1サムエル記17−18章 「油注がれた者の戦い」

アウトライン

1A 主の御名による戦い 17
   1B 横暴な巨人 1−11
   2B 末の子のお使い 12−23
   3B 常識という反対 24−40
   4B 御名の力 41−58
2A 王の疑い 18
   1B ヨナタンの友情 1−5
   2B 王位しかないサウル 6−11
   3B 他人の手による殺害 12−30

本文

 サムエル記第一17章を開いてください。サウルが王であるけれども、その王位は退かれていて、新たに神がダビデに油を注がれたところを私たちは前回学びました。サムエルがエッサイの家にまで行って、そこで末の子の羊飼いであるダビデに油を注いだのです。そして、主の御霊がダビデに激しく下りました。その代わり、サウルは神からの悪い霊で悩まされます。けれども、ダビデはその立琴によってサウルの心を和ませます。

 サウルが油を注がれて、それから主の霊が彼に下りましたが、その後にあったのはサウルが王として民に認められることでした。初めは認めない人がいましたが、アモン人との戦いで勝利を収めて、そこで確かにイスラエルの王であると民が認めたのです。17章のゴリヤテとの戦いは、ダビデが確かに選ばれた王であることを示すものです。けれども、もちろんサウルはそのまま王のままです。神の選びによればダビデが王であるのに、人の選びによるサウルがそのまま王座を占めていました。そこで当然ながら確執が起こります。その確執が、まさにこの地上に神の御国が来ること、悪魔の支配するこの世にキリストが来られることと合致します。

1A 主の御名による戦い 17
1B 横暴な巨人 1−11
17:1 ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。17:2 サウルとイスラエル人は集まって、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ人を迎え撃つため、戦いの備えをした。17:3 ペリシテ人は向こう側の山の上に、イスラエル人はこちら側の山の上に、谷を隔てて相対した。

 ここは、だいたい18キロ、エルサレムから南東のところにあります。シェフェラという、ペリシテ人の平原とユダ山地の間の地域には五つの谷がエルサレムに向かっては知っていますが、エラの谷はその一つです。川は雨季の冬には流れますが、それ以外は涸れ川になっています。谷を隔てて相対しています。このような配置では、お互いに相手側に攻め入ることはできません。丘から降りて行き、そして相手側の丘を登っていかなければいけませんが、相手側の丘を登っているときに打ち叩かれてしまいます。そこで、対峙したまま膠着しています。

17:4 ときに、ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。17:5 頭には青銅のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅で五千シェケル。17:6 足には青銅のすね当てを着け、肩には青銅の投げ槍を背負っていた。17:7 槍の柄は機織の巻き棒のようであり、槍の穂先は、鉄で六百シェケル。盾持ちが彼の先を歩いていた。

 巨人ゴリヤテです。身長が2メートル86センチもあります。ガテ出身ということですが、ヨシュア記1122節にて、アナク人がガザ、ガテ、アシュドテにわずかに残っていた、という記述があります。アナク人は、イスラエル人がカデシュ・バルネアから偵察しに行ったときに見た、巨大な人間たちのことです。ペリシテ人の中に入っていて同化したけれども、その身丈の人はまだ残っていたのかもしれません。そして持っている武器ですが、鎧の重さが青銅で57キログラムもあります。槍の穂先の鉄は6.8キロもあります。

 この話の中で強調されているのは「物質的な力」です。後にダビデが対比しますが、これらの武器に対して主の御名によって戦う、ということを言います。いかに物質的力が強くとも、神の力はそれに勝ることを、パウロはこう説明しています。「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。(2コリント10:4

17:8 ゴリヤテは立って、イスラエル人の陣に向かって叫んで言った。「おまえらは、なぜ、並んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷ではないのか。ひとりを選んで、おれのところによこせ。17:9 おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。」17:10 そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負をしよう。」17:11 サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。

