サムエル記第一15−16章 「移される王位」
アウトライン
1A 不完全な従順 15
1B 聖絶の命令 1−9
2B いけにえと御声 10−23
3B サムエルとサウルの別れ 24−35
2A 小さき者への油注ぎ 16
1B 心を見る主 1−13
2B 琴の音による癒し 14−23
本文
サムエル記第一15章を開いてください。前回の学びでは、サムエルがペリシテ人との戦いにおいて、主の命令に聞き従わずに自ら全焼のいけにえと和解のいけにえをささげたところを読みました。さらに、その戦いではヨナタンが信仰によって進み出てイスラエルを救ったのですが、サウルが自らの威信のために、食べ物を口にしたら呪われるという誓いを民に立てさせていました。そして15章からは、主がサウルにご自分が立てたイスラエルの王として新たに機会を与えられます。
1A 不完全な従順 15
1B 聖絶の命令 1−9
15:1 サムエルはサウルに言った。「主は私を遣わして、あなたに油をそそぎ、その民イスラエルの王とされた。今、主の言われることを聞きなさい。15:2 万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、イスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する。15:3 今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺せ。』」
主がサウルに与えられた使命は、アマレク人の聖絶です。前回の学びの最後で、14章48節ですが、サウルが「勇気を奮って、アマレク人を打ち、イスラエル人を略奪隊の手から救い出した。」という記述がありました。サウルは確かにアマレク人を打ち倒しましたが、けれどもここで主が命じられているのは聖絶であります。イスラエルが圧迫されているところから救い出す以上の意味が、ここにはあります。
聖絶とは、主が裁かれて、その滅ぼされたものを一切、ご自分のものとする、という意味です。エリコの町を同じような形で主が裁かれたことを思い出してください。そこで金の延べ棒や絹の布を盗っていったアカンが石打ちの刑に遭いました。すべてが主だけのもの、主のために裁かれて滅ぼされたものになったのに、それを取ったからです。新約聖書にある知識と兼ね合わせるなら、地獄に堕ちた天使やそれについていく者たちは、すべて聖なる神のものということです。その人たちを他の者たちが引き上げることはできない、ということであります。カトリックの教義では煉獄というものがあり、その人々のために執り成しの祈りをささげ神に天国に導いていただくというものがありますが、それはまさに聖絶のものに触れる行為に他なりません。
通常の戦いであれば、当時は打ち勝った軍の兵士たちにとって、敵の略奪物が報酬となります。したがって、牛も羊もラクダもロバも、また女や子供も当然ながら受け取ることができます。けれどもそれは厳に戒められなければいけません。
アマレク人については、14章にも「略奪者」という紹介がありますが、彼らはイスラエルがエジプトから出てきて旅をしている時に略奪を企てた者たちです。モーセが遺言のように、死ぬ前に与えた神の御言葉であり申命記に、こう書いてあります。「あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。(25:17-19)」天の下から消し去らなければいけない、つまり抹殺であります。
ヨシュア率いるイスラエルが、アマレク人と戦った時にも主は、その記憶を完全に消し去ると宣言されましたが、その時にモーセは祭壇を築き、こう言ったのです。「モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。(出エジプト17:15-16)」代々に渡る戦いです。したがって、主はこの大切な任務をサウルに対して与えたということです。
15:4 そこでサウルは民を呼び集めた。テライムで彼らを数えると、歩兵が二十万、ユダの兵士が一万であった。15:5 サウルはアマレクの町へ行って、谷で待ち伏せた。15:6 サウルはケニ人たちに言った。「さあ、あなたがたはアマレク人の中から離れて下って行きなさい。私があなたがたを彼らといっしょにするといけないから。あなたがたは、イスラエルの民がすべてエジプトから上って来るとき、彼らに親切にしてくれたのです。」そこでケニ人はアマレク人の中から離れた。
サウルはかなり有能な王です。民を呼び集めると、歩兵が二十万もいます。そしてユダの兵士が一万います。それはアマレク人がエジプトからユダの荒野一帯にいた者たちなのでユダ族が最も近いところにいたからです。そしてケニ人ですが、彼らはモーセが案内人としてお願いした、イテロの子ホバブの子孫です。イスラエルと共に旅をして、ユダの荒野に住み着きました。したがってサウルは正しく、彼らに避難を呼びかけたのです。
15:7 サウルは、ハビラから、エジプトの東にあるシュルのほうのアマレク人を打ち、15:8 アマレク人の王アガグを生けどりにし、その民を残らず剣の刃で聖絶した。15:9 しかし、サウルと彼の民は、アガグと、それに、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した。
