルは伺いを立てています。ところが、答えがありません。サウルはそれを、民が血のあるまま家畜の肉を食べたからであると判断しました。そうであるのかもしれません、けれども私はサウル自身が主の命令を守っていない、その結果であると考えます。「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。(66:18)」と詩篇にあります。サウルが神の命令を守らなかったことについて、彼自身が悔い改めることをしていなかったので、彼がいくら神に伺いを立ててもそれを聞いてくださらないのです。罪を犯し、過ちを犯しても、主の前に出て悔い改めれば、主は聞いてくださいます。聞かれないのは悔い改めていないからです。
14:39 まことに、イスラエルを救う主は生きておられる。たとい、それが私の子ヨナタンであっても、彼は必ず死ななければならない。」しかし民のうちだれもこれに答える者はいなかった。
サウルは既に、ヨナタンが蜜を食べたということを耳に入れていたのでしょう。それで、ヨナタンの名を口にしています。そして民がだれも答える者はいません。民は、神を恐れているよりも、サウルを恐れています。すでにサムエルが警告したように、王の専制に怯えているのです。
14:40 サウルはすべてのイスラエル人に言った。「あなたがたは、こちら側にいなさい。私と、私の子ヨナタンは、あちら側にいよう。」民はサウルに言った。「あなたのお気に召すようにしてください。」14:41 そこでサウルはイスラエルの神、主に、「みこころをお示しください。」と言った。すると、ヨナタンとサウルが取り分けられ、民ははずれた。14:42 それでサウルは言った。「私か、私の子ヨナタンかを決めてください。」するとヨナタンが取り分けられた。14:43 サウルはヨナタンに言った。「何をしたのか、私に告げなさい。」そこでヨナタンは彼に告げて言った。「私は手にあった杖の先で、少しばかりの蜜を、確かに味見しましたが。ああ、私は死ななければなりません。」14:44 サウルは言った。「神が幾重にも罰してくださるように。ヨナタン。おまえは必ず死ななければならない。」
サウルは、自分の行った誓いが愚かであったことを認めせんでした。その誓いが誤っていたことを悔い改めるのがサウルのしなければいけないことです。けれども、それを認めないから、このような自分の息子を殺すところまで進んでしまっているのです。
14:45 すると民はサウルに言った。「このような大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんなことはありません。主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。神が共におられたので、あの方は、きょう、これをなさったのです。」こうして民はヨナタンを救ったので、ヨナタンは死ななかった。
ようやく民がサウルを制しました。神が共におられたことは、民にはあまりにも明らかだったのです。サウルを恐れていましたが、いくらなんでもおかしいではないかと思って声を上げたのです。興味深いことに、アモン人と戦った時のサウルはどこかに言ってしまいました。主がイスラエルを救われたのだから、人を殺してはいけないと言ったのはサウル自身です。すでにそれを忘れていました。
14:46 こうして、サウルはペリシテ人を追うのをやめて引き揚げ、ペリシテ人は自分たちの所へ帰って行った。
ああ、これがものすごく惜しいです。主の働きがあるのに、人間的な思惑によってそれが阻まれるのです。キリストの働き、神の恵み、これらを引き止めるのはこうした人の肉の働きによります。
3B サウルの業績 47−52
次にサウルの業績が書かれています。次回からサウルが退けられダビデの生涯に入りますので、その前に業績を記録しています。
14:47 サウルは、イスラエルの王位を取ってから、周囲のすべての敵と戦った。すなわち、モアブ、アモン人、エドム、ツォバの王たち、ペリシテ人と戦い、どこに行っても彼らを懲らしめた。14:48 彼は勇気を奮って、アマレク人を打ち、イスラエル人を略奪者の手から救い出した。
戦いの業績です。
14:49 さて、サウルの息子は、ヨナタン、イシュビ、マルキ・シュア、ふたりの娘の名は、姉がメラブ、妹がミカルであった。14:50 サウルの妻の名はアヒノアムで、アヒマアツの娘であった。将軍の名はアブネルでサウルのおじネルの子であった。14:51 サウルの父キシュとアブネルの父ネルとは、アビエルの子であった。14:52 サウルの一生の間、ペリシテ人との激しい戦いがあった。サウルは勇気のある者や、力のある者を見つけると、その者をみな、召しかかえた。
家族構成、そして将軍アブネルとの関係が記されています。サウルの生涯はペリシテ人との戦いから始まり、ペリシテ人との戦いで終わります。