 昔は膠着状態になると、このように代表戦士の戦いによって決着をつける方法がしばしば取られていました。ゴリヤテが倒れればペリシテ人全体が倒れ、イスラエルの代表戦士が倒れればイスラエル人全体が倒れます。

 頭が誰であるかによって自分の運命が定まる、ということですが、それは霊的原則の中でも起こっています。例えば、ローマ5章では、アダムが人の頭であるので、彼が罪を犯したので全ての人が罪人になったことを教えています。反対に、キリストを信じる者はキリストが頭になられたので、キリストが義の行ないを十字架の上でしてくださったので、その義が私たちにも転嫁されることを教えています。そして、この世の君と御国の君であられるキリストとの戦いもそれと同じです。この世の君は悪魔ですが、世の終わりには悪魔の全権を担う反キリストが現れることが預言されています。反キリストは武器そのものを神としていく、武器崇拝者です。その反キリストに対峙されるのが、天から雲に乗って戻ってこられるキリストです。

2B 末の子のお使い 12−23
17:12 ダビデはユダのベツレヘムのエフラテ人でエッサイという名の人の息子であった。エッサイには八人の息子がいた。この人はサウルの時代には、年をとって老人になっていた。17:13 エッサイの上の三人の息子たちは、サウルに従って戦いに出て行った。戦いに行った三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャマであった。17:14 ダビデは末っ子で、上の三人がサウルに従って出ていた。17:15 ダビデは、サウルのところへ行ったり、帰ったりしていた。ベツレヘムの父の羊を飼うためであった。

 ダビデが改めて紹介されています。ここで強調されているのは、彼が取るに足りない者、最後の者であることです。徴兵によって上の三人は戦っていますが、末っ子のダビデは兄さんのためにお使いをしていました。ベツレヘムにいる父の羊を飼いながらそれを行なっていました。ユダ山地にあって、エルサレムから少し南のベツレヘムからエラの谷はそのまま西に行けばあります。先週も学びましたように、家畜小屋で生まれるという小さい者としてこの世に現れたキリストが、世界を贖うという力強い働きをされます。

17:16 例のペリシテ人は、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て姿を現わした。

 四十日間という期間は、聖書の中にしばしば出てきます。すべて裁きや試練の中で出てきます。ノアの時代は四十日間雨が降りました。モーセは四十日シナイ山にいましたが、その間にイスラエルの民は金の子牛を造ってしまいました。そしてイエス様は四十日間、荒野で断食をされ悪魔の誘惑を受けられました。

 したがって、イスラエルは今、試練を受けているのです。神から試されているのです。先ほど、「意気消沈し、非常に恐れた。」とありましたが、それはモーセの律法では呪いとして与えられるものでした。イスラエルが敵に怯えるのは呪いの一つです。したがって、「こんなんであってはいけない、イスラエルはこの呪いから解放されるべき、救われるべき存在だ。」と思ったのがダビデだったのです。

17:17 エッサイは息子のダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。17:18 この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を調べなさい。そしてしるしを持って来なさい。

 「十」という数字も、試される数字としてしばしば聖書に出てきます。例えばダニエルが、十日間、野菜だけを私たちに与えて試してください、ということを世話役の人に頼みました。

17:19 サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人たちはみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているのだから。」17:20 ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、品物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて、陣地に出るところであった。17:21 イスラエル人とペリシテ人とは、それぞれ向かい合って陣を敷いていた。17:22 ダビデは、その品物を武器を守る者に預け、陣地に走って行き、兄たちの安否を尋ねた。17:23 ダビデが兄たちと話していると、ちょうどその時、ガテのペリシテ人で、その名をゴリヤテという代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来て、いつもと同じ文句をくり返した。ダビデはこれを聞いた。

 父の言われるとおりに兄の安否を尋ねた時に、あの文句をダビデが聞いたのです。それは、イスラエルの陣をなぶるものでした。しかしダビデは、それを「生ける神の陣」をなぶるものであると理解しました。これが彼を戦いへと引き込む言葉になります。