サウルは任務を遂行しました。けれども最後まで遂行しませんでした。先ほど話したように、この戦いに対して自分の手柄を立てたかったのです。その報酬の印として、アマレク人の王を生け捕りにしました。ちなみに「アガグ」は名前ではなく、ちょうどエジプトのパロと同じように王の称号です。そして、家畜でも最も良いものを惜しんでしまいました。
ここから何か思い出せる、聖書の箇所はないでしょうか?そうです、主はいけにえを捧げられる時に、これらのものをイスラエルに捧げなさいと命じられていました。最も良いものです。そして、マラキ書においては、神は、祭司たちが欠陥のある牛や羊、傷のあるものを捧げて、モーセの律法を犯していると咎められています。最も良いものを自分に取っておくというのは、言い直すと、神が自分の神になっていない、神が第二、第三の存在になっている、ということです。つまり、サウルが行なったことは、主に最も良いものを捧げなかった行為に他なりません。本来なら、聖絶によって主の裁きの恐ろしさを、健全な意味で受け止め、厳粛な思いになるべきだったのです。
ところで「アガグ」という名は、ずっと後世、約五百年後の出来事に出てきます。エステル記で、ペルシヤの王の側近ハマンが、アガグ人でした。彼が行なったのは何か?ユダヤ人を一人残らず殺す、ユダヤ人の名をこの地上から一切消し去ることでした。分かりますか、主がアマレク人に対して、「記憶を消し去る」「代々に戦う」と言われた言葉にある意図は、これだったのです。アマレク人がユダヤ人に対して代々に戦うことを知っておられました。またユダヤ人の記憶を消し去ろうとすることも分かっていました。したがって反対に、アマレク人を消し去らなければいけません。
もちろん主は、ソドムのようにご自身の手で消し去ることは可能です。けれども、ここには一つの霊的原則があります。それは霊と肉の関係です。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。(ローマ8:13)」ガラテヤ書5章には、霊と肉が対立していると書いてあります。肉に妥協するのであれば、自分を滅ぼします。ですから肉を殺すのですが、御霊の力によってそれを行ないます。サウルが行なったことはちょうど、多くの肉の行ないをやめたのですが、わずかにちょうど良い部分だけ肉の欲望を楽しんでいるような状態です。これをすると、それだけに終わらず全体が滅ぼされてしまうのです。
2B いけにえと御声 10−23
15:10 そのとき、サムエルに次のような主のことばがあった。15:11 「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ。
サムエルは、これまでもそうでしたが、人の使いが来なくとも、主ご自身からサウルについての報告を受けました。ここの「悔いる」という言葉は、残念に思う、悲しんでいる、という意味です。サムエルもほとんど気が狂いそうなぐらいになって、主に叫んでいます。もちろん、これは執り成しの祈りです。しかしサムエル自身も分かっているのです。すでに七日間待てずに、自分自身でいけにえを捧げたのですから。そして今、主が与えられたやり直しの機会をこのような形で踏みにじったのですから、主がサウルを王位から退けたことは仕方がないことなのです。
15:12 翌朝早く、サムエルがサウルに会いに行こうとしていたとき、サムエルに告げて言う者があった。「サウルはカルメルに行って、もう、自分のために記念碑を立てました。それから、引き返して、進んで、ギルガルに下りました。」
ここの「カルメル」は、地中海沿いにあるカルメル山ではなく、ユダの地にあるカルメルです。そこに自分のために記念碑を立てています。分かりますね、彼はアマレク人に対する戦いを自分の手柄として、その偉業を残したかったのです。
15:13 サムエルがサウルのところに行くと、サウルは彼に言った。「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」
これは、かなり大胆な発言です。「主の祝福がありますように。」というのは、王が祭司にいう言葉ではありません。反対に祭司が王に言う言葉であります。そして、「私は主のことばを守りました。」と言い切っています。サムエルがサウルに、背いているではないかと、はっきりと、子供でも分かるように教えているにも関わらず、それでも「私は主の命令に従いました」と言い続けています。これを何と言えば良いでしょうか、「盲目」ということでしょう。
また、「自分を欺いている」ということです。私たちは人に嘘をつくことはできても自分には嘘をつくことはできないと思います。いいえ、自分を欺くことができます。イエス様はラオデキヤにある教会に、「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。(黙示3:17)」と言われました。富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと自分を欺いていたのです。ダビデは祈りました。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。(詩篇139:23)」
