サムエル記第一14章 「虚栄がもたらすもの」


アウトライン

1A 息子による信仰の冒険 1−23
  1B 二人だけの戦い 1−15
   1C 表面的な悔い改め 1−5
   2C 主の救い 6−15
  2B 敵の大恐慌 16−23
2A 無駄な誓い 24−46
  1B 自由の束縛 24−30
  2B 無にされた主の大義 31−46
    1C 戒めにおいて 31−35
    2C 戦いにおいて 36−46
3A 業績 47−52

本文

 サムエル記第一14章をお開きください。今日は、内容がたくさんあるので一章分だけ学びます。ここでのテーマは、「虚栄がもたらすもの」です。それでは早速、本文に入りましょう。

1A 息子による信仰の冒険 1−23
1B 二人だけの戦い 1−15
1C 表面的な悔い改め 1−5
 ある日のこと、サウルの子ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、この向こう側のペリシテ人の先陣のところへ渡って行こう。」ヨナタンは、このことを父に知らせなかった。

 ヨナタンが道具持ちと二人だけで、ペリシテ人の陣営のところに渡っていきます。前回の話を思い出してください。ヨナタンが、ペリシテ人の守備隊長を打ち殺しました。それで数え切れないほどの数のペリシテ人が、イスラエルと戦うためにやって来ました。当時はペリシテ人がイスラエル人を支配しているようになっていたので、反逆しているとみなされたのです。そしてサウルはイスラエル人を集めましたが、彼らは怯えて、後ずさりするものがたくさん出てきました。

 サウルはギルガルでサムエルに言われたとおり七日待ちましたが、サムエルはやって来ませんでした。その上、イスラエルの民はサウルのもとからさらに離れて行こうとします。そこで彼は、自分自身で全焼のいけにえをささげるという罪を犯しました。彼は王として油注がれたのであり、祭司の務めを行なうように任じられていません。そこでサムエルは怒って、王位は主がご自分の心にかなう人に渡されると預言して去っていきました。

 それからさらに、ペリシテ人がイスラエルに対して攻勢の位置を取ってきました。あちらは戦車三万、騎兵六千という人数なのに対して、こちらイスラエルはなんと六百人しかいません。しかも、イスラエルには鉄がなかったので、剣を持っているのはサウルとヨナタンしかいませんでした。イスラエルは完全に劣勢です。けれども、「主にとって人数は関係ない」と言うヨナタンの言葉が間もなく出てきます。ヨナタンは、道具持ちと二人だけで、ペリシテ人に対して勝利をもたらすことができました。今、ヨナタンは、対峙しているペリシテ人の先陣のところに向かっています。

 サウルはギブアのはずれの、ミグロンにある、ざくろの木の下にとどまっていた。彼とともにいた民は、約六百人であった。シロで主の祭司であったエリの子ピネハスの子イ・カボデの兄弟アヒトブの子であるアヒヤが、エポデを持っていた。民はヨナタンが出て行ったことを知らなかった。

 ヨナタンは出て行ったのに対し、サウルはとどまり、座っています。彼とともにいたのは、兵士六百人の他に、祭司であることが書かれています。彼はサムエルを待てずに犯した過ちを強く意識して、このような態勢になっていると考えられます。

 しかし今から読んでいくとだんだん分かってきますが、サウルはこの宗教的側面を大事にしているようでいながら、彼の心は何ら変わっていないことに気づきます。むしろ、宗教的側面が彼のプライドを満たすために利用されていきます。彼が祭司を自分の傍らに置いた行為は、表面的な行動にしか過ぎず、心からの悔い改めではないことは明らかです。

 これは、主の御声を聞くことができていない人の姿です。生ける主との交わりを持っていない、あるいは非常に薄くなっている人の姿です。主の心と、波長がずれている状態です。自分は自分を変えているつもりでいるのですが、外面的な変化でしかありません。けれども御霊による人は、キリストの思いを知ることができます。パウロは、「私たちには、キリストの心があるのです。(1コリント2:16)」と言っています。