 主はしばしば、ご自分の御名がそしられる時に強く反応されます。ヒゼキヤ王に対してアッシリヤの王が言った言葉は、こうでした。「私の手から自分たちの民を救い出さなかった地の国々の神々と同じように、ヒゼキヤの神も、その民を私の手から救い出せない。(2歴代32:17」アッシリヤが征服した偶像の神々と、ヒゼキヤの神を同列に置いたのです。それで、同じではないことを示すために十八万五千人の軍を一夜にして滅ぼされたのでした。先ほど反キリストのことを言及しましたが、反キリストの大きな特徴にも、神に対する憎しみからその御名を汚すことがあります。

3B 常識という反対 24−40
17:24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。17:25 イスラエルの人たちは言った。「あの上って来た男を見たか。イスラエルをなぶるために上って来たのだ。あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」17:26 ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」17:27 民は、先のことばのように、彼を殺した者には、このようにされる、と答えた。

 ここでダビデが話しているのは、「報酬がいったい何なのだ?生ける神の陣営をなぶっている者こそ滅ぼすべきだ。」ということを言っています。ダビデは、神の見ておられる国としてイスラエルを見ているのに対して、他のイスラエル人は人間の作った国として見ています。サウルが率いるイスラエル軍は、ペリシテ人に対して怯えていたというのが過去にありました。けれどもヨナタンが信仰によって動いたので、救いに導かれたのです。再び人間的な方法で戦いをしようとしています。

17:28 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして、言った。「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」17:29 ダビデは言った。「私が今、何をしたというのですか。一言も話してはいけないのですか。」17:30 ダビデはエリアブから、ほかの人のほうを振り向いて、同じことを尋ねた。すると民は、先ほどと同じ返事をした。

 主に対する情熱は、しばしばこのような形で妨げを受けます。肉の兄弟のような近しい人から受けるのが最も多いです。しかしダビデはくじけませんでした。私たちもここから学べるでしょう、主に対する情熱を他人の批判やその他の妨げによって冷やしてはならない、ということです。

17:31 ダビデが言ったことを人々が聞いて、それをサウルに知らせたので、サウルはダビデを呼び寄せた。17:32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」

 大事ですね、四十日待ってもうこれ以上、イスラエルが気落ちしてはならないと感じました。それで自分が出て行って戦う、と言っています。サムエルもそうでしたが、ダビデもいつも人の先に立って戦った人でした。これこそが、主の指導者として相応しい人です。

17:33 サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」

 サウルは極めて人間的に常識的なことを話しています。けれども、ダビデは次に大事な霊的原則を話します。

17:34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、17:35 私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。17:36 このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」17:37 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」

 獅子と熊を倒したのは、おそらく主の霊が彼に降っていたからでしょう。彼は、自分が羊飼いだということで、その働きをしている中で御霊に満たされて、その中で主の勝利をすでに経験していたのでした。そのような小さな主の真実の積み重ねが、将来の大きな主の真実を信じることのできる確信につながります。パウロが、自分が死にそうになったのに救われたことを思い出して、こう言っています。「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。(2コリント1:10

17:38 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。17:39 ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」ダビデはそれを脱ぎ、17:40 自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。

 これはとても大切な霊的原則です。私たちは、他人から「こうであるべきだ」というものを着せられる、あるいは自分自身が「こうであるべきだ」と思う重荷を背負いながら進み出ようとします。そうすると、サウルのよろいかぶとを着るのと同じ状態になります。ダビデは自分の持っているもので、それが主からの賜物であることを知っていて、そしてそのままの姿で戦いに行きます。私たちは以前学びましたね、主への命令に従うのは重荷になりません。重荷になるのは、命令に従う以上のことを自分に課していること、つまり律法主義になっていることです。