15:14 しかしサムエルは言った。「では、私の耳にはいるあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」15:15 サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」
サウルの巧みな欺きと弁解を読み取れますか?牛や羊の最も良いものを惜しんだのがサウルではなく、「民」だとしています。そして、いけにえを受け入れる方を「あなたの神、主に」と言っています。さも、「あなたのために行なっているのだよ。」と言っているようなもんどえす。
15:16 サムエルはサウルに言った。「やめなさい。昨夜、主が私に仰せられたことをあなたに知らせます。」サウルは彼に言った。「お話しください。」
サムエルの「やめなさい」という言葉がよく分かります。サウルは信仰的なことは話しているのですが、それは言葉だけで中身は偽りでいっぱいだからです。
15:17 サムエルは言った。「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。15:18 主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』15:19 あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか。」
サムエルは、サウルの性格を知っていました。彼がここまでうぬぼれて、横柄になっているのは、劣等感の裏返しになっていることを知っていました。「自分では小さい者にすぎないと思ってはいても」と言っています。彼は、主から油注がれた者であるという召しを心から受け入れられていたのではないのです。確かに主の御霊が注がれたので、戦う時は勇敢にふるまうことができたでしょう。けれども、肝心な神の召しの確信がなかった、あるいは極めて薄かったので、やることなすことがすべて人間的な行為、パフォーマンスになっているのです。あまりにも明らかな主の御声に対して、そのまま聞き従えず、聞き従えないだけでなく、それを行なっていると自分に言い聞かせながら表向き行っているだけだったのです。
15:20 サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。15:21 しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」
サウルは、まだ気づいていません。同じことを繰り返しています。そこでサムエルは、核心的なことを話します。
15:22 するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
「主の御声に聞き従う」というのは、私たちの信仰において核心部分に当たります。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17)」表面的な行ないにおいては犠牲のいけにえなど同じことをしているとしても、もし主に命じられていることでなければ無意味です。信仰というのは、主に拠り頼み、従っていく形で、神の声を聞いていくことです。信仰がなければ、神を喜ばすことはできないのです。
信仰に拠らずとも、サウルのように全焼のいけにえを捧げることができます。いや、主に背く形でいけにえを捧げることさえできるのです。神に喜ばれることではなく、その他の動機で献身的な働きをすることはでき、その献身は神にとっては嫌悪感を抱かせるものです。「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。(1コリント13:3)」分かりやすい例を挙げれば、韓国から水商売をして働いている女性たちが、日本にある韓国の教会では献金額が多いと言われます。男を相手に生きているので、罪意識から償いとして献金として表れるのです。献金を捧げれば捧げるほど、主はその人たちに語っておられるでしょう。「あなたの罪を手放しなさい。」と。
サウルは、神から聞こうとしていませんでした。神に聞くふりをしていました。そして、祭司の行なうことに対する執着が強いです。いけにえを捧げるとか、主に伺いを立てるであるとか、おそらく自分にないものを、サムエルを始めとする人々が行なっているのを見て、羨んでいたのでしょう。自分もそのように格好良くやってみたい、そうすれば人から認められるという動機が働いたのかもしれません。そこで彼は、祭司の行なうようなことを自分も真似してみて、それで主に従うように見せかけていました。魔術師シモンが、ペテロやヨハネが人々に手を置いてその人々に聖霊が下った時に、「私にもその権威を与えてください。」と言ったように(使徒8:19)。しかし、彼は自分がイスラエルの王としての召し対して応答していませんでした。王の務めは行なっていましたが、自分の力で頑張っていただけです。言い換えると、神の声を聞くという生きた人格的な関係を持っていなかったのです。