 ヨナタンがペリシテ人の先陣に渡って行こうとする渡し場の両側には、こちら側にも、向かい側にも、切り立った岩があり、片側の名はボツェツ、他の側の名はセネであった。片側の切り立った岩はミクマスに面して北側に、他の側の切り立った岩はゲバに面して南側にそそり立っていた。

 ヨナタンの信仰の冒険は、ここ切り立った岩のところで行なわれます。

2C 主の救い 6−15
 ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」

 すばらしい信仰の言葉です。ここから私たちは、信仰によって一歩踏み出すこと、または信仰の冒険について、多くのことを学ぶことができます。

 この発言の前に、ヨナタンは父やイスラエルの陣営にも伝えずに、道具持ちと二人だけでペリシテ人の陣営に行きました。これは彼が勝手に起こした行動ではなく、神の原則、神のみことばに基づいた原則に沿ったことです。レビ記の26章8節に、「あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。」とあります。人数は関係ありません。主がともにおられれば、主はむしろ少人数で敵を追い払ってくださる約束があります。これまでのイスラエルの歴史を見ても、そうでした。牛の突き棒でペリシテ人600人を殺したシャムガルがおり、ギデオンはたった三百人で、十三万五千人のミデヤン人を倒し、サムソンはたった一人で千人をろばのあご骨で殺し、そしてダゴンの宮にいた三千人のペリシテ人を倒しました。

 大事なのは、主のお心と一つになっているかどうかです。歴代誌第二16章9節には、こう書いてあります。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」先ほどのギデオンの例も、初めは三万五千人いるイスラエル兵の中から、戦うのを恐れている者二万五千人が家に帰りました。そして九千七百人の者が、泉でひざをついて水を飲みました。敵と戦う心、主と心を一つにして戦う備えができていた者が、残りの三百人だったのです。だから、主のみことばにいつも触れていて、御霊の導きに敏感になるとき、主が私たちに必要なときに、「それではやってみよう」という信仰の賜物を与えてくださいます。

 それから、「たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。」という言葉も大事です。必ずペリシテ人に勝てるという証拠があるなら、信仰は必要ありません。いいから、とにかく行ってみよう。もしかしたら主がこのことをなさりたいのかもしれない、というのが信仰の一歩です。いつまでも現状のままでいたら、良くなることはなくても悪化していくだけは確かです。けれども、主がここにおられれば、事は進展するのかもしれない、と思ったら、前進してみることです。もし主がおられなかったら、すぐに引き上げれば良いことです。いつまでも、そこにとどまる必要は当然ありません。主の導きのままに動くのです。

 すると道具持ちが言った。「何でも、あなたのお心のままにしてください。さあ、お進みください。私もいっしょにまいります。お心のままに。」

 当時、戦いのときには一人の兵士につきこのように助手として道具持ちがいました。

 ヨナタンは言った。「今われわれは、あの者どものところに渡って行って、彼らの前に身を現わすのだ。もしも彼らが、『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ。』と言ったら、われわれはその場に立ちとどまり、彼らのところに上って行くまい。もし彼らが、『おれたちのところに上って来い。』と言えば、われわれは上って行こう。主が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これがわれわれへのしるしである。」

 ヨナタンは、主の導きを仰いでいます。もしペリシテ人が自分たちを呼んでいるのなら、それで自分たちがペリシテ人を倒していくしるしになる、と彼は考えました。ですから、信仰の冒険は、盲目に前進するのではなく、少しずつ、一歩一歩、主の導きを確かめながら進みます。