 そして、「五つのなめらかな石」でありますが、なんで五つなのかという疑問を言う人がいるそうです。あえて答えますと、ゴリヤテには、他に四人の兄弟がいたのではないかと言われています(2サムエル21:8-22)。けれども私は、無理に意味づけをしなくてよいのではないかと思います。ゴリヤテを倒すことのできる確信はありました。けれども、主を試してはいけません。一つで倒せない可能性を考えることは、ちょうどヨナタンが、ペリシテ人が自分たちのほうに来ると言ったら戦いには出かけないと言っていたのと同じです。

4B 御名の力 41−58
17:41 そのペリシテ人も盾持ちを先に立て、ダビデのほうにじりじりと進んで来た。17:42 ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。17:43 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。17:44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」

 ペリシテ人は再び、ダビデにとって聞き捨てならぬ言葉を発しました。しかも、今度はペリシテ人の神々の名によって呪っています。そして、鳥獣に食われることは、当時、埋葬されないことを表していて最も屈辱的な死に方であります。

17:45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。

 このダビデの言葉に、神の御国と人の国の対峙の本質があります。ダビデが表しているキリスト、とその御国は、御霊によるものです。主の御名によるものです。祈りと御言葉の霊的訓練によるものです。信仰によるものです。それに対して人の国は先にも話しましたが、武力に頼ります。目に見えるものに頼るのです。次の詩篇の言葉が、すべてを物語っています。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(20:7」私たちの日常生活は、もちろん目に見えることです。これを目に見えない武器でもって勝ち進んでいくということが、私たちに与えられている務めです。

 世の終わりの日には、キリストは白い馬に乗って戻って来られます。その時に世界中からハルマゲドンに集結した軍隊が神とキリストに対して戦争をするのです。この方が彼らを倒される方法をご存知ですか?ご自身のから出る剣によってです。キリストの言葉は、全世界の軍隊の力をことごとく破壊する力を持っているのです。そしてもちろん今の時代は、キリストの教会が立てられています。主はそこにご自分の権威を、ハデスの門も打ち勝てない権威を与えておられます。ここで、祈りという神の武器、信仰という武器、真理の御言葉という武器などを手にして戦うのです。

17:46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。17:47 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」

 ダビデはとても大胆です。勝利の日を今日に確定しています。そして、その倒し方も、「おまえの頭を胴体から離す」と具体的です。さらにゴリヤテの鳥獣に食わせるという言葉を使って、彼だけでなくペリシテの陣営全体がそうなると宣言しています。しかしそれは、自分に自信があるからではありません。そうではなく、主ご自身に自信があるからです。午前中も話しましたが主語に注目してください、「主が戦ってくださる」「主がお前たちを手に渡される」です。主が皆さんの中で働かれたいと願っています。そして皆さんを通して働かれたいと願っておられます。問題は皆さんではなく、主ご自身の意志なのです。

 そしてダビデは知っていました。この出来事が「すべての国」に対して、イスラエルに神がおられることの証しになるという事を知っていました。ちょうど、エジプトから出てきて紅海を神が分けてくださったように、またヨルダン川を堰き止めてイスラエルを渡らせてくださったように、主がご自身をすべての国に知らしめることを知っていました。

 自分の能力とは関係ないのです、いいえ、こんなちっぽけな自分でも主は用いられることこそが、主のなさりたいことなのです。パウロがこのように言いました。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(1テモテ1:15-16」だからパウロは自分の弱さを誇る、と言いました。弱さの中にこそ、キリストの恵みの力が完全に働くからだ、と言いました。

17:48 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。17:49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。17:50 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。

 剣を使わずに倒したことが強調されています。多くの人がこんなことがあろうか、と疑いますが、私は実際の石投げをイスラエルの地で見たことがあります。あれは、拳銃までいかないかもしれませんが、それに近い勢いを持っています。命中すれば殺傷能力があることを見ました。