信仰によらず行なうことは、必ず不完全になります。それらしくふるまっても、サウルのように全うすることはできません。ペテロが、兄弟が罪を犯した時に七度まで赦せばよいですか?とイエス様に尋ねました。イエス様は、七の七十倍赦しなさい、と言われました。七の七十倍赦すということは、制限がない、完全に赦す心の状態を持て、ということです。これは信仰によって、神の赦しを自分自身が受け、そして神の命令に従うことによってしかできません。けれども、信仰を持っていないで行なおうとすることは、七回は赦そうと頑張ってしまうのです。
信仰によってこそ、良い行いを全うすることはできません。なぜなら神は、信じる者に予め良い行ないをも備えていてくださっているからです(エペソ2:10)。ですから、自分の行為で主に従うようなふりをするのをやめましょう。不完全な従順は、主の目には完全な不従順とみなされます。従順と言えば完全であり、完全な従順は信仰によってのみ成し遂げられます。
15:23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
サムエルは、サウルが主を礼拝するという儀式に拘っている姿を見て、それが主に背いていることを示すために、はっきりと「占いの罪、偶像礼拝の罪」であると言いました。しかし、これが実は預言でした。彼の生涯は、主に伺いを立てても何の答えもなく、なんと魔女を探し出して伺いを立てるところで終わっているのです。今は、いけにえを祭壇に捧げているという行為で自分を欺いていますが、正体は占いの罪、偶像礼拝の罪と等しかったのです。
そして、主がサウルを王位から退けたことを告げました。
3B サムエルとサウルの別れ 24−35
15:24 サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。15:25 どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝いたします。」
サウルの悔い改めの言葉が極めて軽いことに気づくでしょうか。罪を犯したと言った矢先に、「私は民を恐れて」と言って、やはり民のせいにしています。神と自分との間に他の人物が入っているのです。ずっと後にダビデが罪を犯します。その時、彼は、「私は主に罪を犯した」という一言だけでした。主に対して罪を犯したことを、自分のすべてをもって告白したのです。そしてサウルは、すばやく「罪を赦してください」と言っています。罪に対する悔恨がないのです、後悔はあるかもしれません。そして、「主を礼拝します」と言っていますが、これも隠れた動機があります。
15:26 すると、サムエルはサウルに言った。「私はあなたといっしょに帰りません。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位から退けたからです。」15:27 サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルはサムエルの上着のすそをつかんだので、それが裂けた。15:28 サムエルは彼に言った。「主は、きょう、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれたあなたの友に与えられました。15:29 実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」
サムエルがここで、「主が悔いることがない」と強く言っているのは、サウルが王位から退けられ、他の者に与えられたという御心が決して変わることがない、という意味です。ここで多くの人が戸惑います。先に、「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。」と言われたからです。言葉は同じですが、意味が違います。先の悔いるのは、「悲しんでいる、残念である。」ということです。そしてここでの「悔いる」は、主が決定されたことを思い直す、ということです。それは、主は行なわれません。
これを難しく考えてはいけません。もっと分かりやすく言えば、主は、罪を犯す者は死ぬ、と言われました。このことについての御心は変更しません。主はこのことについて悔いることはありません。けれども、罪の中で死んでいく者を見ることについて、それを大変悲しまれています。主は悔いておられるのです。一方では、ご自分の計画と意志について話し、もう一方では感情について話しているのです。
15:30 サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。」15:31 それで、サムエルはサウルについて帰った。こうしてサウルは主を礼拝した。
分かりますね、サウルが主を礼拝したいと言ったのは、面目を民と長老の前で保つためであります。彼がいかに「罪を犯した」という言葉の意味を軽々しく取り扱っているかは、その言葉の後に続くいろいろな弁解から読み取ることができます。