 こうして、このふたりはペリシテ人の先陣に身を現わした。するとペリシテ人が言った。「やあ、ヘブル人が、隠れていた穴から出て来るぞ。」

 イスラエルのほうが完全に劣勢ですから、降伏して白い旗を上げるために出てきたのではないか、と罵っています。

 先陣の者たちは、ヨナタンと道具持ちとに呼びかけて言った。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」ヨナタンは、道具持ちに言った。「私について上って来なさい。主がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」ヨナタンは手足を使ってよじのぼり、道具持ちもあとに続いた。ペリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがそのあとから彼らを打ち殺した。ヨナタンと道具持ちが最初に殺したのは約二十人で、それも一くびきの牛が一日で耕す畑のおおよそ半分の場所で行なわれた。

 実際の寸法は調べましたが分かりませんでしたが、非常に小さい場所でこの戦いが繰り広げられたことがわかります。

 こうして陣営にも、野外にも、また民全体のうちにも恐れが起こった。先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいた。地は震え、非常な恐れとなった。

 信仰の冒険について、ここから最後の学ぶことができる点は、自分が一歩踏み出して、自分がしなければいけないことを行なえば、残りはすべて主が行なってくださる、ということです。二人が殺したのはたった二十人ですが、主はこの出来事を用いて、陣営全体、野外、そして民全体に恐れを起こされました。そして、おまけに地震まで起こしてくださいました。すべてを自分で行なわなければいけないというのは、間違いです。

2B 敵の大恐慌 16−23
 ベニヤミンのギブアにいるサウルのために見張りをしていた者たちが見ると、群集は震えおののいて右往左往していた。サウルは彼とともにいる民に言った。「だれがわれわれのところから出て行ったかを、調べて、見なさい。」そこで彼らが調べると、ヨナタンと道具持ちがそこにいなかった。

 遠くからペリシテ人の陣営を見張っていた者が、ペリシテ人全体に騒動が起こっているのを見ました。

 サウルはアヒヤに言った。「エポデを持って来なさい。」当時、彼がイスラエルの前にエポデを取ったのである。サウルが祭司とまだ話しているうちに、ペリシテ人の陣営の騒動は、ますます大きくなっていった。そこでサウルは祭司に、「もう手をしまいなさい。」と言った。

 サウルは、もっともらしいことを行なっています。戦うときに、祭司によって、主のみこころを探るジェスチャーを行なっています。エポデ、つまり、祭司の胸当てにある二つの石を使って、ペリシテ人と戦うべきなのかどうか、いま伺おうとしています。

 けれども、これはサウルの人間的な行為であり、主はサウルの伺いのところにおられなかったことが、はっきり分かります。ペリシテ人が混乱しきっているからです。サウルでさえ、これは主であると気づいたのでしょう、みこころを伺う必要はなくなりました。「もう手をしまいなさい」と祭司に言っています。

 サウルと、彼とともにいた民がみな、集まって戦場に行くと、そこでは剣をもって同士打ちをしており、非常な大恐慌が起こっていた。それまでペリシテ人につき、彼らといっしょに陣営に上って来ていたヘブル人も転じて、サウルとヨナタンとともにいるイスラエル人の側につくようになった。また、エフライムの山地に隠れていたすべてのイスラエル人も、ペリシテ人が逃げたと聞いて、彼らもまた戦いに加わってペリシテ人に追い迫った。

 なんと、ペリシテ人についていたイスラエル人たちがいました。彼らはイスラエルの側にいたら、自分たちが死んでしまうと分かっていたから、そのようなことをしていたのだと思われます。覚えていますか、イスラエル人がサウルに付いていったときに、彼らは自分たちがひどく危険なのを見て、ほら穴や、奥まったところ、岩間、地下室、水ための中に隠れていた者たちがいました。彼らが恐れていたのです。

 実は、サウルの動きを見ると、これが彼の真の姿であるとも考えられます。つまり、神を畏れるのではなく、人を恐れている姿です。人に自分がどう思われているのかがもっとも気になることであり、それに合わせて生きている人間です。箴言には、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(箴言29:25)」とあります。指導者がそのような人間だったので、彼について来る人も、恐れによって動いていたのでしょう。しかし今、ヨナタンの信仰によって、彼らは力づいて戦いました。