17:51 ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。17:52 イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガテに至るまで、エクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムからガテとエクロンに至る途上で刺し殺されて倒れた。17:53 イスラエル人はペリシテ人追撃から引き返して、ペリシテ人の陣営を略奪した。

 以前のヨナタンと同じことが起こりました。イスラエルの民はサウルの指揮の中でペリシテ人に怯えており、なんとペリシテ人側についていったヘブル人もいましたが、ヨナタンと道具持ちがペリシテ人の陣営に入って大勝利を収めたことから、それらすべてのイスラエル人が出てきてペリシテ人に戦ったのです。自分が人々を動かそうとしてもできません。そうではなく、自分自身が主に導かれることこそが、その勝利が手本となって他の人を導いていくことができるのです。

17:54 ダビデは、あのペリシテ人の首を取って、エルサレムに持ち帰った。武具は彼の天幕に置いた。17:55 サウルは、ダビデがあのペリシテ人に立ち向かって出て行くのを見たとき、将軍アブネルに言った。「アブネル。あの若者はだれの子だ。」アブネルは言った。「王さま。私はあなたに誓います。私は存じません。」17:56 すると王は命じた。「あなたは、あの少年がだれの子か尋ねなさい。」17:57 ダビデが、あのペリシテ人を打って帰って来たとき、アブネルは彼をサウルの前に連れて行った。ダビデはペリシテ人の首を手にしていた。17:58 サウルはダビデに言った。「若者。あなたはだれの子か。」ダビデは言った。「私は、あなたのしもべ、ベツレヘム人エッサイの子です。」

 これがサウルとダビデの出会いです。以前ダビデは、サウルに対して立琴を奏で、また道具持ちでありましたが、王サウルには数多くの召使いがいます。そのすべてを覚えていることはできません。今、サウルは初めて勇士として彼を見つめることができ、それで名前を尋ねたのです。

 ペリシテ人の首を手にして歩いている紅顔の少年ダビデの姿は、あまりにも不釣合いです。しかし、これが、へりくだった主ご自身が、世界の軍隊と王どもを征服する力を持っておられる姿であり、また小さな者と呼ばれている私たちキリスト者の姿であります。パウロは大胆に、ローマにある教会の人々にこう話しました。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。(ローマ16:20

2A 王の疑い 18
1B ヨナタンの友情 1−5
18:1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。18:2 サウルはその日、ダビデを召しかかえ、父の家に帰らせなかった。18:3 ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。18:4 ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。18:5 ダビデは、どこでもサウルが遣わす所に出て行って、勝利を収めたので、サウルは彼を戦士たちの長とした。このことは、すべての民にも、サウルの家来たちにも喜ばれた。

 ダビデの名の意味は「愛された者」です。その名のごとく、イスラエルの民から、サウルの家来から、そしてサウル自身から喜ばれる者となりました。その中で最もダビデを愛したのが、ヨナタンです。まず、ヨナタンの心がダビデの心に結びついています。前回お話ししましたが、主はうわべを見ず、人の心をご覧になります。何をしたか外面の行為以上に、その人の生き方や心を神は注目しておられます。ヨナタンには、主を愛する心がありました。ペリシテ人に対して主がイスラエルを救われるという確信がありました。人数が少なくても、主の戦いには関係のないことであることを知っていました。その心を、ヨナタンはダビデの勇敢なゴリヤテとの戦いで、拡大鏡のように見たのです。

 そして、「ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。」とあります。「愛」という言葉が男性から男性に向けられていますが、もちろん性的な意味合いは全くありません。もしそれがあったなら、ダビデもヨナタンも神の律法に従って同性愛行為の罪によって裁かれていたことでしょう。そうではなく、他者に対する犠牲であります。イエス様が言われた、「自分自身のように、隣人を愛しなさい。」と言われた原則です。真実な愛は、他者への犠牲によって量られます。もちろん犠牲を払えればそれが愛ではありません。もし愛がなければ無に等しいとパウロがコリント第一13章で話しましたね。