15:32 その後、サムエルは言った。「アマレク人の王アガグを私のところに連れて来なさい。」アガグはいやいやながら彼のもとに行き、「ああ、死の苦しみは去ろう。」と言った。15:33 サムエルは言った。「あなたの剣が、女たちから子を奪ったように、女たちのうちであなたの母は、子を奪われる。」こうしてサムエルは、ギルガルの主の前で、アガグをずたずたに切った。
サムエルは戦士ではありません。けれども、いけにえをたくさん取り扱っています。ちょうど動物をほふるのと同じように、サムエルはアガグをずたずたに切りました。これが主が望まれていたことです。彼を殺すことは、単に敵に打ち勝つことではなく、主の前で滅びることを意味していました。
15:34 サムエルはラマへ行き、サウルはサウルのギブアにある自分の家へ上って行った。15:35 サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。
サムエルがサウルを見なかったのは、もうサウルが悔い改める余地が残されていないからでした。サウルが、主が憐れみを与えたその機会を最後まで食い尽くしてしまったからです。それはサウルがこれから悔い改める機会がなくなったという意味を示していません。そうではなく、最後まで悔い改めることはないことを主が予め知っておられるからです。サムエルは、そうした主の御心を良く知っていたので、二度と会うことはしませんでした。けれども、死んでから呼び起こされますが・・・それはサムエル記第一の最後で読んでいきます。
「悔やまれた」という言葉から私たちが学ばなければいけないのは、私たちが罪の中に生きている人々、信仰を捨てる人々、罪人のままで死んでいく人々について、また地獄について語るとき、この悲しみを持っていなければいけないということです。軽々しく神の裁きについて、地上に下る患難について、地獄について語ることはできません。そこには涙が伴っていなければいけません。主は悲しんでおられるからです。
2A 小さき者への油注ぎ 16
1B 心を見る主 1−13
16:1 主はサムエルに仰せられた。「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」
サムエルは、サウルのことが悔やまれてどうしようもありませんでした。サウルを本当に愛していたのだというのが分かります。このようなすばらしい霊的指導者また友がいることは、すばらしいです。しかし、ここで主が語られているのは、「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。」であります。主は新たな働きを行なわれます。したがって、自分もサウルのことは主に任せて、主から命じられる新たなことを行っていかなければいけません。私たちにも、同じように過去のことにうずもれるのではなく、新たに与えられたことを行ないなさいと主は命じられます。そして、新たな王としてベツレヘムのエッサイの息子の一人を選ばれました。かつてサムエルがサウルに油を注いだように、その男にも油を注ぐべく角に油を満たせと命じられています。
16:2 サムエルは言った。「私はどうして行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」主は仰せられた。「あなたは群れのうちから一頭の雌の子牛を取り、『主にいけにえをささげに行く。』と言え。16:3 いけにえをささげるときに、エッサイを招け。あなたのなすべきことを、このわたしが教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。」
サムエルが恐れていること、懸念していることはもっともなことです。イスラエルの国は未だサウルの王権の中に入っています。それなのに他の者に油を注ぎ他の王と立てるとなれば、それは反逆罪に問われるのであり、重罪です。イスラエルのどこに行っても、このことを目にしてサウルに告げる者があれば、一貫の終わりです。主ご自身が、その緊迫した状況になることを推し量って、「主にいけにえにささげにいく」と言え、と言われています。それは嘘ではありません。エッサイの家でいけにえを捧げに行くのです。そしてその時に油を注げば、王の即位をしているということが他人には見分けることができません。
このような、分かる人にしか分からないように動く、という方法は、実は主イエスご自身が行なっておりました。イエス様は、ご自分のことを「わたしはメシヤであり、神の子である。わたしを信じなさい。」と路傍で高らかに伝えることはなさいませんでした。会堂で、悪霊にとりつかれた人の中にいる悪霊が、「私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」と叫んだ時に、「黙れ。この人から出て行け。」と言われました(マルコ1:25)。らい病人を癒された時に、「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。(マタイ8:4)」と言われました。主は、ご自分の業を行なわれるのですが、分かる人にしか分からない方法で行なわれました。