 こうしてその日、主はイスラエルを救い、戦いはベテ・アベンに移った。

 主がイスラエルを救われました。

2A 無駄な誓い 24−46
1B 自由の束縛 24−30
 その日、イスラエル人はひどく苦しんだ。サウルが民に誓わせて、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれる。」と言い、民はだれも食物を味見もしなかったからである。

 本当に愚かです、愚かの骨頂です。誓いを立てる、というのは聖書の中で書かれている霊的行為です。けれども、何のためにサウルは誓いを立てているのでしょうか?「私が敵に復讐するまで」と言っています。彼の名誉のために、民は何も食べることができず、逃げているペリシテ人を追うこともできません。

 教会の中に、人間的な、作為的な霊的装いがあります。本当ならもっと自由になって、信仰によって前に進めばよいところを、いろいろな理由付けを持って、しかもその理由がいかにも霊的であるばかりに、やめといた方が良いと反対します。しかし本心は、サウルのような虚栄であったり、自分の理解の中に神の働きを入れておきたいとする、自己欲であったりします。そのために、主の働きが教会の中で、また教会を通して前進せず、苦しんでしまうことがあります。

 この地はどこでも、森にはいって行くと、地面に蜜があった。民が森に入ると、蜜がしたたっていたが、だれもそれを手につけて口に入れる者はなかった。民は誓いを恐れていたからである。ヨナタンは、父が民に誓わせていることを聞いていなかった。それで手にあった杖の先を伸ばして、それを蜜蜂の巣に浸し、それを手につけて口に入れた。すると彼の目が輝いた。

 蜂蜜にある糖分が、元気付けています。現在でもスポーツ選手が甘い物を摂取しますが、それはすぐにエネルギーとして消化されるからですね。

 そのとき、民のひとりが告げて言った。「あなたの父上は、民に堅く誓わせて、きょう、食物を食べる者はのろわれる、とおっしゃいました 。それで民は疲れているのです。」ヨナタンは言った。「父はこの国を悩ませている。ご覧。私の目はこんなに輝いている。この蜜を少し味見しただけで。もしも、きょう、民が見つけた、敵からの分捕り物を十分食べていたなら、今ごろは、もっと多くのペリシテ人を打ち殺していたであろうに。」

 本当にその通りです。無駄な誓いを守るために、民は束縛の中に置かれました。ペリシテ人を追跡するという、主の働きが妨げられています。けれども、主の戒めは違います。主に命じられたことを行なうことは、人を罪から離れさせ、自由を与えます。キリストにある自由は、ここのヨナタンのように、主にあって益になることを何でもすることができる自由が与えられます。

2B 無にされた主の大義 31−46
1C 戒めにおいて 31−35
 その日彼らは、ミクマスからアヤロンに至るまでペリシテ人を打った。それで民は非常に疲れていた。そこで民は分捕り物に飛びかかり、羊、牛、若い牛を取り、その場でほふった。民は血のままで、それを食べた。

 これは、主の戒めに反することです。申命記に、「ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。(12:23」とあります。けれども、民が血のままで食べることになった、その第一原因は、サウルが立てた愚かな誓いであります。彼が食べてはならない、と言わなければ、主が備えてくださった蜜を食べることもできたし、略奪物から主の戒めに反しないものを食べることもできたのです。

 ここに、律法主義の弊害があります。しばしば、神のみことばに従うことを強調すると律法主義であるという人たちがいますが、それは間違っています。「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。(1ヨハネ5:3」と使徒ヨハネは言いました。けれども、律法主義は、主の戒め以上にしなければいけないものとして人々に課す、人間の戒めです。

 主の命令は私たちを罪から引き離し、私たちを自由にします。けれども、律法主義は私たちの罪の力や肉の力に対して何ら力を持っていないので、表向き主に従っているように見せますが、必ずボロが出ます。主の大義、主が大切にしなければいけないと言われる、大事な戒めを破るようになるのです。そのことをイエスさまは、パリサイ人たちや律法学者に対して、このように言われました。「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。(マルコ7:8