 それが、自分の剣、弓、帯を与えたところにあります。そして何よりも着ていた上着を与えた、という行為に表れています。これは何を意味するのか?「あなたがイスラエルの王位を受け継ぐ者です。」ということです!ヨナタンがサウルの長子であり、彼が次のイスラエルの王であるはずなのです。けれども彼は、神がダビデを選ばれていることを確信しており、彼に自分のすべてを明け渡しました。愛しているがゆえに、自分の王位を明け渡したのです。

 イエス様が、弟子たちに言われた言葉を思い出しましょう。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。(ヨハネ15:13-14」友の定義が、その人のために命を捨てることのできる愛を持っていることである、と主は言われます。そして主はそれを私たちのためにしてくださいました。そして弟子たちがキリストの戒めを守る時、キリストも弟子たちを友と呼んでくださいます。

 これと同じ関係を、ヨナタンとダビデは持ったのでした。ヨナタンがダビデと「契約」を結んだ、とありますが、その契約の内容がこれから明らかにされていきます。一つは、今見たように、ヨナタンがダビデをイスラエルの王であると認めていることです。そしてダビデを、すべての人よりも、父サウルよりも優先します。もちろんそれは、神の掟に従ってという前提の下です。そしてダビデが王となった時にヨナタンの家に恵みを施してほしいという約束があります。ダビデが王となった時に、サウル家の者たちを滅ぼすのではなく、むしろ恵みをもって生かしてほしいということです。これを、これからしばらくヨナタンとダビデとの関係の中で見ていくことになります。

2B 王位しかないサウル 6−11
18:6 ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちはイスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴をもって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。18:7 女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」18:8 サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」18:9 その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。

 このような女たちによる喜びや踊りは、戦争で勝利を収めた者たちの凱旋において、しばしば当時は行なわれていました。サウルのダビデへの親しみは、つかの間でありました。これまで、サウルが自意識過剰になっていたことを思い出してください。サウルは、「夕方、私が敵に復讐するまでは、食物を食べる者はのろわれる。(1サムエル14:24」と言ったことがあります。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」という言葉は、自分の自尊心が傷つけられたからであります。

 それよりも深刻な彼の言葉は、「彼にないのは王位だけだ。」であります。そうなのです、サウルがこれから取り組まなければいけないのは、この葛藤なのです。彼はダビデをこれから追い回します。そしてかえって彼がダビデによって殺されるかもしれなかったのに、ダビデがあえて手を出さなかった時に、「あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。(1サムエル24:20」と言っているのです。彼はサムエルから明確に、「あなたの王位を神は退けた。そしてあなたの友にそれを与える。」と聞いていました。

 サウルの姿は、私たちの自我とキリストの主権の葛藤でもあります。主が御霊によって私たちのうちで働かれているのに、いつまでもその王座から離れたくない強い意志であります。これを手放す時に葛藤が終わります。神の平和で満たされます。

18:10 その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。18:11 サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。

 前回話しましたように、ダビデの琴はあくまでも精神的な癒しにはなったかもしれませんが、霊的な癒しにはなりませんでした。サウルが、自分が主の命令に従って王位から退くことこそが霊的な癒しにつながるのですが、それをしていないので悪い霊はさらに激しくサウルに降ったのです。

 そしてダビデの行動もすごいです。これからも、ダビデのサウルに対する忠誠心とへりくだりは、計り知れないものがあります。二度身をかわしたということは、彼からの槍が飛んできたのに、また戻ってきて、琴を引いたということです。

3B 他人の手による殺害 12−30
18:12 サウルはダビデを恐れた。主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。18:13 それでサウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にした。ダビデは民の先に立って行動していた。18:14 ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼とともにおられた。18:15 ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。18:16 イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動していたからである。