それには、いくつかの理由がありますが、一つはメシヤという方が何を行なわれるのかユダヤ人の中でよく考えてもらいたかったというのがあります。またイエスが、そのメシヤの働きを確実に行なっていることをよく考えてもらいたかった、というのがあるでしょう。ユダヤ人の中で人気あるメシヤ像がありますから、そういうことではなく聖書に預言されている通りのメシヤを知っていただきたかった、というのがあります。けれどもまた別に理由がありますが、敵対的な環境があります。仮庵の祭りの時、イエスの肉の兄弟たちが、「自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」と言った時にイエス様はいっしょに行きませんでした。けれども、「公にではなく、いわば内密に上って行かれた。」とあります(ヨハネ7:4,10)。エルサレムにはイエスを殺そうと思っているユダヤ人がいたからです。
ちょうどサムエルがベツレヘムに行くというのは、このような状況であったのです。イエスがメシヤであられるのに、ユダヤ人の指導者がユダヤ社会を支配しているために、そのことを公にすることができなかった。けれども、ご自分の働きはしていきます。ですから、分かる人にだけ行っていき、慎重に、思慮深くそれを行なっていったのです。
ここから次第に、ダビデの生涯が、その世継ぎの子であるキリストと似たような人生になっていくことを見ていきます。サウルは王位が退けられたのに、そしてダビデに油が注がれるのに未だサウルがイスラエルを治めていました。しかしダビデがイスラエルの王であることは明白で、人々は彼がそうであろうということを認めていきます。けれどもサウルはそれに脅威を抱き、ダビデを迫害していくのです。それはまさに、当時の地上の王ヘロデの姿であったし、ユダヤ人指導者の姿でありました。その背後には、悪魔が働いています。悪魔は、キリストが王であられるのにこの地上において君臨を続けたかったのです。それでキリストを滅ぼそうと躍起になっていました。
16:4 サムエルは主が告げられたとおりにして、ベツレヘムへ行った。すると町の長老たちは恐れながら彼を迎えて言った。「平和なことでおいでになったのですか。」16:5 サムエルは答えた。「平和なことです。主にいけにえをささげるために来ました。私がいけにえをささげるとき、あなたがたは身を聖別して私といっしょに来なさい。」こうして、サムエルはエッサイとその子たちを聖別し、彼らを、いけにえをささげるために招いた。
ベツレヘムの長老たちも、サムエルがその町にやって来たことに不信を抱きました。サムエルに不信を抱いたのではなく、何か異変が起こっているのではないかと感じ取ったのです。それもそのはず、サムエルが主に仕えるため、ベテル、ミツパ、ギルガルを巡回しており、そこでいけにえを捧げていました。正規とは異なる動きをサムエルがしていたためです。けれども、「平和のためです」とサムエルは答え、エッサイの息子たちを聖別するという目的を告げました。
ところでこの時点で、主はエッサイの息子の誰にするかを告げておられません。3節で、「わたしが言う人に油をそそげ。」と命じておられます。なぜ、そのまま誰かを明らかにされないのか?それは、サムエル本人に、主の選ばれる基準を学んでもらいたいからに他なりません。
16:6 彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思った。16:7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
ここです。サムエルでさえ、人間の物差しから離れることはできていませんでした。以前お話ししたように、王というのは容姿や印象が良くなければいけません。それでサウルが選ばれたのです。けれども、主は「心」を見られます。
16:8 エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前にすすませた。サムエルは、「この者もまた、主は選んでおられない。」と言った。16:9 エッサイはシャマを進ませたが、サムエルは、「この者もまた、主は選んではおられない。」と言った。16:10 こうしてエッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んではおられない。」
とても興味深いです。聖書の中で「七」という数字は、完全数を示しています。神の数字です。七日目に天地創造の働きを休まれるなど、完全な神の働きを指しています。けれどもここでは、主はエッサイの家の七人をすべて退けておられます。神は新しい働きを始められます。実は聖書では「八」は新しい始まり、新しい秩序の始まりを教えています。
16:11 サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」16:12 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」
ここにあえて著者は、ダビデという名さえ挙げていません。ここで強調しているのは、「あまりにも取るに足りない者」ということです。息子たちを聖別するのに、その息子の一人にさえ数えられていなかったのです。これが神の選びだったのです。