 すると、「民が血のままで食べて、主に罪を犯しています。」と言って、サウルに告げる者がいた。サウルは言った。「あなたがたは裏切った。今ここに大きな石をころがして来なさい。」サウルはまた言った。「民の中に散って行って、彼らに言いなさい。『めいめい自分の牛か羊かを私のところに連れて来て、ここでそれをほふって食べなさい。血のままで食べて主に罪を犯してはならない。』」そこで民はみな、その夜、それぞれ自分の牛を連れて来て、そこでほふった。サウルは主のために祭壇を築いた。これは彼が主のために築いた最初の祭壇であった。

 サウルは、主へのささげものとして自分たちの家畜から動物をささげて、それから分け前を食べるようにイスラエルにさせました。これ自体はとてもよいことですが、次回学ぶ15章においては、サウルは、略奪物の中から最良の牛、羊を残しておきました。一方で略奪物から取って食べさせないようにしながら、他方で略奪物からいけにえをささげています。

 次回も学びますが、彼の根本的な問題は、いけにえをささげるかささげないか、すべて皆殺しにするか、それとも分捕り物として残しておくのか、祭司に伺いを立てるか立てないか、などの行為の問題ではなく、「主の御声に聞き従っていない」ということです。主との生きた関係がないことが、問題だったのです。ヨシュアがイスラエルの指導者であったとき、エリコに対しては聖絶しなさいと主は命じ、アイに対しては、略奪品を取ってよいと主は命じられました。大事なのは、主の命令を守ることであり、割礼の有無ではないとパウロは言いましたが(1コリント7:19)、主から信仰によって、その戒めを聞くという能力が必要です。これがサウルには足りませんでした。

2C 戦いにおいて 36−42
 サウルは言った。「夜、ペリシテ人を追って下り、明け方までに彼らをかすめ奪い、ひとりも残しておくまい。」すると民は言った。「あなたのお気に召すことを、何でもしてください。」しかし祭司は言った。「ここで、われわれは神の前に出ましょう。」それでサウルは神に伺った。「私はペリシテ人を追って下って行くべきでしょうか。あなたは彼らをイスラエルの手に渡してくださるのでしょうか。」しかしその日は何の答えもなかった。

 ここに、主がサウルの伺いのところには、おられないことが分かります。答えがないのです。もっとも恐ろしいことは、私たちが願いを主に聞いていただいて、「いや、これはやってはいけない。」と拒否されることではなく、何の返答もないことです。心が主から離れているとき、私たちは主から何か聞くことはできません。そのときいつも思い出せばよいのは、イエスさまの山上の垂訓です。天の御国の入り口と言っても良いでしょう、イエスさまは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人の者だからです。」と言われました。主を見上げて、自分をへりくだらせることです。

 そこでサウルは言った。「民のかしらたちはみな、ここに寄って来なさい。きょう、どうしてこのような罪が起こったかを確かめてみなさい。」

 自分の誓いが、また自分の高ぶりの心が主からの答えを得られない原因であるのに、サウルは、その誓いを破った者がいるために答えがなくなってしまったと思っています。すべて自分が中心に、自分の支配下に置きたいようです。神の国ではなく、マイ・ワールド、サウルの王国を彼は作り上げてしまっています。

 まことに、イスラエルを救う主は生きておられる。たとい、それが私の子ヨナタンであっても、彼は必ず死ななければならない。」しかし民のうちだれもこれに答える者はいなかった。

 ヨナタンが蜂蜜を食べた彼らは知っています。けれども、彼らは答えませんでした。ささやかな抵抗です。

 サウルはすべてのイスラエル人に言った。「あなたがたは、こちら側にいなさい。私と、私の子ヨナタンは、あちら側にいよう。」民はサウルに言った。「あなたのお気に召すようにしてください。」