 ダビデはサウル直属の戦士の長でありましたが、サウルは彼を自分から引き離すために千人隊の長にしました。ダビデが主にあって引き上げられるのを引下げようと努力しますが、かえってますます引き上げられていく姿をこれから見ます。

 ダビデの特徴は二つあります。一つは、「主がともにおられた」ということです。かつてヤコブの息子ヨセフも、エジプトにいる時に主が共におられたという証しを持っていました。エジプトの侍従長ポティファルの家は祝福され、監獄でも祝福され、そしてパロはヨセフに、「神の霊を宿している」と言いました。

 私たちにこの祝福はどのようにして与えられているのでしょうか?ローマ831-32節を読みます。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8:31-32」神が私たちの味方になっておられます。それは、すべての敵意がキリストが身代わりとなって受けられたからです。私たちが、神が敵対していると感じる時は、すぐに十字架を仰ぎ見てください。そこに神が私たちに味方しておられることを知るでしょう。そこで周りを見るのです。主は共におられるのです。それは私たちが優れているからではなく、むしろ罪人なのにキリストの血によって赦されたという恵みによって共におられるのです。ですから勝利は約束されています。

 そしてもう一つは、彼はいつも人々の先に立って行動していました。ゆえに他の人を導くことができました。キリストがそのようなお方です。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。(ローマ8:29」キリストが長子と呼ばれています。それは、この方が父なる神にあって相続していることを、他の兄弟たちに分け与えるという意味があります。キリストは私たちの負債を支払われました。そしてキリストはよみがえられました。キリストが再び戻って来られます。これらのことにおいて、私たちを兄弟として関わらせてくださいました。この方が先んじて負債を支払われたことによって、私たちの罪は赦されました。この方がよみがえられたことによって、私たちに新しい命が与えられ、体も復活します。この方が再び戻って来られる時に、私たち教会もこの方に付いていきます。

18:17 あるとき、サウルはダビデに言った。「これは、私の上の娘メラブだ。これをあなたの妻として与えよう。ただ、私のために勇敢にふるまい、主の戦いを戦ってくれ。」サウルは、自分の手を下さないで、ペリシテ人の手を彼に下そう、と思ったのである。18:18 ダビデはサウルに言った。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるなどとは。」18:19 ところが、サウルの娘メラブをダビデに与える、という時になって、彼女はメホラ人のアデリエルに妻として与えられた。

 サウルは企むようになります。自分の手ではなく他人の手によって殺してもらおうと企みました。これからダビデは、サウルの操作に翻弄されていくことになります。結婚するときになって、彼は他の男に上の娘を与えてしまいました。

18:20 サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。そのことがサウルに知らされたとき、サウルはそれはちょうどよいと思った。18:21 サウルは、「ミカルを彼にやろう。ミカルは彼にとって落とし穴となり、ペリシテ人の手が彼に下るだろう。」と思った。そこでサウルはもう一度ダビデに言った。「きょう、あなたは私の婿になるのだ。」

 いわゆる政略的な結婚ではなく、恋愛によって結婚させることができる、ということです。恋愛がからめば男の判断は鈍るだろう。無理をして戦い、ペリシテ人によって倒れるだろうと思いました。

18:22 そしてサウルは家来たちに命じた。「ダビデにひそかにこう告げなさい。『聞いてください。王はあなたが気に入り、家来たちもみな、あなたを愛しています。今、王の婿になってください。』」18:23 それでサウルの家来たちは、このことばをダビデの耳に入れた。するとダビデは言った。「王の婿になるのがたやすいことだと思っているのか。私は貧しく、身分の低い者だ。」