主イエス・キリストがこのような方でした。旧約聖書は、その律法と預言者は完全なものでした。主がイスラエルを選ばれて、幕屋による礼拝を与えられ、契約を与えられ、土地を与えられ、強い国民としてくださり、アブラハムなど、偉大な先祖も与えてくださいました。しかし、その律法と預言者の成就として来られたキリスト、神の選ばれた方は、ナザレというあまりにも誰も知らない町で育ちました。預言どおりベツレヘムで生まれましたが、その乳児は家畜小屋で生まれ、その方を礼拝しに来たのは、当時の社会で低い階級の羊飼いでした。そしてこの方の宣教活動は、神の都エルサレムではなく、異邦人の支配を受けてきたガリラヤ地方でした。
このことを、預言者イザヤはこう預言しています。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:1-3)」砂漠の地に生えているアカシヤという潅木がありますが、本当に見栄えがしません。けれども、水分のないその堅い地でたくましく育っています。これはイザヤ53章ですが11章には、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。(1節)」というメシヤ預言があります。イエス様がその若枝ですが、その予型となっているダビデも同じように育ったのです。
神は、このように取るに足りない者を選ばれ、世に最も認められた者よりもさらに尊く用いられます。キリストにあって選ばれる者も同じです。「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(1コリント1:26-29)」私たちは、もうそろそろ、自分に何か良いものを見つけようとするのをやめるべきです。「愚かな者」そして「取るに足りない者」を神は敢えて選ばれているのです。ですから、私たちはただただ、神の恵みとすばらしさをほめたたえ、そして主のみを誇りとするのです。
ダビデは「羊の番」をしていました。私たちは羊の番というと、大草原の牧羊犬などを思い出し、それほど悪い印象を持っていないと思います。けれども当時の中東の地域の羊飼いは、卑しい姿です。今でも、パレスチナ・アラブ人は子供に羊の番をさせています。しかし、神はあえてイスラエルの指導者を「牧者」と呼ばれるようになります。それは、ダビデの生涯を特徴づけるのが、羊飼いだったからです。「主はまた、しもべダビデを選び、羊のおりから彼を召し、乳を飲ませる雌羊の番から彼を連れて来て、御民ヤコブとご自分のものであるイスラエルを牧するようにされた。彼は、正しい心で彼らを牧し、英知の手で彼らを導いた。(詩篇70:70‐72)」
王に必要なのは、有能な能力ではありませんでした。すくなくとも、神の民を率いる指導者に必要なのはそうではありませんでした。羊の世話をするような、一人一人に対する関心。忍耐と労力。そして幼子を世話するような犠牲の心。一家を養う父のような、養う心。これが要求されていたのです。そしてもちろん、イエス様は、「わたしが良い羊飼いです。」と言われました。羊のためにご自分の命をお捨てになりました。
ところで少年ダビデの容姿は、「その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。」とあり、悪いものではありませんでした。けれども、これは結果であり原因ではありません。別に不細工である必要はありません。けれども人はうわべから判断するので、先に主はサムエルに注意を与えられたのです。
16:13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。
ちょうどサウルと同じように、油を注がれてから御霊が注がれています。油は、主の御霊を象徴しているからです。ちなみに、先ほど引用したイザヤ書11章、若枝が出てくる預言の次は、次のようになっています。「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。(11:2)」イエス様は水のバプテスマを、バプテスマのヨハネから受けられた時に、天から鳩のような聖霊が降られて、それ以降、御霊に満たされた方となりました。
2B 琴の音による癒し 14−23
16:14 主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおびえさせた。
主の霊がダビデに下りました。その代わりにサウルから離れられました。イスラエルの王としての働きに必要な能力を与えられるための主の御霊です。ですからサウルにはもう必要ないのです。けれども、そのために「主からの悪い霊が彼をおびえさせた」とあります。「主からの悪い霊」と言いますと、主が悪い霊を創造されたのかと思われるかもしれませんが、そうではありません。元々、もちろん主がすべての天使を造られました。その中で悪魔につきしがたい堕落した天使どもが悪霊であると言われています。しかし、主はいつも守りを与えておられます。こうして悪い霊どもから影響を受けることがないように、主は守りを与え、ある時は天使を置いてくださっています。イエス様は子供たちに天使がいることを言及されました。