 民に罪があるか、それともサウル、ヨナタン親子に罪があるか、まず選り分けます。

 そこでサウルはイスラエルの神、主に、「みこころをお示しください。」と言った。すると、ヨナタンとサウルが取り分けられ、民ははずれた。それでサウルは言った。「私か、私の子ヨナタンかを決めてください。」するとヨナタンが取り分けられた。 サウルはヨナタンに言った。「何をしたのか、私に告げなさい。」そこでヨナタンは彼に告げて言った。「私は手にあった杖の先で、少しばかりの蜜を、確かに味見しましたが。ああ、私は死ななければなりません。」サウルは言った。「神が幾重にも罰してくださるように。ヨナタン。おまえは必ず死ななければならない。」

 サウルは、霊的な装いをし続けましたが、ついに民のほうから声を上げました。

 すると民はサウルに言った。「このような大勝利をイスラエルにもたらしたヨナタンが死ななければならないのですか。絶対にそんなことはありません。主は生きておられます。あの方の髪の毛一本でも地に落ちてはなりません。神が共におられたので、あの方は、きょう、これをなさったのです。」こうして民はヨナタンを救ったので、ヨナタンは死ななかった。

 民が神がヨナタンと共におられることを認めました。

 こうして、サウルはペリシテ人を追うのをやめて引き揚げ、ペリシテ人は自分たちの所へ帰って行った。

 ペリシテ人を追い続けるのではなく、引き揚げてしまいました。これで、主の働きは貫徹されませんでした。これぞ、「愚か」というものです。自分のうぬぼれと虚栄心のためいに、主が渡してくださった敵を打ち負かすことができませんでした。ここから私たちは大きな教訓を得ることができます。私たちがクリスチャンであっても、自分の肉や高慢によって、その働きをかえって妨げてしまうことがある、ということです。霊的装いをしながら、霊的事柄を阻むという愚かさです。だから、主との交わりがいかに大切であるかを思わされます。主の前にへりくだることの大切さです。

3A 業績 47−52
 この章の最後は、サウル王の業績が書かれています。列王記にも同じように、王たちが行なったことを述べて、記録しておく作業が行なわれています。サウル王が死ぬのはサムエル記第一の最後の章においてです。もういち早く、ここに登場します。それは彼の王位が間もなく取り上げられて、ダビデに与えられるからです。彼は神にとって用なしになってしまいます。

 サウルは、イスラエルの王位を取ってから、周囲のすべての敵と戦った。すなわち、モアブ、アモン人、エドム、ツォバの王たち、ペリシテ人と戦い、どこに行っても彼らを懲らしめた。彼は勇気を奮って、アマレク人を打ち、イスラエル人を略奪者の手から救い出した。

 サウルの業績です。サウルの不従順にも関わらず、彼はペリシテ人やアマレク人と戦って、勝利を収めました。人間的な業績ではありますが。

 さて、サウルの息子は、ヨナタン、イシュビ、マルキ・シュア、ふたりの娘の名は、姉がメラブ、妹がミカルであった。サウルの妻の名はアヒノアムで、アヒマアツの娘であった。将軍の名はアブネルでサウルのおじネルの子であった。サウルの父キシュとアブネルの父ネルとは、アビエルの子であった。

 ここで出てくる人物の中で、後でも出てくる人はサウルの娘のミカルと、将軍アブネルです。ミカルは、ダビデの妻となります。アブネルはダビデと和合しようとしますが、ヨアブに殺されてしまいます。

 サウルの一生の間、ペリシテ人との激しい戦いがあった。サウルは勇気のある者や、力のある者を見つけると、その者をみな、召しかかえた。

 彼は人間王としては、十分な務めを果たしたようです。霊的な事柄において能力がなかったようです。

 次回は、サウルから王位が剥奪される決定的要因となる出来事を読んでいきます。


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