 身分だけでなく、経済的にもできないとダビデは言っています。花嫁料を支払うことはできない、という意味です。

18:24 サウルの家来たちは、ダビデがこのように言っています、と言ってサウルに報告した。18:25 それでサウルは言った。「ダビデにこう言うがよい。王は花嫁料を望んではいない。ただ王の敵に復讐するため、ペリシテ人の陽の皮百だけを望んでいる、と。」サウルは、ダビデでをペリシテ人の手で倒そうと考えていた。18:26 サウルの家来たちが、このことばをダビデに告げると、ダビデは、王の婿になるために、それはちょうどよいと思った。そこで、期限が過ぎる前に、18:27 ダビデは立って、彼と部下とで、出て行き、ペリシテ人二百人を打ち殺し、その陽の皮を持ち帰り、王の婿になるためのことを、王に果たした。そこでサウルは娘ミカルを妻としてダビデに与えた。

 「陽の皮」とは、男性の性器の包皮のことです。ダビデがゴリヤテと戦う時に、「無割礼のペリシテ人」という言葉を使っていましたが、神の契約のしるしである割礼を受けていない、神から引き離されている者という意味合いを持ちます。ですから割礼を受けていないのでペリシテ人には包皮があるのですが、それを持ってこいとサウルは命じています。つまり、完全に相手が倒れて死ななければそんなことはできません。

 けれども、ダビデはむしろそのような難しい任務だからこそ、王の婿になる資格があると思いました。彼の心の特徴は、「犠牲を払う」ということです。主から与えられた恵みを安価なものと捉えていませんでした。主からの恵みは、大きな犠牲が伴っていることを知っていました。それは、彼が後にエルサレムで神殿の敷地を購入する時に、代金を所有者に支払わなければ礼拝にならない、と言ったところに表れています。私たちは、恵みを恵みと思わなくなる時、その犠牲を思わなくなる時です。もっとも恐ろしいのは、キリストの十字架という重みを忘れて「自分は恵まれている」と思うことです。

 これがサウルにとっては功を成しました。ダビデはサウルの企みにまんまと引っかかったのです。ところが、主が大勝利を収められます。百だけを要求していたところ二百を持ち帰りました。

18:28 こうして、サウルは、主がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また、知った。

 自分の娘ミカルが愛している人と結婚できているのは普通なら父は喜ぶことなのですが、倒したいダビデにますます幸せが来ていることで、彼は恐れていました。

18:29 それでサウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはいつまでもダビデの敵となった。18:30 ペリシテ人の首長たちが出て来るときは、そのたびごとに、ダビデはサウルの家来たちのすべてにまさる戦果をあげた。それで彼の名は非常に尊ばれた。

 サウルが妨げようとすればするほど、ダビデの名が尊ばれるようになっていきます。そして次回は、その殺意を自分の家来たちに公言するところから始まります。人間の思いは思いだけに留まりません。心に思う悪いことは必ず口に出ていきます(マタイ15:18-19)。

 以上ですがいかがでしょうか?キリストは後に「ダビデの子」と呼ばれますが、そのダビデがどのような人生を歩んだか、それによってキリストは確かにダビデの子であると分かる話が続きます。主がベツレヘムにお生まれになりユダヤ人の王として生まれました。けれども、ユダヤ人の王であるヘロデ大王がこの子を殺そうとしました。成人してから、イエスの影響は全ガリラヤ、そして全イスラエル、さらに周辺の地域に広がっていきました。そして当時のユダヤ人宗教指導者らが、脅威を抱いて彼を十字架につけるよう仕向けたのです。

 そしてそれは壮絶な、霊の戦いの中で行なわれていました。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。 (マタイ11:12」悪魔が牛耳っていた世界に、キリストが来られて天の御国が激しく入って来たのです。悪魔が暴れます。それがキリストが命を狙われた背後にある仕業です。私たちも、キリストにあって霊の戦いの中にあります。しかし、キリストがすでに勝利を収めてくださいました。「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(1ヨハネ5:4-5」ダビデのように主にあって立つならば、必ず主が戦ってくださいます。

「ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内のメッセージ」に戻る
HOME