けれども、主はそうした守りの壁を取られることがあります。ヨブの時がそうでした。ヨブは正しい人でしたが、主はむしろ彼が正しかったので彼を信頼し、悪魔からの攻撃を許可されました。その時、サタンは神にこう告発しているのです。「あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。(1:10)」サタンが触れることのないように垣を巡らしています。したがって、このような垣を神はあえて外し、悪霊がサウルを攻撃するままにされたということです。これは神が罪を犯しても悔い改めない者を懲らしめる時に用いられる手段です。使徒パウロがこう言いました。「このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(1コリント5:5)」
16:15 そこでサウルの家来たちは彼に言った。「ご覧ください。神からの悪い霊があなたをおびえさせているのです。16:16 わが君。どうか御前にはべるこの家来どもに命じて、じょうずに立琴をひく者を捜させてください。神からの悪い霊があなたに臨むとき、その者が琴をひけば、あなたは良くなられるでしょう。」
興味深いことに家来たちは、神からの悪い霊であることを身分けていました。症状としては、おそらく今の精神疾患と似ているでしょう。家来は、今でいう「音楽セラピー」を薦めています。
16:17 そこでサウルは家来たちに言った。「どうか、私のためにじょうずなひき手を見つけて、私のところに連れて来てくれ。」16:18 すると、若者のひとりが答えて言った。「おります。私はベツレヘム人エッサイの息子を見たことがあります。琴がじょうずで勇士であり、戦士です。ことばには分別があり、体格も良い人です。主がこの人とともにおられます。」
この若者は、ダビデのことを知っていました。ダビデは羊飼いであるだけでなく、勇士であり戦士でした。何らかの戦いに加わったことがあるのでしょう。そして、ことばには分別があるというのは、知的な会話ができるということであり、体格が良いです。そして何よりも、もっともすぐれた推薦の言葉は、「主がこの人とともにおられます。」ということでした。この若者は、主の霊が下ったダビデを見ていた初期の頃の証人です。年も近いということがあったのでしょう、若者の目に留まっていました。
ところで彼が「琴」を奏でることができる、ということが、彼が後に戦士のみならず、礼拝賛美に大きく用いられるようになることになります。ダビデは息子ソロモンに神殿建設を委ねましたが、礼拝賛美においてその奉仕を組織させたのはダビデです。そしてダビデは詩篇の多くをしるしました。彼は自分で作詞して、そして自分で奏でたものも多かったことでしょう。そこからダビデは、このような少年期においても、主を思い巡らしながら琴を奏でていたことがはっきりしています。
16:19 そこでサウルは使いをエッサイのところに遣わし、「羊の番をしているあなたの子ダビデを私のところによこしてください。」と言わせた。16:20 それでエッサイは、一オメルのパンと、ぶどう酒の皮袋一つ、子やぎ一匹を取り、息子ダビデに託して、これをサウルに送った。
以前サムエルが、王が民から多くのものを取っていくことを警告しましたが、ここでも同じです。王がエッサイに報酬を与えるのではなく、エッサイが王に取り入るために贈り物を出しています。
16:21 ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。サウルは彼を非常に愛し、ダビデはサウルの道具持ちとなった。
ダビデはサウルに愛されました。彼だけではありません、これから数多くの人から愛される人となっていきます。ダビデの名の意味は「愛される」ということです。そして何よりも神ご自身から愛されていた人でした。イエス様も同じでしたね、少年期のイエス様は「神と人とに愛された。(ルカ2:52)」とあります。
そしてダビデは、サウルの道具持ちとなっていきます。この前、ヨナタンと道具持ちのコンビを見ましたね。極めて重要な働きです。
16:22 サウルはエッサイのところに人をやり、「どうか、ダビデを私に仕えさせてください。私の気に入ったから。」と言わせた。16:23 神からの悪い霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、悪い霊は彼から離れた。
琴を奏でている時だけで悪い霊は離れていきました。これが「音楽セラピー」の限界です。サウルは、これからますますおかしくなっていきます。確かに、賛美音楽によって癒しを受け、その時には解放を得られるかもしれませんが、心の中で主をあがめているという確固たる信仰がなければ、悪霊どもはまたその人を痛みつけるのです。御言葉によって、心からの悔い改めを行なうことによて初めて癒しは可能となります。
最後にダビデが油注がれ、サウルに仕えるようになってからも、次の章を読むと分かりますが、彼は羊飼いをずっとしていました。サウルもそうでしたね、アモン人と戦う時までは農耕に励んでいました。そしてイエス様ご自身も、およそ三十歳になり公生涯に入られる前は、大工として働いておられました。主が、ちょうど良い時に私たちを引き上げてくださるのです。主からの召しを受けても、今、主が与えられているところに留まるのです。